■2022年6月 人間の体シリーズ 膝(ひざ)6

慕いもとめる祈り

主は 倒れようとしている人を
ひとりひとり支え うずくまっている人を
起こしてくださいます。

  

主の道はことごとく正しく
御業(みわざ)は慈しみを示しています。
主を呼ぶ人 すべてに 近くいまし
まことをもって呼ぶ人 すべてに 近くいまし
主を畏れる人びとの望みをかなえ
叫びをきいて 救ってくださいます。
 (旧約聖書「詩編」145:14〜参照)

主の昇天祭を讃栄します
 わたしたちは、聖体礼儀の中で「こころ上に向かうべし」と祈ります。こころの膝をかがめて祈る、よくそう言いますが、それは謙遜さのあらわれる祈りの姿勢をさすことが多いのでしょう。
(聖像:サーロフの聖セラフィム)
 人生いろいろなことが起こります。
 挫折し、地に倒れふし、土をかみながら、苦痛の祈りをささげることもあるでしょう。
天にいます神を仰ぎ、手をうえに向けて、祈ることができないときもあるでしょう。
うずくまっている人が、神に手をとられ、うでを高くさし上げ、絶望の思いを秘めながら祈ることもあるでしょう。
大斎(おおものいみ)、先備聖体礼儀(問答者聖グリゴリーの聖体礼儀)の中でこう祈ります。

願わくは、わが祈りは 香炉の香りのごとく なんじが顔(かんばせ)の前に登り、わが手をあぐるは、暮れの祭りのごとく納れられん。

祈りが香炉の香りのように「登る」とは面白い表現です。
人の祈りは、生命あるかのように、脈動し、神の前に登っていきます。
慕いもとめるひとは、神へと登っていきます。
希望のひかりにつつまれながら。
救い主イイススは、神の子でありながら人の子として降り、わたしたちは、神の呼びかけと救いの手にみちびかれて、天へと登ります。
 ひざまずく祈りは、地より天へ、死より生命へと登る、慕いもとめる祈りなのです。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2022年5月 人間の体シリーズ 膝(ひざ)5

イイススの足にすがる女性

過越祭の六日前、イイススはベタニアへ行かれた。
そこには、イイススが死者の中からよみがえらせた
ラザリ(ラザロ)がいた。イイススのため夕食が用
意された。マルファ(マルタ)は給仕をしていた。
……そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルド
の香油一リトラを持ってきて、イイススの足に塗り、
自分の髪の毛でその足をぬぐった。家は香油の香り
でいっぱいになった。
(新約聖書「イオアン(ヨハネ)福音書」12章参照)

ハリストス復活! 実に復活!
 福音書のほかの場面では、イイススの頭に香油をかけ祝福する姿、接吻をしてやまない姿、あるいは涙あふれ泣きながらイイススの足にすがりつく女性の光景がみられます。
おそらく福音伝道する生活の中で、いく度となくイイススは、こういう女性に巡りあったのでしょう。
ひざに、足にすがりついて救いといやしを求める姿、愛慕の情にゆり動かされたイイススの慈愛のまなざしが脳裏にうかびます。
その一方で「もったいない、香油を高値で売って貧しい人を助ける足しにすれば良いのに」そう語ったのは、イスカリオテのユダひとりではないでしょう。
残酷なひとがいます。
じぶんのいる場所、その立場、視座をいっさい変えずに、冷酷な評論家のようなひとがいます。
そのわかっているフリを「信仰」と呼ぶひともいます。
イイススは、最後の晩餐のとき、受難の直前、ひざまずいて弟子の足を洗いました。弟子たちは、ずいぶんあとになってから、そのときのイイススの思いとこころにふれることになります。
わたしたちは、残念ながら鈍感です。
イイススから遠いところに信仰生活を送っています。
わたしたちは、イイススの足にすがりつき、助けをこいましょう。
大斎(おおものいみ)、受難週と、ひざまずいての祈りがたくさん、くり返されるのは、からだとこころのひざをかがめ、体験しなければ見えてこない、救いといやしがあるからなのです。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2022年4月 人間の体シリーズ 膝(ひざ)4

イイススの洗足(せんそく)

