■2019年10月 人間の体シリーズ 鼻─匂いと香り

イサクは、イアコフ(ヤコブ)の着物の匂いをかいで、

祝福して言った。

「ああ、わたしの子の香りは、主が祝福された野の香りのようだ。

どうか、神が、天の露と地の産み出す豊かなもの、穀物とぶどう酒を、

お前に与えてくださるように」(創世記27:27-28)

劇作家でキリスト教徒でもある矢代静一氏の戯曲『道化と愛は平行線』で、登場人物が次のような内容を語ります。

貧乏って何?

それは匂いだと。

体臭と言っても良いのかもしれません。

わたしたちの周りは、匂い、香りに満ちています。良い匂いもあれば、鼻の曲がるようなひどい匂いもあります。

それは教会、聖書の世界も同じです。

アダムとエバ(イブ)の誘惑された果実は、見た目に美しく、色鮮やかで、さらに美味しそうな甘い香りを漂わせていました。

父イサクは、息子イアコフ・イスラエルにだまされます。弟イアコフは兄エサウに与えられるべき父の祝福を奪います。目の見えなくなっていた父イアコフは、毛皮を身につけた弟イアコフを抱いて匂いで確認し言います。
「ああ、わたしの子の香りは主が祝福された野の香りのようだ」

旧約聖書の『雅歌』は、神と人、神と教会・信仰者との交わりを詩で詠います。その詩は色とりどりの花や美味しい果物の香りに満ちています。

19世紀ロシアの文豪ドストエフスキーの小説『カラマーゾフの兄弟』では、ゾシマ長老が永眠します。すると人々は何か奇蹟が起こるはずだと神秘現象を期待して待ちます。生存しながらにして、聖人になるだろうと期待されている人に対して、信徒は奇蹟を期待します。

ところが、ゾシマ長老の遺体は、奇蹟どころか、「くさい匂い」腐臭を放ち始めたのです。人々はおどろきあわてます。死体が腐ることはあたりまえのことです。だからたいてい、いま遺体の納まった柩にはドライアイスを入れます。ゾシマ長老は聖人になるはずの人、みんなそう信じていました。その人の遺体が匂う、くさい。

理想を求める信仰者はときどき誤った幻想を持ちます。幻想的な期待と、教会の言う信仰者の「希望」とは本質が違います。ある意味その差は紙一重です。

匂い、香りもそうです。自然の野山の花の香りと、芳香剤・入浴剤・洗剤などに入っている人工的な匂いは全く異なります。

化学合成された人工的な香りではなく、野の草花の咲き乱れ、小鳥や蝶の飛び交う野原の香りが、神の国を象徴しています。

教会の、いえ信仰者の求める匂い、香りの原点は、エデンの園、神の国です。 それはイサクがイアコフ・イスラエルに語った「野の香り」であり、イイススの埋葬の場面にも象徴されています。 
十字架にかけられて永眠したイイススが葬られた新しい墓の周囲は草木、花々の甘い香り、女弟子がイイススにぬった香油の香りに満ちていました。

十字架から下ろされて、新たな墓へ葬る道すじでは、ご遺体が通るにつれて白い百合の花が真紅のきれいな赤い百合の花に変わり、甘い芳香に満ちたと言います。聖堂もそうです。聖堂は、かのエデンの園、わたしたちがいつか行くであろう天国、神の国を表しています。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2019年9月 人間の体シリーズ 目(眼)Ⅳ「目覚める 儆醒せよ」

なんじら儆醒(けいせい)せよ、

信に立て、勇め、堅固なれ。

およそのこと愛をもって行え。

(Ⅰコリント16・13)

この儆(けい)には、相手の人に出会った時、はっと緊張して向かい合う、という意味があるそうです。この文字から派生して警察官の警、警戒するの警が生まれ、一方では尊敬・敬愛の敬が生まれます。醒は覚める、冷静さを取り戻すという意味です。覚醒という言葉はよく使われています。

儆は警察官の「警」の字で書く、警醒と書くこともあります。

「山は登り切らねばならない」という言葉があります。

ある人が特別な使命を帯びて隣りの国へ向かうとき、急坂な山道、峠道をあるき登り行きます。ところが人を押し戻そうとする、前に向かって歩けなくなるような強風が吹いたり、時には雨や雹(ひょう)が混じり、目も開けていられない。初めての道なので不安が増していきます。

