■2021年4月 神の光栄のための勤め 一章


修道士ワルナワ(サニン)
ロシアの作家、詩人、劇作家。ロシア作家同盟会員。1954年7月10日生まれ。ロシア人。専門は軍事ジャーナリスト。
2009年10月10日、ゲッセマネの奇蹟者聖ワルナワにあやかってワルナワの聖名で修道士としての剪髪式(せんぱつしき)を受けました。
200以上の本や小冊子の著者。著書には、「親子のための小さなたとえ話」、親子のための小説、太古時代や古代ルーシについての歴史小説、多数の詩集などがあります。その作品は多くの言語に訳されています。「小さなたとえ話」のテキストに基づいて幾つかのアニメが上映されました。「たましい大姫」というおとぎ話はロシアの多くの町で劇として上演されました。

МОНАХ ВАРНАВА (САНИН)
Российский писатель, поэт, драматург. Член Союза писателей России.
Родился 10 июля 1954 года. Русский. По профессии — военный журналист.
10 октября 2009 года принял монашеский постриг в малую схиму с именем Варнава, в честь преподобного старца Варнавы Гефсиманского Чудотворца.
Автор более 200 книг и брошюр, в том числе Маленьких притч для детей и взрослых, ряда рассказов для детей и взрослых, исторических повестей и романов о временах античности и Древней Руси, многих поэтических сборников и т.д. Произведения писателя переводятся на многие языки. По текстам Маленьких притч поставлено несколько мультипликационных фильмов. Сказка Душа-Царевна была поставлена как спектакль во многих городах России.

神の光栄のため、救いのための勤め
ТРУД ВО СЛАВУ БОЖИЮ, ВО СПАСЕНИЕ

***
神の光栄のために
地上の人生を生き抜くということが、
「どう生きるべきか」と問う者全てに
最善の答え!

Земную жизнь -
Во славу Божию прожить -
Лучший ответ на все вопросы -
Как нам жить!

***
神よ、
なんじ、天にいます父を
我らが世々に崇めほめんことを
与えたまえ!

Дай, Бог, нам славить
Без конца
Тебя,
Небесного Отца!

***
ある者は主への勤勉によって崇めほめ…
ある者はかつての罪の道から離れることで…
ある者は言葉により、聖なる畏敬の念に震え…
そして、ある者は生涯神を崇めほめる!

Кто славит Господа трудом…
Кто прежний путь греха оставит…
Кто словом, в трепете святом…
А кто - всей жизнью Бога славит!

***
「苦労せず救われるには?」への
回答
「救いに向かうには
楽な道はない!」と

Как без труда спастись?
Ответ:
Легких путей -
К спасенью нет!

***
救いへの道は
平坦ではない
かんたんには
切り抜けられない…

Труден
Ко спасенью путь:
Не осилишь
Как-нибудь…

***
救われるための全ては
私たちに与えられており
残るは
努力のみ!

Нам всё дано,
Чтобы спасаться.
Осталось -
Только лишь стараться!

***
諸人に救いのために
全てが与えられており
努力しなければならないのに
しかし…

Всем для спасенья -
Всё дано!
И надо бы спасаться -
Но…

***
救いのための
不可欠を
獲るのは、ああ、
なんと困難なことか!

О, как непросто
Достается -
Что для спасения
Дается!

***
苦行者は
神(しん)に属する苦行で
成果を獲るには全て
耐えなければ

Подвижник должен
Всё перетерпеть,
Чтоб в подвиге духовном -
Преуспеть!

***
光線たちは
自らを惜しまない
その務めは燃え尽くす光り
くすぶりではない!

Лучинкам не дано себя
Жалеть:
Их долг гореть, сгорая,
А - не тлеть!

***
苦行者は難行を成就して
また初心
次の難行へ
決心!

Подвижник подвиг совершил,
И снова -
Его душа
На подвиги готова!

***
神(しん)に属する
勤めのみ
与える
永遠への実!

Только духовные
Труды
Дают для Вечности
Плоды!

