■2019年2月 待つ Ⅰ 「神様が遣わされる だれかを待つ」

「わたしよりも優れた方が、後から来られる。

わたしは、かがんでその方の履き物のヒモを解く値打ちもない。

わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、

その方は聖神(せいしん、聖霊)で洗礼をお授けになる」

(マルコ福音書1章参照)

預言者、前駆 授洗イオアン(ヨハネ)はこう語ります。


聖像:エウゲニア白石孝子先生のイコン

わたしたち人間は、だれかを待ちます。

東京:渋谷駅の忠犬ハチ公は最愛のご主人の帰りを待ちましたが、わたしたちは、何を、だれを、待つのでしょう。

ほとんどの日本人は、「何を」ではなく、「だれ」に固執して判断する。その結果、たいへんな被害を受けたとしても……と言ったひとがいます。

どんなに社会に、あるいは自分に良い結果をもたらす提案でも、その内容よりも、「だれ」がそれを提案し実行するのかに力点を置くというのです。

それは、その人がどんなに過去の過ちを後悔して、深く悔い改め、みんなのためになることをやろうとしても、「ああ、あいつがやるのか。信用できない」という先入観・結論が、最初にあるということでしょう。

おそらくこれは、日本ばかりでなく、世界中の人々の傾向だと感じます。

逆に言うと、大がかりなネズミ講のような詐欺商法や、電話一本のオレオレ詐欺などに、人がコロリとだまされてしまうのは、生きる目的である「何を」よりも「だれ」に固執し過ぎているからだとは言えないでしょうか。

木を見て森を見ない、山すその丘やこんもり茂る林を観て、頂上を含む山全体を観ない人が多すぎるからなのでしょう。

ほんものの詐欺師は、格好良く、甘い言葉で人を誘う、なんだか立派な人物に見える「だれ」かなのです。

こう考えることもできます。

やはり人は「だれ」かを、「待ちたい」のです。

わたしたちが「だれ」に固執して生きているのは、あたりまえの正直な人生真理だとはいえないでしょうか。

たとえばイイスス・ハリストス(イエス・キリスト)は、生きる目的「何を」と、「だれ」がなすべきかを、密接不可分に結びつけ成し遂げた、究極の人物「救い主」であるということが言えます。

イイススが約2千年の昔に人の子として降誕されたのは、人が、人の形をした、人格を持った救い主、神が人となられた真実の人を待っていたからです。 「だれ」かを待っている、人の願いを、神は、かなえられたのです。

人は、標識の看板やノボリ旗に明示されているような人生標語ではなく、語りかける温もりに満ちた「生きている言葉」「より添う体」「さし伸べられる腕」「やわらかな手のひら」、わたしたちを抱き締める優しい指の感触に安心します。

苦難に渦中にあって義人ヨブはこう語っています。
「わたしはなお待たなければならないのか。……
絶望している者にこそ、友は忠実であるべきだ」(ヨブ記6:11-14)

まさに神は絶望している者の友。

もはやあなたを待たせることはありません。

イイススは、神とは、そういう安心できるお方なのです。

わたしたちが待っている救いの神は、もうここにいます。

もう救ってくださるであろう「だれ」かを待たなくてもいいのです。

イイススはここにおられます。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2019年1月 信仰の水源〈II〉

「この水を飲む者はだれでもまた渇く。

しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。

わたしが与える水はその人の内で泉となり、

永遠の命に至る水が湧き出る」

(イオアン(ヨハネ)4章参照)

新たな「水の壁」 帰還の奇蹟

わたしたちは常に自分個人が救われたいと思います。キリスト教は家の宗教ではなく、個人的信仰だから洗礼を受け入信したと言う人もいます。

そうでしょうか。

人の生、信、心、精神、信仰は、自分のものであって、じつは個人の秘匿物ではありません。

わたし、あなたが水を満たす壺(つぼ)だとすると、神の恵み「水」を生涯かけて充たしていけば溢れていきます。溢れる恵みは多くの人を潤し、分かち合う人の生活・人生を豊かにします。

ヨルダン川の奇蹟は、信仰の先輩らの体験のたんなる追憶の体験ではなく、「神の時、神の恵みの共有」です。神の時という水に充たされた時、わたしたちは、苦難と試練に立ち向かいます。

