■2023年6月 読書と信仰 3 アーメンとラーメン

ああめん そうめん
ひやそうめん
夕日にそめた
ひやそうめん
(詩 阪田寛夫「ああめん そうめん」より)

子どものころ、替えうたをつくって うたっていました。

ああめん そうめん 
シオラーメン
夕日にそまった
ミソラーメン

 シオラーメンもミソラーメンも北海道発祥のラーメンだという、自慢話? をきいた覚えがありました。
 北海道釧路市に住んでいたわたしの、小学校低学年のころではなかったか、そう思うのですが、原詩をうまく替えうたにしたのは、わたしだったのか、友だちであったのか……。
 月のうち、2~3回の主日、日曜日午前中は、聖堂で堂役(どうえき)の手伝いをしていました。父が司祭(神父)で、上武佐や斜里正教会へ巡回祈祷へ行くので、釧路正教会での主日祈祷はそういう回数でした。
 めんどうくさくて、いやな時もありましたが、たいてい楽しんで堂役奉仕していたという思い出があります。
 いろいろなことを楽しむというのは、大事なことだと思います。
 もちろん思い悩み、苦しんで信仰の道にはいるひともいることでしょう。
 でもごく自然に、ふつうに呼吸するように、神さまへ祈り、神と人を信じ、できるかぎり疑わず、ひとを怨まずに生活するというのが、原点ではないでしょうか。
 「サッちゃん」「ねこふんじゃった」「ともだち讃歌」など、子どものうたで親しんだ阪田寛夫さんがクリスチャン詩人であることを知ったのも、少年時代でした。
 もしかしたら、わたしのそういう信仰とのかかわり、接近の仕方は、信仰者の王道に反する、基本姿勢がなってないという批判があるかもしれません。
 でも固くるしくて、息のつまるような信仰心が、わたしにはもてません。
 リラックスして笑いがあり、のんびり、聖堂でこころゆくまで、大好きな祈祷をささげていきたいのです。
 阪田さんの「はこぶね」という詩があります。

あんまり亀がおそいので
ノアのじいさん
ハッチをしめた
 
キリン
ハゲタカ
マングース
 
ことんとめだまをとじていた
 
雨がざんざかふりだして
せかいはまっくら泥の海
ノアじいさんの舟のあと
こがめがいっぴき ついていく

 こがめは、わたしなのだと思います。

(長司祭 パウェル 及川 信)

※阪田寛夫
 「阪田寛夫詩集」ハルキ文庫、2004年
 「阪田寛夫全詩集」理論社、2011年

このコーナーで取り上げる書籍、絶版や入手困難な本もあると思います。ご寛宥ください。

■2023年5月 読書と信仰 2 あなたの隣人とは だれか

ビザンツ初期のこのような状況の中で、キリスト教は、
自らを「普遍に対抗する個の思想」「本質に対抗する存在
の思想」として形づくりえたのであった。もしキリスト
教が別の時代、別の状況のうちで自分を理論かしたとす
れば、これほど「カテゴリー的なもの」「本性的なもの」
「本質的なもの」に先鋭に対立し、それらではないもの
の領域を強調する思想というかたちはとらなかった可能
性がある。そのため私は「ビザンツ的インパクト」と言
ってみたのである。このような思想の基本図式が、現在
にいたるまでヨーロッパには生きつづけているのではな
いかというのが、私の一つの仮説である。
(第5章 個の概念・個の思想「ビザンツ的インパクト」)

 最近、紹介された本です。膨大な考察、論考と論証の織りなす熟成された論旨が、人生と理知の探求の旅へ、わたしたちを引っぱっていってくれます。
 序章のアンナという友人への言及から始まる物語を読んでいて、なぜかルカ福音書10章の「善きサマリアびと」のたとえを思いました。
 「永遠の生命を受け継ぐ」ためには、どうしたらよいのか、という問いかけにはじまり、善きサマリアびとの話が語られます。
 となりびと、隣人とは、だれなのか。
 この物語の主人公は、だれなのでしょうか。
 主人公がケガ人であるとすれば、通りかかったサマリアびとは、たまたま出会った隣人、となりびとです。
 では、宿屋の主人(経営者)や奉公人は?
 サマリアびとの常宿(じょうやど、定宿)であったとするならば、そこはすべてサマリアびとの働く場であり、ただひとりのユダヤ人(イスラエルの民)がケガ人として、ここにいる、とも想像できます。
 サマリアびとからみても、ユダヤ人からみても、ふつう隣人とはならない関係の人が、無償の愛の行為によって、隣人関係を生みます。
 個と個の出会いが、隣人関係を生じさせるとすれば 、それは未知との遭遇にほかなりません。
 個と個のぶつかり合いは、究極的には、神と人との出会い、遭遇にゆきあたります。
 稀代の思想家、哲理の探求者イエスが、ぞんぶんに語られていますが、わたしたち正教(オーソドックス・チャーチ)の信仰者の、神秘的体験によって出会う「イエス像」「キリスト像」が語られていません。
 神の子がもとめられず、人の子が探求されています。
 個と個のぶつかり合い、神との接近遭遇、一体となる機密は、救いと復活、永遠の生命をもたらします。
 理知的探索ではなく、信じ愛し希望をもつことによる恵みの獲得。
 機密性、祈りの奥義は、信仰者の体験できる神秘、境地であり、信仰とは哲学、歴史学ではないことも、わからせてくれる、すごい本です。