さて、過越祭の前のことである。イイススは、
この世から父のもとへ移るご自分の時が来たこと
を悟り、世にいる弟子たちを愛して、このうえなく
愛しぬかれた。夕食のときであった。すでに悪魔は
イスカリオテのシモンの子イウダ(ユダ)に、イイ
ススを裏切る考えを抱かせていた。イイススは、父
がすべてをご自分の手にゆだねられたこと、また、
ご自分が神のもとからきて、神のもとへ帰ろうとし
ていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着
を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰にまとわれた。それか
ら、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰に
まとった手ぬぐいでふき始められた。
 (新約聖書「イオアン(ヨハネ)福音書」13章参照)

 京都正教会 生神女福音大聖堂の聖障(イコノスタス)中央にかざられている「最後の晩餐」機密の晩餐の聖像、イコン。
主イイススをかこんで弟子たちがすわるテーブル、聖卓の下に、水をくむつぼとたらい、タオル、ちいさなイスが置かれているのを、ご存知でしょうか。
洗礼を受け、すでに聖なる水による聖洗がなされていたにもかかわらず、ひざまずいたイイススはみずからの手で、弟子の素足を水で洗い、タオルで濡れた足をぬぐいました。
そのなかにはイイススを裏切るイウダ(ユダ)がいます。
捕らわれたイイススを助けに行ったのに、イイススの目の前で、恐怖から逃げ去ったペトルもいました。
いちばん年少のイオアン(ヨハネ)以外の弟子は、逃散しました。
洗足、それは、恐怖と絶望、暗闇の中から神の光へと、一歩を踏み出すひとの足を祝福します。
ひとりひとりの弟子の前にひざまずいて洗足したイイススは、ここからすべてが始まることを知っておられ、残酷な運命に翻弄されず、つねに前を向き、あらたな一歩を、人生を歩みだせるようにと、こころから祈り、祝福したのではないでしょうか。
洗足の水は、イイススの涙だと思います。
挫折せず、くじけず、不屈のこころとからだをもって、生きよ。
死から生命へ、死から再生へ、死から復活へ。
主の洗足、弟子へのひざまずきは、恩師の愛のあらわれ、希望と勇気だったと思います。
もうすぐ復活大祭、聖堂で祈るとき、イイススのひざまずいて祈る姿、わたしたちを祝福される お姿を想起し、その悲しみと熱情に慄然とします。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2022年3月 人間の体シリーズ 膝(ひざ)3

ゲフシマニアの祈り

一同がゲフシマニヤ(ゲッセマネ)という所に
くると、イイススは弟子たちに「わたしが祈っ
ている間、ここに座っていなさい」と言われた。
そして、ペトル、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、
イイススはひどく恐れてもだえ始め、かれらに
言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここ
を離れず、目を覚ましていなさい」。すこし進ん
で行って地面にひれ伏し、できることなら、こ
の苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、
こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でも
おできになります。この杯をわたしから取りの
けてください。しかし、わたしが願うことでは
なく、み心にかなうことが行われますように」
(新約聖書「マルコ福音書」14章参照)

 最後の晩餐、機密の晩餐をあとに、オリーブ山でひとり静かに祈られる、イイススの状景がつづられています。
 弟子は数多く、すぐそばにいるのですが、イイススの孤独はつのります。
 天と地、神と人、生と死との狭間(はざま)にあって、受難と十字架を意識するイイススは、ひざまづいて祈ります。
 地にひざまずく。
 それは、地、すなわち人の生きる大地、死という地に掘られてしまった埋葬の谷を表現します。
 イイススは天からつかわされた神の子でありながら、地に生き、死の軛(くびき)を振り落とせない、人の罪深さと孤独を体験します。
死の眠りにまどろみかけている弟子を、嘆息しながら諭すイイススは、三度目に弟子のところへ戻ったとき、「もういい、時が来た」と言わざるを得ませんでした。
 死とは絶望、耐えがたい孤独、希望をいだかせることを諦めさせる失望です。
 そこから、這い上がろうとする祈りを、イイススはその生き方によって、わたしたちに伝えます。
 多くの日本の聖堂は、至聖所、むかって左奥、奉献台のまえに、ゲフシマニヤの祈りの聖像(イコン)が安置されています。
その前で祈るとき、わたしは胸の痛みと、たとえがたい復活への志望を、いつも体験しながら、聖なるパンと聖血である赤ぶどう酒を準備するのです。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2022年2月 人間の体シリーズ 膝(ひざ)2