***
神(しん)に属する高みに
魅了されていた
しかし、罪深い怠惰に
足を引っ張られていた

Манила высота
Духовная!
Да вниз тянула -
Лень греховная…

***
大多数は
永遠の救いを獲たい!
でも、高みへと励む人は
ごく少ない…

Навечно многие хотят
Спастись!
Да только мало -
Кто стремится в Высь…

***
救いへの道
ああ、いつも辛い
しかし、踏破した者は
決して後悔しない

Путь ко спасению
Увы, тяжелым был всегда…
Но кто прошел его, -
Не пожалеет никогда!

修道士ワルナワ・サニン 『新しい光線たちの詩集より』
修道士ワルナワの作品・翻訳は、どなたでもご自由に引用できます。
ただし、引用の際には、必ず著者の名前をご記載下さい。

Монах Варнава Санин, из сборника Новые лучинки. Цитировать произведения или перевод работ монаха Варнавы Санина может каждый при указании имени автора.

■2021年4月 人間の体シリーズ 指(ゆび)2 像名祝福(ぞうめいしゅくふく)

天使ガヴリイル(ガブリエル)は、ナザレという
ガリラヤの町に神から遣わされた。ダヴィド家の
イオシフ(ヨセフ)という人のいいなずけである
おとめのところに遣わされたのである。
そのおとめの名はマリアといった。
天使は、彼女のところに来て言った。
「おめでとう、恵まれた方、
主があなたと共におられる」
(新約聖書「ルカ福音書」1:26〜)

 正教会では信徒が神父様から「祝福」をうけます。
 神父様は主教品から祝福をうけます。
 日常のあいさつでの祝福にはじまり、受験合格と新入学、進学、進級、就職、旅行の前後、新築・転居などに伴うの家屋の成聖、新造船や工場などの成聖、婚約や結婚、出産など、いろいろな慶事も祝福されます。
 「なんじに平安」と神父様が祝福すると、信徒は「なんじの神(しん)にも」と答えます。目のまえの空間に手によって十字が画かれ、うける側の信徒は、胸のまえに両手を十字に組み、その祝福をからだ全体でうけとめます。
 会衆に対しては「衆人に平安」と祝福します。
 これは古い祝福のあいさつ、「シャローム」、「あなたに平安がありますように」が原点です。
 生神女福音、天使(神使)ガヴリイルによるマリアへの祝福は、じつはごくふつうのあいさつ、祝福だったのですが、マリアは神の真意をはかりかねます。
 像名祝福、ぞうめいしゅくふく、ぞうみょうしゅくふく、あるいは、しょうみょうしゅくふく、とも言います。
 指文字による祝福です。右手の、親指と薬指を「X」字形に、ひとさし指を「I」、中指を「C」に、小指を「C」に見たてます。
 右手は「IC XC」すなわち「イイスス ハリストス」、イエス・キリストの名を象るわけです。 
 神の祝福は信徒個々人へも、よき音信・嘉音「おとずれ」として恵まれます。
 右手の親指・ひとさし指・中指をひとまとめにし、薬指と小指をまるめます。
 これを額(おでこの中央)、胸(みぞおちのあたり)、右肩、左肩へと十字形に画きます。
 これも像名祝福です。
 天使の祝福を正教会はこう記録します。
「恩寵(おんちょう)蒙(こうむ)れる者、慶べよ、主は、なんじとともにす」
 わたしたちは神の祝福に満たされ、つねにこう祈りましょう。
 互いを祝福し、神に讃美と感謝を祈りましょう。
「慶び楽しめよ、主は なんじとともにす」
「恵み深き主よ、神は われらとともにす」

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2021年3月 人間の体シリーズ 指(ゆび)1 指輪

父親は息子を見つけて、憐れに思い、
走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。
「お父さん、わたしは天に対しても、
またお父さんに対しても罪を犯しました。
もう息子と呼ばれる資格はありません」
しかし父親は僕たちに言った。
「急いでいちばん良い服を持ってきて、
この子に着せ、手に指輪をはめてやり、
足に履物をはかせなさい。それから
肥えた子牛を連れてきて屠りなさい。
食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに
生き返り、いなくなっていたのに見つかった」
そして祝宴をはじめた。
(新約聖書「ルカ福音書」15:11〜)