いっそ戻ろうか、引き返そうかと思い、決意が鈍り、逡巡します。

たとえ頂上まで行っても、逆風はなくならない。ますます風雨が烈しくなり、崖が崩れたりして遭難するかも知れない、他日を期したい、そう思ってしまうことがあります。

でも信仰生活とはそういうものかも知れません。
「山は登り切らねばならない」、けだし至言なり。

どんなに時間がかかろうが、悪路であろうが、登りきった人にしか見えない地平、水平線があります。

想像や空想では語ることのできない世界が広がっていて、そこは登りきった者にしか見えない、真実の世界です。

こわいことに、間違って登った人には間違った山の頂上、世界があります。

これも事実です。

登りきった場所、広い道や門を選択したら、待っているのが悪魔だったということもあるかもしれません。

そうです。つねに正しい神の道があります。

もしかしたら同伴してくれる友がいるかもしれません。
「鉄は鉄をもって研磨する。人はその友によって研磨される」(箴言27・17)

その友は信の伴侶、ほんとうの親友、あるいは神そのものです。
途中の難所で、分かれ道、岐路で、そして山や峠の頂上で、神が待っています。

神の道を、神の山を登り切らねばならず、正しい信仰の山道を登り切った者のみが俯瞰(ふかん)できる、美しい雲海や暁光、陽の出もあることでしょう。

神の国の扉の開く、陶然とする、まばゆい光が満ちています。

そうです。あなた、わたしは、希望の光、復活の門をくぐります。

箴言はこう述べています(15・24)。
「目覚めている人には上への道があり、下の陰府(よみ)への道を避けさせる」

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2019年8月 人間の体シリーズ 目(眼) ⅠⅠI「目覚める」

もどってご覧になると、弟子たちは眠っていたので

ペトルに言われた。「シモン、眠っているのか。

わずか一時でも目を覚ましていられないのか。

誘惑に陥らぬよう、目を覚ましていなさい。

心は燃えても、肉体は弱い」

(マルコ14:32〜)

目覚めるというと、ふつうの日本人は、眠った後に起きること、睡眠後の目覚めを言います。

ところが聖書、信仰者の世界は違います。異なります。

時として、正教会における「目覚める」とは、夜ひと晩中眠らないこと、徹夜で起きていることを意味します。

これは徹夜の労働、昼夜兼行の仕事、あるいは外敵の不意打ちに遭わないための警戒・注意を意味しており、ここからさらに、信仰生活へのいろいろな意味合いが加わります。

すなわち、信仰者の目的を達成するための正しい努力、無気力や怠惰に打ち勝つこともそうです。

かつて愛知県、知多半島で活躍したペトル望月富之助伝教者は「覚醒」という会報を発行し、信仰者に呼びかけました。

警醒せよ、覚醒せよ、と。

聖書にはこう書かれています。
「わたしに聴き従う者、日々、わたしの扉をうかがい、戸口を見守る者は、いかに幸いなことか。わたしを見出す者は生命を見出し、主を喜び迎えて(その生命を)いただくことができる」(箴言8・34〜35)

信仰者が訪れる神の扉へのノックを待つ姿は、ぼうっと寝たままではいけません。眠らずに目覚めていることが必要です。

これが正教会における徹夜の祈り、徹夜祷、不眠の祈りにも通じる精神性です。

イイススはマトフェイ(マタイ)福音書25章「10人の処女(乙女)のたとえ」で語ります。救い主が訪れ、扉を叩いたとき、5人の乙女は準備完了しており、神様を待たせることなく、花婿と共に神の国・婚宴会場へ入り、のこり5人の乙女は何の準備もしておらず、慌てて準備を始めたが間に合わなかったというたとえです。イイススはこう語ります。
「だから目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」

この信仰は太古の昔から一貫していて、福音の掉尾を飾る「イオアン(ヨハネ)黙示録」にも貫かれています。
「わたしは愛する者をみな、叱ったり、鍛えたりする。だから熱心に努めよ、悔い改めよ。見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聴いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と食事を共にするであろう。彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(3・19〜20)

