■2020年7月 人間の体シリーズ 舌 幸せを讃美する信仰者となるために

み言葉を行う人になりなさい。自分をあざむいて、
聞くだけで終わる者となってはいけません。み言葉を
聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつき
の顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に映った
自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようで
あったか、すぐに忘れてしまいます。
(新約聖書「イアコフ(ヤコブ)手紙」1:22〜)

神の言葉を聞いて実行する人は、
「その行いによって幸せになります」
 と聖使徒イアコフ(ヤコブ)は強調します。
 さらにつづけて、
「自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心をあざむくならば、そのような人の信心は無意味です」
 と言い切ります。
 手紙の3章では、聖使徒の言葉の鋭鋒がわたしたちの心奥に、さらなる認識の喚起をあたえることでしょう。
 

ご覧なさい。どんな小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。舌は火です。

舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。わたしたちは
舌で、父である神を讃美し、また舌で神にかたどって造られた人間を呪いま
す。同じ口から讃美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このよう
なことがあってはなりません。

 痛悔、告解機密の中に、殺人、ひと殺しをしたことがありますか? という問いかけがあります。
 もちろん、わたしたちは、殺人、ひと殺しをしたことがないと断言します。
 でも、ほんとうにそうでしょうか。
 話題の相手を欠席裁判する、うわさ話の蔓延で人を口撃する、舌による殺人があるではないでしょうか。
 ことにインターネット、ウェブ上での、根拠のない誹謗中傷、舌による炎上、人を火あぶりの刑に処する無責任、残酷な所行が広まっています。
 これは人として、信仰者として、してはいけないことです。
 ですが聖使徒イアコフは、一方、舌は讃美を生むと言っています。
 そうなのです。舌は神を讃美し、人を愛する言葉を生むのです。
 
  純真で、さらに温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。

 人を生かす舌があると聖使徒が語ります。
 そこに真実、真理があります。
 平和を蒔く、愛すべき舌があると、信仰者を励まします。
 感謝と讃美、希望と愛を表信する舌、わたしたちはもうすでに、神の言葉を語る無垢の舌をもっていると信じ、実践しましょう。

(長司祭 パウェル 及川 信)

☆挿絵は、善悪を知る木に巻きついている悪魔の化身、ヘビ。
ヘビは、舌先三寸でアダムとエバ(イブ)を誘惑、神を裏切る言動に誘導しました。
これをヘビの二枚舌といいます。

■2020年6月 人間の体シリーズ 口Ⅱ 歌い呼び叫びて言う

かれらは人間のようなものであった。
それぞれが四つの顔をもち、
四つの翼をもっていた。
   (中略)
その顔は人間のようであり、四つとも
右に獅子の顔、左に牛の顔、
そして四つとも後ろには
鷲の顔をもっていた。
(旧約聖書「エゼキエル書」1章)

預言者エゼキエル書1章に4つの異獣が描写されています。
 京都聖堂の聖障、イコノスタス正面最上段、全能の救世主聖像にも4つの象徴が画かれています。
 福音者マトフェイ(マタイ):天使あるいは人の子、マルコ:獅子(ライオン)、ルカ:雄牛、イオアン(ヨハネ):鷲です。
 聖体礼儀では「凱歌を歌い、呼び、叫びて言う」という祈りであらわす、これらは信仰の象徴です。
 わたしたちの口は祈りの言葉を唱えます。
 それは静かで荘重、流麗でおごそかな時もありますが、呼び、叫ぶときもあります。
 寂しさや心ぼそさのゆえに、神を呼び慕い、人をもとめ呼びます。
 悲しみや怒りのゆえに、神に叫び、人に叫び、天空に、漆黒の星空へ叫びます。
 わたしたちのいろいろな思いを託して、歌い呼び叫びて言います。
 しばしば祈りの真髄、本質とは何か、祈りとは何かを問われますが、正直、具体的な事例を説明できようはずがありません。
でも、歌い呼び叫びて言う、という祈りの表信に、すべてがこめられてはいないでしょうか。
 わたしたちは時に憂い、悩み、怒り、悶々と呻くからです。
 あるいはわたしたちは時に歓喜し、熱く語り、大いに笑い、楽しむからです。
 預言者エゼキエルはこれらの4つの異獣を見たあと、神の文字、神の言葉を記憶した巻物を、食べさせられます。
 不思議な巻物を、神が口に入れました。
「わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった」(3:3)
 歌い呼び叫びて言う時、神はわたしたちに、蜜のように甘い巻物をくださっています。
 それは涙が出るほど、やさしく、やわらかく、甘くて切ない、わたしたちが希求してやまない神の心なのです。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2020年5月 人間の体シリーズ 頬Ⅱ 裏切りの接吻