神は生きておられる、あなたは一人孤独ではない、その真実が信仰者を感動させ、甦らせます。

紅海の水の壁が旅立ちの奇蹟だとすると、ヨルダン川の水の壁は帰還の奇蹟だともいえます。

安息の地への帰還

パニヒダでわたしたちは痛切に祈ります。
「誘いの嵐にて浪の立ち上がる世の海を見て、なんじの穏やかなる港に着きて呼ぶ。憐れみ深き主や、わが生命を滅びより救いたまえ」

紅海の荒れ狂う海を眺めて救いを求めた人に、神は通過可能な海の門、水の通路を恵みました。
「生命の原因たるハリストス神は、生命を施す手をもって、死せし者を暗き谷より出だして、復活を人類に賜えり」

ヨルダン川の水の壁を間近に見て歩いた人は、新たなる生命の港に着いて歓喜するのです。

信仰の水源を探し求め、分かち合う

聖書や祈祷文などばかりでなく、信仰生活の中にあって、わたしたちは信仰の水源を探ります。
ニッサの聖グリゴリーはこう語っています。
「霊魂は自分と同類でより神的なものを見上げて、存在するものの始源を探求し求めることを止めないだろう。存在するものの美しさの源泉は何なのか。その力はどこから溢れ出るのか。存在するもののうちに現れた知恵を溢れ出させるものは何か。その知恵はあらゆる思考を発動させ、また諸観念を探求する全能力を動かして、探求の対象を把握させるべく働く」
「丁度湖水と一緒に地中から湧き昇ってくる空気が湖の底のあたりに留まらずに、泡になって同類のもの(大気)を目指して上方に吹き上がっていくことを考えてみよう。それが頂点の水面を通り越して大気に混じったところで、その上方の運動は止むことになるが、神的なことを探究する霊魂もそれと同様なことを身に受けるのである」

(大森正樹他訳『雅歌講話』新世社)

生きるのは、たいへんです。楽しみもありますが、つらいことも多いでしょう。

でも共に手を携え、両手を差し伸べ、神の拓かれる水の壁を通っていくことができます。

そのとき水の壁は、希望の光とあなたの心を奮い立てる勇気の源泉となるでしょう。

水の壁に戦慄し、たじろいではいけません。

わたしたちに洗礼の水の恵みを伝えた前駆授洗者イオアン(ヨハネ)はこう告げています。
「主の道を整え備えよ、その道筋を真っ直ぐにせよ」、と。

この進路の先に信仰の水源が待っています。

信仰の水源の継承 次世代への水路

信仰の水源は清く保たれ、次の代へと受け継がれます。信の水路は整備され、さらにたくさんの世界・人々を温かく癒し、心身を満たします。

教会は今も昔も信仰の水源の保護者です。

これからさらに数多くの水源を整備し、救いを求める人を招き続けるでしょう。

わたしたちは、信の水路の保護者、水先案内人として、また生命の泉を秘めた信仰者として、心して生活いたしましょう。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2018年12月 信仰の水源〈I〉

天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、

水晶のように輝く命の水をわたしに見せた。

川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸

には命の木があって、年に十二回実を結び、

毎月実を実らせる

(黙示録22章参照)

 

九州人吉に在任中、ある年の秋とつぜん思い立って、妻を誘い、阿蘇に行きました。かねてより水源巡りをしたいと願っていましたが、日帰りで、白川、竹崎、明神池、池山の各水源をめぐり歩いてきました。

紅葉の季節までしばらく間があり、黄緑色の淡い木の葉の織りなす木漏れ陽が、清冽な澄みきった水面をきらきら染めていました。

どの水源も整備され、大きなポリタンクを手にした人が次々に訪れます。
「生命の水」

口に含み水の甘さを味わいつつ実感しました。

そして生命の源は、信仰心、信仰生活の水源にほかならないのではないかと追想しました。

今日は旧約聖書の有名な箇所をひもとき、いっしょに「信仰の水源」を巡礼しましょう。

イスラエル民 紅海を渡る

イアコフ・イスラエルの子、義人イオシフ(ヨセフ)の庇護を受け、幾世代かへたとき、神の民はエジプトを離れ、故郷である父祖の地、アウラアム・イサク・イアコフの地へ帰る旅路につきました。