跪拝(きはい)
ひざをついての祈り

夕べの献げ物のときになって、
かがめていた身を起こし、
裂けた衣とマントをつけたまま
ひざまずき、わが神、主に向かって
手をひろげ、祈りはじめた。
(旧約聖書「エズラ記」9:5-6)

 人気テレビドラマ「半沢直樹」シリーズ、「倍返しだ!」が有名になりましたが、もう一つ わたしが注目したものがあります。
 土下座(どげざ)です。
 土下座というと、あやまれ、謝罪しろ、と無理矢理 強要することばかりが頭をよぎります。でも本来の意味はちがう、という説があるそうです。
 日本では古来、貴人が目の前を通過する際の最高の礼として、土下座の姿勢をとったというのです。
 あなたを尊敬し、言われることを実行します、と自分の真心を表現する手段として土下座をしました。
 それが中世以降、身分制度を明確にするため、立場の上下をはっきりさせるため、土下座を活用するようになったといわれています。

 正教会における「ひざをついての祈り」は、どういう意味をもつのでしょうか。
 祈りの姿勢は、ふつう、叩拝(こうはい)、弓拝(躬拝、きゅうはい)、伏拝(ふくはい)の三つがあげられます。
 三つめの祈りの姿勢、伏拝にもすこし重複しますが、四つめの祈りの姿勢があります。
 これが、ひざを地につけての祈り、跪拝(きはい)です。
 跪拝は、特殊な祈りである同時に、ハリスティアニン(クリスチャン)にとっては、もっとも身近な祈りの姿勢のひとつです。
 ひざから下、すねや足の甲(あるいは つまさき)を地につけ、ももから上を立て、天をあおぎ祈ります。
 たとえばイイススは、一人になっての祈り、独処(どくしょ)の祈りのとき、この姿勢で祈った、といわれています。
 この祈りは、正教会の聖なる伝統となって、うけ継がれていきます。
 それをこれから、紹介しましょう。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2022年1月 人間の体シリーズ 膝(ひざ)1

ひざまずいて祈る

イイススがそこを出て、いつものようにオリーブ山に
行かれると、弟子たちも従った。いつもの場所に来ると、
イイススは弟子たちに、
「誘惑に陥らないよう祈りなさい」
と言われた。そして自分は、石の投げて届くほどの
所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。
「父よ、み心なら、この杯をわたしから取りのけて
ください。しかし、わたしの願いではなく、
み心のままに行ってください」
イイススは苦しみもだえ、ますます切に祈られた。
汗が血の滴るように地面に落ちた。
〈新約聖書「ルカ福音書」22章参照〉

 40年ほども昔、神学生であった頃、祈祷の準備のため早めに入堂したわたしは、東京復活大聖堂でひざまずいて祈っていました。そこへロシア人の老婦人が入ってきて、わたしの横に立つなり、
「聖堂でひざまずいて祈ってはいけない、立ちなさい」
こわい顔をして言いました。おどろいたわたしがすぐさま、立ち上がった記憶があります。
 その老婦人は、斎(ものいみ)の時以外は「ひざまずきはいけない」と、いく度もくり返していました。
おそらくロシアのじぶんの育った教会での慣習で、そう主張したのでしょう。
「こころのひざをかがめて祈るとき」、いつのまにか、からだのひざをかがめて祈り、こころの有りようをあらわすのは、自然のことと思います。
 ひざを地におろし、背すじをのばし、両手をのばして天にささげ、顔をあげて祈る姿勢は、ハリスティアニンの自然な祈りのすがたです。
 まさに大地に象徴される神のふところに抱かれ、神に向かい手をのばして祈るとき、ひざはいつしか地に着いているものなのでしょう。
 こころの底、からだの奥底からの祈り、神への痛切な祈り。
 それは、神への「まごころ」の献げもの、神に支えられていることを実感する祈りです。世界中でひざまずいて祈るたくさんのひとがいます。
 神のこころにふれるとき、こころのひざも、からだのひざもかがまり、でも、こころもからだは神に開放され、恩寵を抱きとめることができるでしょう。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2021年12月 人間の体シリーズ 腿(もも)3

救い主イイススの胸によりそう

その弟子が、イイススの胸もとに寄りかかったまま  
「主よ、それはだれのことですか」というと、
イイススは、「わたしがパンきれを浸して与える
のがその人だ」と答えられた。
〈新約聖書「イオアン(ヨハネ)福音書」13章〉

