■2023年1月 人間の体シリーズ 足 5 つま先だち 背のびをしたあと

イイススはエリコに入り、町を通っておられた。そこに
ザクヘイ(ザアカイ)という人がいた。この人は徴税人の
頭(かしら)で、金持ちであった。イイススがどんな人か
見ようとしたが、背が低かったので、群衆にさえぎられて
見ることができなかった。それで、イイススを見るために
走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通りす
ぎようといておられたからである。イイススはその場所に
来ると上を見あげて言われた。「ザクヘイ、急いで降りてき
なさい。今日、ぜひあなたの家に泊まりたい」
(新約聖書「ルカ福音書」19:1~参照)

「先輩、惜しかったね。あと5センチ背が高かったら、もっと女の子にもてたのにね」、高校時代、そう部活動の後輩の女子から言われたことがあります。
 残念ながら人は、大人になってから、じぶんの背や足を思い通りの長さに伸ばすことができません。
 ザクヘイがいくら、つま先だって背を伸ばし、群衆の垣根をこえて覗こうとしても、イイススの姿が見えません。
 そのとき、ふと思いだします。あの通りには、人が登れる太さの大きないちじく桑の木があった。いっさんに走り、木に手と足をかけ、登ります。
 ザクヘイは40歳くらいであったのでしょうか。
 中年、熟年世代の涙ぐましい努力です。
 そしてイイススが一夜の宿に指名したのが、ザクヘイの家でした。
 ザクヘイの頼りにした木は、みずからの不足を補い、イイススとの出会いをもたらしました。
 手足や衣服に、擦り傷やほころびをつくってでも登らねばならない、かけがえのない機会を生みだす木でした。
 「わらしべ長者」「ジャックと豆の木」、昔話にあるような、一見なにも生みださないようなものが、神の恵みと信仰者の努力によって、変容することがあります。
 ザクヘイが希いをかなえるために機転を利かせ、けん命に路地うらを走り、木によじ登ったことが、神との邂逅(かいこう)に結びつきました。
 群衆の向こう側でつま先だち、見えないからとあっさり、あきらめてしまっていては、神との出会いはなかったでしょう。
 つま先だち、背を伸ばした、そのあとが重要です。
 つぎの一歩へ踏みだす勇気が大事であることを、ザクヘイが教えてくれます。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2022年12月 人間の体シリーズ 足 4 愛のしるし 足を洗う

このひとを見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あ
なたは足を洗う水をくれなかったが、この人は涙でわたしの
足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接
吻もしなかったが、この人はわたしが入ってから、わたしの
足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油をぬっ
てくれなかったが、この人は足に香油をぬってくれた。この
人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示してくれた愛の
大きさでわかる。赦されることの少ないものは、愛すること
も少ない。
(新約聖書「ルカ福音書」7:36~参照)

 旅塵(りょじん)にまみれたイイススの足にすがりつき、抱き、接吻し、涙と香油で足をぬぐった、ひとりの女性がいました。
 タオルではなく、じぶんの髪の毛をもって足をぬぐいます。
 悲しくて、つらくて、目をあげてイイススを仰ぐことができません。
 イイススは、神は、その女性をうけいれます。
 福音書は、罪深い女と表現しています。
 人の世の律法(法律)では、罪深いひとであったのでしょう。
 まわりの人にさげすまれ、うとまれていました。
 でも慕われた神からすると、愛さずにはいられない、かけがえのない人でした。
 罪の赦しと何でしょうか。
 神がわたしたちを裏切らないので、わたしたちは試練をうけとめることができます。
 神が信じてくださるので、わたしたちは希望をもてます。
 神が愛してくださっているので、わたしたちは平安になれます。
 ようやく顔をあげた女性の瞳をみて、イイススは言いました。
「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」
生き直す、再生。
 復生(ふくせい)を信じましょう。    

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2022年11月 人間の体シリーズ 足 3 つまずく 躓く

わたしの信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、
大きな石臼(いしうす)を首にかけられて、海に投げ込まて
しまうほうがはるかによい。もし片方の手があなたをつまず
かせるのなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったま
ま、地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても
命にあずかるほうがよい。
(新約聖書「マルコ福音書」9:42~参照)

