■2021年10月 人間の体シリーズ 腿(もも)1

誓いの徴(しるし)

アウラアム(アブラハム)は多くの日を
重ねて老人になり、主は何事においても
アウラアムに祝福をお与えになった。
アウラアムは家の全財産を任せている年
寄りの僕(しもべ)に言った。
「手をわたしの腿の間に入れ、天の神、
地の神である主にかけて誓いなさい。
あなたはわたしの息子の嫁をわたしが今
住んでいるカナンの娘からとるのではなく、
わたしの一族のいる故郷へ行って、
嫁の息子イサクのために連れてくるように」
(旧約聖書「創世記」24:2〜9)

 高徳老齢の家宰(かさい)は、このあと「主人アウラアムの腿(もも)の間に手を入れ、このことを彼に誓った」のです。
腰が「生命の源」、「神秘の恵みと力の源泉」であるとすると、その腰を支える腿は、腰の土台、あるいは人の体幹を支える主軸であるといえます。
 家であれば、大黒柱、あるいは主イイススが語った家の基礎を構成する「隅の首石(かしらいし)」が相当するでしょう。
 旧約聖書の時代から、教会にとって、信仰者にとって、腿は重要です。
 腿は、重要な誓い、誓約を立てるときに使われます。
おそらく両腿の間に右手を差しいれるのでしょう。不思議な姿勢です。
 ひとりの時には、じぶんの腿に手を置き、神に誓いを立てることがあったのでしょう。
 預言者エレミヤのつぎの姿が「腿の誓い」を証明します。

「わたしは立ち帰ります。あなたはわたしの
神です。わたしは背きましたが、後悔し 
思い知らされ、腿を打って 悔いました」
(エレミヤ31:18-19)

 エレミヤがじぶんの腿を打ち、神への誓いを破ってしまったことを痛悔したところ、神が「新しい契約」を贈ってくださることが預言されます。

「来たるべき日、わたしがイスラエルの家と
結ぶ契約はこれである、と主は言われる。
すなわち、わたしの律法をかれらの胸の中に
授け、かれらの心の中に記す。わたしはかれ
らの神となり、かれらはわたしの民となる」
(エレミヤ31:33)

 腿の誓い、そして「腿の痛悔」が、神の祝福、新たなる契約をもたらすことがわかります。腿の誓いと腿の痛悔は、復活の希望、烽火(のろし)なのです。

■2021年9月 人間の体シリーズ 腰(こし)2

神は崇め讃めらる。
けだし彼は力をもって我に束ね、
我が為に正しき路を備う、
我が足を鹿の如くにし、
我を高き処に立たしむ。
(奉事経「聖体礼儀」祝文)

 司祭(神父)は、司祭服の帯を腰に締めるときにこう祈ります(聖詠17:33-34、詩編18)。
 正教会は、簡単でわかりやすい真理だからこそ、ていねいに多岐にわたる説明・表現を繰り返すところがあります。それは約二千年にわたって、いろいろな民族・土地・世代など異なる条件下で、聖なる伝達・解説・宣教を繰り返してきたからなのです。二千年以上の蓄積が、シンプルなことを複雑に見せています。それを忘れてはいけません。

腰が生命の源であり、信仰生活の中心をになうことを、つぎの聖句が教えてくれます。

神殿を建てるにはあなたではなく、
あなたの腰から出る息子が
わたしの名のために神殿を建てる。
(旧約聖書「歴代誌」下6:9)

 さて妊娠したとき、赤ちゃんの成長に応じて「腹帯(はらおび)」をする慣習がありました。腰からおなかにかけてサラシなどの幅広の布を巻き、体幹を安定させるのです。そう思いついたとき、生神女マリアが、親戚のエリザベタの懐妊を知ったとき、エリザベタのもとを訪れ、祈り(讃美と感謝)を献げたことに想いいたりました。
 これは正教会では、晩祷、早課という祈りの中で祈り詠われています。
「わが心は主を崇め、わが霊(たましい)は神わが救主を喜ぶ」という、美しい聖歌に始まる祈りです。

