■2022年9月 人間の体シリーズ 足 2 裸足(はだし)になりなさい

モーセ(モイセイ)は、あるとき、神の山ホレブに来た。
そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使
いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は燃えているのに、
柴は燃え尽きない。モーセは言った。
「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どう
してあの柴は燃え尽きないのだろう」
主は、モーセが道をそれて見に来るのをご覧になった。
神は柴の間から声をかけられ、
「モーセよ、モーセよ」と言われた。
彼が「はい」と答えると、神が言われた。
「ここに近づいてはならない、足から履き物をぬぎな
さい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから」
(旧約聖書「出エジプト記3章参照)

 不思議な描写です。
 モーセは、燃え尽きない炎に誘われたのでしょうか。
 それとも、炎のなかの御使い、神の使い、天使のすがたを感じたのでしょうか。
 こんなに烈しく燃えているのに、いつまでたっても焼滅しない神秘の現象にこころ奪われ、行かねばならない山道をはずれ、初めての道を歩みはじめます。
 道をそれることに、不安や恐怖はなかったのでしょうか。
 人生は二者択一、選択の連続でありますが、モーセの勇気が、見知らぬ道をえらばせました。
 燃える柴の中から、名前を呼ばれたモーセは、はい、と答えます。
 楽園から追放されたアダムとエバ(イブ)は、返答しませんでしたが、モーセは、答えています。
 すると神は、燃える火の粉の飛び散る中にあって、裸足になれと命じます。
 ある聖なる師父は、こう諭されています。
「わたしたちは、じぶんの真の姿を知ることをさけてはならない」
 じぶんの真のすがたを直視すること、すなわち裸足で新たな道、生き方を選択することは、もしかしたら炎の道、痛みをともなう茨の道を生きることなのかもしれません。
 無謀と、神を信じる勇気ある冒険は、紙一重なのかもしれません。
 努力したからといって、望む結果が得られるとは限りません。
 けれども新たな道、生き方に挑戦し、努力をつづけるものだけが、栄冠をえられることも現実です。
 聖師父はこう語ります。
「いったん手をつけた仕事に必要なだけの辛抱を身につけなさい。労苦をいとわず、神を信じてあゆみ、この道にあって進歩し、徳にいたりなさい」
神は、おびえ、不安に満ちるモーセにこう語っています。
「わたしはある、という方が、わたしをあなたたちに遣わされた」
 信じ、勇気をふりしぼり、希望をもって「神の道」にそれたものが、ときには神のもとにたどり着くのでしょう。     

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2022年9月 人間の体シリーズ 足 1 平和を告げるひと

見よ、よい知らせを伝え
平和を告げる者の足は山の上へ行く。
(旧約聖書「ナホム書」2:1)

 よき知らせを、福音といいます。
 嘉音とも表現します。
 ひとによってよき知らせには、ちがいがあるのでしょうが、正教会(オーソドックス・チャーチ)は、神との出会い、洗礼をうけ、神の道を歩みはじめること、挫折から再起へ、心機一転すべく目覚めることが重要だと教えます。
 正教会の言葉は、古くて含蓄のある聖言がいくつもあります。
  降福(こうふく)
  神恩(しんおん)
  恩寵(おんちょう)
 最初に引いた聖句「平和を告げる者の足は山の上へ行く」、この山とは、どこをさし、どんな山を登るのでしょうか。
 たとえば、モーセが十誡(十戒)の石板を恩賜されたシナイ山。
 主イイススが変容されたタボル山(あるいはヘルモン山)。
 神の国を象徴するシオン山。
 イイススが十字架を負うて歩まれた行く先、ゴルゴダの丘。
 広義においてシオン山の一部にふくまれるというゴルゴダの丘は、神の創造されたエデンの園の近くにあったそうです。アダムとエバを葬ったお墓のあったところともいわれています。
 シオン山はかつて、アダムとエバ(イブ)が食べてしまった果実を産する善悪を知る木ばかりでなく、生命(いのち)の木がはえている楽園であったといいます。
 平和を告げる者である救い主イイススは、ゴルゴダへのぼり、十字架にかけられ、死をもって死を滅ぼし、復活の生命を実現しました。
イイススの受難の十字架は、再生、復生の木、すなわち生命の木を預象(よしょう)しています。
 主の復活の聖像(イコン)には、死の上に立つ者、十字架を踏みしめ、アダムとエバを永遠の生命へと引き揚げる救世主の姿が描かれます。
 救い主イイススは神の山に登頂し、神と人とを和解させ、平和を実現し、ひとに真の生き方をもたらしました。
 イイススは宣べています。
「和平を行う者は福(さいわい)なり、かれら神の子と名づけられんとすればなり」(マトフェイ、マタイ福音書5:9)
それゆえ聖使徒パウェルはわたしたちにこう語りかけるのです(エフェス6:15)。
「平和の福音を告げる準備を履物(はきもの)としなさい」