 イイススは語ります。
「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である」(ルカ17:1)
 祈りの基本は、じぶん以外のほかの人のために祈ることです。
 たとえば、ゲフシマニア(ゲッセマネ)の祈りで、主イイススは、
「アッバ、父よ、あなたはなんでもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心(みこころ)にかなうことが行われますように」(マルコ14:36)
 と祈ります。
 神の子として献身し、犠牲となり、すべての人を救うための祈り。
 このイイススの祈りは、わたしたちが祈るとき、つねに念頭におかねばならない心を教えてくれます。
 この祈りをさまたげ、奉仕と献身をあざ笑い、ひとの信仰を誤らせるように仕向ける「つまずきの石」を置く者は、みずからのつまずきに気づいていません。
 イスカリオテのユダのように、つまずきの石を、じぶんで抱えている人、それらを捨て去る勇気を発掘できない人は不幸です。
 最大のつまずきの石は、不信、「疑い」です。
 疑えば疑うほど、ひとは、ひがみっぽくなり、恨んだり憎んだり呪ったり、嚇怒(かくど)するようになります。
 疑えば疑うほど、ひとは心がもろく、弱くなっていきます。

 祈れば祈るほど、人は強くなります。
 その強さは、暴風にあおられても折れたり、倒れたりしない、しなやかで強靱な、不屈の勇気、希望を宿します。
それでは、じぶんが救われないではないか、犠牲ばかりなのか……。
 ちがいます。
 ほかのひとが救われ、神にあたえられた命を全うするとき、わたしたちも共に生きます。
 祈りは、他者も じぶんも 生かします。
 疑わずに 人を、神を 信じ、愛することが、つまずきの石を乗りこえさせます。
 祈りのひとは、つまずいても起き上がり、立ち直る、よみがえりの生き方をえようと、渾身のちからをふるいつつ けん命に生きることでしょう。     

(長司祭 パウェル 及川 信)

※聖像(イコン) 「イイススへの悪魔(サタン)の誘惑」

■2022年10月 人間の体シリーズ 足 2 裸足(はだし)になりなさい

モーセ(モイセイ)は、あるとき、神の山ホレブに来た。
そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使
いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は燃えているのに、
柴は燃え尽きない。モーセは言った。
「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どう
してあの柴は燃え尽きないのだろう」
主は、モーセが道をそれて見に来るのをご覧になった。
神は柴の間から声をかけられ、
「モーセよ、モーセよ」と言われた。
彼が「はい」と答えると、神が言われた。
「ここに近づいてはならない、足から履き物をぬぎな
さい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから」
(旧約聖書「出エジプト記3章参照)

 不思議な描写です。
 モーセは、燃え尽きない炎に誘われたのでしょうか。
 それとも、炎のなかの御使い、神の使い、天使のすがたを感じたのでしょうか。
 こんなに烈しく燃えているのに、いつまでたっても焼滅しない神秘の現象にこころ奪われ、行かねばならない山道をはずれ、初めての道を歩みはじめます。
 道をそれることに、不安や恐怖はなかったのでしょうか。
 人生は二者択一、選択の連続でありますが、モーセの勇気が、見知らぬ道をえらばせました。
 燃える柴の中から、名前を呼ばれたモーセは、はい、と答えます。
 楽園から追放されたアダムとエバ(イブ)は、返答しませんでしたが、モーセは、答えています。
 すると神は、燃える火の粉の飛び散る中にあって、裸足になれと命じます。
 ある聖なる師父は、こう諭されています。
「わたしたちは、じぶんの真の姿を知ることをさけてはならない」
 じぶんの真のすがたを直視すること、すなわち裸足で新たな道、生き方を選択することは、もしかしたら炎の道、痛みをともなう茨の道を生きることなのかもしれません。
 無謀と、神を信じる勇気ある冒険は、紙一重なのかもしれません。
 努力したからといって、望む結果が得られるとは限りません。
 けれども新たな道、生き方に挑戦し、努力をつづけるものだけが、栄冠をえられることも現実です。
 聖師父はこう語ります。
「いったん手をつけた仕事に必要なだけの辛抱を身につけなさい。労苦をいとわず、神を信じてあゆみ、この道にあって進歩し、徳にいたりなさい」
神は、おびえ、不安に満ちるモーセにこう語っています。
「わたしはある、という方が、わたしをあなたたちに遣わされた」
 信じ、勇気をふりしぼり、希望をもって「神の道」にそれたものが、ときには神のもとにたどり着くのでしょう。     

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2022年9月 人間の体シリーズ 足 1 平和を告げるひと

見よ、よい知らせを伝え
平和を告げる者の足は山の上へ行く。
(旧約聖書「ナホム書」2:1)