さらに強調します。
「来てください、これを聴く者も言うがよい。来てください。渇いている者は来るがよい、命の水が欲しい者は、価なしに飲む通い」
「すべてを証しする方が言われる、然り、わたしはすぐに来る、アミン、主よ来てください」(22章参照)

目覚めて待つ人に、救いが訪れます。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2019年7月 人間の体シリーズ 額(ひたい)と聖なる刻印

純金の花模様の額当てを作り、その上に印章を彫るように

「主の聖なる者」と彫りなさい。次に、この額当ての両端

に青いねじりひもを付け、ターバンに当てて結び、ターバ

ンの正面にくるようにする。これがアロンの額にあれば、

アロンは、イスラエルの人々がささげる献げ物に関して生

じた罪を負うことになる。また、彼がそれを常に額に帯び

ていれば、かれらは主の御前に受け入れられる。

(出エジプト28:36−38)

約40年ほどの昔「おでこの神父様」で、話が通じてしまう方がおられました。すでに永眠されている大阪のプロクル牛丸康夫神父様。

名前を忘れてしまっても、おでこに手をやるだけで、「ああ牛丸神父さん」、わかってしまうのでした。

ところで、十字を画くというと、ふつうは、額・胸・右肩・左肩です。

ところが初代教会、1〜4世紀頃の一部のハリスティアニン(クリスチャン)は、いまとは異なる十字の画き方をしていたといわれています。

右手の親指で額に十字、あるいは二本指や三本指で額に十字、それがいまのような十字の画き方へと変遷し、伝統になっていったといわれています。

ではなぜ、額であったのか。これをまずは手に入りやすい新約聖書に源を求めてみましょう。

イオアン(ヨハネ)黙示録は、たびたび聖なる刻印について語っています(14・1)。
「見よ、小羊がシオンの山に立っており、小羊と共に、14万4千人の者たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とが記されていた」

その聖なる名とは何か?
「十字」 

十字架の徴(しるし)ではないでしょうか。

復活のしるしです。

ではなぜ、額なのか。

歴史を遡って旧約聖書をひもといてみましょう。

出エジプト記28章。

神は、祭司長アロンをはじめとする、祈りを司り執り行う祭司の衣装について述べています。
「純金の花模様の額当てを作り、その上に印章を彫るように〝主の聖なる者〟と彫りなさい」

金属の薄い板に
「主の聖なる者」

と刻印をし、額に当てたのです。

つまりその金属板の両側に青いねじったヒモを通し、それをターバンに結び付けました。

バンダナとか鉢巻きというよりも、頭に巻き付ける布の帽子、ターバンの正面、額に「主の聖なる者」という文字が記されていました。

これが昔のイオアン黙示録の額の刻印、あるいは初代のハリスティアニン(クリスチャン)の額の十字につながっていると考えられます。

額を起点にして十字を画く慣習は、そうすると、数千年も歴史をたどってゆき、出エジプトの祭司の姿にまで遡るわけです。
額は神の知恵の宿る、神の手が刻印をする場所です。

十字は、主の聖なる者である証明、復活の徴です。

すなわち額は、神の恵みの発出する場所、信仰者が聖神(せいしん)の親しみを受けとめる、大切な刻印の聖地なのです。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2019年6月 人間の体シリーズ 目(眼) ⅠⅠ

イイスス彼(フォマ、トマス)に言う、

「なんじは われを見しによりて信ぜり。

見ずして信ずる者は福(さいわい)なり」

(イオアン福音20:29)