(長司祭 パウェル 及川 信)

※坂口ふみ「〈個〉の誕生 キリスト教教理をつくった人びと」岩波文庫、2023年

このコーナーで取り上げる書籍、絶版や入手困難な本もあると思います。ご寛宥ください。

■2023年4月 読書と信仰 1 沈黙の世界

沈黙が常にそばにあるということは、取りもなおさず、
また宥恕(ゆるし)と愛とがそばにあること意味して
いる。何故といって、沈黙は宥恕と愛とのための自然
な土台にほかならないからだ。この自然な土台がある
ということは、大切である。この土台があれば、宥恕
と愛とは、そのなかに現われ出るための手段をことさ
らに創りだす必要がないのである。
(「沈黙と、言葉と、真理」)

 高校生のとき釧路市立図書館で読み、欲しくなって入手した本。
 座右の書の1つです。
 読むたびに、発見と感動をあたえてくれる本です。
 たとえば救主の降誕祭の聖像(イコン)、洞窟と思われる馬小屋のなかのお生まれになった赤ちゃんであるイイススと母マリア、庇護者イオシフ(ヨセフ)、牛などの動物、その背後の言い知れぬ深さの暗黒をみるとき、そこに沈黙を感じます。
 あるいは預言者イリヤ(エリヤ)。
 苦難の旅のすえ、神の山ホレブ(シナイ山)に到着したイリヤを、主が過ぎ越されます。烈しい風が石や岩を砕き、大地震が起こり、業火の熱風がイリヤをおそいますが、それらの中に神はおられません。
 これらが過ぎ去ったあと、
「静かにささやく声が聞こえた」(「列王記上19章」)
 燈火のない洞窟からしのびでたイリヤを神が迎えます。
 喧噪や騒乱、轟音と混迷のなかに、神はおられない。
 まさに祈りの沈黙、静寂の奥から、
「神の声がきこえてくる」
 ピカートは語ります。

相愛の人たちがおのずから身に帯びているあらゆる神秘性は、始原の像が近くにあることに由来しているのだ。愛のなかに始原現象的なものの含まれていることの多ければ多いほど、その愛は堅固で、そして持続的なものになる(「愛と沈黙」)

 義と知、理と聖は、神の沈黙の愛にささえられていないとき、もろく、弱くなります。

(長司祭 パウェル 及川 信)

※マックス・ピカート「沈黙の世界」訳 佐野利勝、みすず書房、1979年

 このコーナーで取り上げる書籍、絶版や入手困難な本もあると思います。ご寛宥ください。

■2023年3月 人間の体シリーズ 足 7 サンダル くつ(靴)

わたしは40年の間、荒れ地であなたたちを導いたが、
あなたたちのまとう着物は古びず、足に履いた靴も
すり減らなかった。(「旧約聖書」申命記29:4)

 京都生神女福音大聖堂のイコノスタス(聖障)、南門に画かれている大天使(神使長)ミハイル、北門の聖預言者モイセイ(モーセ)は、サンダル、くつをはいています。
 救世主イイススの聖像(イコン)で、はだし(すあし)が画かれているのとは対照的です。
 ミハイルは、足くびまで、くつヒモがていねいに巻かれており、まさに旅立ちの準備万端です。
 モイセイとの対(つい)になっているのがミハイルだというのも、不思議です。主の顕栄(変容)の光景をみると、聖預言者イリヤ(エリヤ)が、南門に画かれているのが順当でしょう。
 剣士の旅姿の天使(神使)というのも、興趣をわかせます。
 天空を舞い、時空間を超越して飛翔する神の使者ですから、サンダルばきの旅装、剣を手にしたりりしい出で立ちは、いっそう目を引きます。
 トビト書では、人生の旅の友に天使ラファエルが登場します。
 わたしたちの人生をともにする守護天使、かれらは、わたしたちと道行きをともに歩くために、翼を使わないこともあるのです。
 守護天使は、あえてわたしたちと同じ旅装で、人生を旅します。
 苦楽をともにし、喜怒哀楽も享受します。
 わたしたちのあるところに、守護天使がいます。
 京都聖堂の聖なる天使ミハイルを見るたび、われとわが身を惜しまず献身する、勇気あるボディガード、SPを思い浮かべます。
「神はわれらと共にす」という祈りのことばと共に。 