 よき知らせを、福音といいます。
 嘉音とも表現します。
 ひとによってよき知らせには、ちがいがあるのでしょうが、正教会(オーソドックス・チャーチ)は、神との出会い、洗礼をうけ、神の道を歩みはじめること、挫折から再起へ、心機一転すべく目覚めることが重要だと教えます。
 正教会の言葉は、古くて含蓄のある聖言がいくつもあります。
  降福(こうふく)
  神恩(しんおん)
  恩寵(おんちょう)
 最初に引いた聖句「平和を告げる者の足は山の上へ行く」、この山とは、どこをさし、どんな山を登るのでしょうか。
 たとえば、モーセが十誡(十戒)の石板を恩賜されたシナイ山。
 主イイススが変容されたタボル山(あるいはヘルモン山)。
 神の国を象徴するシオン山。
 イイススが十字架を負うて歩まれた行く先、ゴルゴダの丘。
 広義においてシオン山の一部にふくまれるというゴルゴダの丘は、神の創造されたエデンの園の近くにあったそうです。アダムとエバを葬ったお墓のあったところともいわれています。
 シオン山はかつて、アダムとエバ(イブ)が食べてしまった果実を産する善悪を知る木ばかりでなく、生命(いのち)の木がはえている楽園であったといいます。
 平和を告げる者である救い主イイススは、ゴルゴダへのぼり、十字架にかけられ、死をもって死を滅ぼし、復活の生命を実現しました。
イイススの受難の十字架は、再生、復生の木、すなわち生命の木を預象(よしょう)しています。
 主の復活の聖像(イコン)には、死の上に立つ者、十字架を踏みしめ、アダムとエバを永遠の生命へと引き揚げる救世主の姿が描かれます。
 救い主イイススは神の山に登頂し、神と人とを和解させ、平和を実現し、ひとに真の生き方をもたらしました。
 イイススは宣べています。
「和平を行う者は福(さいわい)なり、かれら神の子と名づけられんとすればなり」(マトフェイ、マタイ福音書5:9)
それゆえ聖使徒パウェルはわたしたちにこう語りかけるのです(エフェス6:15)。
「平和の福音を告げる準備を履物(はきもの)としなさい」

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2022年8月 人間の体シリーズ すねに傷もつひとの希望

道を踏み外して死を招くな。
自分たちの手の業で滅びを引き寄せるな。
神が死を造られたわけではなく、
命あるものの滅びを喜ばれるわけではない。
生かすためにこそ神は万物をお造りになった。
(旧約聖書「知恵の書」1章参照)

 40年あまり前、20歳のわたしは寝袋を負い、からだ一つでギリシャを旅しました。聖山アトス(アギオンオロス)に7日間滞在しました。
 ぽんぽん蒸気船のような、10人乗れば満員の小ぶりの船が、聖なる山へと運んでくれました。
 訪れた修道院の一つが聖フィロセウ修道院です。
 たしか回廊の壁画だったと思うのですが、足をとめ、そのイコンを見ていると、ひとりの修道士がかたわらに立ちました。
「天国、神の国への梯子(はしご)だ。梯子を登っていくのは修道士であるが、そこから転落していくのも修道士だ」
足を踏み外す格好をした修道士は、わたしを見て微笑みうなずき、それから別の巡礼者のところへ歩いていきました。
 すねに傷もつ、という言葉があります。
 前科のある犯罪者という意味合いが濃いのですが、そうした過去をうまく取り繕って隠しているにもかかわらず、風に揺れる笹の葉の音にさえ敏感に反応してしまう、後ろめたい生き方をするひと、そういう解釈もできるでしょう。
 いまでも転落していく信仰者がわたしではないのか、という恐怖があります。
 ひとをみちびき教える、そういう万全の信仰者ではないのに、すねに傷もつ信仰者であるのに、司祭、神父という立場にあることを怖いと思います。
 あのときの壁画、イコンをときどき、思い出し、そのたびに、いまつかんでいる梯子をしっかりにぎり、離さぬよう自らを𠮟咤(しった)します。
 たとえ小指いっぽんでも、つかみつづけるように。
 「シラ書 集会の書」は、こう語っているからです(2章参照)。

子よ、主に仕えるつもりなら、
自らを試練に向けて備えよ。
心を引き締めて、耐え忍べ。
災難のときにも、取り乱すな。
主に寄りすがり、
決して離れるな。
 
主を信頼せよ。
そうすれば必ず助けてくださる。
おまえの歩む道を一筋にして、
主に望みを置け。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2022年7月 人間の体シリーズ すね 弱み 弱点