力を持ちたまえる者は
大いなることを成せり、
その名は聖なり、
その憐れみは世々
彼を畏るる者に臨まん(正教会訳)

力ある方が、わたしに偉大なことを
なさいましたから、その御名は尊く、
その憐れみは世々に限りなく、
主を畏れる者に及びます。
(口語訳、ルカ1:49)

 
 腰、神の力の源から発した大いなる聖なる生命力は、世々に及ぶ、人から人へ、世代から世代へと受け継がれ、引き継がれていくと宣言します。
 マトフェイ(マタイ)福音書の冒頭、系図のある理由はここにあります。
 教会とは、家庭であり、家族であり、人の系譜、世代の持続・継承です。
 その壮大な世代の祝福の継承は、日本正教会においても、またここ京都ハリストス正教会においても、脈々とつづいています。
 連綿たる世代の祝福、それは、腰という言葉に象徴的に表れてはいますが、地球人類全体への福音として受け継がれています。
 腰は、神の福音と祝福、罪の赦しと復活、永遠の生命、救いの源です。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2021年8月 人間の体シリーズ 腰(こし)1

力強く腰に帯し、腕を強くする(箴言31:7)
正義をその腰の帯とし、真実をその身に帯びる(イザヤ11・5)

 教会にとって、信仰者にとって、腰は重要です。
 わたしがお世話になったリハビリの先生は、「体幹をきたえてください」と言いました。
 体幹とは、ひとの胴の主要部、腰から背中にかけての身体の中軸の筋肉と骨組みなどをいうのでしょう。体幹をしっかりきたえると、たとえば片足立ちをするときにふらつきません。
 それでは、信仰の体幹とは何なのでしょうか。
信仰の「腰」とは何でしょうか。
 腰は神の力の源、神の権能の源泉、発生するところを表現します。
京都聖堂の聖障(イコノスタス)南門の聖天使(神使長)ミハイルは、腰に帯を締めています。 
 正義の源は神であり、ミハイルは腰に帯びた剣の炎により、人の信仰を守り、庇護し、神の正義の実現をはかります。ミハイルの姿はこれらを具現化しています。

立って、真理を帯として腰に締め、
正義を胸当てとして着け、
平和の福音を告げる準備を
履物としなさい(エフェス6:14〜15)

 ひとの体幹の中心は腰です。
 信仰の体幹の中心も腰です。
 腰すなわち神を根源、基盤とする正義、真実、真理の源に拠り立つ信仰生活が、その人を支え、日常生活での揺らぎやふらつきを抑え、片足立ちをするときような危機にも耐えうる信仰心を育てます。
預言者エレミヤが語っているとおりです。

あなたは腰に帯を締め 
立って、かれらに語れ
わたしが命じることをすべて。
かれらの前におののくな
わたし自身があなたを
かれらの前で
おののかせることがないように。
 (中略)
わたしがあなたと共にいて
救い出すと 主は言われた。
(エレミヤ1:17)

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2021年7月 人間の体シリーズ 腹(おなか)

イスラエルの家はその物の名をマナと呼んだ。
それはコエンドロの実のようで白く、その味は
蜜を入れたせんべいのようであった。

イスラエルの人びとは人の住む地に着くまで、
四十年の間マナを食べた。すなわち、かれらは
カナンの地の境(さかい)に至るまでマナを食べた。
(旧約聖書「出エジプト記」16章参照)

