■2023年4月 子供たちのための 新約聖書の おはなし 6

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「子供たちのための 聖書の おはなし」より、ヴォズドビジェンスキー・プラトン・ニコラエヴィチ司祭(1892-1938 )
Из «Библии в рассказах для детей», священник Воздвиженский Платон Николаевич (1892-1938)

ロシア語版リンク/ ссылка на русский источник:
https://azbyka.ru/deti/bibliya-v-rasskazah-dlya-detej-vozdvizhenskij-p-n

翻訳・編集:エフゲニイとイリナ丸尾
Перевод, редактирование: Евгений и Ирина Маруо

■2023年4月 子供たちのための 新約聖書の おはなし 5

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「子供たちのための 聖書の おはなし」より、ヴォズドビジェンスキー・プラトン・ニコラエヴィチ司祭(1892-1938 )
Из «Библии в рассказах для детей», священник Воздвиженский Платон Николаевич (1892-1938)

ロシア語版リンク/ ссылка на русский источник:
https://azbyka.ru/deti/bibliya-v-rasskazah-dlya-detej-vozdvizhenskij-p-n

翻訳・編集:エフゲニイとイリナ丸尾
Перевод, редактирование: Евгений и Ирина Маруо

■2023年4月 子供たちのための 新約聖書の おはなし 4

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「子供たちのための 聖書の おはなし」より、ヴォズドビジェンスキー・プラトン・ニコラエヴィチ司祭(1892-1938 )
Из «Библии в рассказах для детей», священник Воздвиженский Платон Николаевич (1892-1938)

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https://azbyka.ru/deti/bibliya-v-rasskazah-dlya-detej-vozdvizhenskij-p-n

翻訳・編集:エフゲニイとイリナ丸尾
Перевод, редактирование: Евгений и Ирина Маруо

■2023年4月 子供たちのための 新約聖書の おはなし 3

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「子供たちのための 聖書の おはなし」より、ヴォズドビジェンスキー・プラトン・ニコラエヴィチ司祭(1892-1938 )
Из «Библии в рассказах для детей», священник Воздвиженский Платон Николаевич (1892-1938)

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翻訳・編集:エフゲニイとイリナ丸尾
Перевод, редактирование: Евгений и Ирина Маруо

■2023年4月 子供たちのための 新約聖書の おはなし 2

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「子供たちのための 聖書の おはなし」より、ヴォズドビジェンスキー・プラトン・ニコラエヴィチ司祭(1892-1938 )
Из «Библии в рассказах для детей», священник Воздвиженский Платон Николаевич (1892-1938)

ロシア語版リンク/ ссылка на русский источник:
https://azbyka.ru/deti/bibliya-v-rasskazah-dlya-detej-vozdvizhenskij-p-n

翻訳・編集:エフゲニイとイリナ丸尾
Перевод, редактирование: Евгений и Ирина Маруо

■2023年4月 子供たちのための 新約聖書の おはなし 1

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「子供たちのための 聖書の おはなし」より、ヴォズドビジェンスキー・プラトン・ニコラエヴィチ司祭(1892-1938 )
Из «Библии в рассказах для детей», священник Воздвиженский Платон Николаевич (1892-1938)

ロシア語版リンク/ ссылка на русский источник:
https://azbyka.ru/deti/bibliya-v-rasskazah-dlya-detej-vozdvizhenskij-p-n

翻訳・編集:エフゲニイとイリナ丸尾
Перевод, редактирование: Евгений и Ирина Маруо

■2023年4月 読書と信仰 1 沈黙の世界

沈黙が常にそばにあるということは、取りもなおさず、
また宥恕(ゆるし)と愛とがそばにあること意味して
いる。何故といって、沈黙は宥恕と愛とのための自然
な土台にほかならないからだ。この自然な土台がある
ということは、大切である。この土台があれば、宥恕
と愛とは、そのなかに現われ出るための手段をことさ
らに創りだす必要がないのである。
(「沈黙と、言葉と、真理」)

 高校生のとき釧路市立図書館で読み、欲しくなって入手した本。
 座右の書の1つです。
 読むたびに、発見と感動をあたえてくれる本です。
 たとえば救主の降誕祭の聖像(イコン)、洞窟と思われる馬小屋のなかのお生まれになった赤ちゃんであるイイススと母マリア、庇護者イオシフ(ヨセフ)、牛などの動物、その背後の言い知れぬ深さの暗黒をみるとき、そこに沈黙を感じます。
 あるいは預言者イリヤ(エリヤ)。
 苦難の旅のすえ、神の山ホレブ(シナイ山)に到着したイリヤを、主が過ぎ越されます。烈しい風が石や岩を砕き、大地震が起こり、業火の熱風がイリヤをおそいますが、それらの中に神はおられません。
 これらが過ぎ去ったあと、
「静かにささやく声が聞こえた」(「列王記上19章」)
 燈火のない洞窟からしのびでたイリヤを神が迎えます。
 喧噪や騒乱、轟音と混迷のなかに、神はおられない。
 まさに祈りの沈黙、静寂の奥から、
「神の声がきこえてくる」
 ピカートは語ります。