 指輪、なにを思い浮かべるでしょうか。
 すぐに連想されるのは、婚約指輪、結婚指輪あるいはファッションリングでしょうか。
 少し前には、トールキンの「指輪物語」が映画化され、「ホビットの冒険」「ロード・オブ・ザ・リング」が公開されています。
 指輪は、たんなるアクセサリー、装飾品ではなく、はめる指輪の種類とか価値に応じて、立場や権威、影響力などを誇示するものとなります。
 たとえば王侯貴族は、紋章つきの指輪をはめ、公式文書や親書の封印に、指輪の刻印を押し封印しました。
ときには一族の継承を表すため、遺産の代表格として、指輪が尊重されました。
正教会では、〝信仰の指輪〟が強調されます。
 たとえば正教会の「聘定式(婚約式)」は、四つの証(あかし)を祈ります。

  1. エジプトの宰相イオシフ(ヨセフ)がファラオから
    贈られた権威の象徴として指輪(創世記41:42)

  2. 預言者ダニイルを救われる神を畏れたダレイオス王の
    信頼を刻印する指輪(ダニイル6:17〜)

  3. タマルがユダとの約束を貫徹するための
    約定としての指輪(創世記38:18)

  4. 放蕩息子が父親の哀憐を身をもって体験する
    親愛の指輪(ルカ15章)

指輪は、エンゲージリングとして神の永遠をあらわしますが、その根底にあるのは、神の憐れみ、愛です。
 思わず駆けより、助け救ってしまう、神の憐憫の指輪が、放蕩息子へ恵まれた指輪なのではありませんか。
 信仰の指輪とは、社会的儀礼、おざなりにほどこされる形式的指輪ではありません。
 滅びかけている人間性を回復させ、神と人、人と人とが、神の愛にみちびかれ連帯と絆を取り戻す、象徴としての指輪です。
 神の愛のリング、神の恩寵にもとづく信頼と希望の指輪がここにあります。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2021年2月 人間の体シリーズ 手 3

わたしは言っておく。
悪人に手向かってはならない。
だれかがあなたの右の頬を打つなら、
左の頬をも向けなさい。
(新約聖書「マトフェイ(マタイ)福音書」5:39)

あなたの頬を打つ者には、
もう一方の頬をも向けなさい。
(新約聖書「ルカ福音書」6:29)

 この福音を読み、いつも思います。
 人を暴力的に殴ったり、打つ手があるのだ、と。
 ときには言葉の暴力もあります。
 うわさ話、陰口ばかりでなく、最近ではパソコン、スマホの普及などによりインターネット通信を利用した、悪意ある中傷、根拠のない誹謗(ひぼう)などが広がっています。
 自らには何の汚点、加害のないにもかかわらず、一方的に打たれ炎上させられつづけるのは、すごくつらく、悲しいものです。
 たとえば一人の人間が、左手でひとを打ち、右手でひとを祝福しているとしたら、どうなのでしょう。
 面従腹背の背信者、ひとりの人間の矛盾は、けっきょく人を、自分を滅ぼす源になります。格言には、こうあります。
 二心(ふたごころ)ある者の言葉は蜂蜜、その行動は槍である。
 神と悪魔とに、同時に仕えることはできない。
 神父がたびたび、両手を天にさし上げて祈る姿勢には、神を呼び求めるこころが満ちています。
 悪を求めるのではなく、神を求めます。
 二心なく、神ひとりを求めます。
 そのため、両手を天にさし上げて祈ります。
 正教会には、人への祝福をする手の甲に接吻するという慣習があります。
 主教品や神父(司祭)が祝福する右の手を、信徒は両手のひらを重ね、恭(うやうや)しく、優しく接吻するのです。
 かたほうの手で人を祝福し、もうかたほうの手で、人を殴ったり打ったりする、そういうことを信仰者はしません。
 神のこころを受けとめ、その愛の温もりを感じ、両手で包みこみます。
 祝福をうける手があり、さらに別に人へ祝福を恵み伝える手があります。
 愛を創造し育てる手があり、信と希望を伝える手があります。
 正教会の聖堂、祈りでは、神父がこう祈って手をかかげ、十字を画きながら祝福します。
「衆人に平安」
 わたしたちは聖神(せいしん)の恩寵(おんちょう)を両手いっぱい受けとめるため、こころよりの笑顔、豊かな気持ちで応えましょう。
 そのとき、天使がふたつの翼をたたむがごとく、わたしたちは胸の前で両手を組み、頭(こうべ)を垂れ、祝福を受けとめましょう。 
「なんじの神(しん)にも」と。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2021年1月 人間の体シリーズ 手 2