 正教会(オーソドックス・チャーチ)は、脳の教会ではなく、胸、心臓の教会だというお話をしました。そこからいくと、正教会は、脳の教会ではなく、腹、おなかの教会、信仰です。
 正教会には、水曜・金曜の斎(ものいみ)、聖体礼儀の前の晩の斎、祭日の前の期間を定めた斎など、いくつもの斎があります。
 直近では、7月12日聖使徒ペトル・パウェル祭をめざす「聖使徒の斎」があります。
 どうしてこういう斎があるのでしょうか?
 食べる 食べない、飲む 飲まない 節制・禁食などに、こだわる斎を目の前にすると、大多数の人は、まずどう取り組もうか 頭で方策を考えてから、斎に入ることでしょう。
 では頭で、脳で考えて、斎に取り組むという行動は、はたして正しいのでしょうか。
 こういう説話が伝わっています。
 ある若者が、砂漠で隠遁生活を行っている修道士に憧れて、自分もその生活に入りたいと願いました。
 すると白髪の修道士は、黙って、カップにいっぱいの水を入れ、次にカップの中身を捨てて見せました。
 これは水の尊さ・貴重さを説明したのではありません。
 あなたの中身をからっぽにして、神のおられるべき場所をつくってから、おいでなさいと諭したのです。
 おなかもそうです。
 斎をすると、喉は渇く、腹は減る、妄想がわく、どうでもいい考え事がわんさか浮かんできます。
 ここで必要になるのが「祈り」ではないでしょうか。
 祈りの第一段階とは何でしょう、それは、すべてのこの世的な考えを捨て去り、空っぽにする、神のみを自分に容れる、ということではありませんか。
 哲学する、考える と、正教会の「祈り」は相反することがあります。
 それゆえ正教会で神学者と言われる聖人は、神の心に耳を澄ませた神学者聖イオアン(ヨハネ)のように祈りの人です。考えだけを最優先する学者ではありません。(イコン画像:弟子に口述筆記する神学者聖イオアン)
 修道士は正しい斎の在り方を、「血を流さない致命(ちめい、殉教)」と呼ぶそうです。
 領聖「聖体拝領」のとき、聖なる体であるパンを食べ、聖なる血である赤ぶどう酒を飲んだとき、どういう感動・感慨を持つべきなのでしょうか。
「ああ美味しい」
「生きていて良かった」
 ひらたくいうと、
「いま わたしは救われた、うまい」
 こう感動して、よいのではないでしょうか。
 素直に、神の賜る食べ物、日用の糧を、おなかで味わうのです。
 斎とは空腹の実感です。
 精神的、肉体的 喪失感、空虚、飢餓、まるで腕や、足がもがれてしまい、からだの一部が無くなってしまったかのような失望感。
 これらを補い満たすものは何か。
 神です。
 救いといやしの源泉は何か。
 聖体拝領、領聖です。
 聖なるものを 食べ 飲むことが、救いといやしの根源となります。
 斎の体験とは、ある意味、考えることをやめ、祈ることに集中するために行われます。
 脳で理屈っぽく考えず、からだの中心、心臓で、おなかで祈る。
 正教会では、
「からだの中心を意識し、おなかで祈りなさい」
 と教えます。
 神との一体は、脳の一部の錯覚ではなく、心臓・おなか、すなわち体全部、からだ全体の一致・体合です。
 からだの中心、心臓、おなかで祈りはじめる時、信仰者は、神の時、神の国の到来、救いを、生きる喜びを確かに全身に感じることでしょう。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2021年6月 人間の体シリーズ 胸(むね)と心臓(しんぞう)

その弟子が、イイススの胸もとに寄りかかったまま、
「主よ、それはだれのことですか」
と言うと、イイススは、
「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」
と答えられた。
(イオアン(ヨハネ)福音書13:2-26)