これを妨げたのがエジプト王、ファラオの軍勢です。神がモイセイ(モーセ)に命じてその手を差し伸べさせると、追撃してきたエジプト軍は、海の激浪に呑み尽くされ全滅しました。

「水の壁」旅立ちの奇蹟

聖書はこう記録しています。
「モイセイが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった」(出エジプト記14章参照)

信仰者が新たな決意を固め、旅立とうとする時、道が大きく開かれ、なんの障害物もなくスーと行ける、わたしたちはそう考えてしまいます。

でもそうでしょうか。
「狭き門より入れ」と主は言われます。

逆巻きそそり立ち、頭上に崩れ落ちそうな海門をくぐる恐怖心。信じられない光景、畏怖すべき水底(みなそこ)の道を歩かねば、神の指し示す救いの地へは行けないこともありえます。

正教会は、たびたびこの奇蹟を、生神女福音の証とします。童貞女マリヤの神秘の懐妊、神の子の出産を「紅海の奇蹟」に重ね合わせます。また洗礼による新たな生命の受容もこの奇蹟の表すところだと信じます。

信仰者が目を前に向け、両手を差し伸べ、神に信仰を告白して生きる時、「水の壁」が顕われ、行くべき道が切り拓かれていきます。

水の壁は旅立ちの奇蹟の象徴です。

しかしこの水の壁の試練を体験した多くの民は、故国にはたどり着けませんでした。

次の世代の旅立ち(継承)

シナイ半島、荒野における信仰生活は世代交代を促し、モイセイの従者ヌンの子ヨシュア(イイスス・ナウィン)が民を率いて出発しました。

彼らはモイセイの生きざまを見、ヨシュアの薫陶を受けた「信の精鋭」とも言うべき人々でした。

彼らは身を清めて祈り、契約の箱(聖櫃・アーク)を先頭に川岸に到りました。

そのとき多くの民は、生まれて初めて(過去に年長の家族親族に聞いたことのあった紅海の奇蹟に等しい)、
「ヨルダン川の奇蹟」

を目撃、体験するのです。
「春の刈り入れの時期で、ヨルダン川の水は堤を越えんばかりに満ちていたが、箱を担ぐ祭司たちの足が水際に浸ると、川上から流れてくる水は、はるか遠くのツァレタンの隣町アダムまで壁のように立った」(ヨシュア記3章参照)

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2018年11月 教会の象徴(シンボル)「魚 Ⅲ」

陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に

魚がのせてあり、パンもあった。イイススが

「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。

シモン・ペトルが舟に乗りこんで網を陸に引き上げると

153匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多

くとれたのに、網は破れていなかった。イイススは、

「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。

弟子たちはだれも「あなたはどなたですか」と問いただ

そうとはしなかった。主であることを知っていたからで

ある。イイススは来て、パンをとって弟子たちに与えら

れた。魚も同じようにされた。イイススが死者の中から

復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう3度目

である(イオアン(ヨハネ)福音書21章参照)

ガリラヤ湖の西岸、ティベリア(ティベリアス)。

救世主イイススは、ガリラヤ湖で漁をしていた若者に声をかけて、「あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう」と語り、弟子にしました。イイススの最初の弟子は漁師で、ティベリアがかれらの生まれ故郷でした。かれらはガリラヤ湖でラブヌンといういわしのような魚や、アムヌンという魚を漁っていました。(上記の画像:6世紀頃の魚とパンのモザイク)

このアムヌンという魚は、すでに紹介したように日本では30年ほど前、養殖でもてはやされた熱帯の淡水魚で、日本名は「いずみだい」、ティラピアといいます。アムヌンという魚、英語では「聖ペトルの魚(セント・ピーターズフィッシュ)」。最初に読んだ聖書では、大きな魚と言っていますが、ティラピアモザンビカという種類は、大きさが40〜50cmにも成長します。

このティラピア、昔から不思議な生態が知られています。結婚適齢期を迎えたオスのティラピアは、河や池の底に家というか、産卵用の床(とこ)を造ります。それからオスはメスが来ると「結婚しようよ」一生懸命プロポーズをします。結婚相手を選ぶ選択権は、メスにあります。