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2022年8月 人間の体シリーズ すねに傷もつひとの希望

道を踏み外して死を招くな。
自分たちの手の業で滅びを引き寄せるな。
神が死を造られたわけではなく、
命あるものの滅びを喜ばれるわけではない。
生かすためにこそ神は万物をお造りになった。
(旧約聖書「知恵の書」1章参照)

 40年あまり前、20歳のわたしは寝袋を負い、からだ一つでギリシャを旅しました。聖山アトス(アギオンオロス)に7日間滞在しました。
 ぽんぽん蒸気船のような、10人乗れば満員の小ぶりの船が、聖なる山へと運んでくれました。
 訪れた修道院の一つが聖フィロセウ修道院です。
 たしか回廊の壁画だったと思うのですが、足をとめ、そのイコンを見ていると、ひとりの修道士がかたわらに立ちました。
「天国、神の国への梯子(はしご)だ。梯子を登っていくのは修道士であるが、そこから転落していくのも修道士だ」
足を踏み外す格好をした修道士は、わたしを見て微笑みうなずき、それから別の巡礼者のところへ歩いていきました。
 すねに傷もつ、という言葉があります。
 前科のある犯罪者という意味合いが濃いのですが、そうした過去をうまく取り繕って隠しているにもかかわらず、風に揺れる笹の葉の音にさえ敏感に反応してしまう、後ろめたい生き方をするひと、そういう解釈もできるでしょう。
 いまでも転落していく信仰者がわたしではないのか、という恐怖があります。
 ひとをみちびき教える、そういう万全の信仰者ではないのに、すねに傷もつ信仰者であるのに、司祭、神父という立場にあることを怖いと思います。
 あのときの壁画、イコンをときどき、思い出し、そのたびに、いまつかんでいる梯子をしっかりにぎり、離さぬよう自らを𠮟咤(しった)します。
 たとえ小指いっぽんでも、つかみつづけるように。
 「シラ書 集会の書」は、こう語っているからです(2章参照)。

子よ、主に仕えるつもりなら、
自らを試練に向けて備えよ。
心を引き締めて、耐え忍べ。
災難のときにも、取り乱すな。
主に寄りすがり、
決して離れるな。
 
主を信頼せよ。
そうすれば必ず助けてくださる。
おまえの歩む道を一筋にして、
主に望みを置け。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2022年7月 人間の体シリーズ すね 弱み 弱点

……思い上がることのないようにと、わたしの身に
一つのとげがあたえられました。それは思い上がら
ないように、わたしを痛みつけるために、サタンか
ら送られた使いです。この使いについて離れ去らせ
てくださるようにと、わたしは三度、主に願いいま
した。すると主は、
「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの
なかでこそ十分に発揮されるのだ」
と言われました。
 (新約聖書「2コリント書」12章参照)

  聖使徒パウェルが、おそらく「てんかん」であった事実は、よく知られています。突然昏倒し、意識不明となり、目が覚めると、おそいかかってくる死への恐怖。いまも完治する即効薬のない難病です。
 聖像(イコン)はダマスコ途上、神に出会った聖使徒パウェルです。
 ひとの体のなかで、鍛えようのない部位の一つが「すね」だといいます。
 すねから、かかとへと下ると、アキレス腱があります。
 すねは、弁慶の泣きどころ。勇士アキレスの泣きどころが、アキレス腱です。
 筋肉疲労などにより、すねのうら、ふくらはぎなどが、肉離れを起こすことがあります。この痛みも激烈です。
 こむらがえりとか、寝ていて、ふくらはぎから足にかけて「つってしまう」こともあります。これも突如おそってくる激痛の波動に悶絶します。
 一方じぶんの努力や訓練によって克服できる弱点があります。
 たとえば、怒りっぽい、グチばかり言う、観察力や注意力の不足、恨みを忘れられない、など。
 その一方、生まれついての弱点、あるいは弱みのようなものもあります。
 ほかのひとと自らの体型・顔つきなどを比べて嘆くこと、おなかが弱くてすぐゲリをする、目の筋肉が弱い……これはわたしが眼科医に言われたことです。目の筋力・耐久性が弱いので眼精疲労がほかのひとよりひどくなるスピードが速い、といわれました。
 弱み、弱点、ひとのふつうの努力では克服しえない身体的現象が、わたしたちにはあります。ときには一生のつきあいとなります。
 困ったことに、からだだけでなく、心や精神にも、長年つれそっている弱点、弱みがあります。なかなかうまく直りません。
 では失望したままで良いでしょうか。
 自分の力ではどうにもできない弱みや弱点を補い、助けてくださるのが神です。
「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さのなかでこそ十分に発揮される」
 そう神は言います。
 弱いところ……すぐ折れそうになり、萎縮する心があります。
 完全無欠、完璧無比をよそおい、無理な見栄を張る必要はありません。
 ときには神のひざにすがりつきましょう。愛をもとめて。
 きっと生きる勇気と希望を、神がおあたえくださることでしょう。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2022年6月 人間の体シリーズ 膝(ひざ)6

