■2018年10月 神の愛と信仰〜聖神の温熱は笑顔?

わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの

主イイスス・ハリストス(イエス・キリスト)によって神との

間に平和を得ており、このハリストスのおかげで、いまの恵み

に信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇り

にしています。そればかりでなく、苦難をも誇りにしています。

わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、

練達は希望を生むと言うことを。希望はわたしたちを欺くこと

がありません。わたしたちに与えられた聖神(せいしん 聖霊)

によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。

(新約聖書:ロマ5・1〜5)

正教信徒、ハリスティアニンは次の聖句に注目するでしょう。

「わたしたちに与えられた聖神(せいしん)によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」

正教会の祈祷文はときどき、「聖神の充満」といいます。これはあなたは神様にめいっぱい愛されています、という満ち溢れるほどの神の愛の表現です。 聖使徒パウェル(パウロ)は言います。

「わたしたちがまだ罪人であったとき、ハリストス(キリスト)がわたしたちのために死んでくださったことによって、神がわたしたちに対する愛を示されました」

よく「駄目な子ほど可愛い」と親の愛情を表現しますが、神様は失敗や挫折の多いわたしたちが可愛いのです。うれしい時、たのしい時、苦しい時、つらい時に神様に愛されていると信じることは大事です。

(挿絵は「イイススと幼子」の古い画像)

ところがこの親の愛情について、思い違いをしている人が多いのではないでしょうか。正教会のいう信仰といわゆる「信心」の中身が異なるように、本物の愛情と、所有欲・独占欲は違うと思います。

たとえば子どもは親の所有物・玩弄品(がんろうひん)・玩具(おもちゃ)ではありません。しつけと称する欲望の発露、狂悪な暴力が何と多いことでしょう。イジメをする人や暴力をふるう人が、いじめていない可愛がっているのだ、あるいはしつけだと言う時、それはきわめて邪悪な言い訳だと感じます。

躓(つまず)いてはいけません(聖ニコライと中井木菟麿は「つまずき」を礙とも表記しています)。

子どもは、つまり人間は「かけがえのない存在」です。交代要員、代わりのいないただ一人の人間です。神様から賜った固有の存在です。この神様から賜った固有の存在を、正教会では「人格」「尊厳」といいます。

神様がいて、人間がいます。ここに人格、人間性があります。

神が愛であるという時には、愛されている人には特別な人格があると言うことです。

怒り、憎しみ、恨み、嫉妬、疑い、不信、荒れた心で狂暴さを発揮している人の生活はすさみ、顔、表情は生気を失い、体は年寄ったように、しなびていきます。たとえは悪いのですが、ペットの犬や猫でも飼い主に愛されず虐待されていればびくびくし、生きていく希望を失って、死んだような目をしています。ペットでさえ、正しい愛情に包まれていれば幸福なのです。

神様に愛されている、人に信じられている、友達がいて社会に居場所のある人は、生活にゆとりがあり、表情も豊かでしょう。たとえ病気やケガで一見不幸に見えても、神様や人が支えて下さっているので、瞳にはユーモアのある笑みが漂い、永眠する前の日まで、友人と冗談を言って談笑する人さえいます。これはほんとうです。

わたしの何人かの信仰の友人は、永眠する直前までごく普通に会話していました。永眠を知った知人がわたしのもとへ電話やお便りをくださり、そういう最期の迎え方を信じられないと言われました。わたしにも正直信じられません。でも事実です。

しばしば聖神の恵みを温熱といいます。愛情はあったかい、ほんわかしています。イソップ寓話の北風と太陽の、太陽の暖かみに似ています。

正教会の多くの聖人は、みな笑顔が素敵です。教会では、神様にも、人にも愛されている人を人格者と言います。ちょっと一般社会とは評価が違います。

聖神の充満、聖神の温熱が、みなさまと共に在らんことを。

疲れていても、やっぱり笑顔を忘れずに。笑顔には人格が宿っています。

(長司祭 パウェル 及川 信)