メスがオスと新居を気に入ると、産卵、卵からの孵化(ふか)、そのあとたいていのティラピアは、オスとメスが交互に稚魚を口にふくんで育てます。一度の産卵数、孵化する稚魚は100〜せいぜい300匹です。

その家庭生活? は、実に人間的です。

わたしたち信仰者は、神の創られた海を自在に泳ぐ魚のような存在です。

神の海は、命の海、愛と信頼の水を湛えた豊饒の海、平和の海です。

神の海は温かい海、わたしたちは神に暖められた魚のような存在です。

信・望・愛を信仰生活の拠り所、基礎にする、笑顔あふれる、希望に生きる魚です。

イイススが、最初の弟子の獲得、そして死よりの復活の3回目の顕現(あらわれ)に、魚であるティラピアを選んだのは、人間、信仰者は、愛を基盤とした家庭生活を全うすべきだという、漁師たちの叡智をも反映しています。

ちなみにティラピアのヘブライ語名アムヌンは「魚の母」の意味。

育児をする愛情深い魚と言う意味だそうです。

これら魚にも劣るような人間、信仰者であってはならないと思います。

魚の奇蹟は「完全な人間」、愛に生きる人間が真のテーマなのです。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2018年10月 神の愛と信仰〜聖神の温熱は笑顔?

わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの

主イイスス・ハリストス(イエス・キリスト)によって神との

間に平和を得ており、このハリストスのおかげで、いまの恵み

に信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇り

にしています。そればかりでなく、苦難をも誇りにしています。

わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、

練達は希望を生むと言うことを。希望はわたしたちを欺くこと

がありません。わたしたちに与えられた聖神(せいしん 聖霊)

によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。

(新約聖書:ロマ5・1〜5)

正教信徒、ハリスティアニンは次の聖句に注目するでしょう。

「わたしたちに与えられた聖神(せいしん)によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」

正教会の祈祷文はときどき、「聖神の充満」といいます。これはあなたは神様にめいっぱい愛されています、という満ち溢れるほどの神の愛の表現です。 聖使徒パウェル(パウロ)は言います。

「わたしたちがまだ罪人であったとき、ハリストス(キリスト)がわたしたちのために死んでくださったことによって、神がわたしたちに対する愛を示されました」

よく「駄目な子ほど可愛い」と親の愛情を表現しますが、神様は失敗や挫折の多いわたしたちが可愛いのです。うれしい時、たのしい時、苦しい時、つらい時に神様に愛されていると信じることは大事です。

(挿絵は「イイススと幼子」の古い画像)

ところがこの親の愛情について、思い違いをしている人が多いのではないでしょうか。正教会のいう信仰といわゆる「信心」の中身が異なるように、本物の愛情と、所有欲・独占欲は違うと思います。

たとえば子どもは親の所有物・玩弄品(がんろうひん)・玩具(おもちゃ)ではありません。しつけと称する欲望の発露、狂悪な暴力が何と多いことでしょう。イジメをする人や暴力をふるう人が、いじめていない可愛がっているのだ、あるいはしつけだと言う時、それはきわめて邪悪な言い訳だと感じます。

躓(つまず)いてはいけません(聖ニコライと中井木菟麿は「つまずき」を礙とも表記しています)。

子どもは、つまり人間は「かけがえのない存在」です。交代要員、代わりのいないただ一人の人間です。神様から賜った固有の存在です。この神様から賜った固有の存在を、正教会では「人格」「尊厳」といいます。

神様がいて、人間がいます。ここに人格、人間性があります。

神が愛であるという時には、愛されている人には特別な人格があると言うことです。

怒り、憎しみ、恨み、嫉妬、疑い、不信、荒れた心で狂暴さを発揮している人の生活はすさみ、顔、表情は生気を失い、体は年寄ったように、しなびていきます。たとえは悪いのですが、ペットの犬や猫でも飼い主に愛されず虐待されていればびくびくし、生きていく希望を失って、死んだような目をしています。ペットでさえ、正しい愛情に包まれていれば幸福なのです。

神様に愛されている、人に信じられている、友達がいて社会に居場所のある人は、生活にゆとりがあり、表情も豊かでしょう。たとえ病気やケガで一見不幸に見えても、神様や人が支えて下さっているので、瞳にはユーモアのある笑みが漂い、永眠する前の日まで、友人と冗談を言って談笑する人さえいます。これはほんとうです。