イイススを裏切ろうとしていたユダは、
「わたしが接吻するのが、その人だ。
捕まえて、逃がさないように連れて行け」
と、前もって合図を決めていた。
ユダはやって来るとすぐに、イイススに近寄り、
「先生」と言って接吻した。
(マルコ福音書14:43〜50)

イイススがまだ話しておられると、群衆が現れ、
十二人の一人でユダという者が先頭に立って、
イイススに接吻しようとして近づいた。
イイススは
「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」
と言われた。
(ルカ福音書22:47〜53)

ハリストス 復活! 
 正教信徒、ハリスティアニンは、親愛をあらわす挨拶をします。
 お互いの肩を抱いて、右ほほ、左ほほ、右ほほに、3回やさしく接吻します。
 聖職者同志では、接吻のあと、握手し、お互いの右手に接吻したりもします。
 この慣習は古来より伝わるもので、何千年とつづく、信仰の伝統の一つです。 この相愛の接吻をユダは、裏切りの合図としました。
 なんという残酷、なんという悲しみでしょうか。
聖書の中で、これほど哀切な記録はありません。
 もしかしたらイイススは、頬を寄せあうなか、肩を抱いたままユダの耳にささやいたのではないでしょうか。
「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」
 頬のやわらかさ、ぬくもり、お互いの息づかい、鼓動をたしかめ合いながらの親愛の接吻が裏切りの接吻へと転化します。
 悪魔の誘惑とはこういうものなのではないでしょうか。 
 甘い接吻、ごくふつうの接吻の中に、狡猾な知恵、詐謀(いつわり)と欺瞞(ぎまん)、愛の偽装が隠されています。
 そのあとイイススは、大祭司の中庭に連行され、ユダが接吻した頬を打たれ、杖でも殴られました。
 神を裏切り、親しみ寄ってくる救い主の頬を打ちつづけているのは、ユダばかりではなく、わたしたちもそうなのではありませんか。
 裏切りつづける人を、裏切られた神がゆるし、頬を打った人を、打たれた神が甘受しつづけています。
 人の裏切りを救い、いやし、助ける神。
 わたしたち正教信徒はこう祈ります。

なんじ言えり、友よ、見よ、懼(おそ)るるなかれ、
けだしいま我(われ)が不法者の手にとらわれて殺さるる時近づけり。
なんじら皆われを遺(す)てて散らん、しかれども我また
なんじらを聚(あつ)めて、我ひとを愛する者を伝えしめん。
(『受難週間奉事式略』聖大金曜日早課、第五歌頌より)

 わたしたちが頬をよせ、接吻し合うのは、神への親愛です。偽りなき愛の表信です。挫折しては救いの神へ向かい、ゆるされては神の愛を体験します。
わたしたちはその真実を知っています。
 いま裏切りの接吻をされ、頬を打たるるを忍びし主は、愛の接吻をもって信仰者に近づきます。
 わたしたちの頬をやさしく抱擁するために、神ご自身が歩み寄ります。
「信と愛とをもって近づき来たれ」と。
 わたしたちの頬をつつむ、救い主のやさしい大きな掌の温もりを、わたしたちは知ります。
 わたしたちは愛の接吻をするために神のもとへ歩みましょう。
実に 復活!