われ古(いにしえ)の日を想い、
およそなんじの行いしことを考え、
なんじが手の工作(わざ)を計る。
わが手を伸べてなんじに向かい、
わが霊(たましい)は渇ける地の
ごとく、なんじを慕う。
(旧約聖書「聖詠」142:5-6、「詩編」143:5-6)

ハリストス生まる! 

 按手(あんしゅ)という言葉があります。
 正教会では右手をのせて、人を祝福することを意味します。
 手をのせるところは、たいてい頭、額(こうべ)であることが多いようです。
 さて19世紀フランスの作家、ジョルジュ・サンドの小説「愛の妖精」(邦訳名)を読んだのは、小学校5年生の時でした。
 主人公の女性が病気などで衰えた人のかたわたで、その人の癒やしを祈ります。
 そのとき手を病人のうえにのせ、心をこめて癒やしを祈るのです。
 恋愛小説の微妙な機微に感動しながらも、ちょうどそのころ母を病気で喪ったばかりであったので、こういう人が母のそばにおれば、母が癒やされ、治ったのかもしれないと、思いました。
 自分がそういう存在ではないことが、とても悲しく残念でした。
 (聖像「腰の曲がった婦人をいやす救主イイスス」)

 正教会の「聖傅(せいふ)」礼儀には、こういう祝文があります。

ああ主や、天よりなんじが医療の力を降して
なんじの僕婢の体にふれ、熱を消し、苦しみ
をとどめ、およそ潜むところの衰弱を駆り、
その医師として、彼を病の床(とこ)より、
悩みの褥(しとね)より起こし、彼を健(すこやか)にし、
彼を全うして、なんじを喜ばせ、なんじの旨を
行う者として教会に与えたまえ。

 「病は気から」という言葉がありますが、「気」とは単なる気分、気持ちではなく、そのひとの人生、生き方を支える勇気と希望、不屈の精神の有りようを表す言葉ではないでしょうか。
 勝てない病気があるのかもしれません。
 でも神のあたえたもうた人生そのものが消失しているわけではありません。
 たいへんな苦しみや痛みがあるかもしれません。
 でも生きる勇気と希望をくじけさせてはいません。
 あきらめかけているかもしれません。
 しかし神が支えておられるかぎり、わたしたちは不屈です。
 神が手をのせるとき、わたしたちは生き返り、生き直すことができます。
 神の手から救いの光が放たれ、わたしたちは手の光に導かれ、温められ、穏やかな光に満たされて神の国へと向かうのです。

 崇め讃めよ!

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2020年12月 人間の体シリーズ 手 1

ご覧ください。わたしたちはいま
あなたの手の中にあります。
あなたが良いと見なし、正しいと
見なされることをなさってください。
(旧約聖書「ヨシュア記」9:25)

