■2022年6月 人間の体シリーズ 膝(ひざ)6

慕いもとめる祈り

主は 倒れようとしている人を
ひとりひとり支え うずくまっている人を
起こしてくださいます。

  

主の道はことごとく正しく
御業(みわざ)は慈しみを示しています。
主を呼ぶ人 すべてに 近くいまし
まことをもって呼ぶ人 すべてに 近くいまし
主を畏れる人びとの望みをかなえ
叫びをきいて 救ってくださいます。
 (旧約聖書「詩編」145:14〜参照)

主の昇天祭を讃栄します
 わたしたちは、聖体礼儀の中で「こころ上に向かうべし」と祈ります。こころの膝をかがめて祈る、よくそう言いますが、それは謙遜さのあらわれる祈りの姿勢をさすことが多いのでしょう。
(聖像:サーロフの聖セラフィム)
 人生いろいろなことが起こります。
 挫折し、地に倒れふし、土をかみながら、苦痛の祈りをささげることもあるでしょう。
天にいます神を仰ぎ、手をうえに向けて、祈ることができないときもあるでしょう。
うずくまっている人が、神に手をとられ、うでを高くさし上げ、絶望の思いを秘めながら祈ることもあるでしょう。
大斎(おおものいみ)、先備聖体礼儀(問答者聖グリゴリーの聖体礼儀)の中でこう祈ります。

願わくは、わが祈りは 香炉の香りのごとく なんじが顔(かんばせ)の前に登り、わが手をあぐるは、暮れの祭りのごとく納れられん。

祈りが香炉の香りのように「登る」とは面白い表現です。
人の祈りは、生命あるかのように、脈動し、神の前に登っていきます。
慕いもとめるひとは、神へと登っていきます。
希望のひかりにつつまれながら。
救い主イイススは、神の子でありながら人の子として降り、わたしたちは、神の呼びかけと救いの手にみちびかれて、天へと登ります。
 ひざまずく祈りは、地より天へ、死より生命へと登る、慕いもとめる祈りなのです。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2022年5月 人間の体シリーズ 膝(ひざ)5

イイススの足にすがる女性

過越祭の六日前、イイススはベタニアへ行かれた。
そこには、イイススが死者の中からよみがえらせた
ラザリ(ラザロ)がいた。イイススのため夕食が用
意された。マルファ(マルタ)は給仕をしていた。
……そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルド
の香油一リトラを持ってきて、イイススの足に塗り、
自分の髪の毛でその足をぬぐった。家は香油の香り
でいっぱいになった。
(新約聖書「イオアン(ヨハネ)福音書」12章参照)

ハリストス復活! 実に復活!
 福音書のほかの場面では、イイススの頭に香油をかけ祝福する姿、接吻をしてやまない姿、あるいは涙あふれ泣きながらイイススの足にすがりつく女性の光景がみられます。
おそらく福音伝道する生活の中で、いく度となくイイススは、こういう女性に巡りあったのでしょう。
ひざに、足にすがりついて救いといやしを求める姿、愛慕の情にゆり動かされたイイススの慈愛のまなざしが脳裏にうかびます。
その一方で「もったいない、香油を高値で売って貧しい人を助ける足しにすれば良いのに」そう語ったのは、イスカリオテのユダひとりではないでしょう。
残酷なひとがいます。
じぶんのいる場所、その立場、視座をいっさい変えずに、冷酷な評論家のようなひとがいます。
そのわかっているフリを「信仰」と呼ぶひともいます。
イイススは、最後の晩餐のとき、受難の直前、ひざまずいて弟子の足を洗いました。弟子たちは、ずいぶんあとになってから、そのときのイイススの思いとこころにふれることになります。
わたしたちは、残念ながら鈍感です。
イイススから遠いところに信仰生活を送っています。
わたしたちは、イイススの足にすがりつき、助けをこいましょう。
大斎(おおものいみ)、受難週と、ひざまずいての祈りがたくさん、くり返されるのは、からだとこころのひざをかがめ、体験しなければ見えてこない、救いといやしがあるからなのです。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2022年4月 ハリストス復活!実に復活!

ハリストス復活! 実に復活!
ХРИСТОС ВОСКРЕСЕ! ВОИСТИНУ ВОСКРЕСЕ!

絵:ワルワラ・ボンディナ(1974-2013)
Рисунок: Рисунок: Варвара Бондина (1974-2013)

 

ここで記載されている内容は12歳以上どなたのためにもなると考えております。<親子で読む>記載があれば、小さな子供達のために、親子のためにも役に立つ内容であるという意味です。

目次

• 子供の祈り(聖(せい)枝(し)祭(さい)の出来事と聖パンテレイモンへの祈りについて)アレクサンドル・ディヤチェンコ神父より
Детская молитва (история, случившаяся на Вербное воскресение, и молитва св. Пантелеймону). Иерей Александр Дьяченко.
• 十字架上の苦しみとイイスス ハリストスの死(詩:修道士ワルナワ・サニン)
Крестные страдания и смерть Иисуса Христа (стихотворение, монах Варнава Санин)
• ハリストスが釘打たれた十字架(親子で読む詩:修道士ワルナワ・サニン)
Распятие (стихотворение, монах Варнава Санин)
• イオアン1:1. 「太初(はじめ)に言(ことば)あり、言(ことば)は神(かみ)とともにあり」金口イオアン
Ин.1:1. В начале было Слово, и Слово было у Бога... (Иоанн Златоуст)
• 小麦の粒(親子で読むたとえ話:修道士ワルナワ・サニン)
Пшеничное зерно (притча, монах Варнава Санин)
• 読み終えた本(親子で読むたとえ話:修道士ワルナワ・サニン)
Прочитанная книга (притча, монах Варнава Санин)
• 復活されし者に讃美(さんび) (詩:大公コンスタンティン・ロマノフ) 
Хвала Воскресшему (стихотворение, Великий князь Константин Романов)
• パスハの響(ひび)き(親子で読む詩:修道士ワルナワ・サニン)
Пасхальное (стихотворение, монах Варнава Санин)
• ハリストス復活! では、私はどうでしょうか? (掌院アンドレイ・コナノス) «ХРИСТОС ВОСКРЕС! А Я?» Архимандрит Андрей (Конанос)

***
子供の祈り<聖(せい)枝(し)祭(さい)の出来事と聖パンテレイモンへの祈りについて>

「もしなんじらの中に智慧(ちえ)のたらざる者あらば、夫(か)の咎(とが)むるなくして、ただちに衆に與(あた)うる神に求むべし、しからば彼に與(あた)えられん。ただ信をもって、すこしも疑わずして求むべし」(イアコフ1:5-6)

 輔(ほ)祭(さい)あるいは司(し)祭(さい)になったばかりの者たちは必ず40日間の毎日の研修を受ける必要があります。その研修はそのままソロコウスト(すなわち40日間行われる祈(き)祷(とう))と呼ばれています。わたしの輔(ほ)祭(さい)の40日間の研修がもうすぐ終わるときに、ちょうど主のエルサレム入城(にゅうじょう)(聖(せい)枝(し)祭(さい))のさいにその徹(てつ)夜(や)祈(き)祷(とう)をおこなっていました。主(しゅ)教(きょう)座(ざ)の大聖堂で祈祷が行われていたため、主(しゅ)教(きょう)座(ざ)下によって指導されました。聖(せい)枝(し)祭(さい)の徹(てつ)夜(や)祈(き)祷(とう)が主教によって行われる場合、前もって小さな花束が準備されます。司祭のためにシュロの木の枝1本と5本のカーネーションの花、輔(ほ)祭(さい)のためにシュロの木の枝1本と3本のカーネーションです。教会では厳しい階級制(かいきゅうせい)があるので、こんな小さなことでもその階級制(かいきゅうせい)が強調されています。主教は一緒に祈祷をほどこす司(し)祭(さい)や輔(ほ)祭(さい)の額に聖油を塗る時、彼らに成聖された花束、すなわち聖(せい)枝(し)(2000年前にイイスス ハリストスが迎えられたシュロの木の枝)をくばります。わたしは自分の聖(せい)枝(し)をいただき、どうしようか、と思いました。その時、わたしは主(しゅ)教(きょう)区(く)の寮に住んでいたので、喜んでくれるひとのいない、空っぽの部屋に花束を持っていくのは、あまりおもしろくなかったのです。家に帰るのも数日後のことですから、その時までは花たちがもう枯れてしまうか、寒い天気で凍ってしまう恐れがあって、自分と共に持っていく意味もなかったのです。その年はパスハがとても早かったからです。聖(せい)枝(し)を誰かに贈ったほうがいいと思いましたたが、誰がよいのか迷いました。だれも知らない大きい町の中で、それは問題です。その日、大聖堂の礼拝に800人以上の人が来ましたが、それで問題が解決したというわけではありません。知らないひと、ばかりだったからです。男性に花束をあげたら、おかしいでしょう。女性、とくに若い女性なら、いろいろ想像(そうぞう)されてしまうかもしれません。わたしは今白髪ですが、その時はけっこうかっこよかったのです。、若い女性なら、なんと思うでしょう? では、おばあさんにあげたら、おばあさんは、たぶん財布を取り出して、お金をあげようとするかもしれません。さあ、ここで突然、すばらしいアイデアが浮かびました! 子供にあげた方がいい! どのような子供? もちろん女の子に、8歳、9歳ぐらいの女の子。だって自分にも娘がいて、今家で待っています。娘のことはとても懐かしくなりました。よし! そうしよう! さて誰にプレゼントをあげるか決めましたが、もう一つだけ、決めなければならないことがありました。ふさわしい子供を選び、彼女に花束をあげること。今描写する瞬間には、わたしと数人の輔(ほ)祭(さい)は、人々が主教様に聖油を塗ってもらえるように彼らをいくつかの行列に分けて立ったのです。人々は最初にわたしの後ろに通って、その後に曲がって、主教様に向かっていきましたが、そこから彼らの顔も見えました。少し振り返ったら、ちょうど思い描いていたようなお子さんに気づきました。女の子は、わたしに近づきました。わたしは彼女に「聖(せい)枝(し)祭(さい)おめでとう」と言いながら、シュロの木の枝とカーネーションの花束を手わたしました。とてもびっくりした女の子は、何も言わずに通りすぎました。しかし後ろにいてわたしの姿が見えなかったはずの女の子のおばあさんは、わたしに近より、こう言いました。
「神父さま、いま何が起こったのか、おそらく神父さまには、想像できないと思います。わたしたちは大家族、仲良しで、子供の人数が多いのです。毎年、この聖枝祭の日、わたしたちは、子供たちのために猫柳(ねこやなぎ)の枝を買い、それらを成聖(せいせい)してもらうために教会にいきます。今晩、女の子は、両親と約束した時間に遅れてしまいました。もう来ないだろうと思った親は、すべての枝を兄弟姉妹、いとこたちに分けてしまいました。女の子がやっと着いた時に、だれも彼女に枝をくれませんでした。女の子はとても悲しくなり、泣いていました。しかし、わたしは彼女を慰めるため、いいました。神さまに祈りなさい。お祈りしたら、神さまは、かならず、あなたの祈りを聞きいれます。このような日に神さまが、祈る人の願いをかなえないことなどありえません。もしかしたら、あなたは兄弟姉妹よりも、きれいな聖(せい)枝(し)をもらえるかもしれないから、と」
感動したおばあさんが、わたしに語り終えるころ、女の子は、聖油を塗ってもらい、主教様の手によって花束を成聖してもらうため、主教様へむかって進んでいました。女の子は、手を伸ばし、花束を持って歩きました。その花束は、たしかに兄弟姉妹の枝より、くらべられないほど美しかったのです。彼女はその花束を旗(はた)のように、祈りによって証された信仰の旗(はた)のように持っていました。その光景を見たとき、花束をだれにプレゼントしたらよいのかという、わたしの思いは、すぎさりました。子どもの純真な、篤(あつ)い祈りによって、わたしは、神の摂理(せつり)の一部となりました。神は、特別な理由によって、幼い女の子の信仰を堅固(けんご)になさいました。もしかしたらそれは後日、表信(ひょうしん)され、多くの実をむすぶためかもしれません。そして、たぶん、司祭(神父)の道に一歩を踏みだしたばかりわたしに、見習うべき祈りを見せるためだったのでしょう。わたしの道も彼女の道も今始まったばかりです。この出来事によって、わたしたち二人は特別な絆にむすばれました。
年月が経ち、わたしたちの教会に一人の5歳ぐらいの男の子が連れてこられました。わたしはそのとき至(し)聖(せい)所(しょ)にいました。子供がわたしに伝えたいことがあり、わたしは呼ばれました。わたしが近づいたとき、お子さんはお母さんに言われて、彼のために祈るようにわたしに頼みました。彼に心臓の病気があって、もうすぐ手術を受ける必要がありました。その手術のさいに、お医者さんは男の子の静脈(じょうみゃく)にカテーテルを入れ、それによって小さな病気の心臓がこれ以上苦しまないようにそれに入るはずでした。わたしは彼に提案しました。「あなたが、いやされるように一緒にお祈りしましょう」。 子供は賛成しました。わたしたちは聖(せい)大(だい)致(ち)命(めい)者(しゃ)・治(ち)癒(ゆ)者(しゃ)パンテレイモンの聖像に近づきました。「この聖人に祈ってみよう。聖人は、神さまの前に立ち、あなたのためにお祈りするのですから」。ちいさな子は、治(ち)癒(ゆ)者(しゃ)パンテレイモンの聖像を見つめ、祈り始めました。彼の祈りは、何の高揚(こうよう)、芝居(しばい)、疑いもなく、ただ小さな人間が理解している、限りなく愛しているお父さんとの会話でした。恃み、希望を持つこと、疑いのないことを子供の祈りから学びます。わたしは子供を見て、彼の神さまへの単純な言葉を聞き、一つのことをわかりました。わたしの人生の終わりごろ、子供の祈りの単純さの程度を達成できたら、わたしの主の喜びに入る(マトフェイ25:21)ことができるだろうということです。
アレクサンドル・ディヤチェンコ神父
ロシア語版:
Детская молитва. Иерей Александр Дьяченко
https://azbyka.ru/fiction/vozljubi-blizhnego-svoego-svjashhennik-aleksandr-djachenko/15/

