沈黙が常にそばにあるということは、取りもなおさず、
また宥恕(ゆるし)と愛とがそばにあること意味して
いる。何故といって、沈黙は宥恕と愛とのための自然
な土台にほかならないからだ。この自然な土台がある
ということは、大切である。この土台があれば、宥恕
と愛とは、そのなかに現われ出るための手段をことさ
らに創りだす必要がないのである。
(「沈黙と、言葉と、真理」)
高校生のとき釧路市立図書館で読み、欲しくなって入手した本。
座右の書の1つです。
読むたびに、発見と感動をあたえてくれる本です。
たとえば救主の降誕祭の聖像(イコン)、洞窟と思われる馬小屋のなかのお生まれになった赤ちゃんであるイイススと母マリア、庇護者イオシフ(ヨセフ)、牛などの動物、その背後の言い知れぬ深さの暗黒をみるとき、そこに沈黙を感じます。
あるいは預言者イリヤ(エリヤ)。
苦難の旅のすえ、神の山ホレブ(シナイ山)に到着したイリヤを、主が過ぎ越されます。烈しい風が石や岩を砕き、大地震が起こり、業火の熱風がイリヤをおそいますが、それらの中に神はおられません。
これらが過ぎ去ったあと、
「静かにささやく声が聞こえた」(「列王記上19章」)
燈火のない洞窟からしのびでたイリヤを神が迎えます。
喧噪や騒乱、轟音と混迷のなかに、神はおられない。
まさに祈りの沈黙、静寂の奥から、
「神の声がきこえてくる」
ピカートは語ります。
相愛の人たちがおのずから身に帯びているあらゆる神秘性は、始原の像が近くにあることに由来しているのだ。愛のなかに始原現象的なものの含まれていることの多ければ多いほど、その愛は堅固で、そして持続的なものになる(「愛と沈黙」)
義と知、理と聖は、神の沈黙の愛にささえられていないとき、もろく、弱くなります。
(長司祭 パウェル 及川 信)
※マックス・ピカート「沈黙の世界」訳 佐野利勝、みすず書房、1979年
このコーナーで取り上げる書籍、絶版や入手困難な本もあると思います。ご寛宥ください。