 孤掌(こしょう)鳴らしがたし、という言葉があります。
かた手だけでは、手拍子を打つことができない、という意味ですが、転じて、独りでは何もできないことを表す格言となりました。
神がさし伸べてくださる手は、孤掌、かた手でしょうか。
両手なのではないでしょうか。
両手で温かく抱きしめてくださるのではないでしょうか。
神がさし伸べてくださる手は、握手ではないでしょうか。
それも、人と人とをつなぐ時、その間に立ち、天秤のように、左右両手で人をつなぐ神の手なのではないでしょうか。
どんな時、どんな境遇にあっても、さし伸べた手を、神が人から手放すことはありません。離さない手、結んだ手が、神の手ではないでしょうか。
「幸せなら手をたたこう」(きむら りひと作詞)は、こう歌います。
幸せなら 態度で しめそうよ
ほら みんなで 手をつなごう
神が手をさし伸べてくださったので、わたしたちはゆるされます。
神が手をさし伸べてくださっているので、わたしたちは人として生きています。
神がその手をさし伸べてくださっているいま、わたしたちは希望と勇気をもち、不屈のこころに満たされ、救われます。
独り、孤独なのではなく、人と共に、神と共にいます。
神の手のぬくもりは、信仰者をいつも幸福にします。
わたしたちが見つめる手、わたしたちの手は、神の掌中にあるのです。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2020年11月 人間の体シリーズ 右腕(みぎうで)

ハリストスや、なんじは神なるにより、
体にて墓にあり、霊にて地獄にあり、
右盗(うとう)とともに天堂にあり、
父と聖神とともに宝座にあり、
限りなき者として一切を満てたまえり。
(「聖体礼儀」奉献礼儀の炉儀祝文)

 正教会(オーソドックス・チャーチ)は「右」の教会です。右と言っても政治思想の左右ではありません。
 右に意味をこめ、右の能力、神の全能の力を、地上にあるどのキリスト教会よりも強調する教会です。
 受難・十字架の時、主イイススの右側の盗賊は悔い改めて赦され、救い主と共に神の国へ上がりました。
 「聖なる右盗(うとう)」と正教会は讃栄します。

 わたしたちは結婚指輪を右手にはめ、右手で十字架を画きます。
 たとえば聖人の不朽体、聖なる腕(うで)をしばしば安置、公開しますが、そのほとんどが「右腕(うわん)」であるといわれています。
 日本でも昔、右大臣、左大臣があり(右大臣の地位が上)、仕事を共に進める上でも「わたしの右腕」と言って、信のおける能力ある者を称揚します。
 正教会の右には、4つの大きな意味があります。

1 右は神の権能
  神の不思議で神秘的な力、全知全能の神を象徴します。

2 右は救いを象徴
  聖像(イコン)では、つねに右手での祝福が画かれています。
  聖書は言います。
  「いまわれ主がその膏つけられし者を救うを知れり。彼は聖天よりその右
  の手の力をもってこれにこたう」(聖詠19:7 正教会訳)
  「いま、わたしは知った、主は油注がれた方に勝利を授け、聖なる天から
  彼に答えて、右の御手による救いの力を示されることを」(詩編20:7)

3 右の座
  全能の救世主、人を救う神の座する場所が「右の座」です。
  イスラエルの12部族の一つ、ベニアミンには「右手の子」という意味が
  あるそうです。神の右に座する者は、神の救いに近いのです。ですからマ
  トフェイ(マタイ)福音書25章の「羊と山羊のたとえ」では、善人は右
  側に集められ、右の座に座することを祝福されたのです。

4 右は神に寵愛される場所
  旧約聖書の「雅歌」はこう詠っています(8章参照)。
  「あの人が左の腕をわたしの頭の下に伸べ、右の腕でわたしを抱いてくだ
  さればよいのに」
  「わたしを刻みつけてください。あなたの心に、印章として、あなたの腕
  に、印章として」
  印章とする「あなたの腕」は、もちろん右腕です。

 神に愛されている人は、神の懐に抱かれていると正教会ではいいます。生きている者も永眠した人も同じです。
 神の右の座とは神の懐です。いわば神の心臓の一部として愛されます。
 神の右に座する者は最愛の人です。神にも人にも最高の、もっとも深い愛をもって神の右うでに抱き締められています。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2020年10月 人間の体シリーズ 肩(かた)