わたしの何人かの信仰の友人は、永眠する直前までごく普通に会話していました。永眠を知った知人がわたしのもとへ電話やお便りをくださり、そういう最期の迎え方を信じられないと言われました。わたしにも正直信じられません。でも事実です。

しばしば聖神の恵みを温熱といいます。愛情はあったかい、ほんわかしています。イソップ寓話の北風と太陽の、太陽の暖かみに似ています。

正教会の多くの聖人は、みな笑顔が素敵です。教会では、神様にも、人にも愛されている人を人格者と言います。ちょっと一般社会とは評価が違います。

聖神の充満、聖神の温熱が、みなさまと共に在らんことを。

疲れていても、やっぱり笑顔を忘れずに。笑顔には人格が宿っています。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2018年9月 教会の象徴(シンボル)「魚 ⅠI」

イイススは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、
シモンとシモンの兄弟アンドレイが湖で網を打っている
のをご覧になった。かれらは漁師であった。イイススは
「わたしにについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」
と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。また少し
進んで、ゼベデイの子イアコフ(ヤコブ)とその兄弟イ
オアン(ヨハネ)が、舟の中で網の手入れをしているの
をご覧になると、すぐにかれらをお呼びになった。この
二人も父ゼベデイを雇い人たちといっしょに舟に残して
イイススのあとについて行った。
(新約聖書「マルコ福音書」1:16− 20)

キリスト教会の最も古い象徴(シンボル)の一つ、魚。前回、旧約聖書の話題から、かれいとひらめの話や預言者イオナと巨大魚レビヤタンの話をしました。

昔から地中海沿岸では、いろいろな種類の魚が食べられてきました。たとえば、海の魚では先に取り上げたかれい、ひらめの他、まぐろ、ぼら、たこ、いか、えび、ふぐや貝類など。河・湖沼の魚では、こい、すずき、なまず、うなぎなど。お刺身は食べませんが、干物や塩漬、オイル漬を食べました。

ことに航海民族、交易の民フェニキア人は、アルファベットのもとになる文字を作った民族、のちの北アフリカの強国カルタゴを建国した民族として知られていますが、フェニキア人はあらゆる種類の魚を食べたり、塩漬・オイル漬にして、大量に貿易に用いたのでした。フェニキア人の貿易船は、東地中海沿岸〜アフリカ西海岸・スペイン方面まで行き来して交易をしていました。かれらは地中海まぐろやいろいろな魚の塩漬卵も食べていたのです。

ガリラヤ湖の西岸、ティベリアの北には、ギリシャ名タリカエアという町があります。その町の名はずばり「塩漬の町」。塩漬の町には、東西南北、各地方の魚や肉が集まり、工場で塩漬にされた魚や肉は、遠くギリシャやイタリアのローマ、近くはエルサレムへも輸送されていました。

この町の名をイスラエル名ではマグダラといいます。そうです。マグダラのマリアは塩漬の町出身者で、のちに亜使徒と呼ばれる、主イイススの女弟子になったのです。

救世主イイススの最初の弟子は漁師でした。かれらはガリラヤ湖でラブヌンといういわしのような魚や、アムヌンという魚を漁っていました。

このアムヌンという魚は、日本では30年ほど前、養殖でもてはやされた熱帯の淡水魚で、日本名は「いずみだい」、ティラピアといいます。

さてアムヌンという魚、英語では「聖ペトルの魚(セント・ピーターズフィッシュ)」といいます。大きな背びれが女の人の髪の毛をとかす櫛(くし)の形に似ているところから「ガリラヤの櫛」というあだ名も付けられています。 イイススは、ガリラヤ湖で漁をしていた若者に声をかけて、「あなたを人間をとる漁師にしてあげよう」と語り、弟子にしました。

創世記の冒頭、天地創造の光景、「聖神(せいしん 神の霊)が水の面を動いていた」と描かれています。そうです。すでに神秘的な水が、天地創造のときに「在った」のです。わたしたちは神の海に生きていながら、ときには放蕩三昧、人を信じ切れず争いごとを起こしてしまう困った魚です。