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2023年2月 人間の体シリーズ 足 6 はだしのイイスス

授洗者イオアン(ヨハネ)はこう宣べ伝えた。
「わたしよりも優れた方が、あとから来られる。
わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く
値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼
を授けるが、その方は、聖神(聖霊)で洗礼を
お授けになる」(マルコ福音書1:7-8)

 京都生神女福音大聖堂のイコノスタス(聖障)、天門(王門)右側の救世主イイススの聖像(イコン)は、はだし(すあし)です。
 京都聖堂のイコノスタスのイイススは、ほとんど、はだしです。
 洗礼(神現)祭はもちろん、顕栄(変容)、復活、昇天のイコンでも、イイススは、はだしです。
 なぜ イイススは、はだしなのでしょうか。
 降誕のとき、はだかで生まれ、はだしでエルサレム神殿へもうで、はだしで洗礼を受け、そして顕栄(変容)され、はだしで受難の道をあゆみ、はだしで十字架にかけられ永眠し、はだしで葬られ、はだしで復活なさいました。
 この事実を目のまえにするとき、深甚なる感に打たれます。
 イイススは、はだし、すなわち生身(なまみ)の人として、生きぬいたのだ、と。
 イイススの人生の足跡は、どれほどの血の跡がにじんでいるのでしょうか。
 はだしのイイススは、どれだけ傷ついたのでしょうか。
 イイススはこよなく人を愛し、わたしたちの生を負い、はだしでわたしたちを再生へ、復生へ、復活へと導いておられるのではないでしょうか。
 はだしのイコンには、救い主の生き方とわたしたちの生き方が重なり合います。
 イイススと共に生きるとき、わたしたちは、はだしであることを自覚します。 どんな荒れ地、じゃりだらけの道、いばらの道、苦難の道であっても、怖れません。
 イイススがわたしたちといっしょに、はだしで歩いているからです。
 はだしのイイススは、わたしたちの希望と勇気です。 

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2023年1月 人間の体シリーズ 足 5 つま先だち 背のびをしたあと

イイススはエリコに入り、町を通っておられた。そこに
ザクヘイ(ザアカイ)という人がいた。この人は徴税人の
頭(かしら)で、金持ちであった。イイススがどんな人か
見ようとしたが、背が低かったので、群衆にさえぎられて
見ることができなかった。それで、イイススを見るために
走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通りす
ぎようといておられたからである。イイススはその場所に
来ると上を見あげて言われた。「ザクヘイ、急いで降りてき
なさい。今日、ぜひあなたの家に泊まりたい」
(新約聖書「ルカ福音書」19:1~参照)

「先輩、惜しかったね。あと5センチ背が高かったら、もっと女の子にもてたのにね」、高校時代、そう部活動の後輩の女子から言われたことがあります。
 残念ながら人は、大人になってから、じぶんの背や足を思い通りの長さに伸ばすことができません。
 ザクヘイがいくら、つま先だって背を伸ばし、群衆の垣根をこえて覗こうとしても、イイススの姿が見えません。
 そのとき、ふと思いだします。あの通りには、人が登れる太さの大きないちじく桑の木があった。いっさんに走り、木に手と足をかけ、登ります。
 ザクヘイは40歳くらいであったのでしょうか。
 中年、熟年世代の涙ぐましい努力です。
 そしてイイススが一夜の宿に指名したのが、ザクヘイの家でした。
 ザクヘイの頼りにした木は、みずからの不足を補い、イイススとの出会いをもたらしました。
 手足や衣服に、擦り傷やほころびをつくってでも登らねばならない、かけがえのない機会を生みだす木でした。
 「わらしべ長者」「ジャックと豆の木」、昔話にあるような、一見なにも生みださないようなものが、神の恵みと信仰者の努力によって、変容することがあります。
 ザクヘイが希いをかなえるために機転を利かせ、けん命に路地うらを走り、木によじ登ったことが、神との邂逅(かいこう)に結びつきました。
 群衆の向こう側でつま先だち、見えないからとあっさり、あきらめてしまっていては、神との出会いはなかったでしょう。
 つま先だち、背を伸ばした、そのあとが重要です。
 つぎの一歩へ踏みだす勇気が大事であることを、ザクヘイが教えてくれます。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2022年12月 人間の体シリーズ 足 4 愛のしるし 足を洗う