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2020年4月 人間の体シリーズ 口 I 命令のほんとうの意味

イイススが
「わたしが行っていやしてあげよう」
と言われた。すると百人隊長は答えた。
「主よ、わたしはあなたを屋根の下にお迎えできる
ような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃっ
てください。そうすれば、わたしの僕(しもべ)は
いやされます。わたしも権威の下にある者ですが、
わたしの下には兵隊がおり、一人に〝行け〟と言え
ば行きますし、他の一人に〝来い〟と言えば来ます」
イイススはこれを聞いて感心し、従っていた人々に
言われた。
「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、
わたしはこれほどの信仰を見たことがない」
(マトフェイ(マタイ)福音書8・5〜13)

ハリストス 復活! 
 イイススがほんとうに感心し、感動したのは、この百人隊長の人間性、人格ではなかったでしょうか。
 百人隊長のうしろには、おそらく数人の部下がいたことでしょう。かれら部下の上司たる隊長をみる眼差しは、真に信頼のこもったものだったのでしょう。
 隊長はイイススに威張って自慢したのではなく、心からの信頼があって隊長と兵士の関係が成り立っていることを率直に語ったのです。
 イイススはその深い人間関係、信頼と友情を「信仰」だと言い切ります。
 隊長はイイススを神の子として、救い主として信じたのです。
 ローマ軍の百人隊長、最前線で戦う歩兵部隊の指揮官は、所属の隊員に対して指揮官の命令に絶対服従であることを求めます。それはもちろん、戦いに勝利するためであり、作戦を成功させるためでもあります。
 時には激戦地、いわゆる死地におもむくとき、隊長と兵士は一心同体です。
 きっとこの隊長は命令する時、ただ〝死ね〟と命ずるのではなく、〝いっしょに生きて帰ろう〟と命令できたにちがいありません。
 この指揮官の指示、命令に従っていれば、生きて帰ることができる。故郷へ、家族のもとへ生きて帰ることができる。
 この指揮官、百人隊長の命令は、人を生かす命令だったのです。
 2世紀の聖人 聖イレネウス(イリネイ)は、神の命令、神の恵みに満ちて生きることをこう語っています。

「主の聖神(聖霊)のおられるところに自由があります。わたしたちはみな、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の聖神の働きによることです」(Ⅱコリント3:17-18)
 
 すなわち「神の栄光は、生きている人にあり、人の生命は、神を仰ぎ見ることにつながる」のです。 
 この百人隊長の命令を喜んで果たす人は、神の命令も喜んで引き受けます。
 なぜなら〝死ね〟と命ぜられているのではなく、〝生きよ〟と命ぜられているからです。
 神の子から〝生きよ〟と命令され、その命令を受ける人は、深く信じ愛しているがゆえに、慶び、光り輝いて生きてぬこうとすることでしょう。
実に 復活!

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2020年3月 人間の体シリーズ 頬(ほお)

あなたの頬を打つ者には、
もう一方の頬をも向けなさい。

なんじの頬を打つ者には、
他の頬をも向けよ。
(ルカ福音書6:29)

山上の垂訓(すいくん)、真福詞、真福九端につづいて語られることの多い、よく知られているイイススの言葉です。

でもわたしたちは、この言葉の真意の遠いところにいます。正直、実践の難しい、僻地(へきち)にわたしたちは住んでいると感じています。

聖使徒パウェルは、こう語ります。

実にハリストス(キリスト)はわたしたちの平和であります。
二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を
取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうして
ハリストスは、双方をご自分において一人の新しい人に造り上げて
平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、
十字架によって敵意を滅ぼされました。
(エフェソ2:14〜16)

わたしたちが頬を向けるとき、孤独ではありません。イイススがいっしょに、その頬をさし出れています。

わたしたちが理不尽な扱いを受け、時に苦しみ悩み、身もだえしているとき、イイススはいっしょにその負い目を受けておられます。

自分ひとりが頬を打たれているのではなく、イイススもごいっしょです。

あらゆる敵意と悪意は、イイススの受難の十字架によって、その存在を失いました。

あたかも暗黒の非常に大きな力を持つように見えるものが、ほんとうは力のない、空疎な幻想であることが明示されました。

主の十字架がわたしの、あなたの、わたしたちの隔ての垣根を破壊したとき、善悪を知る木が芽生え、さらに生命(いのち)の木が実を結びはじめます。

十字架の果実を共に食べるわたしたちを、イイススが一人の新しい人間に創造なさいます。

ここにわたしたちの新たなる一歩があります。

新たに生きる方角へ、進路へ、打たれて傷ついていないもう片方の頬を向けましょう。わたしといっしょに、イイススと共にその頬を向けましょう。

向けた頬には復活の光が照らされていることでしょう。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2020年2月 人間の体シリーズ 耳 III 雷の声と静かな声