***
十字架上の苦しみと
イイスス ハリストスの死

群衆(ぐんしゅう)の激烈(げきれつ)な怒った声。
十字架、その上の銘板(めいばん)、
釘(くぎ)、冠(かんむり)、とげも…
おお、イエルサリムよ!

町は、獅子(しし)の喉(のど)のよう、
貪欲(どんよく)な悪意に燃えている。
神の怒りが近づいている、
おお、イエルサリムよ!

王室の部屋の豪奢(ごうしゃ)、
おまえの殿(でん)には猛暑(もうしょ)。
ピラトは手を洗った。
おお、イエルサリムよ!

これはおまえの哀れな子供たちへの
お前の遺産(いさん)
十字架、銘板(めいばん)、ほこ…
おお、イエルサリムよ!

(修道士ワルナワ・サニン)

Крестные страдания
и смерть Иисуса Христа

Яростный рев толпы.
Крест, табличка над ним,
Гвозди, венец, шипы…
О, Иерусалим!

Город, как львиный зев,
Жадной злобой палим.
Близится Божий гнев,
О, Иерусалим!

Роскошь царских палат,
Зной над храмом твоим.
Руки умыл Пилат.
О, Иерусалим!

Это наследство твое
Бедным детям твоим:
Крест, табличка, копье…
О, Иерусалим!

(монах Варнава Санин)

***
ハリストスが釘打たれた十字架

主、わたしの神よ、
十字架からでさえ
あなたはわたしを抱き締めるため
自分の腕(うで)を開いている!
聖なる十字架で
静かに立って、
ハリストスの苦しみを
音もなく眺(なが)めて、
十字架の裾(すそ)に接吻(せっぷん)しながら、
泣いている
そして…ハリストスに
抱かれている!

(修道士ワルナワ・サニン)

РАСПЯТЬЕ

Господи, Боже мой,
Даже с Распятья
Ты мне Свои
Раскрываешь объятья!
Тихо стою
У святого Креста,
Молча смотрю
На мученья Христа,
Плачу, целуя
Подножье Распятья
И… попадаю
В Христовы объятья!
(монах Варнава Санин)

***
イオアン1:1. 「太初(はじめ)に言(ことば)あり、言(ことば)は神(かみ)とともにあり」

この言葉の一節一節(いっせついっせつ)に秘められた、福音者の率直さと力がおわかりでしょうか。……彼がすぐさま舞い上がり、いかに聞き手たちの霊(たましい)と知性とを高揚(こうよう)させたのか、ご覧なさい。つまり、霊(たましい)を、知覚物全てよりも、大地より、海より、空よりも上に置き、なみいる天使よりも、天のヘルヴィムやセラフィムよりも、宝座よりも、首領よりも、能力よりも上に上がらせ、そして、あらゆる被造物(ひぞうぶつ)より高く舞い上がるように強調しています。……真の知恵と神聖なる教義がおわかりですか。…誰も天上に、地上のものを何も持ちこまないでください。ここに立っている誰も、家事を慮(おもんぱか)らないでください。教会では誰も家事を慮(おもんぱか)らないでください。逆に、家でも教会の教えのテーマについて思考してください。それらが霊(たましい)に属するのですから、わたしたちにとってより好ましくありますように。家事は、肉体に属します。ここでの教えは霊(たましい)にも肉体にも役に立つ、と言った方がいいでしょう。この家は神(しん)に属する癒(いや)しの場であり、わたしたちが(この世で)外から受ける傷を癒(いや)すために作られたのです……もしわたしたちが、聖神がわたしたちに言う事に耳を傾けないなら、以前の傷を清めるどころか、他の傷も受けるでしょう。今あなたたちの前に啓かれているこの福音の書にせいいっぱい、耳を傾けましょう。(金口イオアン)

Ин.1:1. В начале было Слово, и Слово было у Бога...

Итак, чем же начинает евангелист свое сказание? «В начале было Слово, и Слово было у Бога» (Ин.1:1). Видишь ли ты в этом изречении всё его дерзновение и силу?... Смотри, куда он тотчас, в самом начале, воспарив, возвел душу и ум своих слушателей. Поставив ее выше всего чувственного, выше земли, выше моря, выше неба, он возводит ее превыше самих ангелов, горних херувимов и серафимов, выше престолов, начал, властей и вообще убеждает ее вознестись выше всего сотворенного… Видишь ли истинное любомудрие и догматы божественные…Итак, никто не приноси на небо ничего земного. Никто, стоя здесь, не озабочивайся делами домашними. …Пусть же никто в церкви не печется о делах домашних; напротив, пусть и в доме размышляет о предметах церковного учения. Пусть они будут для нас предпочтительнее всего, так как они относятся к душе, а те (домашние дела) к телу; лучше же сказать – и душе и телу полезны здешние поучения. … Этот дом есть духовная лечебница, устроенная для того, чтобы в ней враче¬вали мы те раны, которые получаем отвне (в мире)…. Если же мы не станем внимать тому, что глаголет нам Дух Святой, то не только не очистим прежних ран, но еще и другие получим. Будем же со всем тщанием внимать этой книги, те¬перь пред нами раскрываемой. (Св. Иоанн Златоуст)

***
小麦

小麦を土にまいた。
「何? どうするの? どうして暗闇に わたしをほうりこむの? しかも、土で覆(おお)って?!」
小麦は 叫びはじめた。
「そうしなければ!」
小麦に 人は 答えた。
「でも わたしは生きたい! 永遠に」
「あなたは死なない。逆に、より大きな光栄のなかで生き返るのさ!
しかも自分の幸せをさらにかみしめるだろう!」
「そんなことってあるの?」
「もちろん! だって、これは あなたたち〈小麦〉をまく 初めてのことではないのだから!」
人は自分の仕事を終えた。畑のへりにすわり、少し休んだ。土に目をやってから、天を見あげた。
そして、突然、初めて自分自身について考え始めた。(修道士ワルナワ・サニン)

ПШЕНИЧНОЕ ЗЕРНО

Бросили пшеничное зерно в землю.
— Что вы со мной делаете? Зачем опускаете во тьму, да еще и засыпаете землею?! – закричало оно.
— Так надо! – ответил ему человек.
— Но я хочу жить! Вечно!
— А ты и не умрешь. Наоборот – оживешь в еще большей славе! И будешь еще радоваться своему счастью!
— Разве такое бывает?
— Еще как! Я ведь не первый год вас сею!
Закончил свою работу человек. Сел на краю поля отдохнуть. Посмотрел на землю, потом на Небо.
И вдруг впервые задумался о самом себе… (монах Варнава Санин)

***
読み終えた本

本を最後まで読んだ。
彼女<本>はもうそれが彼女の生命の終わりだと思った。しかし、それは逆に今始まりだしたのだ!
本は人の霊(たましい)の役に立ち、教訓的(きょうくんてき)だった。そして、読み手も、その本にぴったりで、ただ賢いだけではなく、思慮深(しりょぶか)い。
彼は自分の人生を考えて、自分の行動をこの本と比較し始めた。ときどきこの本を手にとって、また読んだ。
その後、自分の友達にも読ませようと、この本をあげた。
彼らは順番にこの本を借りた。
そして、毎回すべてがまた最初から始まった。(修道士ワルナワ・サニン)

ПРОЧИТАННАЯ КНИГА

Прочитали книгу до конца.
Она думала, что на том жизнь ее и закончилась. А она, наоборот – только начиналась!
Книга-то была душеполезной и назидательной. И читатель, под стать ей, не просто человек разумный – но благоразумный.
Задумался он над своей жизнью и стал сверять свои поступки с этой книгой. А время от времени брал ее в руки и перечитывал вновь.
Потом он дал почитать ее и своим друзьям.
Они брали книгу по очереди.
И каждый раз все начиналось сначала! (монах Варнава Санин)

***
復活されし者に讃美(さんび)

天より主を讃(ほ)めあげよ
たえまなく歌えよ
彼の奇蹟(きせき)と言いがたい光栄に
世界は満ちている

無形の力の会も天軍も
主を讃(ほ)めあげよ、
墓地の悲しい暗闇(くらやみ)から
偉大な光が輝いてきた。

丘、崖(がけ)、山よ、
天より主を讃(ほ)めあげよ!
オサンナ! 死の恐れが消えてきた
わたしたちの目が明るくなった。

大海原(おおうなばら)や果てのない海洋(かいよう)よ、
神を讃(ほ)めあげよ!
すべての憂(うれ)いや失望の不平(ふへい)が
沈黙(ちんもく)しますよう!

人々よ、天より主を讃(ほ)めあげよ、
主を讃栄(さんえい)しよ!
ハリストス復活!ハリストス復活した!
そして、死を永遠に滅(ほろ)ぼした!

(大公コンスタンティン・ロマノフ、1858-1915)

Хвала Воскресшему

Хвалите Господа с небес
И пойте непрестанно:
Исполнен мир Его чудес
И славой несказанной.
Хвалите сонм бесплотных сил
И ангельские лики:
Из мрака скорбного могил
Свет воссиял великий.
Хвалите Господа с небес,
Холмы, утесы, горы!
Осанна! Смерти страх исчез,
Светлеют наши взоры.
Хвалите Бога, моря даль
И океан безбрежный!
Да смолкнут вякая печаль
И ропот безнадежный!
Хвалите Господа с небес
И славьте, человеки!
Воскрес Христос! Христос воскрес!
И смерть попрал навеки!

(Великий князь Константин Романов, 1858-1915)

***
パスハの響き

どれほどパスハの日、清らかな心が
そして、すべての歩く者、泳ぐ者、息をする者が
疲れ知らずに創造主を讃美しているのか。
聞いたことがない人は聞いてください。

「ハリストス復活!」
と山は叫ぶ。
「ハリストス復活!」
と野原は山にこだまする。
「ハリストス復活!」
と争いを忘れて、
天を抱きしめて
地球は回っている。

鬱蒼(うっそう)たる森で葉々が歌っている、
川、村、町は歓喜(かんき)している…
わたしがそれを聞いたのは実は一回だけ
でも神に光栄、とこしえに!