生神女や、なんじによりて神の先祖となりし預言者
ダヴィドは、なんじに大いなることをなせし者に、
なんじの事を歌い呼べり、女王はなんじの右に立て
りと。けだし父なくなんじより甘んじて人の性をと
りし神ハリストス、大いにしてゆたかなる憐れみを
たもつの主は、なんじが母にして生命の仲保者たるを
現して、欲に朽ちたる己の像(かたち)を改め、山
の中に迷いし羊を獲て、肩に置き、父の前に携え、
己の旨によりて、これを天軍に合せて、世界を救い
たまえり。(「晩課」生神女讃詞、4調)

 肩には、ふつう3つの意味があります。

 一つめ、肩はその人の社会での立場を表します。
 肩身が狭い、肩身が広いなど、不思議な言い回しですが、肩の姿勢によってその人の社会における立場、現況、周囲の評価をも表現します。

 二つめ、その人の心理状態、内面を表します。
 落胆し、がっかりしているときには、肩をせばめ、肩をすぼめ、肩を落とします。逆に高揚し、いばっていられるときには、肩をそびやかし、肩をいからします。肩はその人の精神状態、こころを適切に表します。

三つめ、人とのつき合い、人間関係を表現します。
 仕事づき合いでは、肩を入れる「肩入れする」、肩を貸す、肩を持つ、片棒を担ぐといいます。一方、さびしくてたまらないとき、友達の欲しいときには、肩を寄せ合う相手を求めます。

 ところで、神父が首から掛けているエピタラヒリ「領帯」の原点にはいくつかの説があります。
 そのひとつが、生神女マリアの肩布「オモフォル」です。
 生神女の肩布は、生神女庇護祭のイコンでも表現されているばかりか、いろいろな形に変遷・成長したと言われています。
 主教品は、肩にその布をかつぎ、司祭(神父)は首から回してかけ、輔祭は肩から垂らし右手で捧げ持って祈り、副輔祭は胸の前に十字にかけます。 
 肩布は、威張るため、権力と権威の道具ではなく、神様が人の重荷を担うための象徴です。
 あなた、わたしの、人の重荷を担ぐために神様が「肩を貸して」くださっているのです。

 聖書ではたびたび、重荷をかつぐときに、肩に荷を担ぐ姿で表します。
 救い主イイススが若い羊飼いの姿で聖像(イコン)などに描かれるとき、羊飼いのイイススは、肩に小羊をかついでいます。この小羊は、迷子の小羊、世の荒波に揉まれて迷っているわたしたちを表現しています。 
 イオアン(ヨハネ)福音書10章が述べているとおりです。
 生神女の肩布は、まさに神の腕の延長のようです。
 あらゆる悪、とりまくサタンの誘惑から防御する恵みの帯です。
 道に迷う人を導き、庇護(かば)い、覆い、すべてを包みこむ、神の恵みの暖かで大きな包み布です。
 神の、救い主イイススの肩にかつがれているわたしたちは、まさに神の仔羊、神様に抱かれているのです。
 救いとは理屈っぽい言葉の羅列ではなく、神様の抱擁だと信じましょう。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2020年9月 人間の体シリーズ 首(くび、こうべ、かしら)

慈しみと真理(まこと)があなたを離れないようにせよ。
それらを首に結び、心の中の板に書き記すがよい。
(旧約聖書「箴言」3:3)

 首は、正教会では、使われる表現の場所に応じて、「くび」「かしら」「こうべ」と言います。「こうべを屈(かが)めよ」のこうべには、頭あるいは首という言葉をあてることがあります。
 首、オーソドックス・チャーチ、正教会は、昔から「首」という言葉を大事にしています。今日は、二つの「首」に注目しましょう。

 第一、首は、正教会の聖職者の品級(ヒエラルキー)においては、ベテランの指導的・模範的な立場にある聖職者に与えられる尊称です。
 輔祭(ディアコン)は、長輔祭(プロトディアコン)の次が首輔祭(しゅほさい、アルヒディアコン)、司祭(イエレイ)は長司祭(プロトイエレイ)の次が首司祭(しゅしさい、プロトプレスヴィテル)と言います。
 首司祭になると、主教のように宝冠をかぶることがあります。