「いま、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。

『父よ、わたしをこの時から救ってください』

と言おうか。しかし、わたしはまさに

この時のために来たのだ。

父よ、御名の栄光を現してください」

すると、天から声が聞こえた。

「わたしはすでに栄光を現した。

再び栄光を現そう」

そばにいた群衆は、これを聞いて、

「雷が鳴った」

と言い、ほかの者たちは

「天使がこの人に話しかけたのだ」

と言った。イイススは答えて言われた。

「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、

あなたがたのためだ」

(イオアン(ヨハネ)福音書12:27?30)

イイススは、受難、十字架上での死を意識します。イイススの言葉の端はしには、救いとはなにかを伝える言葉がつづきます。

雷が鳴ったような天からの声の前には、有名な言葉が語られます。

ひと粒の麦は、地に落ちて死ななければ、

ひと粒のままである。だが、死ねば、

多くの実を結ぶ。

贖(あがな)いと救いの本質を究極的に現す聖なる言葉です。

雷が鳴る時、わたしたちは不思議な光景を目にします。

まず稲光が一瞬きらめいて光り、一拍おいてドーンとかゴロゴロという雷の音を聴きます。

イイススが熱をこめて語っている時、同じ出来事が起きたのではないでしょうか。

天空に閃光が走り、それから雷鳴のごとき音が聞こえたのです。

もしかしたら人々の耳には、ドーンという雷の音しか聞こえなかったのかも知れません。神の声が聞こえなかった人たちもいました。

イイススが、両手をさし上げて祈り、耳を澄ましているお姿を見て、

「天使がこの人に話しかけたのだ」

と感じたのではないでしょうか。

この声が聞こえるのは、選ばれている信仰者であって、心と体の準備のできていない人には、聞こえなかったとも言えるでしょう。

わたしたちはしばしば、一般社会の中で「声の大きい人が勝つ」現実を見ます。

正義かどうかを別にして、多数決というか、大声の暴威によって、ある論理や主義主張が通ってしまう不合理を体験することがあります。

でも信仰者は知っています。

しばしば大きな声、雷鳴のごとき怒鳴り声は、神の恵み、正義と平和を圧殺することを。

信仰者は、雷のあとの静かな天の声に耳を傾けましょう。

雷鳴、大嵐のあとの静けさの中に真実と真理があるものなのです。

ほんとうの救いは、雷のあとに恵まれる、天よりの静かな声、その栄光のうちに秘められています。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2020年1月 人間の体シリーズ 耳 II ─三人の博士が聴いた黙示(つげ)とは何か

ヘロデは占星術の博士(学者)たちを秘かに呼び寄せ、

星の現れた時期を確かめた。そして

「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら

知らせてくれ。わたしも行って拝もう」

と言ってベツレヘムへ送り出した。

かれらが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が

先だって進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。

博士たちはその星を見て喜びにあふれた。

家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。

かれらはひれ伏して拝み、宝の箱を開けて、

黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが

「ヘロデのところへ帰るな」

と夢でお告げ(黙示、つげ)があったので、別の道を通って

自分の国へ帰って行った。

(マトフェイ(マタイ)福音書10:25-37)

ヘロデは悪意、隠している魂胆をもって、三人の博士に頼みました。

それは王としての権威、圧力があっての、強圧的な依頼だといってもよいでしょう。なぜなら福音書2章の後半には、三人の博士にだまされたことを知り激怒したヘロデが、軍隊を動員して、ベツレヘム周辺の二歳以下の男の子をすべて殺害したことを記録しています。

博士がヘロデをだましたというのは、おそらくヘロデが博士を追わせた尾行者を振りきったということでしょう。

博士はヘロデの依頼、言葉を、身の危険を承知のうえで拒否、断固として聞き入れませんでした。

夢のお告げ、正教会は「黙示(つげ)」と表現します。

この黙示とはなんでしょうか。

夢の中で博士は、なにを見、なにを聴いたのでしょうか。

博士が聴いたヘロデの言葉はまさに、エバ(イブ)の聴いたヘビ、悪魔の言葉でした。悪魔の言葉とは、恐怖をともなう甘い誘惑です。

それでは博士が聴き入れた言葉はなんでしょうか。

それは神の呼びかけだと思います。

食べてはいけないといわれた果実を食べてしまったアダムとエバに、神は
「どこにいるのか」

と呼びかけ、たずねました。

博士はこう答えました。
「あなたおのところ、神のもとにいます」と。

ヘロデの悪、闇の言葉に、博士は耳を傾けません。

博士は、神の善、光の言葉に耳を傾けます。

神の愛に、博士は愛をもって応えました。

ここに祈りの基本、本質が秘められています。

三人の博士の帰りの旅路は、わたしたち信仰者の人生、生の道行きでもあるのです。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2019年12月 人間の体シリーズ 耳─善きサマリア人は何を聞き実行したのか