(修道士ワルナワ・サニン)

Пасхальное

Кто это не слыхал, да пусть услышит,
Как в день Пасхальный чистые сердца,
И всё, что ходит, плавает и дышит,—
Без устали приветствует Творца.

«Христос воскресе!» —
восклицают горы.
«Христос воскресе!» —
вторят им поля.
«Христос воскресе!» —
позабыв раздоры,
Обнявшись с Небом,
кружится земля.

В густом лесу поет листочек каждый,
Ликуют реки, села, города...
Я это слышал, правда, лишь однажды,
Но, слава Богу,— раз и навсегда!

(Монах Варнава Санин)

***
「ハリストス復活! では、わたしはどうでしょうか?」

パスハ(復活祭)の後にわたしは子供たちがいる学校の教室に行きました。子供たちは、わたしが神品(しんぴん)(聖職者(せいしょくしゃ))だし、神学者(しんがくしゃ)ですので、必ず「ハリストス復活」と言うであろう、ということをよく分かっています。 しかし、わたしは教室に入った時、わざと何も言わないことにしました。 ただ挨拶のみをして、尋(たず)ねました。
―「お元気ですか? 何をやっていますか?」 生徒たちの一人はわたしに向かって言いました。
―「神父さま、ハリストス復活! を言わなければなりません」
―「あ、実に復活! 幾歳(いくとせ)も!」
―「でも、神父さまが先に言わなかったでしょう!」
―「はい、言わなかったですね」
ほかの子供たちはその一人の子供が神父に何を言うべきかを指摘(してき)して、神父の発言を直したことに驚きました。 その瞬間、誰かがドアを叩(たた)き、違うクラスの男の子が入ってきました。 彼らたちからバスケットのボールを借りたかったのです。
―「すまないけど、ちょっとバスケットのボールを貸してくれない? 僕たちは持っていないから」
クラスの子たちは叫びました。
―「ダメ、もうボールは貸してあげないよ! 前は貸してあげたけれど、あんたたちは無くしてしまったでしょ! もうあげないよ! あっち行って!」
かわいそうな子供は恥ずかしくなって、ドアを閉めて、帰りました。 わたしはクラスの生徒たちに向かって言いました。
―「子供たち、このさわぎの中で、あなたたちは彼に一つのことを言うのを忘れてしまっています。それはわたしにさっき言ったばかりのことです」
―「それは何ですか?」
―「ハリストス復活! です。言うべきだったのは、『あっち行って! ハリストス復活!』でした」 彼らたちは驚き、とても注意深くわたしを見ていました。
―「え? それはどういう意味ですか?」
―「あなたたちが言ったばかりの意味と、全く同じ意味ですよ。わたしが教室に入った時に、あなたたちはわたしに言葉の注意をしたでしょう(それは正しい注意でしたよ!)。わたしはまず「ハリストス復活!」という言葉で挨拶すべきでした。しかし「ハリストス復活」という言葉は、とても力強い表現ですよ。とても現実味(げんじつみ)の帯びた表現です。それを言うだけだと物足りないのです。この言葉を自分の毎日の生活の中で、自分の悩み、自分の回復せられた思い、自分の変容された心、生活の全ての事情の中でそれを実現すべきです。 あなたたちは、簡単に『ハリストス復活』と言っているのに、『ボールをあんたたちにあげない』と答えているでしょう。『ハリストス復活』と言っているのに、『ドアを閉めといて、ほっといて』と答えているでしょう!
『ハリストス復活』という表現は、わたしもハリストスと一緒に復活していくという意味を持っています。
その反対の意味で、わたしがまだ学生だった時に、ある一人の若者が言った事を思い出します。 その時、わたしはまだ子供だったので、彼はわたしに皮肉ながらにこう言いました。
―「ハリストス復活! それで何? わたしにとって何の意味がある? ハリストスは復活したけれど、わたしは、あなたは、わたしたちはどう? わたしたちの今の生活、ここにある生活にとって何か意味ある? わたしが住んでいる現実に何か影響ある?」
また例えばこの様な話も出来るでしょう。ある人が親戚のいとこの家を訪れると、とても手厚くもてなしてくれました。
―「こんにちは。ハリストス復活! どうぞ! お茶でもどう? 少し話したいことがあるの!」
そして一緒にお茶をしながら、今度の裁判で何を言うか、財産に関する問題でもう一人の親戚をどのように有罪にさせるか話し合うのです。 時間が経ったら、やっと合意ができて、「じゃね、裁判で会おう!その一点は絶対に忘れないで! それはとても大事だから! じゃ、バイバイ! ハリストス復活!」
ハリストスは復活しましたが、あなた方はこの言葉を自分の生活の中で軽んじています。 あなた方はまるでキーボードでBack Space、Deleteというボタンを押しているようです。
言葉だけで「ハリストス復活」と言ってはいますが、あなた方自身の生活の中ではまだまだ何も復活していません。このような人の中には、未だに驕(おご)り、欲望、罪、弱みというような死せる臭いを放つ墓があります。 最も望ましい目的は次の言葉にあります。
「わがハリストスよ、わたしの生活をどのように復活させたらいいでしょうか」 といつも神さまに願うことです。 そして、今はあなたの教師として言うのではなく、ただあなたがいつも自分が話している言葉に注意するように言っています。旧約聖書の言葉を思い出しましょう。「あなたの主神(しゅかみ)の名をみだりに唱えてはならない」(申命記5:11) あなたはこの聖なる言葉を口にしているのですが、実際はそれらを軽んじています。
ある日、わたしは一人のハリスティアニンに電話してみました。 わたしは彼にお金の余裕がある事をあらかじめ知っていました。
―「ハリストス復活!」
―「実に復活」と彼が答えました。
―「素晴らしい! あなたはこれをご存じですし、これを言っていますし、とても良いことです!実は一つのとても貧しい家族がいます。今とてもお金を必要にしているのです」
―「神父さま、仕方ないですよ。今は不景気ですし、どこを見ても問題ばかり。彼らが何か良い方法を見つける事をお祈りいたします。どうしようもない。わたしはあまり役に立つことが出来ないのです。また今度話をしましょう。神父さま、ハリストス復活!」
―「実に復活! さようなら!」
ハリストスは復活しましたが、あなたはまだお金が大好きで、まだケチで、まだ難しい人ですよ。 あなたの心はまだ閉ざされていますよ。あなたはまだ復活していません。金銭欲(きんせんよく)と傲慢(ごうまん)は未だ生きています。それらは滅びていません。
同じことについてもう一人と話してみました。 彼は教会に行かず、神をあまり強く信じていないし、他の人と比べて教会との特別なつながりもありません。しかし、彼の心の中で何が起こっているかわたしには見えませんが、きっとハリストスが仰(おっしゃって)いるように、税吏(ぜいり)と罪人が他人に先立って天国に入るという意味のことが起こったのでしょう。
彼は「ハリストス復活」をわたしに言いませんでしたが、貧しい家族の話を聞いたら、すぐにわたしに500ユーロを手渡し、こう言いました。
―「神父さま、どうぞお受け取りください。そして必要にしている人にあげてください」。
わたしは彼に「ハリストス復活!」と言いましたが、彼は「神は真実です。すみませんがどのように言い返したらいいのかわかりません」と答えたのです。 ある人はもしかしたら、これは正しくないと言うかもしれません。より正しいのは「ハリストス復活」と言いながら、主神(しゅかみ)を愛し、主神(しゅかみ)において生き、自分の生活を通じて、行いによって福音の言葉を実現することである、と言うかもしれません。もちろん無神論者(むしんろんしゃ)でありながら、ハリスティアニンとして生きる人のほうが好きだという意味ではありません。無神論者(むしんろんしゃ)であるといいながら、実際にそうではない人々がいるからです。 彼らは属する霊(たましい)を持ち、活(い)ける愛を心に抱き、人を愛し、他者の痛みを感じ、泣き、心も繊細で、感動するような人々です。
ある人が自分の姉妹のことを聖パイシイに伝えた話を覚えていますか? 彼女は夜に居酒屋をうろつき回り、日中は病院で働いていたのです。その人は長老パイシイに言いました。
「姉妹をもうすぐ失うでしょう。彼女は地獄に行くに違いありません。だって変なところをうろつき回り、自分を売り、罪を犯してしまっているからです」。
長老はこう答えました。
「彼女は病院で働いていますか?」
「はい、そうです」
「病人と一緒にいるときは、謙遜をもって、優しく彼らを手伝っていますか?」
「神父さま、はい、とても優しいです。彼女はとても病人を愛しています。老人のためにベッドを片付けたり、どんなことに対しても全く反感などなく、まるで自分の両親であるかのように何でもしてあげたりしています」
「わたしの子よ、そうなら心配しないでください。神さまは彼女を絶対に助けます。この行いこそが彼女にとって救いをつかむ糸になります」
「けど、彼女はあまり教会に行かないし、彼女はわたしたちがやっていることとあまり関連がありません」
わたしたちがやっていること?
では、一体(いったい)わたしたちは何をやっていますか?
わたしたちは「ハリストス復活!」と言ってから、他人の背(中に「ハリストス復活」という言葉が書かれている、とても美しいナイフを刺します。 ブスッ(グサッ)! どうぞ! ハリストス復活! それに伴うのは、批判、嫌悪、憎しみ、悪意です。 何の変化もなく、何の変容もありません。ハリストス復活! 実に復活!
しかし、ハリストスはわたしの生活の中で復活しましたか?
あるいは、ハリストスの復活が単なる歴史上の出来事にすぎず、その言葉でただその出来事を伝えているだけですか?
わたしの小さい頃に、その人がわたしに投げ掛けた言葉をまた思い出しました。「ハリストスが復活したことに何の意味があるか、彼が復活したことによって何が変わったのか、ハリストスが己の為にのみ復活したのか?」。
イコンではハリストスがアダムとエヴァ(イブ)に手を伸ばして、彼らを墓より引き出だす様子が描かれています。 では、あなたを墓からどのように引き出だしたら良いでしょうか? あなたはどのようにハリストスの復活を授(さず)かったら良いでしょうか?  主神(しゅかみ)は実に復活しました。
主神は人々を変容させ、彼らを変化させます。神の愛が人の霊(たましい)に染み込んだら、神はその人間の霊(たましい)も体も変容させます。全てが変わっていきます。人間自身が変容(へんよう)されていきます。彼の霊(たましい)、彼の心の性質が変わっていきます。思考が平安を抱きます。人は落ち着き、スヤスヤと眠り、目を覚ましたら、生きる活力に満ちています。働き、前へと進む希望があります。それらの全てはハリストスがあなたに与えます。
ある一人の若者は、ハリストスのために全てを捧げました。 ある日聖アトス山に行った時、彼はわたしに「ちょっとお話があるのですが」と言いました。
―「え? あなたはわたしを知っているのですか?」と彼に聞きました。
―「いいえ。ですが、長老様はある日わたしに挨拶して、わたしに神(しん)を鍛えるようにおっしゃいました。だから、ちょっとお伝えしたいことがあります」。
彼がわたしの庵室(あんしつ)に来て、わたしは訊いてみました。
―「あなたはもちろん、子供の頃から教会に通い、教会のことが好きになって、修道士になったのですね?」
―「いいえ、全く違います」
「え?あなたはどんな人でしたか?」
―「わたしは放浪者(ほうろうしゃ)でした。うろつき回ったり、夜の生活を過ごしたり、罪をいっぱい犯したり、バイクで突っ走ったり、女性たちと遊んだり、いっぱい飲んだり、全てを壊したり、楽しんだり、自分の生活をむだ遣(づか)いしていました。わたし自身もそうだったし、わたしの仲間もそうでした」
―「では、もちろん、あなたのご両親はハリスティアニンですね」
―「いいえ、全く違います。両親は教会がどこにあるかさえ知らなかったのです。教会の鐘(かね)の音によって、何か起こっていることと、教会がどこか近くにあるとは分かっていましたが、教会には行かなかったのです」
―「では、何が起こりましたか?」
―「父はいつもわたしを叱って、飲みすぎて、わたしを殴り、消えろと言いました。わたしは愛を感じていなかったのです。しかし一生ずっと愛を切望し、理解、温かい気持ち、慰め、鴻恩(こうおん)(神による恵み)を切望していたのです。わたしが通っていたところにはそれを見つけ出せなかったからです。わたしは飽(あ)きるぐらいの罪を犯してしまいましたが、実際は神を探していました。しかし今までの生活において神を見つけることができませんでした」
―「では、けっきょく何が起こりましたか?」
―「何が起こったのか、自分でも分かりません。わたしはある日ただ仲間を連れて聖アトス山に行きました。それはちょっとした散歩で、ただの観光に過ぎなかったのです。しかし、そこで神の愛をめぐまれたとき、あたかも頭が煉瓦(れんが)に打たれたかのように感じたのです。わたしは衝撃(しょうげき)を受け、何かが起こったと感じ、自分の人生を変えたくなりました。こうして変わっていきました。母はその時までいつも「なんでそんなことするの? なんで夜にうろつき回っているの? なんでいつも女性を変えるの? なんで罪ばかり犯しているの?」といつも怒っていました。そこで、急に彼女に「わたしは去ります。わたしは離れます。わたしは全てを神に捧げたいのです」と言いだしました。以前は母がわたしの罪だらけの生活を恐れ、非難していたのですが、今のわたしの言葉を聞いたら、逆のことを言いだしました。わたしにまた違う女性と知り合うことを勧めたり、結婚するように、そんなに頻繁に教会に行かなくていいと言ったりするようになりました。「神(しん)に属する人になるようにずっと言っていたけれど、そこまでの者にはならなくていいよ! この女性、あるいはその女性と結婚しなさい! この女性は神父の娘みたいで、そっちは神学者の姉妹で、あっちはとても美しい!」
―「いいえ! しません!」
―「なんで?」
心を完全に奪(うば)うほどの神の愛について述べるのであれば、「なぜ?」と言うことがあり得ないからです」。神の愛に心が奪(うば)われている時、ほかの人はあなたを理解できません。人が神の美の一つの光線に過ぎないのに、人間に属する物に夢中(むちゅう)になることができ、あなたの心を奪(うば)うことができ、この一つの光線の愛のみによって気を狂わせることさえもできるのであれば、想像してみてください。この一つの光線にしたがって光の源、光そのものにたどり着いたら、その輝きすべて、美しさのすべて、愛のすべてを見たら、いったいどうなるでしょうか?  その時、あなたは必ず、全てを忘れます。あなたは感じているこの偉大さに呆然(ぼうぜん)とします。
誰もあなたを理解できないでしょう。あなたがおかしくなったと思うでしょう。周りはあなたのことについて話し、「あの人はどうしてしまったのだろう?」と自身の胸中(きょうちゅう)に問いかけるでしょう。「あなたたちがわたしのことをどう思うか、わたしは全く興味がない」とあなたは思うでしょう。
愛は愛で癒(いや)されます。愛を愛で差し替えられます。あなたは以前よりもっと強い気持ちを感じたら、あなたは全てを手放し、全ての問題が消えます。あなたは神さまの愛を切望するようになります。そして神さまはあなたに余りある愛を注ぎます。あなたは憎しみなく生き、全人を避けるようになりますが、その全人を愛するようになるでしょう。自分の心において今までに感じたことのない心情を感じます。
わたしはアテネから持ってきたお土産(ドライフルーツ、チョコ)を一人の修道士にあげたいと思った時、彼はわたしにこう言いました。
―「神父さま、わたしはそれを持っていませんが、それを必要としてはいません。わたしたちはここでこれを食べてはいません。わたしが切望しているのは神の愛と人間の真の愛です」。
聖アトス山の聖シルアンは「わたしはあなたたちにハリストスの顔をどうしても見せたい!」と言っています。これはまた違う性質の知識であり、ハリストスの顔のまた違った側面についての、議論(ぎろん)の余地(よち)のない見方であり、異なる触れ方です。わかりますか? 誰かが人を愛しているのであれば、その人に「あなたが欲しがっていることを何でもしてあげます! あなたの望みすべて、願望すべてを実現させます」と言うでしょう。あなたはその人の気持ちを理解しています。その直感をあなたに与えるのは愛です。
あなたが愛している時に、愛している人が何が好きか、何に喜ぶか理解し、彼を喜ばせます。あなたの心にはいつも日が輝き、光が輝き、希望が輝くように祈っています。そしてまた繰り返します。あなたの人生は必ずより良くなります、まだ何も終わっていませんよ! 今日、あなたは泣いているかもしれませんが、しかし明日の日はまだ来ていません。善いことが近づいていきます。前もって全てを決めつけるのはやめてください。ずっと悩みの中、愚痴(ぐち)の中で日々を過ごさないでください。ずっと受難(じゅなん)の日、聖大金曜日を常に苦しみの中で過ごすこと、その状態の中で常に残ることを望まないでください。このような偉大な痛みに耐えることが出来ないからです。この受難(じゅなん)の目的は、あなたにおいて復活への切望を起こすことです。
(掌院アンドレイ・コナノス)
ロシア語版:«ХРИСТОС ВОСКРЕС! А Я?» Архимандрит Андрей (Конанос)
https://pravoslavie.ru/93191.html