 漫画ルパン三世シリーズの劇場版アニメ第1作、1978年公開のアニメ映画「ルパンVs複製人間」(ルパン対クローン)。
 その映画には、生命維持の巨大なガラス装置にはいっている、ドクターマモーが登場します。何千年も複製、クローンとして生き続けたマモーのオリジナル、マモー本人は、脳だけという、象徴的なシーンに、当時高校生だったわたしは、脳だけのマモーの姿、劇場の大画面に息を飲みました。
 人間は、現代人は、脳に異常なほどの信頼と畏怖を寄せます。
 ところが正教会(オーソドックス・チャーチ)は脳に固執しません。むしろ脳ではなく、胸すなわち心臓・心臓の鼓動に焦点を当てます。
 胸、心臓は、わたしたちにとってどういう存在なのでしょうか。
 人は感動すると、胸が熱くなります。ほんとうに人が好きになると、胸が切なくうずきます。頭の脳ではなく、胸が反応し、熱くなります。ですから苦悩や試練にさいなまれている人は、動悸が激しくなり胸が苦しくなるのです。
 信仰者にとって胸、心臓は何でしょうか。
 聖使徒イオアン(ヨハネ)は、イイススの胸に寄りかかり、神の子の鼓動を聴きます(イオアン・ヨハネ13章参照)。それゆえイオアンは神学者といわれます。
 神の心を知る者が正教会では「神学者」です。頭でっかちの理論派の学者ではなく、神の鼓動に耳を澄ませる者が神学者です。
 すなわち胸、心臓とは、神様と交わる、一番深い場所です。
 胸、心臓は、たとえるならば、神の水を汲み出す、尽きざる泉、永遠の生命が湧き出す泉、サマリアの女性がイイススに出会った井戸のようなものです。
 心臓の鼓動のような祈り、祈祷は、人と神とを密着させます。
「われら安和にして主に祈らん」
「衆人に平安」
 これらの祈りは、正教会の基本、原点です。
 祈るとき、人は、口と言葉のみでなく、みんな、心臓の鼓動すら一致させて祈らなくてはならないでしょう。
 人が聖堂に一堂に会して祈るということは、口先だけ、音程だけを一致させるだけではだめです。ほんとうに、体を、胸を、心臓を、鼓動を一致させて、みんなで祈らなくてはなりません。自分がああ、きれいな聖歌を歌えて良かった、という感傷だけに浸っているうちは、実はまだまだなのです。
 ほんとうに、人が、体を、胸を、心臓を、鼓動を一体化させて祈ることが重要です。
 胸とは神の宿るところです。
 そして心臓とは、神の心を宿すことのできる聖地、聖なる場所です。
 心臓の鼓動とは、神の息、生命の神秘、復活の生命を体感するところであり、心臓の鼓動とは、神様の新たな天地創造の始まっているエネルギーの原点ではないでしょうか。
 だからこそハリスティアニン(クリスチャン)は胸に十字架を画くのです。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2021年5月 人間の体シリーズ 死の接吻 生の接吻

イウダ(ユダ)はやって来るとすぐに、
イイススに近寄り、
「先生」と言って接吻した。
人々はイイススに手をかけて捕らえた。
(マルコ福音書14・45〜46)

ハリストス 復活!

 オーソドックス・チャーチ、正教会のような歴史の長いキリスト教会にあっては、接吻、キスは重要です。
 挨拶の時はお互いの「平安」を祈りつつ、お祈りの時には十字架や聖像へ、親愛の情をあらわすために接吻します。
 聖書、教会にはいろいろな接吻の挿話があります。
 大斎(おおものいみ)終盤、受難週間を迎えると、思い出さずにはいられないのが、冒頭に引用したイウダの裏切りの場面です。
 最愛だったはずの先生、恩師を、親密な愛情表現である接吻で裏切る、それも銀貨30枚で売り渡す、そしてイウダ自身は、悔い改めることもなく自殺してしまう。
 この光景は、じつは「創世記」冒頭のある事件を暗示します。
 ではその事件とは何でしょうか。
 アダムとエバ(イブ)の果実を食べた事件に隠れてしまって、あまり取り上げられませんが、兄弟殺人、兄カインが弟アベルを野原に誘って殺害した事件です。
 聖書は、首を絞めての絞殺か、石や棒での撲殺か、ナイフ・短剣での刺殺かを書いていません。けれども兄を信頼し、油断していた弟に襲いかかって殺害したカインは、弟の遺体を野原の土の中に埋めて隠したと伝えられています。
 アベルの遺体は親もとへ帰ることができず、両親は悲嘆に暮れます。
 お葬式すらできない状態のアダムとエバ、両親はアベルの行方をさがして、野原を泣きながら捜したことでしょう。
 カインは追放され、荒れ地で暮らします。
 ここには神と人、人と人、それも自分の肉身である家族との交流、交際を拒絶し関係を絶った人間がいます。
 兄カインは、頬に接吻して親愛の情を示し、肩を抱きながら弟を連れて野原へ行ったのではないでしょうか。この情景が、何千年の時をへてイウダがイイススに対しておこなった接吻の言行に繰り返されます。
 死の接吻。
 この死の接吻の対極にあるのが、生命(いのち)の接吻です。
 生の接吻。
 イイススの十字架のあと、女性たちは、イイススのご遺体を新しい墓に葬ります。そのときイイススに接吻、頬ずりし泣く、生神女マリアと女性たちの姿が聖像に画かれたりもします。
 じつは永眠者(死者)と接するとき、司祭(神父)は真っ先に永眠者の額に接吻します。こうした接吻は、同じ動機で行われます。生命の接吻です。 
 イイススの葬りと復活、死と甦り。
 死ではなく生命を、絶望では生きる希望を、接吻があらわします。
 わたしたちの接吻は、カインの死の接吻ではなく、イイススがわたしたちにしてくださる愛情こもった「生の接吻」を模範とします。
 復活の主イイススからわたしたちへ恵まれる永遠の愛、「愛憐の接吻」は、第二のアベルであるわたしたちが、埋められた野原、孤独の墓所から復活し、よみがえり、求めてやまない最愛の神への接吻によって、成就されるのです。