慕いもとめる祈り

主は 倒れようとしている人を
ひとりひとり支え うずくまっている人を
起こしてくださいます。

  

主の道はことごとく正しく
御業(みわざ)は慈しみを示しています。
主を呼ぶ人 すべてに 近くいまし
まことをもって呼ぶ人 すべてに 近くいまし
主を畏れる人びとの望みをかなえ
叫びをきいて 救ってくださいます。
 (旧約聖書「詩編」145:14〜参照)

主の昇天祭を讃栄します
 わたしたちは、聖体礼儀の中で「こころ上に向かうべし」と祈ります。こころの膝をかがめて祈る、よくそう言いますが、それは謙遜さのあらわれる祈りの姿勢をさすことが多いのでしょう。
(聖像:サーロフの聖セラフィム)
 人生いろいろなことが起こります。
 挫折し、地に倒れふし、土をかみながら、苦痛の祈りをささげることもあるでしょう。
天にいます神を仰ぎ、手をうえに向けて、祈ることができないときもあるでしょう。
うずくまっている人が、神に手をとられ、うでを高くさし上げ、絶望の思いを秘めながら祈ることもあるでしょう。
大斎(おおものいみ)、先備聖体礼儀(問答者聖グリゴリーの聖体礼儀)の中でこう祈ります。

願わくは、わが祈りは 香炉の香りのごとく なんじが顔(かんばせ)の前に登り、わが手をあぐるは、暮れの祭りのごとく納れられん。

祈りが香炉の香りのように「登る」とは面白い表現です。
人の祈りは、生命あるかのように、脈動し、神の前に登っていきます。
慕いもとめるひとは、神へと登っていきます。
希望のひかりにつつまれながら。
救い主イイススは、神の子でありながら人の子として降り、わたしたちは、神の呼びかけと救いの手にみちびかれて、天へと登ります。
 ひざまずく祈りは、地より天へ、死より生命へと登る、慕いもとめる祈りなのです。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2022年5月 人間の体シリーズ 膝(ひざ)5

イイススの足にすがる女性

過越祭の六日前、イイススはベタニアへ行かれた。
そこには、イイススが死者の中からよみがえらせた
ラザリ(ラザロ)がいた。イイススのため夕食が用
意された。マルファ(マルタ)は給仕をしていた。
……そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルド
の香油一リトラを持ってきて、イイススの足に塗り、
自分の髪の毛でその足をぬぐった。家は香油の香り
でいっぱいになった。
(新約聖書「イオアン(ヨハネ)福音書」12章参照)

ハリストス復活! 実に復活!
 福音書のほかの場面では、イイススの頭に香油をかけ祝福する姿、接吻をしてやまない姿、あるいは涙あふれ泣きながらイイススの足にすがりつく女性の光景がみられます。
おそらく福音伝道する生活の中で、いく度となくイイススは、こういう女性に巡りあったのでしょう。
ひざに、足にすがりついて救いといやしを求める姿、愛慕の情にゆり動かされたイイススの慈愛のまなざしが脳裏にうかびます。
その一方で「もったいない、香油を高値で売って貧しい人を助ける足しにすれば良いのに」そう語ったのは、イスカリオテのユダひとりではないでしょう。
残酷なひとがいます。
じぶんのいる場所、その立場、視座をいっさい変えずに、冷酷な評論家のようなひとがいます。
そのわかっているフリを「信仰」と呼ぶひともいます。
イイススは、最後の晩餐のとき、受難の直前、ひざまずいて弟子の足を洗いました。弟子たちは、ずいぶんあとになってから、そのときのイイススの思いとこころにふれることになります。
わたしたちは、残念ながら鈍感です。
イイススから遠いところに信仰生活を送っています。
わたしたちは、イイススの足にすがりつき、助けをこいましょう。
大斎(おおものいみ)、受難週と、ひざまずいての祈りがたくさん、くり返されるのは、からだとこころのひざをかがめ、体験しなければ見えてこない、救いといやしがあるからなのです。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2022年4月 人間の体シリーズ 膝(ひざ)4