 

修道士ワルナワ・サニン
修道士ワルナワ・サニン
修道士ワルナワの作品・翻訳は、どなたでもご自由に引用できます。
ただし、引用の際には、必ず著者の名前をご記載下さい。

Монах Варнава Санин
Цитировать произведения или перевод работ монаха Варнавы Санина может каждый при указании имени автора.

■2022年4月 画家ワルワラ・ボンディナさんについて

ワルワラ・ボンディナ(1974 - 2013)。正教会の画家。
ワルワラは神と世界の美しさを賛美し⼈人々の霊(たましい)を暖かくする何百枚もの美しい絵を教会と⼈人々に贈りました。
39 歳の時に⻑年に亘るガンで永眠しました。ワルワラに天国と、永遠の輝かしい記憶をお祈り申し上げます。
絵を提供し、それらを教会のページで投稿する許可をくださったワルワラのご家族(妹のアンナ、⼦子供達のトリフォン、エフロシニヤ、ルケリヤ、パンテレイモン、ニコライ)、ミヌシンスク町の出版社社⻑⾧長エレナ・ステリマフ、学校教師オレグとエレナ・マレエフに⼤大変感謝します。
皆様が神にいつも守られますように。
あらゆる事で神に光栄!

Варвара Бондина (1974 - 2013). Православная художница, которая подарила Церкви и людям
сотни живописных работ, прославляющих Бога и красоту мира, согревающих души людей. Умерла
в 39 лет от продолжительной болезни -‐‑‒ рака. Царствие Небесное, вечная и светлая память
Варваре. Благодарим семью Варвары (сестру Анну и деточек Трифон, Евфросинья, Лукерья,
Пантелеимон, Николай), а также директора Минусинского издательства Елену Стельмах и
школьных учителей Олега и Елену Малеевых за предоставленные рисунки и разрешение
размещать их на странице храма. Пусть всегда хранит Вас Господь. Слава Богу за все!

■2022年4月 人間の体シリーズ 膝(ひざ)4

イイススの洗足(せんそく)

さて、過越祭の前のことである。イイススは、
この世から父のもとへ移るご自分の時が来たこと
を悟り、世にいる弟子たちを愛して、このうえなく
愛しぬかれた。夕食のときであった。すでに悪魔は
イスカリオテのシモンの子イウダ(ユダ)に、イイ
ススを裏切る考えを抱かせていた。イイススは、父
がすべてをご自分の手にゆだねられたこと、また、
ご自分が神のもとからきて、神のもとへ帰ろうとし
ていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着
を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰にまとわれた。それか
ら、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰に
まとった手ぬぐいでふき始められた。
 (新約聖書「イオアン(ヨハネ)福音書」13章参照)

 京都正教会 生神女福音大聖堂の聖障(イコノスタス)中央にかざられている「最後の晩餐」機密の晩餐の聖像、イコン。
主イイススをかこんで弟子たちがすわるテーブル、聖卓の下に、水をくむつぼとたらい、タオル、ちいさなイスが置かれているのを、ご存知でしょうか。
洗礼を受け、すでに聖なる水による聖洗がなされていたにもかかわらず、ひざまずいたイイススはみずからの手で、弟子の素足を水で洗い、タオルで濡れた足をぬぐいました。
そのなかにはイイススを裏切るイウダ(ユダ)がいます。
捕らわれたイイススを助けに行ったのに、イイススの目の前で、恐怖から逃げ去ったペトルもいました。
いちばん年少のイオアン(ヨハネ)以外の弟子は、逃散しました。
洗足、それは、恐怖と絶望、暗闇の中から神の光へと、一歩を踏み出すひとの足を祝福します。
ひとりひとりの弟子の前にひざまずいて洗足したイイススは、ここからすべてが始まることを知っておられ、残酷な運命に翻弄されず、つねに前を向き、あらたな一歩を、人生を歩みだせるようにと、こころから祈り、祝福したのではないでしょうか。
洗足の水は、イイススの涙だと思います。
挫折せず、くじけず、不屈のこころとからだをもって、生きよ。
死から生命へ、死から再生へ、死から復活へ。
主の洗足、弟子へのひざまずきは、恩師の愛のあらわれ、希望と勇気だったと思います。
もうすぐ復活大祭、聖堂で祈るとき、イイススのひざまずいて祈る姿、わたしたちを祝福される お姿を想起し、その悲しみと熱情に慄然とします。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2022年3月 人間の体シリーズ 膝(ひざ)3

ゲフシマニアの祈り

一同がゲフシマニヤ(ゲッセマネ)という所に
くると、イイススは弟子たちに「わたしが祈っ
ている間、ここに座っていなさい」と言われた。
そして、ペトル、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、
イイススはひどく恐れてもだえ始め、かれらに
言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここ
を離れず、目を覚ましていなさい」。すこし進ん
で行って地面にひれ伏し、できることなら、こ
の苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、
こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でも
おできになります。この杯をわたしから取りの
けてください。しかし、わたしが願うことでは
なく、み心にかなうことが行われますように」
(新約聖書「マルコ福音書」14章参照)

 最後の晩餐、機密の晩餐をあとに、オリーブ山でひとり静かに祈られる、イイススの状景がつづられています。
 弟子は数多く、すぐそばにいるのですが、イイススの孤独はつのります。
 天と地、神と人、生と死との狭間(はざま)にあって、受難と十字架を意識するイイススは、ひざまづいて祈ります。
 地にひざまずく。
 それは、地、すなわち人の生きる大地、死という地に掘られてしまった埋葬の谷を表現します。
 イイススは天からつかわされた神の子でありながら、地に生き、死の軛(くびき)を振り落とせない、人の罪深さと孤独を体験します。
死の眠りにまどろみかけている弟子を、嘆息しながら諭すイイススは、三度目に弟子のところへ戻ったとき、「もういい、時が来た」と言わざるを得ませんでした。
 死とは絶望、耐えがたい孤独、希望をいだかせることを諦めさせる失望です。
 そこから、這い上がろうとする祈りを、イイススはその生き方によって、わたしたちに伝えます。
 多くの日本の聖堂は、至聖所、むかって左奥、奉献台のまえに、ゲフシマニヤの祈りの聖像(イコン)が安置されています。
その前で祈るとき、わたしは胸の痛みと、たとえがたい復活への志望を、いつも体験しながら、聖なるパンと聖血である赤ぶどう酒を準備するのです。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2022年2月 人間の体シリーズ 膝(ひざ)2

跪拝(きはい)
ひざをついての祈り

夕べの献げ物のときになって、
かがめていた身を起こし、
裂けた衣とマントをつけたまま
ひざまずき、わが神、主に向かって
手をひろげ、祈りはじめた。
(旧約聖書「エズラ記」9:5-6)