第四の目は「神の目」です。

神の目を持った聖人、特に皆さんに紹介しなければならない聖人がいます。 京都生神女福音大聖堂にヒントがあります。
ここは主教座のおかれた大聖堂。

主教様がいらっしゃるとき、この聖堂の主教座には、オルレツという鷲を刺繍した絨毯が敷かれます。

鷲は、この聖障(イコノスタス)の中央の一番上、万軍の救世主、全能の神の聖像の中にも画かれています。

ご存知のように鷲は、猛禽類の王者、何百メートルの天空から、地上の小さなネズミさえ発見します。

神の目とは、たとえば鷲の目のように、あらゆる森羅万象を精密に網羅し、俯瞰(ふかん)し、透徹する目です。

神の目は、場所・時間・空間などに拘束されません。

神の目はこの世の時空間にすでに訪れている神の時間、神の空間をはっきりと明らかに見せ体験させてくれます。

キリスト教会の歴史のなかの、最初の偉大なる神学者イオアン(ヨハネ)の象徴が、鷲です。

12人の聖使徒の中で、唯一、神の目をもつにいたったイオアンは、だから神秘的な啓示を受けて「黙示録」を書くことができました。

正教会は「知恵の浄き光を輝かし」と祈ります。

これは神の叡智です。神の叡智に満てられし人が神の目をさします。

イオアンは、あの最後の晩餐「機密の晩餐」のとき、神の胸に抱かれ、神の鼓動をきいた聖使徒でもあります。

神の胸、神の腹の奥底から「見つめている人」です。

それが神学者であり、祈りの人、なのです。

イオアンは神の胸の奥底、神の腹のただ中を体験します。

神のただ中、真ん中にあったものは何か。

たとえば愛があります。

イオアンは「愛の使徒」と呼ばれます。そして人間のだれもが「愛」に生きることができます。すなわちだれもが神の目を持つことができます。

神の目を持つ者は、恐怖を克服し、愛に絶望せず、愛することを畏れず、神と人とを愛しつづけます。

心の目、霊の目が祈りによって磨かれて、神の目に到達します。

神に、そして人に愛され、愛し合う者にだけ見えてくるものがあります。

神の目は、信じ、希望をもちつづけ、愛する信仰者が、獲得することのできる、信仰の目、ハリストスの目でもあるのです。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2019年5月 人間の体シリーズ 目(眼)Ⅰ

爾(なんじ)ら、目ありて視ざるか(マルコ福音8:18)

わが見るを得んことを(同10:51)

正教会 オーソドックス・チャーチの信仰において、「目(眼)」は特別な意味を持っています。

目を、4つに分類してみます。

第一に、人の目。わたしたちの肉眼です。

第二は、心の目です。心眼と言います。

これは、一流の技術者・職人・運動選手・芸術家あるいはわたしたちの中でも、心と体の修練を積んだ達人・名人が達する「境地」です。

信仰者の第一段階はこの心の目を持つことです。

正教会では「爾に平安」、「衆人に平安」と祈りますが、真に平安の者のみが心の目を獲得します。

さて第三の目は、霊(たましい)の目です。

この霊の目とはいかなるものでしょうか?

霊の目を得る糸口は聖堂にたくさんあります。それはいったい何でしょうか。 聖像(イコン)です。聖像の目です。すばらしいイコンは、平穏で清楚、人に安らぎを与え、心を育てる祈りの聖なる門です。イコンの目を見ましょう。 すばらしいイコンの目は、神の国を見つめています。

この世と神の国をつなぐ目です。人と社会を見ているようでありながら神と天使、生神女マリアと諸聖人を見つめます。そして、この聖像を見ながら祈る人を聖なる場所、天にいます神の宝座へと連れていきます。
イコンの恵む霊の目は、神の目へと人を成長させます。

そうです。もっとも大切で重要な目が「神の目」です。

霊の目を自らのものとした信仰者は、神の目を認識し、自覚し、神の目を体験します。創世記1章はこう語ります。
「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の聖神(せいしん、霊)が水の面を動いていた」

天地創造の光景を見た者はだれか。

創造された宇宙、光る星、暗黒の星、生命を宿している地球のような星を、俯瞰(ふかん)しておられるのはだれでしょうか。

神です。

神の目が天地創造の光景を、まるで人が見たかのように描写しているのです。

ハリストス(キリスト)神の子が人となったとき、藉身(せきしん)されたとき、人は霊の目から成長して神の目を獲得できるようになったのです。

教会では神の目を意識させるために、たとえば戈(ほこ)、星架に目を刻むことがあります。多目のヘルウィムは、全身これ目でありまして、神の目を体現します。

第四の目は「神の目」なのです。

(つづく)

[イコン「人の手にて画かれざる救主」自印聖像 15世紀 ロシア]

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2019年4月 復活! 天の梯子(はしご)

復活! 天の梯子(はしご)

すべて自ら高くする者、高ぶる者は低くされ、

自らへりくだる、謙遜な者は高くされる。

(ルカ福音書14;11,18:14)

ハリストス復活!