……思い上がることのないようにと、わたしの身に
一つのとげがあたえられました。それは思い上がら
ないように、わたしを痛みつけるために、サタンか
ら送られた使いです。この使いについて離れ去らせ
てくださるようにと、わたしは三度、主に願いいま
した。すると主は、
「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの
なかでこそ十分に発揮されるのだ」
と言われました。
 (新約聖書「2コリント書」12章参照)

  聖使徒パウェルが、おそらく「てんかん」であった事実は、よく知られています。突然昏倒し、意識不明となり、目が覚めると、おそいかかってくる死への恐怖。いまも完治する即効薬のない難病です。
 聖像(イコン)はダマスコ途上、神に出会った聖使徒パウェルです。
 ひとの体のなかで、鍛えようのない部位の一つが「すね」だといいます。
 すねから、かかとへと下ると、アキレス腱があります。
 すねは、弁慶の泣きどころ。勇士アキレスの泣きどころが、アキレス腱です。
 筋肉疲労などにより、すねのうら、ふくらはぎなどが、肉離れを起こすことがあります。この痛みも激烈です。
 こむらがえりとか、寝ていて、ふくらはぎから足にかけて「つってしまう」こともあります。これも突如おそってくる激痛の波動に悶絶します。
 一方じぶんの努力や訓練によって克服できる弱点があります。
 たとえば、怒りっぽい、グチばかり言う、観察力や注意力の不足、恨みを忘れられない、など。
 その一方、生まれついての弱点、あるいは弱みのようなものもあります。
 ほかのひとと自らの体型・顔つきなどを比べて嘆くこと、おなかが弱くてすぐゲリをする、目の筋肉が弱い……これはわたしが眼科医に言われたことです。目の筋力・耐久性が弱いので眼精疲労がほかのひとよりひどくなるスピードが速い、といわれました。
 弱み、弱点、ひとのふつうの努力では克服しえない身体的現象が、わたしたちにはあります。ときには一生のつきあいとなります。
 困ったことに、からだだけでなく、心や精神にも、長年つれそっている弱点、弱みがあります。なかなかうまく直りません。
 では失望したままで良いでしょうか。
 自分の力ではどうにもできない弱みや弱点を補い、助けてくださるのが神です。
「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さのなかでこそ十分に発揮される」
 そう神は言います。
 弱いところ……すぐ折れそうになり、萎縮する心があります。
 完全無欠、完璧無比をよそおい、無理な見栄を張る必要はありません。
 ときには神のひざにすがりつきましょう。愛をもとめて。
 きっと生きる勇気と希望を、神がおあたえくださることでしょう。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2022年6月 人間の体シリーズ 膝(ひざ)6

慕いもとめる祈り

主は 倒れようとしている人を
ひとりひとり支え うずくまっている人を
起こしてくださいます。

  

主の道はことごとく正しく
御業(みわざ)は慈しみを示しています。
主を呼ぶ人 すべてに 近くいまし
まことをもって呼ぶ人 すべてに 近くいまし
主を畏れる人びとの望みをかなえ
叫びをきいて 救ってくださいます。
 (旧約聖書「詩編」145:14〜参照)

主の昇天祭を讃栄します
 わたしたちは、聖体礼儀の中で「こころ上に向かうべし」と祈ります。こころの膝をかがめて祈る、よくそう言いますが、それは謙遜さのあらわれる祈りの姿勢をさすことが多いのでしょう。
(聖像:サーロフの聖セラフィム)
 人生いろいろなことが起こります。
 挫折し、地に倒れふし、土をかみながら、苦痛の祈りをささげることもあるでしょう。
天にいます神を仰ぎ、手をうえに向けて、祈ることができないときもあるでしょう。
うずくまっている人が、神に手をとられ、うでを高くさし上げ、絶望の思いを秘めながら祈ることもあるでしょう。
大斎(おおものいみ)、先備聖体礼儀(問答者聖グリゴリーの聖体礼儀)の中でこう祈ります。

願わくは、わが祈りは 香炉の香りのごとく なんじが顔(かんばせ)の前に登り、わが手をあぐるは、暮れの祭りのごとく納れられん。

祈りが香炉の香りのように「登る」とは面白い表現です。
人の祈りは、生命あるかのように、脈動し、神の前に登っていきます。
慕いもとめるひとは、神へと登っていきます。
希望のひかりにつつまれながら。
救い主イイススは、神の子でありながら人の子として降り、わたしたちは、神の呼びかけと救いの手にみちびかれて、天へと登ります。
 ひざまずく祈りは、地より天へ、死より生命へと登る、慕いもとめる祈りなのです。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2022年5月 人間の体シリーズ 膝(ひざ)5