 人気テレビドラマ「半沢直樹」シリーズ、「倍返しだ!」が有名になりましたが、もう一つ わたしが注目したものがあります。
 土下座(どげざ)です。
 土下座というと、あやまれ、謝罪しろ、と無理矢理 強要することばかりが頭をよぎります。でも本来の意味はちがう、という説があるそうです。
 日本では古来、貴人が目の前を通過する際の最高の礼として、土下座の姿勢をとったというのです。
 あなたを尊敬し、言われることを実行します、と自分の真心を表現する手段として土下座をしました。
 それが中世以降、身分制度を明確にするため、立場の上下をはっきりさせるため、土下座を活用するようになったといわれています。

 正教会における「ひざをついての祈り」は、どういう意味をもつのでしょうか。
 祈りの姿勢は、ふつう、叩拝(こうはい)、弓拝(躬拝、きゅうはい)、伏拝(ふくはい)の三つがあげられます。
 三つめの祈りの姿勢、伏拝にもすこし重複しますが、四つめの祈りの姿勢があります。
 これが、ひざを地につけての祈り、跪拝(きはい)です。
 跪拝は、特殊な祈りである同時に、ハリスティアニン(クリスチャン)にとっては、もっとも身近な祈りの姿勢のひとつです。
 ひざから下、すねや足の甲(あるいは つまさき)を地につけ、ももから上を立て、天をあおぎ祈ります。
 たとえばイイススは、一人になっての祈り、独処(どくしょ)の祈りのとき、この姿勢で祈った、といわれています。
 この祈りは、正教会の聖なる伝統となって、うけ継がれていきます。
 それをこれから、紹介しましょう。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2022年1月 人間の体シリーズ 膝(ひざ)1

ひざまずいて祈る

イイススがそこを出て、いつものようにオリーブ山に
行かれると、弟子たちも従った。いつもの場所に来ると、
イイススは弟子たちに、
「誘惑に陥らないよう祈りなさい」
と言われた。そして自分は、石の投げて届くほどの
所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。
「父よ、み心なら、この杯をわたしから取りのけて
ください。しかし、わたしの願いではなく、
み心のままに行ってください」
イイススは苦しみもだえ、ますます切に祈られた。
汗が血の滴るように地面に落ちた。
〈新約聖書「ルカ福音書」22章参照〉

 40年ほども昔、神学生であった頃、祈祷の準備のため早めに入堂したわたしは、東京復活大聖堂でひざまずいて祈っていました。そこへロシア人の老婦人が入ってきて、わたしの横に立つなり、
「聖堂でひざまずいて祈ってはいけない、立ちなさい」
こわい顔をして言いました。おどろいたわたしがすぐさま、立ち上がった記憶があります。
 その老婦人は、斎(ものいみ)の時以外は「ひざまずきはいけない」と、いく度もくり返していました。
おそらくロシアのじぶんの育った教会での慣習で、そう主張したのでしょう。
「こころのひざをかがめて祈るとき」、いつのまにか、からだのひざをかがめて祈り、こころの有りようをあらわすのは、自然のことと思います。
 ひざを地におろし、背すじをのばし、両手をのばして天にささげ、顔をあげて祈る姿勢は、ハリスティアニンの自然な祈りのすがたです。
 まさに大地に象徴される神のふところに抱かれ、神に向かい手をのばして祈るとき、ひざはいつしか地に着いているものなのでしょう。
 こころの底、からだの奥底からの祈り、神への痛切な祈り。
 それは、神への「まごころ」の献げもの、神に支えられていることを実感する祈りです。世界中でひざまずいて祈るたくさんのひとがいます。
 神のこころにふれるとき、こころのひざも、からだのひざもかがまり、でも、こころもからだは神に開放され、恩寵を抱きとめることができるでしょう。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2021年12月 クリスマスのお話 白樺(しらかば)のクリスマスツリー

クリスマスのお話 白樺(しらかば)のクリスマスツリー
СВЯТОЧНЫЙ РАССКАЗ: БЕРЕЗОВАЯ ЕЛКА

 

降誕祭の夜に起きない奇蹟(きせき)があるでしょうか! セリョジャは、ママがクリスマスのお話を読んでくれるのを聞いて、ただ驚いていました。その全ては、寂(さび)しく寂しく始まりますが、最後は喜びで泣きたくなる終わり方です。別の結末(けつまつ)のお話もありましたが、ママは眉(まゆ)を曇(くも)らせ、飛ばしていました。その判断は正しかったのです。彼らの人生に寂しさは十分ありました。
窓の外に紺青(こんじょう)の夜が下りてきました。庭はすぐ暗くなり、シラカバだけが眩しいランターンの下で白いままでした。牡丹雪(ぼたんゆき)が、むかしクリスマスツリーのある部屋を飾っていた糸つなぎの綿玉のように降っていました。

降誕祭の前に
その幸せなときを思い出しながら、セリョジャは目を細めました。白樺はたちまちクリスマスツリーになり、向かいの家のたくさんの窓は、降誕祭を祝って輝きながら、光の花冠(はなかん)になりました。パパとママは家具や絨毯(じゅうたん)で雑然(ざつぜん)とする部屋を右往左往(うおうさおう)していました。食器棚(しょっきだな)からお祝い用の食器を取り出して、その中にチーズ、サラミ、蒸(む)した肉じゃがをよそっていました…


セリョジャは空腹の唾(つば)を飲み込み、目をみはりました。クリスマスツリーは再び白樺になり、部屋は空っぽで味気(あじけ)なく、そこには絨毯も肘掛(ひじか)け椅子(いす)もお祝いの食卓(しょくたく)もなく、パパもいませんでした…ママはボロボロのソファで横になって、いかに貧しい少年が掘っ建て小屋(ほったてごや)から宮殿(きゅうでん)へ降誕祭舞踏会(ぶとうかい)に行ったか読んでいました。パパは…最後にパパを見たのは駅で、全く同じ酔っ払い(よっぱらい)の浮浪者(ふろうしゃ)に囲(かこ)まれていました。
―これで終わり! ママは最後のページをめくりながら、言いました。
「これが本でだけのことだなんて残念(ざんねん)!」セリョジャは自分にため息をついて、大声でママに尋(たず)ねました。

―どうしてこの話しがおめでたいの?
ママは考えて、微笑(ほほえ)みました。
―たぶん降誕祭のことだから。今日でものいみが終わりだって知ってるでしょう。
―私たちはあしたもものいみ!とセリョジャはぶつぶつ言いました。
―…そして、おめでたい最も楽しい一週間がやってくる!とママはぶつぶつが聞こえなかったふりをして、続けました。
―一番悲しい一週間…と再び男の子は声を歪(ゆが)めて繰り返しました。
ママはなんとか肘(ひじ)をついて座り、テーブルの上にあるイコン前のランパーダを灯しました。
―ほら、祭日がやってきた。セリョジャ、ハリストスの降誕祭おめでとう!私たちにも本当のおめでたが欲しいけど…

ママ
言い切らないまま、彼女は壁(かべ)に向かって横になりました。肩は震えていました。どうすればセリョジャはママを助けることができるのでしょう? 抱きしめて? 優しい言葉をかけて? でもそうすると、すでに一度ならずそうだったように、泣き出してしまうから。それで彼は再び自分の窓から白樺を、そして、目の涙で虹色(にじいろ)の窓を眺めるようになりました。
彼は知っていました。ママが、今日降誕祭の祈祷にたくさんの人がくる教会で寛大(かんだい)な寄付(きふ)をいただきたいと思っていたと。そしてそのお金をどのように使うかいっしょに夢想(むそう)していたことを思い出していました。しかし、ママの心臓(しんぞう)が痛み、お医者さんは入院する必要があると言いました。でも処方箋(しょほうせん)を書きながら、「薬は自分のお金で買わなければ」と注意しました。しかも、その中のもっとも安い薬は、ママが庭の掃除婦(そうじふ)として働いていた時の月給(げっきゅう)より高かったのです。そんなお金はどこで手に入るのでしょう?

お金はどこで手に入る?
セリョジャはランパーダの火に目を向けました。パパが一番貴重(きちょう)なものは全部飲み代(のみだい)に使ってしまって、家から消えてから、家具や様々な物を古物商(こぶつしょう)に渡してしまいました。蚤の市でも売れない物しか残りませんでした。ばねの鋭い歯でいつもおびえさせるソファ、傷だらけのテーブル、足の不自由な椅子のことです…
ママは両親のイコンも売りたかったのですが、あるおばあちゃんが言いました。それは「すべての苦しむ者の喜び」と呼ばれるイコンで、もしママはその前で祈れば、神と至聖(しせい)なる生神女(しょうしんじょ)マリヤがきっと助けに来ると。
もうこの世の誰も彼らを助けることができなかったので、ママはその助言に従いました。彼女は瓶(びん)をランパーダにして安い油を注いで(そのせいで火はほとんどすぐに消えていましたが)、祈り始めました。その後は教会にも行き始め、奉神礼(ほうしんれい)の前後(ぜんご)に施(ほどこ)しを求めていました。
そして、驚いたことに、もうずっと前から彼らに売るものは何もなかったし、ママは病気のせいで仕事を辞めざるを得なかったので、お金が手に入るところはどこにもなかったけど、食べ物は、もっとも古く簡素(かんそ)でしたが、家になくなることはありませんでした。今日、一番星(いちばんぼし)の後で、彼らはお祝いの晩御飯(ライ麦のパンと玉ねぎ付きのニシン)を食べました。しかし、明日は、セリョジャは凍(こご)えながら思い出しましたが、全く食べるものが何もありません。
そこで彼はママをどうしたら助けられるかわかりました! 彼女に自分で施しを求めるために出かける力がないなら、彼が行かなければ! 気づかれないように家を出るために、ママが眠るまで、あるいはランパーダが消えるまで待つ必要がありました。しかし、今回はどういうわけか火が燃え続けていました。幸い、ママはすぐすやすや寝息(ねいき)を立て始めたので、セリョジャは急いで上着(うわぎ)を羽織(はお)り、静かにドアを出ました。

外で
通りは、色とりどりの輝きと様々な声の賑(にぎ)わいで彼を迎えました。広告の光があらゆる方向からきらめき、車は車輪(しゃりん)をシューシュー鳴らしながら雪で覆われた道路を急いでいました。人々は笑ってお祭りを喜びながら歩いています。彼を追い越す者もあれば、向こう側からすれ違う人もあります。…数十人、数百人、数千人、一人として、家に病気の母がいる孤独(こどく)な少年を気に留めません。
セリョジャは歩いていて、このすべてをどこかで見聞きした、しかもごく最近という気がしていました。「あ、そうだ」彼は思い出しました。「クリスマスのお話でです」。しかし、そこでは心ない通行人たちは100年前に生きていた人たちでしたが、この人たちではなかったのです。貧しい少年は彼自身でした。一番近くの教会と別の二つの教会では夜の奉神礼がもう終わりましたが、彼にも何か途轍(とてつ)もないことが起こりうるという気持ちが離れませんでした。
彼はもはや歩きません、通りを走っていました。そして一度だけ、大きな店に通りがかると立ち止まり、ショーウインドーに鼻を押しながら、さまざまなお菓子で溢(あふ)れるカウンターと土産(みやげ)売り場の大きなテディベアを長い間見つめていました。
やっと、町の半分を走り回ってトラムで回ってから、夜の奉神礼がまだ続く教会を見ました。教会の玄関に立ち、セリョジャはこわごわ手を伸ばし、近づく人々を見ながら、不慣(ふな)れなことを自分の中から押し出しました。
―ハリストスの名によってお願いしています!