でもわたしたち信仰者は、神の創られた海を自在に泳ぐ魚です。

神の海は、生命の海、愛と信頼の水を湛えた豊饒の海、平和の海です。

神の海は温かい海、わたしたちは神に暖められた魚です。信・望・愛を信仰生活の拠り所、基礎にした笑顔で生きる魚がわたしたち、人間です。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2018年8月 教会の象徴(シンボル)「魚 Ⅰ」

モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は

夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、
海は乾いた地に変わり、水は分かれた。

イスラエルの人々は、海の中の乾いた所を進んで行き、

水はかれらの右と左に壁のようになった。

(旧約聖書「出エジプト記」14:21− 22)

キリスト教会の最も古い象徴(シンボル)の一つに、魚があります。

「イイスス・ハリストス神の子・救世主」の頭文字をならべると、ギリシャ語でイキトス、魚という言葉になるそうです。

教会にとって、魚は非常に縁の深いたいせつな象徴です。

出エジプト記でイスラエル民をエジプトから導き出した預言者モーセ(モイセイ)は、紅海を真っ二つに割って、海をまたいで、人々を救いました。

その時、やっぱり体、胴体が二つに泣き別れになり、また一つに合わさった魚が、かれいやひらめだと伝説にいわれています。

神様も罪なことをしたもので、目玉の位置が、右に寄ったり左に寄ったりしたので、それぞれが、かれいとひらめに分かれてしまったのだと言います。

それゆえか、かれいやひらめは、モーセのサンダルフィッシュともいわれています。 

ヘブライ語では、ダグ・モーシェ・ラベヌ「われらの師モイセイ」です。

一見、かれいとひらめを尊敬しているかのような名前ですが、かれらは身を二つに裂いた痛みを忘れられません。

すこしばかり恨みがましく偏った目、ご面相で、聖人モーセではなく、自分たちを食べてしまう人間、わたしたちをにらんでいるのです。

旧約聖書の預言者イオナ(ヨナ)は、巨きな魚に呑み込まれました。

この場合、大きな魚は、神の救いを表し、大きな魚から救い出された(吐き出された)イオナは、新たな人間として、神の使命を全うするのでした。

この得体の知れない化け物の魚を聖書ではときおり、レビヤタンと呼びます。 自分が原因ではない、自分のせいではない事故や事件、天災などにわたしたちは巻き込まれることがありますが、レビヤタンとは、人の一生を左右する、魔の空間、闇の力をさしています。「魔が差す」と言う表現がありますが、そういう不思議な存在がレビヤタンなのでしょう。

でもわたしたちは、困難や理解に苦しむ状態に陥っても、失望してはいけません。預言者イオナが巨きな魚の腹の中で祈ったように、沈着冷静でいることも大事なのです。神様を信頼しようとするとき、人は、覚悟を決めます。だんだん、じたばたしなくなります。

魚を捕る漁師が、ポイントを決めて網や釣り糸を垂れて、仕掛けるとき、熟練の漁師ほど、天候を読み、潮目を見極め、魚のかかる時をじっくり待つことを知っているように、辛抱強く信じ、祈りつづけます。

信仰者も信仰生活を熟練させ、祈りを深めましょう。

しっかり待つことのできる信仰者は常に忍耐強く、謙遜であり希望に満ちています。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2018年7月 預言者は荒野をめざす

7月7日は、聖なる前駆授洗者イオアン(ヨハネ)の誕生祭です。

前駆とは先駆者のこと、救世主イイススの先駆け、先触れとして誕生した預言者イオアン。

物心ついてからイオアンは家を離れ、荒野(荒れ地)をめざします。

福音書は語ります。荒野にあってイオアンは、野蜜といなごを食べ、ラクダの毛皮を着ていた、と。

預言者は、荒野を目ざす。

北海道の北の方には、海岸沿いに荒野があります。夏はいいのですが、晩秋、秋が深まり冬を迎えると、地吹雪が起こる土地があります。

しばしばブリザードと言われます。体験する者にしかわからないすさまじい、地面の底を這うような烈しい風。それは標高の高い山の、吹きさらしの背と同じです。生えている木は低木ばかり。海風、北風の吹く方角からの強風に煽られて、低い木がみんな、同じ方向、斜めに生えています。