実に 復活!

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2021年4月 人間の体シリーズ 指(ゆび)2 像名祝福(ぞうめいしゅくふく)

天使ガヴリイル(ガブリエル)は、ナザレという
ガリラヤの町に神から遣わされた。ダヴィド家の
イオシフ(ヨセフ)という人のいいなずけである
おとめのところに遣わされたのである。
そのおとめの名はマリアといった。
天使は、彼女のところに来て言った。
「おめでとう、恵まれた方、
主があなたと共におられる」
(新約聖書「ルカ福音書」1:26〜)

 正教会では信徒が神父様から「祝福」をうけます。
 神父様は主教品から祝福をうけます。
 日常のあいさつでの祝福にはじまり、受験合格と新入学、進学、進級、就職、旅行の前後、新築・転居などに伴うの家屋の成聖、新造船や工場などの成聖、婚約や結婚、出産など、いろいろな慶事も祝福されます。
 「なんじに平安」と神父様が祝福すると、信徒は「なんじの神(しん)にも」と答えます。目のまえの空間に手によって十字が画かれ、うける側の信徒は、胸のまえに両手を十字に組み、その祝福をからだ全体でうけとめます。
 会衆に対しては「衆人に平安」と祝福します。
 これは古い祝福のあいさつ、「シャローム」、「あなたに平安がありますように」が原点です。
 生神女福音、天使(神使)ガヴリイルによるマリアへの祝福は、じつはごくふつうのあいさつ、祝福だったのですが、マリアは神の真意をはかりかねます。
 像名祝福、ぞうめいしゅくふく、ぞうみょうしゅくふく、あるいは、しょうみょうしゅくふく、とも言います。
 指文字による祝福です。右手の、親指と薬指を「X」字形に、ひとさし指を「I」、中指を「C」に、小指を「C」に見たてます。
 右手は「IC XC」すなわち「イイスス ハリストス」、イエス・キリストの名を象るわけです。 
 神の祝福は信徒個々人へも、よき音信・嘉音「おとずれ」として恵まれます。
 右手の親指・ひとさし指・中指をひとまとめにし、薬指と小指をまるめます。
 これを額(おでこの中央)、胸(みぞおちのあたり)、右肩、左肩へと十字形に画きます。
 これも像名祝福です。
 天使の祝福を正教会はこう記録します。
「恩寵(おんちょう)蒙(こうむ)れる者、慶べよ、主は、なんじとともにす」
 わたしたちは神の祝福に満たされ、つねにこう祈りましょう。
 互いを祝福し、神に讃美と感謝を祈りましょう。
「慶び楽しめよ、主は なんじとともにす」
「恵み深き主よ、神は われらとともにす」