ハリストスの名によって…お願いしています!
老人が彼の掌(てのひら)に入れた最初のルブル、彼は一生忘れませんでした。それから、一人の女性が彼に10コペイカ硬貨(こうか)を二枚与えました。もう一人はクッキーを。その後、教会前の通りはまるで死んだようでした。
セリョジャは、奉神礼の始まりに遅れたので、人々が帰り始めるその終わりまで待たなければならないことを悟りました。
教会の中では大きい声で「ハリストス生まる…」が歌われていましたが、ためらいました。だって、その間に寛大な通行人(つうこうにん)が急に現れることもあるかもしれないのですから。

同じ場所に長い間立っていたせいで、足が凍え始めました。急いで手袋(てぶくろ)を家に忘れて、今や代(か)わる代(が)わる左右(さゆう)の手をポケットに入れて温めなくてはありませんでした。結局、彼は尻をついて座って、掌を下ろさずに(だって誰かが急に通ることもあるかもしれないのですから)、すぐにも眠りに落ちそうだと感じました。
近くで誰かが大声で話していたので、眠りから覚めました。セリョジャは目を開くと、羊皮(ひつじがわ)のコートを着た背の高く二枚目の、お金持ちが持つベルト付きの分厚いカバンを抱えた男性が見えました。
―祝福してくれていいよ! ―彼が電話で誰かに言いました。 ―今痛悔したばかりで、よく言われるように、心を清らかにしました。霊(たましい)からこんな重荷を下ろしたよ…じゃ、今から休みに行く!
―ハリストスのためにお願いしています! ―セリョジャは、彼が今にも帰ってしまうことを恐(おそ)れて、凍った唇をなんとか開きました。男性は話しをやめないまま、ポケットから取り出して、ぞんざいに渡しました。セリョジャは自分の目を信じられませんでしたが、降誕祭の夜になんという奇蹟があり得るのでしょう! 百ルブル札です!
―ありがとう! 彼は囁(ささや)き、感謝が爆発(ばくはつ)して戸惑(とまど)いながら説明し始めました。「結局、おかあさんが病気で…処方箋…あしたは食べるものが…なくて…」
―十分だろう。残りは神さまがくれるよ! ―男性はセリョジャを自分なりに理解して、追い払いました。

奇蹟はあります!
そして、そこで何か不可解(ふかかい)な…不思議な…驚くべきことが起こりました! 男性の顔が急に変わりました。見下げた表情はなくなり、敬虔(けいけん)な表情に取って代わりました。喜びとほとんど恐怖(きょうふ)を持って、少年の頭上(ずじょう)のどこか右上を見つめながら、慌ててカバンの留め金をはずし、呟(つぶや)きました。
―主よ、私は…主よ、もしそれはなんじのために…なんじは貧しい人の後ろにたっていると聞いたことがありますが、それはこのように…ここで…私の前に? …ちびっこよ、どうぞ!
セリョジャは、男性が彼に与えたものを見て、呆然(ぼうぜん)としました。それはドルでした…一枚、二枚、五枚、十枚…まだまだいっぱいあるその緑色の札! 
 セリョジャはそれを掴(つか)もうとしましたが、指が寒さでかじかみ、そのお金を持てませんでした。
―主よ、彼は凍えている! 君は完全に凍えている! すでにセリョジャの方に向きながら、見知らぬ男性は叫んで命じました。「さあ、すぐに私の車の中に、私が君たちを…君を君の家まで送る!」
男性は酔っていませんでした。自分の父を見て酔っ払いがどんなものかよく知っていたセリョジャには、すぐにそれがわかりました。本当にセリョジャは振り返って自分をこんなにも助けてくれるのが誰なのか見たかったのですが、その男性が突然消えてしまうことを恐れて、従順(じゅうじゅん)に男性についていきました。

降誕祭(クリスマス)のプレゼント

車中、暖かさで溶(と)けながら、少年は、最初渋々(しぶしぶ)、そしてそれから有頂天(うちょうてん)になって、質問に詳しく答え始めました。それまでママとどのように暮らしていたか、今はどうなのか。お祝いの晩御飯のことになると、男性は突然車を止めて、セリョジャをあの大きなお店に連れて行きました。さっき自分には手の届かない商品を眺めていたショーウィンドウに。
二人は限界まで詰め込んで店を出ました。男性はチーズ、サラミ、オレンジ、お菓子、そしてケーキまで入った袋をもって車に向かい、セリョジャは大きなテディベアを抱えていました。

二人がどうやってマンションにたどり着いたか、どうやってその階にあがったのか、彼は覚えていませんでした。すべては夢のようでした。正気(しょうき)を取り戻したのは、ようやく、ママが寝ていると注意されていた男性が、爪先立(つまさきだ)って部屋に入って、周りを見回し、ささやいた時でした。
―主よ、なんじはどうしてここに…彼らはどうやしてここに…じゃ! 処方箋を持ってあしたお母さんを病院に連れて行くよ。お父さんの世話もするから。君はしばらく私のおばあちゃんのところで住むことになるね。その間に、私たちはここで主さえもてなして恥ずかしくないような修理(しゅうり)をやります!
ところで、― 男性は少年の耳に屈んで言いました。―彼はよく君たちのところにいらっしゃるの?
―だれが?とセリョジャはまばたきしました。
―えーと、彼…自らが!と男性はためらって、ランパーダがその前に燃え続けるイコンに目を向けました。―イイスス・ハリストスが!
―では、これが神さまですか?―今ようやく少年にすべてがわかりました。―これ全部神さまのおかげ?!
30分後、セリョジャは男性を見送ってから、グラグラの折りたたみベッドで横になって、夢の中で何も気づいていないお母さんの寝息に聞き耳を立てていました。窓の外では、濃紺(のうこん)が急に明るくなり始め、朝になりました。向こう側のマンションの窓の光はとうに消え、もう花冠のようには見えませんでした。白樺の木も、もはやクリスマスツリーであることを望みませんでした。しかし、少年はもうそのことに寂しくありませんでした。彼は知っていたのです。来年は、とうとう、自分たちに本当のクリスマスツリーとめでたいお祝いがきっとあると。
彼に恐ろしかったのはたった一つ。それはこのベッドの中ではなく、凍った玄関で目覚めること。でもそこで、テディベアを一層(いっそう)ぎゅっと抱き締めながら、自分を安心させました。降誕祭の夜になんという奇蹟がありうることか!

修道士ワルナワ・サニン
修道士ワルナワ・サニン
修道士ワルナワの作品・翻訳は、どなたでもご自由に引用できます。
ただし、引用の際には、必ず著者の名前をご記載下さい。

ここで使われている絵はヴャチェスラフ・ポレジャエフによるものです。

Березовая елка (святочный рассказ)
Каких только чудес не случается в Рождественскую ночь! Сережа слушал, как мама читает ему святочные рассказы, и только диву давался. Все они, начинаясь грустно-грустно, заканчивались так, что даже плакать хотелось от радости. Были, правда, и рассказы с другим концом. Но мама, хмурясь, пропускала их. И правильно делала. Печального им хватало и в жизни.
За окном наступала темно-синяя ночь. Двор быстро чернел, и только береза под ярким фонарем продолжала оставаться белой. Крупными хлопьями, словно ватные шарики на нитках, которыми они когда-то украшали комнату с елкой, падал снег.

Перед Рождеством
Вспомнив то счастливое время, Сережа прищурил глаза. Береза сразу превратилась в ель, а многочисленные горящие в честь Рождества окна дома напротив стали светящимися гирляндами. Папа с мамой сновали по заставленной мягкой мебелью и увешанной коврами комнате. Они доставали из буфета праздничную посуду и накладывали в нее сыр, колбасу, дымящуюся картошку с мясом…
Сережа сглотнул голодную слюну и открыл глаза. Ель снова стала березой, а комната – пустой и унылой, где не было ни ковров с креслами, ни праздничного стола, ни папы… Мама лежала на истрепанном диване, читая про то, как бедный мальчик однажды попал из жалкой лачуги на рождественский бал во дворец. А папа… его последний раз он видел на вокзале, в окружении точно таких же спившихся бомжей.
– Ну, вот и все! – сказала мама, переворачивая последнюю страницу.
“Как жаль, что такое бывает только в книгах!” – вздохнул про себя Сережа и вслух спросил:
– А почему эти рассказы – святочные?
Мама подумала и улыбнулась:
– Наверное, потому, что они про Рождество. Ты же ведь теперь знаешь, что сегодня кончается пост.
– Он у нас и завтра будет! – буркнул Сережа.
– … и наступает самая веселая неделя, которая называется святки! – делая вид, что не слышит его, закончила мама.
– Самая грустная неделя… – снова искаженным эхом повторил мальчик. Мама с трудом приподнялась на локте и затеплила перед стоявшей на столе иконой лампаду:
– Ну, вот и праздник. С Рождеством Христовым, сынок! Я так хотела, чтобы и у нас с тобой были настоящие святки, но…

Мама
Недоговорив, она легла лицом к стене. Плечи ее вздрагивали. Чем Сережа мог помочь ей? Обнять? Сказать что-нибудь ласковое? Но тогда она заплачет навзрыд, как это уже бывало не раз. И он опять стал глядеть в окно на березовую ель и радужные из-за слез на глазах окна.
Он знал, что мама надеялась получить сегодня щедрую милостыню у храма, куда придет на Рождество много-много людей, и, помнится, даже помогал ей мечтать, как они потратят эти деньги. Но у мамы заболело сердце, и врач сказал, что ей нужно ложиться в больницу. “Только лекарства, – предупредил он, выписывая рецепт, – надо купить за свой счет”. А самое дешевое из них стоило больше, чем мама зарабатывала за месяц, когда еще работала дворником. Где им достать таких денег?

Где достать денег?
Сережа перевел глаза на огонек лампадки. После того, как папа, пропив все самое ценное, исчез из дома, они постепенно сдали в комиссионку мебель и вещи. Осталось лишь то, чего нельзя было продать даже на “блошином” рынке: этот вечно пугающий острыми зубами пружин диван, царапанный-перецарапанный стол, хромые стулья…
Мама хотела продать и родительскую икону, но какая-то бабушка сказала, что она называется “Всех Скорбящих Радость”, и если мама будет молиться перед ней, то Бог и Пресвятая Богородица непременно придут на помощь.
Никто на свете уже больше не мог помочь им, и мама послушалась совета. Она сделала из баночки лампадку и, наливая в нее дешевого масла, отчего та почти сразу же гасла, стала молиться, а потом ходить в храм, где до и после службы просила милостыню.
И, удивительное дело, продавать им давно уже было нечего, денег достать неоткуда, потому что маме из-за болезней пришлось оставить работу, но еда, пусть самая черствая и простая, в доме не переводилась. Сегодня, после первой звездочки, они даже поужинали по-праздничному – черным хлебом с селедкой под луком! А вот завтра, холодея, вспомнил Сережа, им совсем нечего будет есть.
И тут он понял, чем может помочь маме! Если она сама не в силах пойти за милостыней, то должен идти он! Нужно было только дождаться, когда мама уснет или погаснет лампадка, чтобы он мог незаметно уйти из дома. Но огонек в этот раз почему-то горел и горел. К счастью, мама вскоре задышала по-сонному ровно, и Сережа, наскоро одевшись, неслышно скользнул за дверь.

На улице
Улица встретила его разноцветным сиянием и многоголосой суетой. Со всех сторон завывающе подмигивали огни реклам. Мчались, шипя колесами, по заснеженному асфальту автомобили. Люди, смеясь и радуясь празднику, шли – одни обгоняя его, другие навстречу… Десятки, сотни, тысячи людей, и ни одному из них не было дела до одиноко идущего мальчика, у которого дома осталась больная мать.
Сережа шел, и ему казалось, что все это он уже где-то видел и слышал, причем совсем недавно. “Ах, да! – вспомнил он. – В святочных рассказах”. Только там бездушными прохожими были жившие лет сто назад, а не эти люди, а бедным мальчиком – он сам. И хотя в ближайшем храме, и в другом, и в третьем всенощная служба уже отошла, его не покидало ощущение, что с ним тоже может произойти что-то необыкновенное.
Он уже не шел – бежал по улицам. И только раз, проходя мимо большого магазина, остановился и долго, расплющив нос о витринное стекло, смотрел на ломившиеся от всяких вкусностей прилавки и на огромного плюшевого мишку в отделе подарков.
Наконец, обежав и исколесив полгорода на трамвае, он увидел церковь, в котором еще шла ночная служба. Встав на паперти, Сережа робко протянул руку и, завидев приближавшихся людей, выдавил из себя непривычное:
– Подайте, ради Христа!

