■2024年2月 読書と信仰 11 足の鎖と有刺鉄線

わたしは駆けよった…
聖なるおもいが 胸にあふれた
今にしてわたしは この宿命の鉱山で その
はめられた枷を見 おそろしいひびきを聞いて
はじめて夫の苦しみが
こころの底から わかるのだった
彼は多くをしのび しのびおおせた…
おもわずもわたしは その足もとにひれ伏して
夫を抱くよりも先に まず
その鎖に 唇をおしあてた! …
(ネクラーソフ「デカブリストの妻 抄」『愛かぎりなく』)

 
 おそらく高校生のとき、この本にめぐりあいました。
 デカブリストとは?
 1825年12月、ロシアの首都サンクトペテルブルグの元老院広場で、新たに即位したニコライ一世に忠誠を誓う、軍隊の宣誓式がおこなわれました。
 そのときわかい貴族、青年将校が中心となって、おこした叛乱行為を武力をもって鎮圧する事件が発生しました。
 12月(デカーブリ)におこったので、事件関係者は「デカブリスト」12月事件のひと、そう呼称されるようになりました。
 翌26年7月、数千人が重軽それぞれの刑に処され、100人あまりがシベリア流刑に処されました。
 このとき10人ほどの若い婦人が、流された夫を追い、いっさいを棄て、シベリアの地へ向かいました。
 まだ恋愛したことのないわたしにとって、愛するひとを追い、シベリアの原野を流刑地までたどりつくことは、空前の出来事でした。

「その鎖に 唇をおしあてた」
 この詩の一節をよみ、岩崎ちひろの絵をみたとき、涙がとまらなくなりました。
 岩崎ちひろの絵を、目にする機会のあるたび、思いだすのは、この作品、本のことです。
 東京では、岩崎ちひろの原画展そして練馬区のちひろ美術館、そして昨年夏に、安曇野ちひろ美術館へもいきました。
 数年まえ、京都の駅ビル(伊勢丹デパート)で開催された、岩崎ちひろ展へもいきました。
 これらの絵画展でこころ打たれるのは、有刺鉄線の原画でした。
 太く、冷徹で、非情さに満ち、ひとの情愛、あたたかな感情を突き離し、はばもうとする有刺鉄線。
 原画だからこその、呼吸(いき)する筆づかい、脈動があります。 
 冷血の有刺鉄線を、いのちあるものが、あたたかな血をかよわせているひとが、いろいろなひとの思いをこめて画く、この画家の烈情。
 画家の哀しみと正直(せいちょく)な意(おもい)がありました。

 ひとりの女性の接吻した鎖が、有刺鉄線と、なぜかいつも、だぶっています。
 権力、法、軍事、ときにはひとの尊厳をふみにじるものを、キリスト教信仰が抗する律法主義、厳罰主義というのならば、わたしたちには、それらをのりこえる、良心と自由、こころと信仰があります。

 身ひとつの女性の生き方が迫ってきます。
 有を無に。
 無にしなければ手に入らないもの、そこへ行かなければ確認できないものがあります。
 あそこで待っているひとがいる。
 そこへ行かねばならない。
 わたしたちは、ひと、十字架、聖像などに接吻しますが、その信と愛の接吻は、足の鎖と有刺鉄線をのりこえ、またいでいくと思います。
 死の接吻ではなく、愛の接吻なのです。

静けさの天使を神はおつかわしになって
坑道の中はひとしきり
話し声も はたらく音もやみ
まるで 動きがとまったよう
あかの他人も わたしたちの仲間も――
眼には涙をうかべ こころたかぶり
色あおざめ
きびしい顔して まわりに立っていた
動かぬ足からは
枷の音もひびかず ふりあげられた槌も
宙に凍りついて…
すべては静か――歌声もなく話し声もなく…
悲しみも めぐり会いのしあわせも
ひとしく分け合ったようだった!

