■2023年5月 読書と信仰 2 あなたの隣人とは だれか

ビザンツ初期のこのような状況の中で、キリスト教は、
自らを「普遍に対抗する個の思想」「本質に対抗する存在
の思想」として形づくりえたのであった。もしキリスト
教が別の時代、別の状況のうちで自分を理論かしたとす
れば、これほど「カテゴリー的なもの」「本性的なもの」
「本質的なもの」に先鋭に対立し、それらではないもの
の領域を強調する思想というかたちはとらなかった可能
性がある。そのため私は「ビザンツ的インパクト」と言
ってみたのである。このような思想の基本図式が、現在
にいたるまでヨーロッパには生きつづけているのではな
いかというのが、私の一つの仮説である。
(第5章 個の概念・個の思想「ビザンツ的インパクト」)

 最近、紹介された本です。膨大な考察、論考と論証の織りなす熟成された論旨が、人生と理知の探求の旅へ、わたしたちを引っぱっていってくれます。
 序章のアンナという友人への言及から始まる物語を読んでいて、なぜかルカ福音書10章の「善きサマリアびと」のたとえを思いました。
 「永遠の生命を受け継ぐ」ためには、どうしたらよいのか、という問いかけにはじまり、善きサマリアびとの話が語られます。
 となりびと、隣人とは、だれなのか。
 この物語の主人公は、だれなのでしょうか。
 主人公がケガ人であるとすれば、通りかかったサマリアびとは、たまたま出会った隣人、となりびとです。
 では、宿屋の主人(経営者)や奉公人は?
 サマリアびとの常宿(じょうやど、定宿)であったとするならば、そこはすべてサマリアびとの働く場であり、ただひとりのユダヤ人(イスラエルの民)がケガ人として、ここにいる、とも想像できます。
 サマリアびとからみても、ユダヤ人からみても、ふつう隣人とはならない関係の人が、無償の愛の行為によって、隣人関係を生みます。
 個と個の出会いが、隣人関係を生じさせるとすれば 、それは未知との遭遇にほかなりません。
 個と個のぶつかり合いは、究極的には、神と人との出会い、遭遇にゆきあたります。
 稀代の思想家、哲理の探求者イエスが、ぞんぶんに語られていますが、わたしたち正教(オーソドックス・チャーチ)の信仰者の、神秘的体験によって出会う「イエス像」「キリスト像」が語られていません。
 神の子がもとめられず、人の子が探求されています。
 個と個のぶつかり合い、神との接近遭遇、一体となる機密は、救いと復活、永遠の生命をもたらします。
 理知的探索ではなく、信じ愛し希望をもつことによる恵みの獲得。
 機密性、祈りの奥義は、信仰者の体験できる神秘、境地であり、信仰とは哲学、歴史学ではないことも、わからせてくれる、すごい本です。

(長司祭 パウェル 及川 信)

※坂口ふみ「〈個〉の誕生 キリスト教教理をつくった人びと」岩波文庫、2023年

このコーナーで取り上げる書籍、絶版や入手困難な本もあると思います。ご寛宥ください。