Подайте… ради Христа!
Первый рубль, который вложил ему в ладошку старичок, он запомнил на всю жизнь. Потом одна женщина дала ему две десятикопеечные монетки, а другая – пряник. И все. После этого переулок перед храмом как вымер.
Сережа понял, что, опоздав к началу службы, он должен дождаться ее окончания, когда начнут выходить люди.
Зайти же в храм, где громко пели “Христос раждается…”, он боялся – вдруг за это время появится еще какой-нибудь щедрый прохожий?
От долгого стояния на одном месте стали мерзнуть ноги. Варежки он в спешке забыл дома и теперь вынужден был поочередно греть в кармане то одну, то другую руку. Наконец он присел на корточки и, не опуская ладошки – вдруг все же кто-то пройдет мимо, – почувствовал, как быстро проваливается в сон.
…Очнулся он от близкого громкого разговора. Сережа открыл глаза и увидел высокого красивого мужчину в распахнутой дубленке, с толстой сумочкой на ремешке, какие носят богатые люди.
– Можешь поздравить! – говорил он кому-то по трубке-телефону. – Только что исповедался и, как говорится, очистил сердце! Такой груз с души снял… Все, еду теперь отдыхать!
– Подайте… ради Христа! – испугавшись, что он сейчас уйдет, с трудом разлепил заледенелые губы Сережа. Мужчина, не переставая разговаривать, достал из кармана и небрежно протянул – Сережа даже глазам не поверил, но каких только чудес не бывает в Рождественскую ночь – сто рублей!
– Спасибо! – прошептал он и сбивчиво в порыве благодарности принялся объяснять: “У меня ведь мама больна … рецепт… есть нечего завтра… было…”
– Хватит с тебя. Остальное Бог подаст! – поняв его по-своему, отмахнулся мужчина.

Чудеса есть!
И тут произошло что-то непонятное… странное… удивительное! Мужчина вдруг изменился в лице. Брезгливое выражение исчезло, и на смену ему пришло благоговейное. Он с восторгом и почти с ужасом, глядя куда-то выше и правее головы мальчика, стал торопливо расстегивать сумочку, бормоча:
– Господи, да я… Господи, да если это Тебе… Я ведь только слышал, что Ты стоишь за нищими, но чтобы это было вот так… здесь… со мною?.. Держи, малыш!
Сережа посмотрел на то, что давал ему мужчина, и обомлел. Это были доллары… Одна, вторая, пятая, десятая – и сколько их там еще – зеленоватые бумажки! Он попытался ухватить их, но пальцы так задеревенели на морозе, что не смогли удержать этого богатства.
– Господи, да он же замерз! Ты ведь замерз совсем! – обращаясь уже к Сереже, воскликнул странный мужчина и приказал: “А ну, живо ко мне в машину, я отвезу вас… тебя домой!”
Мужчина не был пьян. Сережа, хорошо знавший по папе, какими бывают пьяные, сразу понял это. Он очень хотел оглянуться и посмотреть, кто это так помогает ему, но, боясь, что мужчина вдруг исчезнет, покорно пошел за ним следом.

Рождественские подарки
В машине, отмякая в тепле, он сначала нехотя, а потом, увлекаясь, стал подробно отвечать на вопросы, как они с мамой жили раньше и как живут теперь. Когда же дошел до того, каким был у них праздничный ужин, мужчина резко затормозил машину и повел Сережу в тот самый большой магазин, у витрины которого он любовался недоступными ему товарами.
Из магазина они вышли нагруженными до предела. Мужчина шел к машине с пакетами, в которых были сыр, колбаса, апельсины, конфеты и даже торт, а Сережа прижимал к груди огромного плюшевого мишку.
Как они доехали до дома, как поднялись на этаж, он не помнил. Все происходило как во все. Пришел он в себя только тогда, когда предупрежденный, что мама спит, мужчина на цыпочках пробрался в комнату, осмотрелся и прошептал:
– Господи, да как же Ты сюда… да как же они здесь… Значит, так! Рецепт я забираю с собой и завтра же отвожу твою маму в больницу. Папой тоже займусь. Ты пока поживешь у моей бабушки. А здесь мы за это время такой ремонт сделаем, что самого Господа не стыдно принимать будет! Кстати, – наклонился он к уху мальчика, – а Он часто у вас бывает?
– Кто? – заморгал Сережа.
– Ну, Сам… Он! – мужчина замялся и показал взглядом на икону, перед которой продолжала гореть лампадка. – Иисус Христос!
– Так значит, это был Он? – только теперь понял все мальчик. – И все это – благодаря Ему?!
Через полчаса Сережа, проводив мужчину, лежал на своей расшатанной раскладушке и слушал, как дышит во сне даже не подозревавшая ни о чем мама. За окном быстро наступало светло-синее утро. Окна в доме напротив давно погасли и не казались уже гирляндами. Береза тоже не хотела больше быть елью. Но ему теперь не было грустно от этого. Он знал, что в следующем году наконец-то и у них обязательно будут настоящая елка и святки.
Единственное, чего он страшился, так это проснуться не в этой постели, а на промерзшей паперти. Но тут же, сжимая покрепче плюшевого мишку, успокаивал себя: ведь каких только чудес не случается в Рождественскую ночь!
Монах Варнава (Санин)

Цитировать произведения или перевод работ монаха Варнавы Санина может каждый при указании имени автора. Здесь представлены рисунки Вячеслава Полежаева.

■2021年12月 子供たちの詩:祈り、罪、痛悔

子供たちの詩:祈り、罪、痛悔
ДЕТСКИЕ СТИХИ: МОЛИТВА, ГРЕХ, ИСПОВЕДЬ


絵:ワルワラ・ボンディナ (1974-2013)
Рисунок: Варвара Бондина (1974-2013)

 

***
ハリストスの降誕祭
あるいは最もよい贈り物

カレンダーから
1月6日を破ったら、
その下に一枚
『ハリストスの降誕祭』!

何をしたら?どうしよう?
始まった悩み
神様の誕生日に
何を贈ろう?
本? 鉛筆(えんぴつ)? お菓子?
もしかして、この箱はどうかな?
くまさん? かたな?
それともぼくの大好きな鉄砲(てっぽう)?

鉛筆はだめだ
神様に何か贈れるかな?
神様が持ってない物あるかな?
神様にお菓子?まさか!

切符のアルバムをめくってみたけど、
これも贈れないよ!
箱に投げ戻したのはかたな
ぼくの大好きな鉄砲…

一日中大騒ぎ
もうほとんど夢の中のよう
涙ぐむまでのささやき
ハリストス、誕生日おめでとう!

РОЖДЕСТВО ХРИСТОВО 
или 
ЛУЧШИЙ ПОДАРОК

Я сорвал с календаря
Лист шестого января.
А под ним два слова:
<Рождество Христово>!
Что же делать? Как же быть?
Начались мученья:
Что мне Богу подарить
В день Его рожденья?
Книгу? Карандаш? Конфету?
Может быть, коробку эту?..
Мишку? Саблю? Или пушку —
Мою лучшую игрушку?
Отложил я карандаш:
Разве Богу что-то дашь?
Ну, чего у Бога нету?
И зачем Ему — конфету?!
Полистал альбом для марок —
Это тоже не подарок!
Бросил в ящик саблю, пушку —
Мою лучшую игрушку…
Целый день прошел в возне.
И уже почти во сне
Я шепнул до самых слез.
— С днем рождения, Христос.

***
痛悔

わたし今夜あまりすることが
なかったのかな?
夜わたし家族全員に
つらくあたってしまった!

お父さんにも、お母さんにも、お婆(ばあ)ちゃんにも、
遊んでいた時弟にも、
「せっせっせ」を
しながら小さな妹にも

おばさんにも、おじさんにも、お爺(じい)ちゃんにも
友達にも。あーあ!
私、地獄(じごく)に行きたいの?いえいえ!
天国を選ぶさ!

その晩イコンの前に
すぐ立った。
叩拝(こうはい)しながらこの罪について
神さまに話した。

晩ご飯でわたしのささやき
「悪いのはわたし」…
いいえ、あの地獄は私たちに
全くいらない!

そこでは、わたしは聞いたけど、
悪の炎が皆を飲み込んでいると。
罪人がそこで
痛い痛い痛い目にあうと!

神様と一緒(いっしょ)なら
無礼(ぶれい)と嫉妬(しっと)の出る幕はないわ。
これからはひどい目にあわないよう、
良い子になるよ。

すると、明日から
わたしをうろたえさせても、
みんなが新しい私に
出会えるよ!

ИСПОВЕДЬ

Делать, что ли, нечего
В этот вечер мне?
Нагрубил я вечером
Всей своей родне!
Папе, маме, бабушке,
Братику в игре,
И, играя в ладушки,
Маленькой сестре!
Тете, дяде, дедушке,
Другу — ай-ай-ай!
В ад хочу я? Нетушки!
Выбираю рай!
Я перед иконами
В тот же вечер встал,
И про грех с поклонами
Богу рассказал.
Прошептал за ужином
Всем, что виноват…
Нет, совсем не нужен нам
Этот самый ад!
Там, я слышал, поедом
Всех огонь ест злой.
Грешников такое там
Ждет, что ой-ой-ой!
Грубости и зависти
Места с Богом нет.
Буду так себя вести,
Чтоб не ведать бед.
Значит, вы увидите
С завтрашнего дня,
Даже коль обидите,
Нового меня!

***
ハリストスが釘打たれた十字架

主、私の神よ、
十字架からでさえ
あなたは私を抱き締めるため
自分の腕(うで)を開いている!

聖なる十字架で
静かに立って、
ハリストスの苦しみを
音もなく眺(なが)めて、

十字架の裾(すそ)に接吻(せっぷん)しながら、
泣いている
そして…ハリストスに
抱かれている!

РАСПЯТЬЕ

Господи, Боже мой,
Даже с Распятья
Ты мне Свои
Раскрываешь объятья!
Тихо стою
У святого Креста,
Молча смотрю
На мученья Христа,
Плачу, целуя
Подножье Распятья
И… попадаю
В Христовы объятья!

***
偶像(ぐうぞう)

周りには偶像がこんなにたくさん
家々は偶像で氾濫(はんらん)!
テレビ、ほら、
全世界を誘惑(ゆうわく)した偶像だ

電話は多くの人の偶像
ビデオカセットも、
映画俳優(えいが はいゆう)の写真もそう、
美味しいお菓子も、
好きすぎると、
偶像になるよ

玄関から家を精査(せいさ)しよう
私たちに神様より大切なものは、
全ては数え切れないが、
それは偶像なのだ!

ИДОЛЫ

Сколько идолов кругом —
Ими полон каждый дом!
Телевизор — вот кумир,
Соблазнивший целый мир.
Идол многих — телефон,
Видеомагнитофон,
Кинозвезд фотопортреты…
Даже вкусные конфеты,
Если слишком их любить,
Могут идолами быть!
Оглядите дом с порога:
Все, что нам дороже Бога,
А всего не перечесть, —
Это идолы и есть!

***
教訓(きょうくん)

当たり前のことだけど、
私が誰かをうろたえさせたら、
誰も見てなくても、
その悪が私に返ってくる
同じ言葉、同じ痛み、
様々な厄介(やっかい)…

では、なぜこのような教訓から
なかなか学ばないのか?

УРОК
Если я кого обидел,
Так уж получается —
Даже пусть никто не видел,
Зло мне возвращается:
Тем же словом, той же болью,
Неприятностью любою…
Почему ж такой урок
Не идет никак мне впрок?..

***
不寛容(ふかんよう)

もし心がまだ
他人の罪を赦(ゆる)す用意がないなら、
神さまは私の全ての罪を、しかもいつまでも
どのように赦すのか?

НЕПРОЩЕНЬЕ

Если сердце не готово
За грешок простить другого,
Как мне Бог простит тогда
Все грехи и навсегда?