イイススの洗足(せんそく)

さて、過越祭の前のことである。イイススは、
この世から父のもとへ移るご自分の時が来たこと
を悟り、世にいる弟子たちを愛して、このうえなく
愛しぬかれた。夕食のときであった。すでに悪魔は
イスカリオテのシモンの子イウダ(ユダ)に、イイ
ススを裏切る考えを抱かせていた。イイススは、父
がすべてをご自分の手にゆだねられたこと、また、
ご自分が神のもとからきて、神のもとへ帰ろうとし
ていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着
を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰にまとわれた。それか
ら、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰に
まとった手ぬぐいでふき始められた。
 (新約聖書「イオアン(ヨハネ)福音書」13章参照)

 京都正教会 生神女福音大聖堂の聖障(イコノスタス)中央にかざられている「最後の晩餐」機密の晩餐の聖像、イコン。
主イイススをかこんで弟子たちがすわるテーブル、聖卓の下に、水をくむつぼとたらい、タオル、ちいさなイスが置かれているのを、ご存知でしょうか。
洗礼を受け、すでに聖なる水による聖洗がなされていたにもかかわらず、ひざまずいたイイススはみずからの手で、弟子の素足を水で洗い、タオルで濡れた足をぬぐいました。
そのなかにはイイススを裏切るイウダ(ユダ)がいます。
捕らわれたイイススを助けに行ったのに、イイススの目の前で、恐怖から逃げ去ったペトルもいました。
いちばん年少のイオアン(ヨハネ)以外の弟子は、逃散しました。
洗足、それは、恐怖と絶望、暗闇の中から神の光へと、一歩を踏み出すひとの足を祝福します。
ひとりひとりの弟子の前にひざまずいて洗足したイイススは、ここからすべてが始まることを知っておられ、残酷な運命に翻弄されず、つねに前を向き、あらたな一歩を、人生を歩みだせるようにと、こころから祈り、祝福したのではないでしょうか。
洗足の水は、イイススの涙だと思います。
挫折せず、くじけず、不屈のこころとからだをもって、生きよ。
死から生命へ、死から再生へ、死から復活へ。
主の洗足、弟子へのひざまずきは、恩師の愛のあらわれ、希望と勇気だったと思います。
もうすぐ復活大祭、聖堂で祈るとき、イイススのひざまずいて祈る姿、わたしたちを祝福される お姿を想起し、その悲しみと熱情に慄然とします。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2022年3月 人間の体シリーズ 膝(ひざ)3

ゲフシマニアの祈り

一同がゲフシマニヤ(ゲッセマネ)という所に
くると、イイススは弟子たちに「わたしが祈っ
ている間、ここに座っていなさい」と言われた。
そして、ペトル、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、
イイススはひどく恐れてもだえ始め、かれらに
言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここ
を離れず、目を覚ましていなさい」。すこし進ん
で行って地面にひれ伏し、できることなら、こ
の苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、
こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でも
おできになります。この杯をわたしから取りの
けてください。しかし、わたしが願うことでは
なく、み心にかなうことが行われますように」
(新約聖書「マルコ福音書」14章参照)

 最後の晩餐、機密の晩餐をあとに、オリーブ山でひとり静かに祈られる、イイススの状景がつづられています。
 弟子は数多く、すぐそばにいるのですが、イイススの孤独はつのります。
 天と地、神と人、生と死との狭間(はざま)にあって、受難と十字架を意識するイイススは、ひざまづいて祈ります。
 地にひざまずく。
 それは、地、すなわち人の生きる大地、死という地に掘られてしまった埋葬の谷を表現します。
 イイススは天からつかわされた神の子でありながら、地に生き、死の軛(くびき)を振り落とせない、人の罪深さと孤独を体験します。
死の眠りにまどろみかけている弟子を、嘆息しながら諭すイイススは、三度目に弟子のところへ戻ったとき、「もういい、時が来た」と言わざるを得ませんでした。
 死とは絶望、耐えがたい孤独、希望をいだかせることを諦めさせる失望です。
 そこから、這い上がろうとする祈りを、イイススはその生き方によって、わたしたちに伝えます。
 多くの日本の聖堂は、至聖所、むかって左奥、奉献台のまえに、ゲフシマニヤの祈りの聖像(イコン)が安置されています。
その前で祈るとき、わたしは胸の痛みと、たとえがたい復活への志望を、いつも体験しながら、聖なるパンと聖血である赤ぶどう酒を準備するのです。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2022年2月 人間の体シリーズ 膝(ひざ)2