(長司祭パウェル及川信)

+ニコライ ネクラーソフ  谷耕平 訳  岩崎ちひろ 画
『愛かぎりなく』デカブリストの妻 抄、童心社、1968年初版

このコーナーで取り上げる書籍、絶版や入手困難な本もあると思います。
ご寛宥ください。

■2024年1月 読書と信仰 10 銀河鉄道の恋人たち

人は必ず愛する者に別れて生きてゆかなけりゃな
らんようになるもんだ。そのおごそかな離別の時
間に生きてゆく者と死へ移っていった者とが、共
にあの銀河を旅行するんだ。銀河鉄道にのって。
あの詩人が、宗教的ともいう四次元幻想世界に託
したところの……(沈黙する)
(大橋喜一「銀河鉄道の恋人たち」『大橋喜一戯曲集』)

 宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」をモチーフに書かれた作品が、舞台となってよみがえり、戯曲集となって生まれました。
 レコード店員のとし江がジョバンニ、印刷工の五郎がカムパネルラです。
 おそらく皆さんの手には入らないこの戯曲集は、わたしの手もとにあります。
でもその本は、ほつれてバラバラです。
 大橋喜一作「ゼロの記録」の上演台本を作成するため、本をばらしてガリ切りし、謄写版で印刷したからです。
 その作業のあわただしさがわかるのは、あるページにだれかが、まちがって踏みつけた黒い靴跡があるからです。
当時、新しい戯曲集を購入しようかとも思いましたが、その踏み跡がみょうに生なましく……五郎がじぶんのことを「原爆孤児」を知られぬよう生きてきた、切ない告白に重なって、とうとう棄てられなくなってしまいました。

とし江  ……五郎さん。
五郎   え……
とし江  (間)……あんた、孤児じゃけん、
     結婚もせん……人間も愛さんと、考えたの?
五郎   ……
とし江  ……信用でけん人間より、宇宙の、
     永遠の星を愛しよう……ほんまに、
     そう思うたん。
   間
五郎   (大きく呼吸する)ぼくは、愛いうもんを
     知らんかった。……やせがまんじゃ、
     やせがまんしとった。……そのことを、
     あんたに会うて、とし江ちゃん!
     (深く息をする)ぼくはわかったんじゃ、
     人間のしあわせというものを――

 この劇作を読んで、わたしは原民喜の散文詩「夜明け」を思いだしていました。

おまへはベツトの上に坐りなほつて、すなほになろう、
まことにかへろうと一心に夜あけの姿に祈りさけぶのか。
窓の外がだんだん明るんで、ものゝ姿が少しづつはつき
りしてくることだけでも、おまへの祈りはかなへられて
ゐるのではないか。しづかな、やさしいあまりにも美し
い時の呼吸づかひをじつと身うちに感じながら。

 放射能汚染によるさまざまな症状を、ひとは原爆病、原爆症とこともなげに、他人事としていい表します。
でも一人の少女が、青年の生きる痛みを、全身全霊でうけとめました。
 滅びゆくからだを、健全であろうと生きるこころと精神をささえきれない青年を、ともに生きることで祈りとした、ひとりの人間。
 たましいの叫びに一心にけん命に応え、いっしょに祈ったのが少女でした。
 作者は、自殺をはかった少女が命をつなぎとめ、蘇生する場面で芝居を閉じています。いくたび読んでも、胸の奥が哭いてしまいます。

(長司祭パウェル及川信)

+『大橋喜一戯曲集』テアトロ、1976年
 定本『原民喜全集1』青土社、1978年
 このコーナーで取り上げる書籍、絶版や入手困難な本もあると思います。
 ご寛宥ください。

■2023年12月 読書と信仰 9 シカの置き物

一週間たって、死んだ青年の婚約者が原爆病院を
おとずれた。彼女は、青年を看護した医師や看護
婦たちにお礼をいいにきたのだといった。彼女は
楽器店につとめる娘らしく、よくレコード棚やバ
イオリンの陳列ケースにおいてある、陶製の一対
のシカをお土産にした。二十歳の娘は平静でおだ
やかな挨拶をのこして去っていったが、翌朝、睡
眠薬による自殺体として、発見されたのであった。
僕は、大きい角をそなえた強そうなシカと、愛ら
しい牝のシカの、一対の置き物を見せられて、暗
然として言葉もなかった。
(大江健三郎「広島へのさまざまな旅」『ヒロシマノート』)