このひとを見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あ
なたは足を洗う水をくれなかったが、この人は涙でわたしの
足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接
吻もしなかったが、この人はわたしが入ってから、わたしの
足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油をぬっ
てくれなかったが、この人は足に香油をぬってくれた。この
人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示してくれた愛の
大きさでわかる。赦されることの少ないものは、愛すること
も少ない。
(新約聖書「ルカ福音書」7:36~参照)

 旅塵(りょじん)にまみれたイイススの足にすがりつき、抱き、接吻し、涙と香油で足をぬぐった、ひとりの女性がいました。
 タオルではなく、じぶんの髪の毛をもって足をぬぐいます。
 悲しくて、つらくて、目をあげてイイススを仰ぐことができません。
 イイススは、神は、その女性をうけいれます。
 福音書は、罪深い女と表現しています。
 人の世の律法(法律)では、罪深いひとであったのでしょう。
 まわりの人にさげすまれ、うとまれていました。
 でも慕われた神からすると、愛さずにはいられない、かけがえのない人でした。
 罪の赦しと何でしょうか。
 神がわたしたちを裏切らないので、わたしたちは試練をうけとめることができます。
 神が信じてくださるので、わたしたちは希望をもてます。
 神が愛してくださっているので、わたしたちは平安になれます。
 ようやく顔をあげた女性の瞳をみて、イイススは言いました。
「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」
生き直す、再生。
 復生(ふくせい)を信じましょう。    

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2022年11月 人間の体シリーズ 足 3 つまずく 躓く

わたしの信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、
大きな石臼(いしうす)を首にかけられて、海に投げ込まて
しまうほうがはるかによい。もし片方の手があなたをつまず
かせるのなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったま
ま、地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても
命にあずかるほうがよい。
(新約聖書「マルコ福音書」9:42~参照)

 イイススは語ります。
「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である」(ルカ17:1)
 祈りの基本は、じぶん以外のほかの人のために祈ることです。
 たとえば、ゲフシマニア(ゲッセマネ)の祈りで、主イイススは、
「アッバ、父よ、あなたはなんでもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心(みこころ)にかなうことが行われますように」(マルコ14:36)
 と祈ります。
 神の子として献身し、犠牲となり、すべての人を救うための祈り。
 このイイススの祈りは、わたしたちが祈るとき、つねに念頭におかねばならない心を教えてくれます。
 この祈りをさまたげ、奉仕と献身をあざ笑い、ひとの信仰を誤らせるように仕向ける「つまずきの石」を置く者は、みずからのつまずきに気づいていません。
 イスカリオテのユダのように、つまずきの石を、じぶんで抱えている人、それらを捨て去る勇気を発掘できない人は不幸です。
 最大のつまずきの石は、不信、「疑い」です。
 疑えば疑うほど、ひとは、ひがみっぽくなり、恨んだり憎んだり呪ったり、嚇怒(かくど)するようになります。
 疑えば疑うほど、ひとは心がもろく、弱くなっていきます。

 祈れば祈るほど、人は強くなります。
 その強さは、暴風にあおられても折れたり、倒れたりしない、しなやかで強靱な、不屈の勇気、希望を宿します。
それでは、じぶんが救われないではないか、犠牲ばかりなのか……。
 ちがいます。
 ほかのひとが救われ、神にあたえられた命を全うするとき、わたしたちも共に生きます。
 祈りは、他者も じぶんも 生かします。
 疑わずに 人を、神を 信じ、愛することが、つまずきの石を乗りこえさせます。
 祈りのひとは、つまずいても起き上がり、立ち直る、よみがえりの生き方をえようと、渾身のちからをふるいつつ けん命に生きることでしょう。     

(長司祭 パウェル 及川 信)

※聖像(イコン) 「イイススへの悪魔(サタン)の誘惑」

■2022年10月 人間の体シリーズ 足 2 裸足(はだし)になりなさい

モーセ(モイセイ)は、あるとき、神の山ホレブに来た。
そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使
いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は燃えているのに、
柴は燃え尽きない。モーセは言った。
「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どう
してあの柴は燃え尽きないのだろう」
主は、モーセが道をそれて見に来るのをご覧になった。
神は柴の間から声をかけられ、
「モーセよ、モーセよ」と言われた。
彼が「はい」と答えると、神が言われた。
「ここに近づいてはならない、足から履き物をぬぎな
さい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから」
(旧約聖書「出エジプト記3章参照)