イイススの足にすがる女性

過越祭の六日前、イイススはベタニアへ行かれた。
そこには、イイススが死者の中からよみがえらせた
ラザリ(ラザロ)がいた。イイススのため夕食が用
意された。マルファ(マルタ)は給仕をしていた。
……そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルド
の香油一リトラを持ってきて、イイススの足に塗り、
自分の髪の毛でその足をぬぐった。家は香油の香り
でいっぱいになった。
(新約聖書「イオアン(ヨハネ)福音書」12章参照)

ハリストス復活! 実に復活!
 福音書のほかの場面では、イイススの頭に香油をかけ祝福する姿、接吻をしてやまない姿、あるいは涙あふれ泣きながらイイススの足にすがりつく女性の光景がみられます。
おそらく福音伝道する生活の中で、いく度となくイイススは、こういう女性に巡りあったのでしょう。
ひざに、足にすがりついて救いといやしを求める姿、愛慕の情にゆり動かされたイイススの慈愛のまなざしが脳裏にうかびます。
その一方で「もったいない、香油を高値で売って貧しい人を助ける足しにすれば良いのに」そう語ったのは、イスカリオテのユダひとりではないでしょう。
残酷なひとがいます。
じぶんのいる場所、その立場、視座をいっさい変えずに、冷酷な評論家のようなひとがいます。
そのわかっているフリを「信仰」と呼ぶひともいます。
イイススは、最後の晩餐のとき、受難の直前、ひざまずいて弟子の足を洗いました。弟子たちは、ずいぶんあとになってから、そのときのイイススの思いとこころにふれることになります。
わたしたちは、残念ながら鈍感です。
イイススから遠いところに信仰生活を送っています。
わたしたちは、イイススの足にすがりつき、助けをこいましょう。
大斎(おおものいみ)、受難週と、ひざまずいての祈りがたくさん、くり返されるのは、からだとこころのひざをかがめ、体験しなければ見えてこない、救いといやしがあるからなのです。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2022年4月 人間の体シリーズ 膝(ひざ)4

イイススの洗足(せんそく)

さて、過越祭の前のことである。イイススは、
この世から父のもとへ移るご自分の時が来たこと
を悟り、世にいる弟子たちを愛して、このうえなく
愛しぬかれた。夕食のときであった。すでに悪魔は
イスカリオテのシモンの子イウダ(ユダ)に、イイ
ススを裏切る考えを抱かせていた。イイススは、父
がすべてをご自分の手にゆだねられたこと、また、
ご自分が神のもとからきて、神のもとへ帰ろうとし
ていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着
を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰にまとわれた。それか
ら、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰に
まとった手ぬぐいでふき始められた。
 (新約聖書「イオアン(ヨハネ)福音書」13章参照)

 京都正教会 生神女福音大聖堂の聖障(イコノスタス)中央にかざられている「最後の晩餐」機密の晩餐の聖像、イコン。
主イイススをかこんで弟子たちがすわるテーブル、聖卓の下に、水をくむつぼとたらい、タオル、ちいさなイスが置かれているのを、ご存知でしょうか。
洗礼を受け、すでに聖なる水による聖洗がなされていたにもかかわらず、ひざまずいたイイススはみずからの手で、弟子の素足を水で洗い、タオルで濡れた足をぬぐいました。
そのなかにはイイススを裏切るイウダ(ユダ)がいます。
捕らわれたイイススを助けに行ったのに、イイススの目の前で、恐怖から逃げ去ったペトルもいました。
いちばん年少のイオアン(ヨハネ)以外の弟子は、逃散しました。
洗足、それは、恐怖と絶望、暗闇の中から神の光へと、一歩を踏み出すひとの足を祝福します。
ひとりひとりの弟子の前にひざまずいて洗足したイイススは、ここからすべてが始まることを知っておられ、残酷な運命に翻弄されず、つねに前を向き、あらたな一歩を、人生を歩みだせるようにと、こころから祈り、祝福したのではないでしょうか。
洗足の水は、イイススの涙だと思います。
挫折せず、くじけず、不屈のこころとからだをもって、生きよ。
死から生命へ、死から再生へ、死から復活へ。
主の洗足、弟子へのひざまずきは、恩師の愛のあらわれ、希望と勇気だったと思います。
もうすぐ復活大祭、聖堂で祈るとき、イイススのひざまずいて祈る姿、わたしたちを祝福される お姿を想起し、その悲しみと熱情に慄然とします。

(長司祭 パウェル 及川 信)