 『ヒロシマノート』を読んだのは、釧路湖陵高校2年生のときであったと思います。
 この本とほぼ同時進行で読んだ戯曲が「銀河鉄道の恋人たち」でした。
 劇作家 大橋喜一が、ヒロシマノートのこのエピソードに震撼され、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」をモチーフに書いた作品だときいていました。
 『ヒロシマノート』
 ……言葉がなくなりました。
何度も引越しを体験したわたしの書棚には、いまだ、たとえば、峠三吉全詩集『にんげんをかえせ』風土社、津田定雄『長編叙事詩 ヒロシマにかける虹』春陽社、『原民喜全集』青土社、土門拳『生きているヒロシマ』築地書館、『広島・長崎 原子爆弾の記録』子どもたちに世界に!/被爆の記録を贈る会、などがならんでいます。
 忘れてはいけない、置き去りにしてはいけない現実があるのだと、そのとき、痛感しました。
当時、釧路の数多くの高校生が『ヒロシマノート』を読み、生と死、戦争と人間、原爆と人間の復活などのテーマと格闘しました。
 わたしもそのひとりでした。
 世間知らずの、青い感情であることを知っているつもりでしたが、この痛惜の念と激情が、大橋喜一作「ゼロの記録」という上演時間2時間半の大作を、一九七七年春、釧路高校演劇合同公演(釧路市公民館)で舞台にかける原点になりました。
 もちろんキリスト教信仰は、自殺を認めていません。
 でもわたしは、このエピソードに秘められたこころ、好きで好きで、愛して愛してたまらない、どこまでもいっしょに生きていこうとする青い感情が、ともすれば未熟とされるかもしれない愛情が、かけがえのない無垢で気高いものに感じられてならないのです。
 ひとは、いついかなるときでも、きっと信じられる、そう思いました。
 

自己犠牲などという意味合いはいささかもない、
決定的な愛の激しさにおいて。そして、この激越
な愛とは、そのまま逆に、われわれ生きのこって
いるものたちとわれわれの政治に対する凄まじい
憎悪に置きかえられることもありえた感情である。
しかし、告発せず沈黙して死んだこの二十歳の娘
は、われわれに、もっとも寛大な情状酌量をした。
われわれには、くみとられるべき情状などありは
しないが、二十歳の娘は、おそらくおとなしい威
厳をそなえた性格だったので、われわれに憎悪の
告発をおこなわなかったのだ。

(長司祭パウェル及川信)

+大江健三郎『ヒロシマノート』岩波新書、1965年(初版)
 このコーナーで取り上げる書籍、絶版や入手困難な本もあると思います。
 ご寛宥ください。

■2023年11月 読書と信仰 8 銀河鉄道の夜

「あなたの神さまってどんな神さまですか。」
青年は笑ひながら云いました。
「ぼくほんたうはよく知りません。けれどもそんな
んでなしにほんたうのたった一人の神さまです。」
「ほんたうの神さまはもちろんたった一人です。」
「あゝ、そんなんでなしにたったひとりのほんたう
のほんたうの神さまです。」
「だからさうぢゃありませんか。わたくしはあなた
方がいまにそのほんたうの神さまの前にわたくした
ちとお会ひになることを祈ります。」
(宮沢賢治「ジョバンニの切符」『銀河鉄道の夜』)

 光原社という社名、宮沢賢治が名づけ親です。
 『注文の多い料理店』を光原社から出版した及川四郎は、親戚になります。
 父ペトル及川淳師にきいた話では、岩手県の実家の縁側に、『注文の多い料理店』と詩集『春と修羅』が、無雑作に山となっていたそうです。
 小学校の校長先生であった祖父がみかねて、光原社の倉庫にねむっていた本を少し、買いとったのではないか、そう言ってました。
 おフロあがりのときなど寝るまえに、祖父は子どもたちに、賢治の童話や詩の読み聞かせをしていたそうです。
 祖父は幼いころ、郷里では神童とよばれ、たいへんな読書家であったという昔話をよくしていたのは、祖母でした。
 よほど夫を愛していたのでしょう。
「本好きの血をひいたのは、信、おまえだね」
 祖母がそういっていました。
 わたしは父にいいました。
「ああ、お父さん、その初版本がほしいのに。なんでもらわなかったの」
 そういうと、ひと言、
「興味、なかったからな」
 あっさりいわれてしまいました。父らしいと思いました。
 話をきいて、教科書で読んだ「オツベルと象」、あるいは詩「永訣の朝」などを思いだし、おなじ岩手県出身の物語作家、詩人、宮沢賢治がきゅうに身近に感じられました。
 釧路市立図書館に十字屋書店と筑摩書房の全集があり、一冊一冊、一篇一篇けん命に読んだ記憶があります。
 凝り性のわたしはさらに、筑摩書房版の新修 宮沢賢治全集をもとめてそろえ、とにかく読みました。
 賢治のいう「たったひとりのほんたうの神さま」とは、だれなのでしょう。
 それを追い求めた賢治は、その神さまのもとに、無事たどり着けたのでしょうか。
 ひとの人生の意味、ほんとうの幸せ、食べること、お金の価値、働くとはどういうことか……そして生と死、生きることの真実を追いもとめた賢治。
 わたしには想像もつかない、神秘的で深遠な旅を賢治がしている、そう体感しました。
「銀河鉄道の夜」という遡及性と、未来への伸張力と創造性、そして感動を呼び覚ます物語は、翌月に紹介する作品に、結びついていくのです。