ある律法の専門家が立ち上がり、イイススを試そうとして言った。

「先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるのでしょうか」

イイススが

「律法には何と書いてあるか、あなたはそれをどう読んでいるか」

と言われると、彼は答えた。

「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、

あなたの神である主を愛しなさい、また隣人を自分のように

愛しなさい、とあります」

イイススは言われた。

「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」

(ルカ福音書10:25-37)

 
追いはぎ(強盗、盗賊、山賊)に身ぐるみはがれ、荷物を盗まれ、大ケガを負うて道ばたに倒れていた旅人。おそらくユダヤ人でしょう。

その姿を横目に見たユダヤ教の祭司、祭司をいちばん輩出しているレビ族の人も、ケガ人を避けて逃げてしまいました。

もしかしたら「死者」に見えたのかも知れません。かれらは宗教上のしきたりを楯に、死体にふれて汚れることを恐れたのでしょうか。

いずれにせよ、倒れていた人を救助しなかった悲しい事実があります。

ところが旅をしていたサマリア人は、近寄り、保護、ケガを消毒、薬をぬり、荷物を積んでいたろばの背に、ケガ人をのせます。

サマリア人はおそらく、懇意にしている宿屋に入り、さらにいたれり尽くせりの治療をしました。

翌朝、デナリオン銀貨2枚を宿の主人に手渡し、「ケガ人の面倒を十分に見てあげてほしい。療養費用が足りなくなれば、自分がもどってきたら追加するから」

そう頼んで旅立っていきました。

わたしは想像します。

サマリア人は、見知らぬケガ人から、声を聞いた、言葉を聞いたのだと。
「家に帰りたい」
「最愛の妻のもとへ帰りたい」
「愛する家族、子どものところへもどりたい」

あるいは
「このまま死にたくない」
「生きたい」

ケガ人が声に出しはっきり話したのかどうか、それはわかりません。

でもそのケガ人の心の叫び、「心の声」「心の言葉」を聞いたのです。

救い主イイススは、黄金律とは、

「そのひとの望むとおりのことを実現することだ」

と語ります。

行き倒れの人の願いを、サマリア人はたしかに聞きました。

その声、その言葉は、心の耳の扉を開け、サマリア人は実行しました。

信仰の耳。

わたしたちは神からさずかった「聞く耳」を大切にしましょう。

神に、そして人に聞き届けられた、心を知ってもらったという充足感、満足は真に人を生かすものです。

信仰の耳は、ときに、挫折した信仰者に希望をもたらすことでしょう。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2019年11月 人間の体シリーズ 鼻─乳香と雲の柱

主は彼らに先だって進み、昼は雲の柱をもって導き、

夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは

昼も夜も行進することができた。昼は雲の柱が、

夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった。

(出エジプト13:21-22)

正教会における「雲の柱」「火の柱」は、なんに象徴されているのでしょうか。祈りの家、聖堂に、顕れていると思います。

雲の柱は、乳香、香炉から漂う香の雲。

火の柱は、ロウソクやランプの灯火。

聖書はこう語ります。

モイセイ(モーセ)が民を神に会わせるために宿営から連れ出したので、彼らは山のふもとに立った。

シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである。

煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。

角笛の音がますます鋭く鳴り響いたとき、モイセイが語りかけると、神は雷鳴をもって答えられた。

(出エジプト19:17-19)