 腿(もも)の誓い、立ってする誓いと、席座する誓いの形があり、実際に体で表現すると、こうなります。
 誓いを立てる者、宣誓の言葉を語る者は右手を、相手の腿の間に入れます。すると自然に頭は、誓いの言葉を聴く人の右肩、右胸に当たります。
 誓いの言葉を聴く者は、相手の肩を抱くか、背中をなでて、その誓いを聞き取ります。
 上記のイコン、リーナ・デルペーロ「最後の晩餐」『作品集』1999年
 
 この親密な態勢。
 じつは祈りの姿勢なのです。
 祈りが神に対する重要な誓いの言葉であることをわたしたちは思い起こしましょう。
 さらに、この誓いの姿勢は、最後(機密)の晩餐で、いちばん年少の使徒イオアン(ヨハネ)が、恩師イイススの胸に寄りかかって、その心臓の音を聴いた姿そのものです。
 神様に向かって祈り、誓う者は、その胸・肩に顔を、ほほをすり寄せ、神様の親密な温かさ、体温、呼吸、心臓の鼓動を体感します。
 黙示録を書いた聖使徒、福音者、神学者イオアンは、こう言います。

「この方(救世主)の衣と腿のあたりには、王の王、主の主という名が記されている」(黙示録19・16)

 腿の間に手を入れて、人生を左右する誓いを立てる。
 もちろん、現代において、この誓いの形はほとんど行われていませんが、教会では「按手(あんしゅ)」という別の祝福の形で生きています。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2021年11月 人間の体シリーズ 腿(もも)2

遺言執行の徴(しるし)

イスラエル(イアコフ)は死ぬ日が近づいた時
息子イオシフ(ヨセフ)を呼び寄せて言った。
「もし、おまえがわたしの願いを聞いてくれる
なら、おまえの右の手をわたしの腿(もも)の
間に入れ、わたしのために慈しみとまこととを
もって実行すると、誓ってほしい。どうか、
わたしをこのエジプトには葬らないでくれ。
わたしが先祖たちと共に眠りについたなら、
わたしをエジプトから運び出して、先祖たちの
墓に葬ってほしい」
(旧約聖書「創世記」47:29〜30)

 ユダヤ人のとその国を「イスラエル」と称する起原ともいうべき列祖、イアコフは、一番信頼するイオシフ(ヨセフ)に誓いを立てさせます。
 これは「手をわたしの腿(もも)の間に入れ、天の神、地の神である主にかけて誓いなさい」(創世記24:2、9)と同意義です。
慈しみと真実(まこと)をもって、遺言を実行することを、天地神明にかけて宣誓します。
 信仰の相続とは、おそらく「生命をかけた誓い」なのでしょう。
 わたしたちの多くは、遺言の内容というと、おおむね お墓や祭壇(仏壇)の継承くらいに、想定しがちなのですが、イスラエルは、わたしたちの帰るべき国が「神の国」天国であると言明します。
 すなわち、わたしたちの 国籍は、天にある のです。
 遺言というと、ついつい財産、お金や土地、金銀宝石を想像してしまいますが、ほんとうは人の生き方、だれといっしょに、どこへ向かって生きるのかが重要なのでしょう。
 神と共に、救い主イイススといっしょに、神の国をめざして生きる、その共同体、家族が、正教会です。
 アダムとエバ(イブ)に始まった、創世以降の人間の壮大なドラマは、信仰の相続、信仰財産の相続執行という、神の民の生き方にあらわれています。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2021年10月 人間の体シリーズ 腿(もも)1

誓いの徴(しるし)

アウラアム(アブラハム)は多くの日を
重ねて老人になり、主は何事においても
アウラアムに祝福をお与えになった。
アウラアムは家の全財産を任せている年
寄りの僕(しもべ)に言った。
「手をわたしの腿の間に入れ、天の神、
地の神である主にかけて誓いなさい。
あなたはわたしの息子の嫁をわたしが今
住んでいるカナンの娘からとるのではなく、
わたしの一族のいる故郷へ行って、
嫁の息子イサクのために連れてくるように」
(旧約聖書「創世記」24:2〜9)