跪拝(きはい)
ひざをついての祈り

夕べの献げ物のときになって、
かがめていた身を起こし、
裂けた衣とマントをつけたまま
ひざまずき、わが神、主に向かって
手をひろげ、祈りはじめた。
(旧約聖書「エズラ記」9:5-6)

 人気テレビドラマ「半沢直樹」シリーズ、「倍返しだ!」が有名になりましたが、もう一つ わたしが注目したものがあります。
 土下座(どげざ)です。
 土下座というと、あやまれ、謝罪しろ、と無理矢理 強要することばかりが頭をよぎります。でも本来の意味はちがう、という説があるそうです。
 日本では古来、貴人が目の前を通過する際の最高の礼として、土下座の姿勢をとったというのです。
 あなたを尊敬し、言われることを実行します、と自分の真心を表現する手段として土下座をしました。
 それが中世以降、身分制度を明確にするため、立場の上下をはっきりさせるため、土下座を活用するようになったといわれています。

 正教会における「ひざをついての祈り」は、どういう意味をもつのでしょうか。
 祈りの姿勢は、ふつう、叩拝(こうはい)、弓拝(躬拝、きゅうはい)、伏拝(ふくはい)の三つがあげられます。
 三つめの祈りの姿勢、伏拝にもすこし重複しますが、四つめの祈りの姿勢があります。
 これが、ひざを地につけての祈り、跪拝(きはい)です。
 跪拝は、特殊な祈りである同時に、ハリスティアニン(クリスチャン)にとっては、もっとも身近な祈りの姿勢のひとつです。
 ひざから下、すねや足の甲(あるいは つまさき)を地につけ、ももから上を立て、天をあおぎ祈ります。
 たとえばイイススは、一人になっての祈り、独処(どくしょ)の祈りのとき、この姿勢で祈った、といわれています。
 この祈りは、正教会の聖なる伝統となって、うけ継がれていきます。
 それをこれから、紹介しましょう。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2022年1月 人間の体シリーズ 膝(ひざ)1

ひざまずいて祈る

イイススがそこを出て、いつものようにオリーブ山に
行かれると、弟子たちも従った。いつもの場所に来ると、
イイススは弟子たちに、
「誘惑に陥らないよう祈りなさい」
と言われた。そして自分は、石の投げて届くほどの
所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。
「父よ、み心なら、この杯をわたしから取りのけて
ください。しかし、わたしの願いではなく、
み心のままに行ってください」
イイススは苦しみもだえ、ますます切に祈られた。
汗が血の滴るように地面に落ちた。
〈新約聖書「ルカ福音書」22章参照〉

 40年ほども昔、神学生であった頃、祈祷の準備のため早めに入堂したわたしは、東京復活大聖堂でひざまずいて祈っていました。そこへロシア人の老婦人が入ってきて、わたしの横に立つなり、
「聖堂でひざまずいて祈ってはいけない、立ちなさい」
こわい顔をして言いました。おどろいたわたしがすぐさま、立ち上がった記憶があります。
 その老婦人は、斎(ものいみ)の時以外は「ひざまずきはいけない」と、いく度もくり返していました。
おそらくロシアのじぶんの育った教会での慣習で、そう主張したのでしょう。
「こころのひざをかがめて祈るとき」、いつのまにか、からだのひざをかがめて祈り、こころの有りようをあらわすのは、自然のことと思います。
 ひざを地におろし、背すじをのばし、両手をのばして天にささげ、顔をあげて祈る姿勢は、ハリスティアニンの自然な祈りのすがたです。
 まさに大地に象徴される神のふところに抱かれ、神に向かい手をのばして祈るとき、ひざはいつしか地に着いているものなのでしょう。
 こころの底、からだの奥底からの祈り、神への痛切な祈り。
 それは、神への「まごころ」の献げもの、神に支えられていることを実感する祈りです。世界中でひざまずいて祈るたくさんのひとがいます。
 神のこころにふれるとき、こころのひざも、からだのひざもかがまり、でも、こころもからだは神に開放され、恩寵を抱きとめることができるでしょう。

(長司祭 パウェル 及川 信)