 不思議な描写です。
 モーセは、燃え尽きない炎に誘われたのでしょうか。
 それとも、炎のなかの御使い、神の使い、天使のすがたを感じたのでしょうか。
 こんなに烈しく燃えているのに、いつまでたっても焼滅しない神秘の現象にこころ奪われ、行かねばならない山道をはずれ、初めての道を歩みはじめます。
 道をそれることに、不安や恐怖はなかったのでしょうか。
 人生は二者択一、選択の連続でありますが、モーセの勇気が、見知らぬ道をえらばせました。
 燃える柴の中から、名前を呼ばれたモーセは、はい、と答えます。
 楽園から追放されたアダムとエバ(イブ)は、返答しませんでしたが、モーセは、答えています。
 すると神は、燃える火の粉の飛び散る中にあって、裸足になれと命じます。
 ある聖なる師父は、こう諭されています。
「わたしたちは、じぶんの真の姿を知ることをさけてはならない」
 じぶんの真のすがたを直視すること、すなわち裸足で新たな道、生き方を選択することは、もしかしたら炎の道、痛みをともなう茨の道を生きることなのかもしれません。
 無謀と、神を信じる勇気ある冒険は、紙一重なのかもしれません。
 努力したからといって、望む結果が得られるとは限りません。
 けれども新たな道、生き方に挑戦し、努力をつづけるものだけが、栄冠をえられることも現実です。
 聖師父はこう語ります。
「いったん手をつけた仕事に必要なだけの辛抱を身につけなさい。労苦をいとわず、神を信じてあゆみ、この道にあって進歩し、徳にいたりなさい」
神は、おびえ、不安に満ちるモーセにこう語っています。
「わたしはある、という方が、わたしをあなたたちに遣わされた」
 信じ、勇気をふりしぼり、希望をもって「神の道」にそれたものが、ときには神のもとにたどり着くのでしょう。     

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2022年9月 人間の体シリーズ 足 1 平和を告げるひと

見よ、よい知らせを伝え
平和を告げる者の足は山の上へ行く。
(旧約聖書「ナホム書」2:1)

 よき知らせを、福音といいます。
 嘉音とも表現します。
 ひとによってよき知らせには、ちがいがあるのでしょうが、正教会(オーソドックス・チャーチ)は、神との出会い、洗礼をうけ、神の道を歩みはじめること、挫折から再起へ、心機一転すべく目覚めることが重要だと教えます。
 正教会の言葉は、古くて含蓄のある聖言がいくつもあります。
  降福(こうふく)
  神恩(しんおん)
  恩寵(おんちょう)
 最初に引いた聖句「平和を告げる者の足は山の上へ行く」、この山とは、どこをさし、どんな山を登るのでしょうか。
 たとえば、モーセが十誡(十戒)の石板を恩賜されたシナイ山。
 主イイススが変容されたタボル山(あるいはヘルモン山)。
 神の国を象徴するシオン山。
 イイススが十字架を負うて歩まれた行く先、ゴルゴダの丘。
 広義においてシオン山の一部にふくまれるというゴルゴダの丘は、神の創造されたエデンの園の近くにあったそうです。アダムとエバを葬ったお墓のあったところともいわれています。
 シオン山はかつて、アダムとエバ(イブ)が食べてしまった果実を産する善悪を知る木ばかりでなく、生命(いのち)の木がはえている楽園であったといいます。
 平和を告げる者である救い主イイススは、ゴルゴダへのぼり、十字架にかけられ、死をもって死を滅ぼし、復活の生命を実現しました。
イイススの受難の十字架は、再生、復生の木、すなわち生命の木を預象(よしょう)しています。
 主の復活の聖像(イコン)には、死の上に立つ者、十字架を踏みしめ、アダムとエバを永遠の生命へと引き揚げる救世主の姿が描かれます。
 救い主イイススは神の山に登頂し、神と人とを和解させ、平和を実現し、ひとに真の生き方をもたらしました。
 イイススは宣べています。
「和平を行う者は福(さいわい)なり、かれら神の子と名づけられんとすればなり」(マトフェイ、マタイ福音書5:9)
それゆえ聖使徒パウェルはわたしたちにこう語りかけるのです(エフェス6:15)。
「平和の福音を告げる準備を履物(はきもの)としなさい」

(長司祭 パウェル 及川 信)