人の居住にはあまり適さない荒涼とした土地です。

ほとんど家がなく、石がゴロゴロしているようなところもあります。

預言者、聖人はそういう土地に行くことがあります。荒れ野に行って、観光客になるのか。荒涼とした風景・光景をみて感慨にふけるのか。いわゆる自分探しなのか。そうではありません。

「神はわれらと共にす」を確信し、神と共に荒野で暮らします。何年間か、何十年か、荒野で生活します。

それは曠野や砂漠、山や崖、森林の奥地などです。

荒れ地でスキートと呼ばれる小屋・庵に暮らすのは修道者ばかりではありません。

主教や司祭、市井の信仰者で聖人と呼ばれる人の多くは、何年間か、何十年か、荒野で生活した体験があるのです。荒野はたんなる居住地、住宅地ではありません。優れた信仰者は、荒野を生きた体験があります。

荒野は不信と戦い、神を信じ続けるための、信仰の場所です。

勇気の燃えあがる「シナイ(ホレブ)の山」、燃え尽きることのない信仰の柴(しば)を生む希望の大地です。

では信仰生活の理想の場所が、荒野や荒れ地かというと違うと思います。 そこは終点ではなく、信じる力、信仰の基礎を固めるための場所であって、終着駅のような「終の棲家(ついのすみか)」ではありません。

信仰者、聖人が目ざす場所は、かつて楽園、エデンの園、乳と蜜の流れる地と言われました。

預言者は荒野を目ざす。そこから聖なる師父は天国を目ざす。

預言者、聖人は荒涼たる、一見人間の暮らせないような場所を生き、そこを楽園に転化、成聖し、自らを神の天使として聖変化させます。

かれらは神の国への旅人でありながら、すでに復活を生きる、楽園の住人でもあります。荒野を基盤にしつつ、人間が幸福に生活できる神の国を目ざして歩き続け、なおかつ不毛の大地を天国とします。

預言者、聖人はわたしたち信仰者が体験するあらゆる喜怒哀楽をくぐりぬけ、荒野という不毛を体験し、なおかつ信じて生きることをあきらめませんでした。

荒野を目ざす預言者は、でも一人ぼっち、孤独ではありません。

預言者が手にした灯火、灯台の光は、暗闇に歩く後続の信仰者の道行きを、足もとを照らします。かれらは、わたしたちを帯同し、同伴しつづける、神の国への前駆者なのです。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2018年6月 聖神降臨祭(せいしんこうりんさい 聖なる五旬祭)

聖神降臨祭を祝讃申し上げます。

聖神(せいしん 聖霊)の降臨とは何なのでしょうか?

いったいどういう状態なのでしょうか?

聖像(イコン)には火の玉のような炎が、信仰者の頭上に画かれています。 たとえば、赤ちゃんが生まれて息をし始めるとき、赤ちゃんは水を吐き出して「おぎゃあ」と泣き出します。息をし始めて、初めて地上で生活する人となります。水をたっぷり飲んで溺れた人が、気道や肺の水を吐き出しながら空気呼吸を始めるようなものです。

生き始めるためのたいへんな苦しさがあり、喜びもあります。

でも苦痛と歓喜があり、息を吸って吐いての往復運動がはじまり、これがあって人間になるのです。人として生き始める生命のスイッチが、かちっと入るのでしょう。(京都生神女福音大聖堂、聖障の聖神降臨祭イコンを掲載)

聖神は生命(いのち)の息、神の息です。

脳死とか心臓死とかいう言葉が頻繁に使われるようになるもっと昔、永眠、死を「息を引きとる」と表現してきました。

古風な言い回しですが、正教会の永眠を思う時、「息を引きとる」という表現は非常に暗示に富んでいると思いませんか。

動物も植物も大地も海も、みな息をし呼吸をしています。

正教会(オーソドックス・チャーチ)の聖堂は、ドーム(円い天蓋)が象徴的です。この聖堂の丸、円は、地球、空気の層、大気を表します。聖なる宇宙空間を想起させます。

わたしたちは祈祷、祈りに香を薫らせます。

以前わたしの管轄した九州、熊本県の人吉正教会の聖堂には明かりがありませんでした。いまどき珍しいことに電気を引いていなかったのです。
(いまは充実したすばらしい聖堂があり、電気の照明もあります)