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2021年3月 人間の体シリーズ 指(ゆび)1 指輪

父親は息子を見つけて、憐れに思い、
走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。
「お父さん、わたしは天に対しても、
またお父さんに対しても罪を犯しました。
もう息子と呼ばれる資格はありません」
しかし父親は僕たちに言った。
「急いでいちばん良い服を持ってきて、
この子に着せ、手に指輪をはめてやり、
足に履物をはかせなさい。それから
肥えた子牛を連れてきて屠りなさい。
食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに
生き返り、いなくなっていたのに見つかった」
そして祝宴をはじめた。
(新約聖書「ルカ福音書」15:11〜)

 指輪、なにを思い浮かべるでしょうか。
 すぐに連想されるのは、婚約指輪、結婚指輪あるいはファッションリングでしょうか。
 少し前には、トールキンの「指輪物語」が映画化され、「ホビットの冒険」「ロード・オブ・ザ・リング」が公開されています。
 指輪は、たんなるアクセサリー、装飾品ではなく、はめる指輪の種類とか価値に応じて、立場や権威、影響力などを誇示するものとなります。
 たとえば王侯貴族は、紋章つきの指輪をはめ、公式文書や親書の封印に、指輪の刻印を押し封印しました。
ときには一族の継承を表すため、遺産の代表格として、指輪が尊重されました。
正教会では、〝信仰の指輪〟が強調されます。
 たとえば正教会の「聘定式(婚約式)」は、四つの証(あかし)を祈ります。

  1. エジプトの宰相イオシフ(ヨセフ)がファラオから
    贈られた権威の象徴として指輪(創世記41:42)

  2. 預言者ダニイルを救われる神を畏れたダレイオス王の
    信頼を刻印する指輪(ダニイル6:17〜)

  3. タマルがユダとの約束を貫徹するための
    約定としての指輪(創世記38:18)

  4. 放蕩息子が父親の哀憐を身をもって体験する
    親愛の指輪(ルカ15章)

指輪は、エンゲージリングとして神の永遠をあらわしますが、その根底にあるのは、神の憐れみ、愛です。
 思わず駆けより、助け救ってしまう、神の憐憫の指輪が、放蕩息子へ恵まれた指輪なのではありませんか。
 信仰の指輪とは、社会的儀礼、おざなりにほどこされる形式的指輪ではありません。
 滅びかけている人間性を回復させ、神と人、人と人とが、神の愛にみちびかれ連帯と絆を取り戻す、象徴としての指輪です。
 神の愛のリング、神の恩寵にもとづく信頼と希望の指輪がここにあります。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2021年2月 人間の体シリーズ 手 3

わたしは言っておく。
悪人に手向かってはならない。
だれかがあなたの右の頬を打つなら、
左の頬をも向けなさい。
(新約聖書「マトフェイ(マタイ)福音書」5:39)

あなたの頬を打つ者には、
もう一方の頬をも向けなさい。
(新約聖書「ルカ福音書」6:29)

