授洗者イオアン(ヨハネ)はこう宣べ伝えた。
「わたしよりも優れた方が、あとから来られる。
わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く
値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼
を授けるが、その方は、聖神(聖霊)で洗礼を
お授けになる」(マルコ福音書1:7-8)
京都生神女福音大聖堂のイコノスタス(聖障)、天門(王門)右側の救世主イイススの聖像(イコン)は、はだし(すあし)です。
京都聖堂のイコノスタスのイイススは、ほとんど、はだしです。
洗礼(神現)祭はもちろん、顕栄(変容)、復活、昇天のイコンでも、イイススは、はだしです。
なぜ イイススは、はだしなのでしょうか。
降誕のとき、はだかで生まれ、はだしでエルサレム神殿へもうで、はだしで洗礼を受け、そして顕栄(変容)され、はだしで受難の道をあゆみ、はだしで十字架にかけられ永眠し、はだしで葬られ、はだしで復活なさいました。
この事実を目のまえにするとき、深甚なる感に打たれます。
イイススは、はだし、すなわち生身(なまみ)の人として、生きぬいたのだ、と。
イイススの人生の足跡は、どれほどの血の跡がにじんでいるのでしょうか。
はだしのイイススは、どれだけ傷ついたのでしょうか。
イイススはこよなく人を愛し、わたしたちの生を負い、はだしでわたしたちを再生へ、復生へ、復活へと導いておられるのではないでしょうか。
はだしのイコンには、救い主の生き方とわたしたちの生き方が重なり合います。
イイススと共に生きるとき、わたしたちは、はだしであることを自覚します。 どんな荒れ地、じゃりだらけの道、いばらの道、苦難の道であっても、怖れません。
イイススがわたしたちといっしょに、はだしで歩いているからです。
はだしのイイススは、わたしたちの希望と勇気です。
(長司祭 パウェル 及川 信)