 高徳老齢の家宰(かさい)は、このあと「主人アウラアムの腿(もも)の間に手を入れ、このことを彼に誓った」のです。
腰が「生命の源」、「神秘の恵みと力の源泉」であるとすると、その腰を支える腿は、腰の土台、あるいは人の体幹を支える主軸であるといえます。
 家であれば、大黒柱、あるいは主イイススが語った家の基礎を構成する「隅の首石(かしらいし)」が相当するでしょう。
 旧約聖書の時代から、教会にとって、信仰者にとって、腿は重要です。
 腿は、重要な誓い、誓約を立てるときに使われます。
おそらく両腿の間に右手を差しいれるのでしょう。不思議な姿勢です。
 ひとりの時には、じぶんの腿に手を置き、神に誓いを立てることがあったのでしょう。
 預言者エレミヤのつぎの姿が「腿の誓い」を証明します。

「わたしは立ち帰ります。あなたはわたしの
神です。わたしは背きましたが、後悔し 
思い知らされ、腿を打って 悔いました」
(エレミヤ31:18-19)

 エレミヤがじぶんの腿を打ち、神への誓いを破ってしまったことを痛悔したところ、神が「新しい契約」を贈ってくださることが預言されます。

「来たるべき日、わたしがイスラエルの家と
結ぶ契約はこれである、と主は言われる。
すなわち、わたしの律法をかれらの胸の中に
授け、かれらの心の中に記す。わたしはかれ
らの神となり、かれらはわたしの民となる」
(エレミヤ31:33)

 腿の誓い、そして「腿の痛悔」が、神の祝福、新たなる契約をもたらすことがわかります。腿の誓いと腿の痛悔は、復活の希望、烽火(のろし)なのです。

■2021年9月 人間の体シリーズ 腰(こし)2

神は崇め讃めらる。
けだし彼は力をもって我に束ね、
我が為に正しき路を備う、
我が足を鹿の如くにし、
我を高き処に立たしむ。
(奉事経「聖体礼儀」祝文)

 司祭(神父)は、司祭服の帯を腰に締めるときにこう祈ります(聖詠17:33-34、詩編18)。
 正教会は、簡単でわかりやすい真理だからこそ、ていねいに多岐にわたる説明・表現を繰り返すところがあります。それは約二千年にわたって、いろいろな民族・土地・世代など異なる条件下で、聖なる伝達・解説・宣教を繰り返してきたからなのです。二千年以上の蓄積が、シンプルなことを複雑に見せています。それを忘れてはいけません。

腰が生命の源であり、信仰生活の中心をになうことを、つぎの聖句が教えてくれます。

神殿を建てるにはあなたではなく、
あなたの腰から出る息子が
わたしの名のために神殿を建てる。
(旧約聖書「歴代誌」下6:9)

 さて妊娠したとき、赤ちゃんの成長に応じて「腹帯(はらおび)」をする慣習がありました。腰からおなかにかけてサラシなどの幅広の布を巻き、体幹を安定させるのです。そう思いついたとき、生神女マリアが、親戚のエリザベタの懐妊を知ったとき、エリザベタのもとを訪れ、祈り(讃美と感謝)を献げたことに想いいたりました。
 これは正教会では、晩祷、早課という祈りの中で祈り詠われています。
「わが心は主を崇め、わが霊(たましい)は神わが救主を喜ぶ」という、美しい聖歌に始まる祈りです。

力を持ちたまえる者は
大いなることを成せり、
その名は聖なり、
その憐れみは世々
彼を畏るる者に臨まん(正教会訳)

力ある方が、わたしに偉大なことを
なさいましたから、その御名は尊く、
その憐れみは世々に限りなく、
主を畏れる者に及びます。
(口語訳、ルカ1:49)

 
 腰、神の力の源から発した大いなる聖なる生命力は、世々に及ぶ、人から人へ、世代から世代へと受け継がれ、引き継がれていくと宣言します。
 マトフェイ(マタイ)福音書の冒頭、系図のある理由はここにあります。
 教会とは、家庭であり、家族であり、人の系譜、世代の持続・継承です。
 その壮大な世代の祝福の継承は、日本正教会においても、またここ京都ハリストス正教会においても、脈々とつづいています。
 連綿たる世代の祝福、それは、腰という言葉に象徴的に表れてはいますが、地球人類全体への福音として受け継がれています。
 腰は、神の福音と祝福、罪の赦しと復活、永遠の生命、救いの源です。

(長司祭 パウェル 及川 信)