日の短い冬など、晩祷の終わりごろ、暮れ染まった濃い夕闇のなか、ろうそくの燈火だけで、手探りに、転ばぬように足もとを確かめながら、ゆっくりお祈りをした記憶が甦ってきます。

夜の闇は怖い雰囲気を湛えながらも、神の国への近道があるようにも感じてしまいます。それはおそらく想像しがたい、不思議な感覚です。それもたった一人で行う晩祷が多かったので、余計に印象的です。

昼間はそれほど感じませんが、夜の祈りの時、薄暗い聖堂の空間にロウソクの灯火、ちいさな光が煌めき、乳香の煙が漂う光景は、大きな写真で見た銀河系というか、まるでマゼラン星雲のなかにいるようでした。

香の雲は、神の国へとつながっています。わたしたちに神の国を見せます。神の国へと導いているかのようです。

聖堂は天然自然を、神の天地創造を喚起・想起させる小宇宙でもあります。聖堂には生命の息、聖神が充満しています。

祈りの原点は、じつは呼吸、息です。

ハリスティアニン、正教徒は、祈りが聖神の充満、神の息の呼吸であることを自覚し、憶えておかねばなりません。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2018年5月 塩の話 ⅠⅠ 火による錬磨で旨味(うまみ)をます塩

先月、イイススは神の前に立つ者、信仰者は「地の塩」であり、神に恵みを賜わられるサラリーマンであるというお話をしました。引き続き塩についてお話ししましょう。

レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」をよく観察すると、塩壷が描かれています。これはイイススの時代のテーブル上の光景と言うよりも、ダ・ヴィンチの時代、中世ヨーロッパ、イタリアの食卓風景かも知れません。

いつの時代にあっても塩は大事です。

聖書は、じつに面白い表現が満ちています。聖使徒 福音者マルコは、イイススの言葉を記録しています。
「人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか」(9章)

「火で塩味を付ける」

天然岩塩の中には、燃焼に使用する触媒としての塩板、塩の板があるそうで、イイススの博識には驚かされます。火によって旨味のます塩。

それでは「塩気が無くなる」とはどういうことでしょうか。

これも天然岩塩をあらわすたとえ話。

どんなに良質な岩塩でも、風雨にさらされ野ざらしにされたら、塩気も塩の風味も抜けてしまい、だめになってしまうそうです。 
「天才児も十代過ぎたら、ただの人」

という厳しい言葉がありますが、これをわたしたち自身にあてはめてみますと、どんなに才能があっても、その原石を磨く努力をつづけなければ、すばらしい宝石にはなりません。才能の垂れ流し、野ざらし・ほったらかしはいけないのです。火の錬磨で成長する信仰者もいるということではないでしょうか。

むしろ不器用にこつこつ生きている人の方が息の長い「成長」ができるということにつながるのではないでしょうか。

みなさんも知っている「タレント」は、日本では芸人をさすタレントさんという意味につかわれていますが、聖書でのタラントは、一人一人の個性、独自性、才能、能力、人格、尊厳をさします。

みんなが、すべての人がタレントなのです。ではたぐいまれな才能のない者はどうしましょうか。天才といわれる人は数万人に一人でしょうから。

イイススは探しだそう、発見しようと言います。

塩で味付けをする。塩を振りかけるのです。
「自分自身の内に塩を持ちなさい。そして互いに平和に過ごしなさい」

このイイススの言葉は、自分の中にないものは、外からもってこよう、良い塩を探し出して、有効活用しようと語っているように解釈されます。

それは努力精進ということかもしれませんし、もう一つ、たとえば良い友人を持つこと、自分にはない性格・性質、職業上の特技を持つ人に嫉妬するのではなく、その人と友達になって、共にそれを活かす、創意工夫が必要だと言っているのです。創意工夫というと、全部自分ひとりでやることだと錯覚している人が多いのですが、じつは全部自分でできる人というのは存在していません。 お互いの才能・人間を認め、励まし合い、希望をもって生きる。
「互いに平和に過ごす」というイイススの言葉は何と意味が深いのでしょう。 平和には愛と信頼が必要です。

自分たちの人生を味付けする「塩」は、わたし、あなた、みんなが持っていて、振りかけ合うもの、分かち合う恵みでもあるのです。

(長司祭 パウェル 及川 信)