列祖イアコフ(ヤコブ)は、夢のうちに「天使が上り下りする梯子」を見ました。実におどろくべき体験です(創世記28:12)。
ある聖師父はこう語っています。

梯子の片方の柱は人の道、もう一つの柱は神の道を表わす。

柱の一つは、人の力・欲望・野心・人としてのエネルギーを、

もう一つの柱は、神の霊的な導き、神の力・神のエネルギーを表わす、と。

信仰者(オーソドックスのクリスチャン・ハリスティアニン)は、その二つの柱を両輪として、天に向かって架けられた梯子段、踏み板を上り下りしながら生きているとは言えないでしょうか。

さらにこうも言えます。

アダムとエバ(イブ)は、人としての意思、人のエネルギーを悪用し、神の梯子を腐食させ、瓦解させてしまったのだ、と。

人が高慢と強欲によって高く上ることは、天の高み、神の国、救世主のいる所へ上ること、ほんとうの意味での救いをもたらしません。

高慢と強欲を原動力、エネルギーにして天への梯子を登ることは、まやかし、虚構、幻想に過ぎません。人の悪欲が煮えたぎる時、神の梯子を燃やす劫火(ごうか)となって、階段ばかりでなく、人そのものを燃やし尽くしてしまうからです。

先の見えない人生という暗闇の梯子、階段を渡っていく時、神がわたしたちにあたえる一垂(いっすい)の灯火が、ほのかに、あなたの足もと、伸ばす指の先を照らすでしょう。この神の灯火を希望といいます。

そうです。わたしたちは、神を信じ、神の導きのもと、信仰の梯子を、謙遜と忍耐によって、一段一段、低く下るべきなのです。

イイススはこう語ります。
「すべて自ら高くする者、高ぶる者は低くされ、自らへりくだる、謙遜な者は高くされる」(ルカ14;11,18:14)

下っているのに、高く上っている。この神秘はなんでしょう。

天高く上がりたければ、神のエネルギーをたくわえ、力を充満させ、ますます低く身がまえて、神の時を待たねばなりません。

謙遜、柔和、友情、優しさ、思いやり、親しみの献げ物のうちに、信仰者は、地へと下ります。一見、墜ちていくようですが、神が高く携え挙げてくださいます。

信仰者は、地を這うような地道な祈りの日々を過ごしますが、神により天高く舞い神の国をめざす天使の翼があたえられます。

実は二本の梯子の柱、手すりの間に、もう一本の道があるのです。

その信仰の架け橋、梯子段、踏み板を創るのは、わたしたちひとり一人です。

すばらしい光り輝く天への梯子は、驕りのない、静かで穏やかな、わたしたちひとり一人の信仰生活の中に築かれてゆきます。

信仰者の謙遜な生活になかに、まやかしやごまかしではない、ほんものの人の生き方、天へ上ること、復活があります。
実に復活!

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2019年3月 人間の体シリーズ1 「頭 髪の毛」

正教会 オーソドックスの聖職者は、髪の毛やヒゲ(髭)を伸ばします。
「髪は女の命」、日本の女性は、大昔から髪の毛をとても大切にしていました。 髪の毛、頭には神秘的な力が宿る、正教会、オーソドックスがオリエンタル、東洋的な信仰であることがよくわかります。