 二つめ、首には「絆」の意味があります。文字通り、頭と体、心と肉体、神と人をつなぐ連結、絆の具体的な象徴として「首」があります。
慈しみとは憐れみ、慈愛、思いやりですが、もっと深い意味も伝えられています。慈しみとはヘブライ語のレヘムに由来し、自分がおなかをいためて産んだ子供へと注ぐ母親の愛情の深さを指すそうです。
 それほどの愛情の深さと真理を愛する正義を首に結びつけ、心の中の板に書き記す。心の中の板「心の碑」とは、信仰生活の柱となるモイセイ(モーセ)の二枚の石板をさし、生きる目的、生きる糧を意味します。
 この慈しみを表す「首」が、ルカ福音書15章「放蕩息子を迎える父親」にはっきりと書かれています。

まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、
憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。

「首を抱いた」
 父親は、放蕩の限りを尽くした、お風呂にも入っていない、汚れ、豚小屋の番人をした異臭漂う息子に、ほほずりし、首を抱き締め、愛情こもった接吻をします。その慈しみの深さを
「首を抱いた」
 というひと言で表現します。

 神様は、そして信仰者は、喜びにあふれる人を迎え入れるように、ときには疲れてくたびれた人をもゆったり温かく迎え入れてくれます。
 首を抱く、優しく抱き寄せる。
 親しい友人、菅鮑(かんぼう)の交わりのある仲間を抱くように、あるいは、まだ首のすわっていない生まれたての赤ちゃんをそっと抱くように、神様は温かなその手で、わたしたちの首を抱き、慈しみます。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2020年8月 人間の体シリーズ 涙 神を悲しませてはいけない

おとめシオンの城壁よ 主に向かって心から叫べ。
昼も夜も、川のように涙を流せ。
休むことなくその瞳から涙を流せ。
立て、宵の初めに。夜を徹して嘆きの声をあげるために。
主の御前に出て 水のようにあなたの心を注ぎ出せ。
(旧約聖書「哀歌」2:18-19)

涙、泣くことは、聖書に多々、記録されています。
 預言者エレミヤは「涙の預言者」です。
 祈りそのものが涙だといってもよいでしょう。
 預言者としての本分を全うできないことへの悲しみと同時に、信仰者、イスラエルの民のため、その救いと癒しのために涙を流しました。
 自分の愛する者のために涙を流す、犠牲の涙を献げる、これが祈りではないでしょうか。
 たとえばエレミヤは、信仰の同胞、人を愛し、同じくらい、いいえもっと深く神を愛しました。神の愛に、愛をもって応えました。
 かならず神が助けてくださる、たとえわたしたちが神を裏切ったとしても。
 それゆえエレミヤはこう言います。

主は、決して あなたをいつまでも捨て置かれはしない。
主の慈しみは深く 懲らしめても また憐れんでくださる。
人の子らを苦しめ悩ますことがあっても それが御心なのではない。

わたしたちは自らの道を探し求めて 主に立ち帰ろう。
天にいます神に向かって 両手をあげ心も挙げて言おう。

 わたしたちはしばしば、両手をあげ、顔もあげて祈ります。
 サーロフの聖セラフィムも、ひざまずき、両手をあげた姿勢のまま、涙の祈りを献げました。(画像:大きな岩の上で祈りつづける聖セラフィム)
 主、憐れめよ。
 主、賜えよ。
 これらの祈りは、心の涙をもって祈るものです。
 聖ベネディクトは、修道士への規則、戒律のはじめに、
「神を悲しませてはいけない」
 と述べています。
 もうすでにわたしたちは、幾度も、何度も、救い主、神を悲しませ、泣かせたのではないでしょうか。
 神を悲しませてはいけません。
 神に喜びの涙をもたらすような信仰生活、生き方、祈りを献げましょう。

(長司祭 パウェル 及川 信)