***
中傷(ちゅうしょう)

中傷は危険な敵
「バカ!」とか
「耳が遠い!」とか
単なる「悪い」とか言えば

冗談でも
誰かをあざ笑うなら、
その瞬間からあなたは
中傷の友となると覚えてね

どうして頭を下げたの?
このような人は単なる中傷者!
ところですぐさま、全く同じに
あなたに言う。「バカ!」とか
「耳が遠い!」とか
ましな場合は「悪い…」

その中傷との出会いは
偶然ではない
中傷はブーメランのように
中傷として返ってきて私たちを打ち倒すから!

КЛЕВЕТА
Клевета — опасный враг.
Если скажешь: <Он — дурак!>
Или: <Он, как пень глухой!>
Или просто: <Он плохой…>
Если высмеешь кого-то
Даже в виде анекдота,
Знай, что ты с минуты той
Подружился с клеветой.
И зовут таких — что сник?
Очень просто: клеветник!
Вскоре, кстати, точно так
Скажут о тебе: <Дурак!>
Или: <Он, как пень глухой!>
В лучшем случае: <Плохой…>
Встреча будет неспроста
С клеветою тою:
Бумерангом клевета
Бьет нас клеветою!
***
恩知らず

誰がいつも私たちに全てを与えるのか?
もちろん、神さま!
だが、災い!
この真実を忘れて、
私はケーキ、ゲーム、お菓子のために
神さま以外のみんなには
感謝がうまい…
とんでもない!

НЕБЛАГОДАРНОСТЬ

Кто дает нам все всегда?
Бог, конечно!
Но беда —
Истину забывши эту,
Я за торт, игру, конфету
Всех благодарить мастак,
Кроме Бога…
Как же так?!

***
ものいみの日
(水曜日と金曜日)
どこにいても、私がハリストスに誠実であるか、
この二日が検査(けんさ)している。
一週間という顔の二つの目のようにこの二日は
言葉ではなく、行いで私がどのような人か見ている。

ПОСТНЫЕ ДНИ
(среда и пятница)

Где бы я ни был — эти два дня
На верность Христу проверяют меня.
Будто два глаза на лике недели
Смотрят: каков я не в слове, а в деле!
***
悔い改め

舌をどんなに見張っても、舌はいつも
ウソをつく用意ができている!
私は今日、学校でも、お父さんにも、
お母さんにも、友人コーリャにもウソをついてしまった。
少しずつ、あっちこっちでウソをついて、
丸ごとウソつきになった。
だが、自分を責めながら、言う
「主よ、おゆるしください!」

ПОКАЯНИЕ
Как язык ни сторожи —
Он всегда готов ко лжи!
Я солгал сегодня в школе,
Папе, маме, другу Коле.
По чуть-чуть, то там, то здесь
Ложь сказав, залгался весь.
Но скажу, себя виня:
<Господи, прости меня!>

***
告げ口さん

あれあれ、世の中のみんなについて
こう言ったり、ささやいたのは誰?
「マリンカはお菓子ばっか!
セルゲイは言った。『ばか!』
からかう弟!
いたずらな妹!」
このような告げ口さんは
恥じることなく悪いことまるごと広め、
自分のことさえ
「私は厄介者(やっかいもの)!」だと
私たちに知らせ、教えている

ЯБЕДА

Это ж кто про всех на свете
Говорит и шепчет так:
— А Маринка вся в конфете!
А Сергей сказал: <Дурак!>
А братишка дразнится!
А сестра — проказница!
Это ябеда разносит
Все плохое без стыда.
Даже на себя доносит,
Говорит нам:
Я — беда!

***

「舌は敵!」だって
でもどうして?
もし中傷、嘘、
おしゃべり、口ごたえ、
言い合い、批判、けんかをやめて、
祈って、仲直りすれば、
すぐでも、急でもないけど
舌は敵ではなく、友だちだよ!

ЯЗЫК

Говорят: язык мой — враг!
Ну, зачем его мы так?
Если прекратить злословить,
Лгать, перечить, многословить,
Спорить, осуждать, ругаться,
А молиться, примиряться, —
Пусть не сразу, пусть не вдруг,
Будет он не враг, а — друг!

***
イコン

神さまの力でいっぱい
どんな家にもある
神さまのことをあまり忘れない
どんな家にも置いてある
知っといてね!祈りとものいみと共に
イコンの全てが描かれている
聖なる光の神さまも、
生神女マリヤも、
私たちにはイコンでしか見えない
それほど清らかなもの、
それが天使、
そして神の聖人も!
ほら、勝利の冠を被っている
聖人は矛で竜を刺している…
これは絵でもなく、写真でもない
これは聖像で、イコン!

ИКОНА
Божьей силою полна,
В каждом доме есть она,
В каждом доме, где про Бога
Люди помнят хоть немного.
Знай: с молитвой и постом
Все на ней выводится:
Бог, в сиянии святом,
Или Богородица,
Или Ангелов чины,
Что нам только здесь видны,
Так они чисты, и —
Божий святые!
Вот — копьем в венце побед
Бьет святой дракона…
Не картина, не портрет
Это, а — икона!

***
手作りのイコン

去年のカレンダーは喜びをいっぱい
私に贈っている
だって「変容祭(へんようさい)」
という祭日がそこで描かれている!

カレンダーと厚紙、のりをとった。
厚紙の四角に
その絵を上に貼り付けた。
どうなった?イコンになった!

拝むのは私だけど、
でも大好きなイコンよ!

ИКОНА САМОДЕЛЬНАЯ

Много радости мне дарит
Прошлогодний календарик —
Ведь на нем изображенье
Праздника <Преображенье>!
Взял его, бумагу, клей я
И картинкой вверх приклеил
На квадратик из картона.
Получилось что? Икона!
Пусть лишь мною чтимая,
Но зато — любимая!

***
最初の祈り

今日は何のお祝い?
平日にお祝いのケーキだい!
私は祈りを覚えた
神さまが自ら私を手伝ってくれた!

わたしは今日初めて
大好きなお姉ちゃんを真似(まね)して
私たちのために繰り返し祈ったよ
「主、あわれめよ」!

お日さまが窓にキラキラ
お姉ちゃんはママにまっしぐら
ママが私たちに作ってくれたケーキ
今は私たちが食べる時

でも今は昼ご飯前
私はテーブルに慌(あわ)てない
お姉ちゃんとママにならい
大人みたいに祈るから!

ПЕРВАЯ МОЛИТВА

Что за праздник здесь случился?
В будни — праздничный пирог!
Я — молиться научился:
В этом мне Сам Бог помог!
Я сегодня первый раз
За сестренкой милой
Повторил, молясь за нас:
<Господи, помилуй!>
Солнце брызнуло по окнам!
К маме бросилась сестра.
Мама испекла пирог нам,
И его нам есть пора.
Но теперь перед обедом
Я за стол не тороплюсь.
За сестрой и мамой следом.
Словно взрослый — помолюсь!

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贈り物に祈りを

この詩を一人のおばあちゃんが
私の耳にささやいた。
この詩をくれたのは修道女(しゅうどうじょ)、
覚えるのは難しくないよ

「主、私の慰め主
主、私の救い主
私を地獄から救って
私と一緒に常にいて!」

私はすぐにこの詩を暗記したよ!
あんまり言葉がやさしくて
一回目で覚えたよ…
あなたは何回目?

МОЛИТВА В ПОДАРОК

Этот стих одна старушка
Прошептала мне на ушко.
Ей его дала монашка,
И учить его не тяжко:
<Господь — моя отрада,
Господь — Спаситель мой,
Избавь меня от ада
И будь всегда со мной!>
Я его запомнил сразу —
То есть с первого же разу,
Так его слова просты…
А с какого раза ты?

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仲良しのお祈り

呼び鈴が鳴った
電報だ!
パパは悲しく、ママは涙
お兄ちゃんはため息
大変だ!
マーシャおばあちゃんが病気…

私はすぐベッドから降りて、
- 一緒にお祈りをしよう!
- そうそう! そうしよう!
ロウソクをつけ、
夜中まで一晩中
私たちは一斉(いっせい)に神さまに祈った
これがマーシャおばあちゃんに必要!

すぐまた呼び鈴(りん)が鳴った
すると悲しみが喜びになった!
一緒に電報を見
良い知らせに私たちの喜び
私たちの仲良しのお祈りで
マーシャおばあちゃんは治った!

パパも嬉(うれ)しい、ママも嬉しい
お兄ちゃんのささやき
- いつもこうでなきゃ
もし誰かが病気になったら、
すぐにお祈りをしなくちゃ!

ДРУЖНАЯ МОЛИТВА

В дверь звонок:
— Вам телеграмма!
Грустен папа, плачет мама.
Брат вздыхает:
— Плохо дело —
Баба Маша заболела…
Я скорей встаю с кровати:
— Так помолимся давайте!
— Верно!
Зажигаем свечи,
И до ночи целый вечер
Богу молимся мы дружно —
Это бабе Маше нужно!
Вновь звонок раздался вскоре
И сменила радость горе!
Телеграмму смотрим вместе,
Радуемся доброй вести.
Исцелилась баба Маша
По молитве дружной нашей!
Папа рад, И мама рада.
Шепчет брат:
— Всегда так надо:
Если болен кто из нас,
То молиться сей же час!

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子守り歌

ねんねんころりよ
主はあなたと一緒、私の子よ、
ふるさとの青い川のよう
夢がただよう

夜明けまで
通りも家も眠りに落ちる
お菓子も夢見ながら、
ぐっすり眠っている

ねんねんころりよ
子猫たち三匹は母猫の夢
そしてでっぷり大猫は
スズメの夢

ねんねんころりよ
トンボもカタツムリも
柵(さく)も正門も寝ている
庭は小屋で寝ている

教会のそばの木は寝ている
パパも横になっている
そして、あなたの大好きなママも
眠たい…

ねんねんころりよ
扉を閉めて
一人にしない
信じて

守護天使(しゅごてんし)があなたに
天の住まいについて
天使の歌を歌うよ…
ねんねんころりよ

КОЛЫБЕЛЬНАЯ

Спи, малыш, Господь с тобою,
Баюшки-баю!
Сон рекою голубою
Лег в родном краю.
Засыпают до рассвета
Улицы, дома.
Сладко-сладко спит конфета,
Снясь себе сама!
Снится трем котятам кошка.
Баюшки-баю!
И увесистая крошка
Снится воробью!
Спят стрекозы и улитки.
Баю-баю-бай!
Спят заборы и калитки,
Спит в саду сарай.
Спят деревья возле храма,
Папа лег в кровать.
И твоя родная мама
Тоже хочет спать…
Спи спокойно, баю-баю,
Закрывая дверь,
Я тебя не оставляю
Одного, поверь.
Будет Ангел твой хранитель
Песню петь свою
Про небесную Обитель…
Баюшки-баю!

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秋の子守り歌

松の木の緑の手で
秋は一冬のため
寝る準備をしていた・・・

ねんねんころりよ
おころりよ

雨風(あめかぜ)や吹雪(ふぶき)は
暖かい雪で
寝床(ねどこ)の彼女を覆(おお)う

ねんねんころりよ
おころりよ

冬が終わると、緑の春に
眠りを知らない泉が道に
流れていく

ねんねんころりよ
おころりよ

それから主が夏を与え、
優しいお日さまの光で
全ての地が暖まる

ねんねんころりよ
おころりよ

ОСЕННЯЯ КОЛЫБЕЛЬНАЯ

На зелёных лапах сосен
Спать укладывалась осень
На всю зиму…
Баю-бай,
Поскорее засыпай!
Будут вьюги и метели
Укрывать её в постели
Теплым снегом…
Баю-бай,
Поскорее засыпай!
За зимой — весной зелёной
Побежит ручей бессонный
По дорогам…
Баю-бай,
Поскорее засыпай.
А потом Господь даст лето,
Будет вся земля согрета
Добрым солнцем…
Баю-бай,
За-сы-пай…

 

修道士ワルナワ・サニン
修道士ワルナワ・サニン 『子供達の詩集より』
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Монах Варнава Санин, из сборника детских стихов. Цитировать произведения или перевод работ монаха Варнавы Санина может каждый при указании имени автора.