髪の毛やヒゲは、神の力の象徴でもあります。

生命の神秘、神の創造の業(わざ)、天然自然の不思議さを髪の毛は顕わします。

画像のイコン 左:初代京都の主教聖アンドロニク、右:日本の亜使徒聖ニコライ大主教、ふたりともみごとなヒゲをたくわえています。

ある聖人は言いました。
「ふさふさの髪の毛、もわもわのヒゲには、神の力が宿っている」と。

旧約聖書「士師記」の怪力無双の義人サムソンのようにです。

では白髪はどうか。

ソロモンは「知恵の書」で語っています(4:9)。
「人の思慮深さこそ白髪であり、汚れのない生涯こそ長寿である」

これは良い言葉です。白髪は思慮深さを象徴しています。

知恵者ベン・シラは語っています(6:18)。
「子よ、若いときから教訓を受け入れよ。
白髪になるまでに、知恵を見出すように」 

ちなみにこの知恵の書には、怖ろしい意味の言葉も隠されています(4:16)。
「若死にした者の死は、神に逆らう老人の長命を裁く」

歳をとり始めたわたしには、非常に怖い言葉です。

それではわたしのように、頭のてっぺんが薄くなり、まあるくきれいにハゲ始めた人間を昔の信仰者は何と言ったでしょうか。
「神様が近づいた」「天国が近づいた」

じつは昔の信仰者は、頭の髪の毛を作物に、頭を畑・耕作地になぞらえています。頭に種を蒔き、知恵を育て、豊かな人間性を養おうとしているとき、若さゆえの黒いもさもさの髪の毛やヒゲばかりでなく、高齢にいたっての白髪や頭髪の薄くなっていくことさえも、神様からの恵み、萬稔豊作、実りを象徴すると感じたのです。髪の毛は信仰者の「栄冠」でもありました。

わたしは思います。

頭の状態だけでなく、人間そのものも豊かに成長し、神様に褒められたいと。

その上で、
「神様が近づいた」「天国が近づいた」

と言われたいものです。

何と言っても救世主イイススの宣教の第一声は、 
「悔い改めよ、神の国(天国)は近づけり」

なのですから。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2019年2月 待つ Ⅰ 「神様が遣わされる だれかを待つ」

「わたしよりも優れた方が、後から来られる。

わたしは、かがんでその方の履き物のヒモを解く値打ちもない。

わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、

その方は聖神(せいしん、聖霊)で洗礼をお授けになる」

(マルコ福音書1章参照)

預言者、前駆 授洗イオアン(ヨハネ)はこう語ります。


聖像:エウゲニア白石孝子先生のイコン

わたしたち人間は、だれかを待ちます。

東京:渋谷駅の忠犬ハチ公は最愛のご主人の帰りを待ちましたが、わたしたちは、何を、だれを、待つのでしょう。

ほとんどの日本人は、「何を」ではなく、「だれ」に固執して判断する。その結果、たいへんな被害を受けたとしても……と言ったひとがいます。

どんなに社会に、あるいは自分に良い結果をもたらす提案でも、その内容よりも、「だれ」がそれを提案し実行するのかに力点を置くというのです。

それは、その人がどんなに過去の過ちを後悔して、深く悔い改め、みんなのためになることをやろうとしても、「ああ、あいつがやるのか。信用できない」という先入観・結論が、最初にあるということでしょう。

おそらくこれは、日本ばかりでなく、世界中の人々の傾向だと感じます。

逆に言うと、大がかりなネズミ講のような詐欺商法や、電話一本のオレオレ詐欺などに、人がコロリとだまされてしまうのは、生きる目的である「何を」よりも「だれ」に固執し過ぎているからだとは言えないでしょうか。

木を見て森を見ない、山すその丘やこんもり茂る林を観て、頂上を含む山全体を観ない人が多すぎるからなのでしょう。

ほんものの詐欺師は、格好良く、甘い言葉で人を誘う、なんだか立派な人物に見える「だれ」かなのです。

こう考えることもできます。

やはり人は「だれ」かを、「待ちたい」のです。

わたしたちが「だれ」に固執して生きているのは、あたりまえの正直な人生真理だとはいえないでしょうか。

たとえばイイスス・ハリストス(イエス・キリスト)は、生きる目的「何を」と、「だれ」がなすべきかを、密接不可分に結びつけ成し遂げた、究極の人物「救い主」であるということが言えます。

イイススが約2千年の昔に人の子として降誕されたのは、人が、人の形をした、人格を持った救い主、神が人となられた真実の人を待っていたからです。 「だれ」かを待っている、人の願いを、神は、かなえられたのです。

人は、標識の看板やノボリ旗に明示されているような人生標語ではなく、語りかける温もりに満ちた「生きている言葉」「より添う体」「さし伸べられる腕」「やわらかな手のひら」、わたしたちを抱き締める優しい指の感触に安心します。

苦難に渦中にあって義人ヨブはこう語っています。
「わたしはなお待たなければならないのか。……
絶望している者にこそ、友は忠実であるべきだ」(ヨブ記6:11-14)