相愛の人たちがおのずから身に帯びているあらゆる神秘性は、始原の像が近くにあることに由来しているのだ。愛のなかに始原現象的なものの含まれていることの多ければ多いほど、その愛は堅固で、そして持続的なものになる(「愛と沈黙」)

 義と知、理と聖は、神の沈黙の愛にささえられていないとき、もろく、弱くなります。

(長司祭 パウェル 及川 信)

※マックス・ピカート「沈黙の世界」訳 佐野利勝、みすず書房、1979年

 このコーナーで取り上げる書籍、絶版や入手困難な本もあると思います。ご寛宥ください。

■2023年3月 人間の体シリーズ 足 7 サンダル くつ(靴)

わたしは40年の間、荒れ地であなたたちを導いたが、
あなたたちのまとう着物は古びず、足に履いた靴も
すり減らなかった。(「旧約聖書」申命記29:4)

 京都生神女福音大聖堂のイコノスタス(聖障)、南門に画かれている大天使(神使長)ミハイル、北門の聖預言者モイセイ(モーセ)は、サンダル、くつをはいています。
 救世主イイススの聖像(イコン)で、はだし(すあし)が画かれているのとは対照的です。
 ミハイルは、足くびまで、くつヒモがていねいに巻かれており、まさに旅立ちの準備万端です。
 モイセイとの対(つい)になっているのがミハイルだというのも、不思議です。主の顕栄(変容)の光景をみると、聖預言者イリヤ(エリヤ)が、南門に画かれているのが順当でしょう。
 剣士の旅姿の天使(神使)というのも、興趣をわかせます。
 天空を舞い、時空間を超越して飛翔する神の使者ですから、サンダルばきの旅装、剣を手にしたりりしい出で立ちは、いっそう目を引きます。
 トビト書では、人生の旅の友に天使ラファエルが登場します。
 わたしたちの人生をともにする守護天使、かれらは、わたしたちと道行きをともに歩くために、翼を使わないこともあるのです。
 守護天使は、あえてわたしたちと同じ旅装で、人生を旅します。
 苦楽をともにし、喜怒哀楽も享受します。
 わたしたちのあるところに、守護天使がいます。
 京都聖堂の聖なる天使ミハイルを見るたび、われとわが身を惜しまず献身する、勇気あるボディガード、SPを思い浮かべます。
「神はわれらと共にす」という祈りのことばと共に。 

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2023年2月 人間の体シリーズ 足 6 はだしのイイスス

授洗者イオアン(ヨハネ)はこう宣べ伝えた。
「わたしよりも優れた方が、あとから来られる。
わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く
値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼
を授けるが、その方は、聖神(聖霊)で洗礼を
お授けになる」(マルコ福音書1:7-8)

 京都生神女福音大聖堂のイコノスタス(聖障)、天門(王門)右側の救世主イイススの聖像(イコン)は、はだし(すあし)です。
 京都聖堂のイコノスタスのイイススは、ほとんど、はだしです。
 洗礼(神現)祭はもちろん、顕栄(変容)、復活、昇天のイコンでも、イイススは、はだしです。
 なぜ イイススは、はだしなのでしょうか。
 降誕のとき、はだかで生まれ、はだしでエルサレム神殿へもうで、はだしで洗礼を受け、そして顕栄(変容)され、はだしで受難の道をあゆみ、はだしで十字架にかけられ永眠し、はだしで葬られ、はだしで復活なさいました。
 この事実を目のまえにするとき、深甚なる感に打たれます。
 イイススは、はだし、すなわち生身(なまみ)の人として、生きぬいたのだ、と。
 イイススの人生の足跡は、どれほどの血の跡がにじんでいるのでしょうか。
 はだしのイイススは、どれだけ傷ついたのでしょうか。
 イイススはこよなく人を愛し、わたしたちの生を負い、はだしでわたしたちを再生へ、復生へ、復活へと導いておられるのではないでしょうか。
 はだしのイコンには、救い主の生き方とわたしたちの生き方が重なり合います。
 イイススと共に生きるとき、わたしたちは、はだしであることを自覚します。 どんな荒れ地、じゃりだらけの道、いばらの道、苦難の道であっても、怖れません。
 イイススがわたしたちといっしょに、はだしで歩いているからです。
 はだしのイイススは、わたしたちの希望と勇気です。 

(長司祭 パウェル 及川 信)