あゝそのときでした。見えない天の川のずうっと
川下に青や橙やもうあらゆる光でちりばめられた
十字架がまるで一本の木といふ風に川の中から立
ってかゞやきその上に青じろい雲がまるい環にな
って後光のやうにかかってゐるのでした。汽車の
なかがまるでざわざわしました。みんなあの北の
十字のやうにまっすぐに立ってお祈りをはじめま
した。

そして見てゐるとみんなはつゝつましく列を組ん
であの十字架の前の天の川のなぎさにひざまづい
てゐました。そしてその見えない天の川の水をわ
たってひとりの神々しい白いきものの人が手をの
ばしてこっちへ来るのを二人は見ました。

(長司祭パウェル及川信)

+宮沢賢治「銀河鉄道の夜」
 新修 宮沢賢治全集 第12巻、筑摩書房、1980年(初版)
 このコーナーで取り上げる書籍、絶版や入手困難な本もあると思います。
 ご寛宥ください。

■2023年10月 読書と信仰 7 白い海と白鯨

まるで雲をつかむような、しかしまた非常に恐ろしい
こういう懸念は、折からのおだやかな天候のため、か
えって無気味さをくわえた。水面一帯に、俺たちの復
讐の航海を嫌悪するのあまり、骨壺のような軸の進む
ところ、まったく生気を放下したかと思われるほど、
ものうげにものさびしくしずまりかえっている海を、
いく日もいく日も航海しているうちに、あるものは、
青々としたおだやかな海の底に、なにか悪魔的な魅力
がひそんでいる、というふうに考えるようになった。
(メルヴィル「悪鬼の汐噴き」『白鯨』)

 北海道釧路市立日進小学校の図書室に、二、三人の名前しかない貸出しカードのはさまった本がありました。
 「白鯨」
 読んで衝撃をうけました。
 不思議な魅力に満ちた、うずまきのような文体と表現。
 正直、迫力にひっぱられて読んだということで、では本の内容を説明せよと言われると、困ってしまう、そんな読書でした。
 それから一年、中学に入り、早朝、新聞配達をはじめました。
 うけもった地域は、けっこう広く、市街地から千代ノ浦海岸をへて春採湖岸周辺へまわる道ぞいでした。
真冬、零下二十度を下まわる厳寒の朝、何年かぶりの流氷がきました。
 それはオホーツク海を埋めつくすようなものすごい氷原ではなく、ところどころに鉛色の海の見える氷の群れでした。
 波ひとつ、カモメの鳴き声もない、まっ白な海。
 朝陽が透明な光をはなち、凍った大気が全身をつつみました。
 荘厳、静寂の海。
 神の創造された天地の境がそこにあり、おそらくほんの一瞬の出来事でしたが、車の騒音さえありませんでした。
 生まれたての海が、初めて氷の群れをうけとめたような、なにか、不滅のエネルギーとかくされた秘事、神秘がありました。
 わたしは、うごけませんでした。
 神のおわせられる、天と地の台座がそこにあると感じました。
あの白い海を想起すると、なぜか「白鯨」を思いだします。
 子どもの頃、この町には、クジラ埠頭があり、和商市場にクジラ肉のかたまりのあったことも思いだします。
からだで、全身でぶつかり、その魅力にのまれる読書。
 理屈や論理性を放擲する、ある意味、魔力のような力づくの物語。
 そんな体験をする一冊がこの本だったのでした。