 この福音を読み、いつも思います。
 人を暴力的に殴ったり、打つ手があるのだ、と。
 ときには言葉の暴力もあります。
 うわさ話、陰口ばかりでなく、最近ではパソコン、スマホの普及などによりインターネット通信を利用した、悪意ある中傷、根拠のない誹謗(ひぼう)などが広がっています。
 自らには何の汚点、加害のないにもかかわらず、一方的に打たれ炎上させられつづけるのは、すごくつらく、悲しいものです。
 たとえば一人の人間が、左手でひとを打ち、右手でひとを祝福しているとしたら、どうなのでしょう。
 面従腹背の背信者、ひとりの人間の矛盾は、けっきょく人を、自分を滅ぼす源になります。格言には、こうあります。
 二心(ふたごころ)ある者の言葉は蜂蜜、その行動は槍である。
 神と悪魔とに、同時に仕えることはできない。
 神父がたびたび、両手を天にさし上げて祈る姿勢には、神を呼び求めるこころが満ちています。
 悪を求めるのではなく、神を求めます。
 二心なく、神ひとりを求めます。
 そのため、両手を天にさし上げて祈ります。
 正教会には、人への祝福をする手の甲に接吻するという慣習があります。
 主教品や神父(司祭)が祝福する右の手を、信徒は両手のひらを重ね、恭(うやうや)しく、優しく接吻するのです。
 かたほうの手で人を祝福し、もうかたほうの手で、人を殴ったり打ったりする、そういうことを信仰者はしません。
 神のこころを受けとめ、その愛の温もりを感じ、両手で包みこみます。
 祝福をうける手があり、さらに別に人へ祝福を恵み伝える手があります。
 愛を創造し育てる手があり、信と希望を伝える手があります。
 正教会の聖堂、祈りでは、神父がこう祈って手をかかげ、十字を画きながら祝福します。
「衆人に平安」
 わたしたちは聖神(せいしん)の恩寵(おんちょう)を両手いっぱい受けとめるため、こころよりの笑顔、豊かな気持ちで応えましょう。
 そのとき、天使がふたつの翼をたたむがごとく、わたしたちは胸の前で両手を組み、頭(こうべ)を垂れ、祝福を受けとめましょう。 
「なんじの神(しん)にも」と。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2021年1月 人間の体シリーズ 手 2

われ古(いにしえ)の日を想い、
およそなんじの行いしことを考え、
なんじが手の工作(わざ)を計る。
わが手を伸べてなんじに向かい、
わが霊(たましい)は渇ける地の
ごとく、なんじを慕う。
(旧約聖書「聖詠」142:5-6、「詩編」143:5-6)

ハリストス生まる! 

 按手(あんしゅ)という言葉があります。
 正教会では右手をのせて、人を祝福することを意味します。
 手をのせるところは、たいてい頭、額(こうべ)であることが多いようです。
 さて19世紀フランスの作家、ジョルジュ・サンドの小説「愛の妖精」(邦訳名)を読んだのは、小学校5年生の時でした。
 主人公の女性が病気などで衰えた人のかたわたで、その人の癒やしを祈ります。
 そのとき手を病人のうえにのせ、心をこめて癒やしを祈るのです。
 恋愛小説の微妙な機微に感動しながらも、ちょうどそのころ母を病気で喪ったばかりであったので、こういう人が母のそばにおれば、母が癒やされ、治ったのかもしれないと、思いました。
 自分がそういう存在ではないことが、とても悲しく残念でした。
 (聖像「腰の曲がった婦人をいやす救主イイスス」)

 正教会の「聖傅(せいふ)」礼儀には、こういう祝文があります。

ああ主や、天よりなんじが医療の力を降して
なんじの僕婢の体にふれ、熱を消し、苦しみ
をとどめ、およそ潜むところの衰弱を駆り、
その医師として、彼を病の床(とこ)より、
悩みの褥(しとね)より起こし、彼を健(すこやか)にし、
彼を全うして、なんじを喜ばせ、なんじの旨を
行う者として教会に与えたまえ。

 「病は気から」という言葉がありますが、「気」とは単なる気分、気持ちではなく、そのひとの人生、生き方を支える勇気と希望、不屈の精神の有りようを表す言葉ではないでしょうか。
 勝てない病気があるのかもしれません。
 でも神のあたえたもうた人生そのものが消失しているわけではありません。
 たいへんな苦しみや痛みがあるかもしれません。
 でも生きる勇気と希望をくじけさせてはいません。
 あきらめかけているかもしれません。
 しかし神が支えておられるかぎり、わたしたちは不屈です。
 神が手をのせるとき、わたしたちは生き返り、生き直すことができます。
 神の手から救いの光が放たれ、わたしたちは手の光に導かれ、温められ、穏やかな光に満たされて神の国へと向かうのです。

 崇め讃めよ!

(長司祭 パウェル 及川 信)