まさに神は絶望している者の友。

もはやあなたを待たせることはありません。

イイススは、神とは、そういう安心できるお方なのです。

わたしたちが待っている救いの神は、もうここにいます。

もう救ってくださるであろう「だれ」かを待たなくてもいいのです。

イイススはここにおられます。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2019年1月 信仰の水源〈II〉

「この水を飲む者はだれでもまた渇く。

しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。

わたしが与える水はその人の内で泉となり、

永遠の命に至る水が湧き出る」

(イオアン(ヨハネ)4章参照)

新たな「水の壁」 帰還の奇蹟

わたしたちは常に自分個人が救われたいと思います。キリスト教は家の宗教ではなく、個人的信仰だから洗礼を受け入信したと言う人もいます。

そうでしょうか。

人の生、信、心、精神、信仰は、自分のものであって、じつは個人の秘匿物ではありません。

わたし、あなたが水を満たす壺(つぼ)だとすると、神の恵み「水」を生涯かけて充たしていけば溢れていきます。溢れる恵みは多くの人を潤し、分かち合う人の生活・人生を豊かにします。

ヨルダン川の奇蹟は、信仰の先輩らの体験のたんなる追憶の体験ではなく、「神の時、神の恵みの共有」です。神の時という水に充たされた時、わたしたちは、苦難と試練に立ち向かいます。

神は生きておられる、あなたは一人孤独ではない、その真実が信仰者を感動させ、甦らせます。

紅海の水の壁が旅立ちの奇蹟だとすると、ヨルダン川の水の壁は帰還の奇蹟だともいえます。

安息の地への帰還

パニヒダでわたしたちは痛切に祈ります。
「誘いの嵐にて浪の立ち上がる世の海を見て、なんじの穏やかなる港に着きて呼ぶ。憐れみ深き主や、わが生命を滅びより救いたまえ」

紅海の荒れ狂う海を眺めて救いを求めた人に、神は通過可能な海の門、水の通路を恵みました。
「生命の原因たるハリストス神は、生命を施す手をもって、死せし者を暗き谷より出だして、復活を人類に賜えり」

ヨルダン川の水の壁を間近に見て歩いた人は、新たなる生命の港に着いて歓喜するのです。

信仰の水源を探し求め、分かち合う

聖書や祈祷文などばかりでなく、信仰生活の中にあって、わたしたちは信仰の水源を探ります。
ニッサの聖グリゴリーはこう語っています。
「霊魂は自分と同類でより神的なものを見上げて、存在するものの始源を探求し求めることを止めないだろう。存在するものの美しさの源泉は何なのか。その力はどこから溢れ出るのか。存在するもののうちに現れた知恵を溢れ出させるものは何か。その知恵はあらゆる思考を発動させ、また諸観念を探求する全能力を動かして、探求の対象を把握させるべく働く」
「丁度湖水と一緒に地中から湧き昇ってくる空気が湖の底のあたりに留まらずに、泡になって同類のもの(大気)を目指して上方に吹き上がっていくことを考えてみよう。それが頂点の水面を通り越して大気に混じったところで、その上方の運動は止むことになるが、神的なことを探究する霊魂もそれと同様なことを身に受けるのである」

(大森正樹他訳『雅歌講話』新世社)

生きるのは、たいへんです。楽しみもありますが、つらいことも多いでしょう。

でも共に手を携え、両手を差し伸べ、神の拓かれる水の壁を通っていくことができます。

そのとき水の壁は、希望の光とあなたの心を奮い立てる勇気の源泉となるでしょう。

水の壁に戦慄し、たじろいではいけません。

わたしたちに洗礼の水の恵みを伝えた前駆授洗者イオアン(ヨハネ)はこう告げています。
「主の道を整え備えよ、その道筋を真っ直ぐにせよ」、と。

この進路の先に信仰の水源が待っています。

信仰の水源の継承 次世代への水路

信仰の水源は清く保たれ、次の代へと受け継がれます。信の水路は整備され、さらにたくさんの世界・人々を温かく癒し、心身を満たします。

教会は今も昔も信仰の水源の保護者です。

これからさらに数多くの水源を整備し、救いを求める人を招き続けるでしょう。

わたしたちは、信の水路の保護者、水先案内人として、また生命の泉を秘めた信仰者として、心して生活いたしましょう。

(長司祭 パウェル 及川 信)