大商船のペンキ塗りの船体からそびえる旗竿みたいに
つい近頃突き刺さった高い槍の破損した柄が、白鯨の
背中に突き立っていた。そして空を舞いながら、あち
こちと鯨の上を天蓋のように掠めおおう軽い趾をした
鳥の雲霞のごとき大群のうちの一羽が、時としてこの
柄にとまり、長い尾の羽毛を槍旗のようになびかせ、
揺れていることもあった。

その輝く両脇に、鯨はなにか魅惑的なものをおとして
ゆく。猟人のなかにはこのおだやかさに言いがたい魅
惑を感じて大胆にもこれを襲撃したものがあったが、
それも不思議ではない。だがそういう連中は、この静
けさが嵐のまとう外衣にすぎぬことを、命ととりかえ
に思い知らされたのだ。それにしても、なんという静
けさ、なんという魅惑的な静けさで、おお、鯨よ! 
汝ははじめて汝を見るものの眼に、海の上をすべって
行くことか。(「追撃 第一日」)

(長司祭パウェル及川信)

+ハーマン・メルヴィル 富田彬 訳
 『白鯨』(上下)角川文庫、2023年(改版12版)
 わたしが小学生高学年の頃読んだ本は、1956年初版だったと思います。
 昔のことゆえ、定かではありません。
 このコーナーで取り上げる書籍、絶版や入手困難な本もあると思います。
 ご寛宥ください。

■2023年9月 読書と信仰 6 愛するひとの面影

明け行くバイエルンの朝の絶望的な灰色の真只中に、
地平線に芝居の書割りのように立っている遠い農家
の窓のあかりが一つぽっとついたのであった……
〝et lux in tenebris luset〟(光は闇を照らしき)
…… かくして私は何時間も凍った地面を掘り続け
た。そしてまた看視兵がさしかかって私を罵って行
った。そして私は愛する者との会話を再びはじめた。
益々強く私は彼女がそこにいるのを感じるのであっ
た。まるで彼女を抱けるかのように思い、彼女を捉
えるためには手を伸ばしさえすればよいかのようで
ある。まったく強くその感情は私を襲うのであった。
彼女はそこにいる! そこに! ……
(フランクル「非情の世界に抗して」
『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』)

 北海道釧路市で育った少年時代、東中学校で演劇部と放送局(THK)、湖陵高校で演劇部に入っていました。
 高校のとき、いくつもの得がたい体験をしました。「海鳴りがきこえない」という創作劇で地区予選を勝ち抜き、北海道大会(全道大会、本選)まで進み、室蘭へ行ったことも忘れがたい思い出なのですが、そのひとつ、市内いくつかの高校演劇部の生徒が参集する合同公演で、大橋喜一「0(ゼロ)の記録」という上演時間2時間半の大作の上演に参加できたこと。
 もうひとつ、秋の高文連の大会で、ベルトルト・ブレヒト「第三帝国の恐怖と貧困」の「スパイ」の上演に参加できたことです。
 この作品集の戯曲「スパイ」という短編劇には、いわゆるブラックコメディの悲喜劇の要素が盛りこまれており、わたしは不思議な行動をとる少年役を演じました。
 そのおりに読んだのが、V・E・フランクル「夜と霧」でした。
 生、いのちを支配し、管理するおぞましい環境、束縛と限界、恐怖のなか、ひとは、人間性をかろうじてたもち、生きつづけようとしている。
 この壮絶、非情は、少年であったわたしを打ちのめしました。
 そして愛する妻の像を思い描きながら、生きのびようとする姿に胸を熱くし、涙しました。
 生きようとし、生き残ったものの語る「ことば」がここにありました。
 信仰の本質とはなにか、正直いまだに手さぐりです。
 しかし信じて生きることの大切さは、すこしずつわかってきました。
 この本を読んだ感動と動揺が、いまだ鼓動・波動となってからだをめぐっていると思うことがあります。