まさに正教会の聖堂の光景ではないでしょうか。

神の呼びかけ、召命に応じた信徒や啓蒙者、人々が、聖堂に参集します。

聖鐘が鳴り響き、みんなが献げるロウソクの灯火が堂内に満ち、司祭(神父)や輔祭の祈りの声に信徒が呼応します。

激しい雷鳴のごとき祈りの声、聖歌が聖堂を地震のようにふるわせます。

それらは恐怖ではなく、心の奥底、信仰の根幹を感動させる雷鳴と地震です。そしてそこに満ちているのは、雲の柱である、乳香の雲です。

お祈りの終わりころには、堂内が香に満ち、煙たいばかりの印象かも知れません。でも、ちがいます。

祈りの始まりのとき、聖堂に漂う香の煙は、天気のよい日には、窓からの陽ざしにまとわりつくように、七色の雲となって上昇していきます。

その美しさ、香の香りの神々しさは、たとえようのないものです。

シナイ山で神が祝福されたように、神の恵み、恩寵が、正教会の聖堂に充満します。

香炉の祝福は、衆人、万人に平安を恵む、雲の柱です。

京都正教会では、エデンの園をイメージし、できるかぎり花の香り、たとえばバラの香りの乳香をかおらせるようにしています。

雲の柱は、聖堂の香の雲に生きているのです。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2019年10月 人間の体シリーズ 鼻─匂いと香り

イサクは、イアコフ(ヤコブ)の着物の匂いをかいで、

祝福して言った。

「ああ、わたしの子の香りは、主が祝福された野の香りのようだ。

どうか、神が、天の露と地の産み出す豊かなもの、穀物とぶどう酒を、

お前に与えてくださるように」(創世記27:27-28)

劇作家でキリスト教徒でもある矢代静一氏の戯曲『道化と愛は平行線』で、登場人物が次のような内容を語ります。

貧乏って何?

それは匂いだと。

体臭と言っても良いのかもしれません。

わたしたちの周りは、匂い、香りに満ちています。良い匂いもあれば、鼻の曲がるようなひどい匂いもあります。

それは教会、聖書の世界も同じです。

アダムとエバ(イブ)の誘惑された果実は、見た目に美しく、色鮮やかで、さらに美味しそうな甘い香りを漂わせていました。

父イサクは、息子イアコフ・イスラエルにだまされます。弟イアコフは兄エサウに与えられるべき父の祝福を奪います。目の見えなくなっていた父イアコフは、毛皮を身につけた弟イアコフを抱いて匂いで確認し言います。
「ああ、わたしの子の香りは主が祝福された野の香りのようだ」

旧約聖書の『雅歌』は、神と人、神と教会・信仰者との交わりを詩で詠います。その詩は色とりどりの花や美味しい果物の香りに満ちています。

19世紀ロシアの文豪ドストエフスキーの小説『カラマーゾフの兄弟』では、ゾシマ長老が永眠します。すると人々は何か奇蹟が起こるはずだと神秘現象を期待して待ちます。生存しながらにして、聖人になるだろうと期待されている人に対して、信徒は奇蹟を期待します。

ところが、ゾシマ長老の遺体は、奇蹟どころか、「くさい匂い」腐臭を放ち始めたのです。人々はおどろきあわてます。死体が腐ることはあたりまえのことです。だからたいてい、いま遺体の納まった柩にはドライアイスを入れます。ゾシマ長老は聖人になるはずの人、みんなそう信じていました。その人の遺体が匂う、くさい。

理想を求める信仰者はときどき誤った幻想を持ちます。幻想的な期待と、教会の言う信仰者の「希望」とは本質が違います。ある意味その差は紙一重です。

匂い、香りもそうです。自然の野山の花の香りと、芳香剤・入浴剤・洗剤などに入っている人工的な匂いは全く異なります。

化学合成された人工的な香りではなく、野の草花の咲き乱れ、小鳥や蝶の飛び交う野原の香りが、神の国を象徴しています。

教会の、いえ信仰者の求める匂い、香りの原点は、エデンの園、神の国です。 それはイサクがイアコフ・イスラエルに語った「野の香り」であり、イイススの埋葬の場面にも象徴されています。 
十字架にかけられて永眠したイイススが葬られた新しい墓の周囲は草木、花々の甘い香り、女弟子がイイススにぬった香油の香りに満ちていました。

十字架から下ろされて、新たな墓へ葬る道すじでは、ご遺体が通るにつれて白い百合の花が真紅のきれいな赤い百合の花に変わり、甘い芳香に満ちたと言います。聖堂もそうです。聖堂は、かのエデンの園、わたしたちがいつか行くであろう天国、神の国を表しています。

(長司祭 パウェル 及川 信)