私は今や、詩と思想そして――信仰とが表現すべき
究極の極みであるものの意味を把握したのであった。
愛による、そして愛の中の被造物の救い――これで
ある。たとえもはやこの地上に何も残っていなくて
も、人間は――瞬間でもあれ――愛する人間の像に
心深く身を捧げることによって浄福になり得るのだ
ということが私に判ったのである。

この瞬間、私は
「我を汝の心の上に印の如く置け――
そは愛は死の如く強ければなり」(雅歌八章の六)
という真理を知ったのであった。

(長司祭 パウェル 及川 信)

※V・E・フランクル 霜山徳爾 訳
 『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』みすず書房、1977年
 このコーナーで取り上げる書籍、絶版や入手困難な本もあると思います。
 ご寛宥ください。

■2023年8月 読書と信仰 5 「正教史」がキリスト教史

私達は限りあるこの世の生命を大切にし、罪を制し、
罪深い快楽にふける心を絶ち、不幸・災難の場合には
慰めとし、霊と体とを潔く守り、神のため、永遠のた
めに毎日を祈りの中で生活すべきであります。これが
私達を救いに導くものであると信じます。
どうか価値ある人生を送るよう心がけましょう。
(牛丸康夫「われ望む 死者の復活」
『曙光 長司祭牛丸康夫遺稿集』)

 輔祭となっての初任地、名古屋正教会で3年近くにわたり指導司祭となり、わたしを教導してくださったのが、プロクル牛丸康夫師です。
 月一度、来名され、土曜の晩祷後、夕食を共にし、それから教会近くの銭湯へ。夜のふけるまで語り合ったものでした。
 牛丸師は、牛乳・水・チーズ・トマトという、これまた奇妙な取り合わせの夜の糧でした。
 軽妙な切り口から落ちまでの洒脱(しゃだつ)な流れがおもしろく、いつも師が来るのが楽しみでした。
 あるとき、
「息子とは、こういう会話ができない」
 ポツリ、こぼされていました。
 1986年10月2日永眠、50歳。
 わずか5日前、名古屋でフェオドシイ永島府主教座下のご巡回を終えたばかり、それこそ、あっというまに逝ってしまわれました。
 冒頭に引いた一文は、名古屋正教会、会報「天の笛」巻頭の説教、絶筆になります。
 牛丸師にとっては、正教史がキリスト教史、でした。
 神の子、救世主イイスス・ハリストス(イエス・キリスト)の十字架、墓、第三日の復活にはじまる聖使徒、さらに聖師父(教父)の時代、それから世界への福音宣教の歴史は、正教史、すなわちキリスト教史でした。
 それは壮大なドラマ、神と信仰者との交流史、神の救贖史です。
 キリストの時代から現代まで、聖地から日本まで、を通史として克明に書き上げ、福音宣教の基(もとい)とする、これをご自分の使命と自覚しておられました。
 間違いだらけの申し訳ない遺稿集『曙光』、これを世に出し、『明治文化とニコライ』『日本正教史』などへと連なる叙述を一望にするとき、たんなる日本正教会史、ロシア正教会史ではなく、神の救いの福音「正教史=キリスト教史」である師の遠望の的確さ、遺命をかみしめることができます。
 『日本正教史』教文館、を監修しながら、この思いに、あらためて打たれました。力量不足を承知のうえ、不肖の弟子としてわたしなりに全力を尽くし、恩師の遺志に応えたつもりです。

 師のお話をもっともっと、耳をかたむけてきき、心腹に刻印すれば良かった、時間が足りなかった、いろいろな思いがめぐります。
忘れられないことばがあります。
「一生のあいだに、なにか一つ、だれにも負けないと自覚のできる秀でたことを身につけなさい。死にもの狂いでがんばらねば、得られないものがある」

「どうか価値ある人生を送るよう心がけましょう」
 牛丸師のことばは、わたしのうちに、いまも共鳴し、未来へとみちびく、聖なる鐘の音、希望と勇気になっています。

(長司祭 パウェル 及川 信)

※『曙光 長司祭牛丸康夫遺稿集』自費出版、1995年
 この遺稿集は、大阪正教会や京都正教会で求めることができます。
 このコーナーで取り上げる書籍、絶版や入手困難な本もあると思います。
 ご寛宥ください。

■2023年7月 読書と信仰 4 「契約の櫃」(アーク)と岩窟聖堂 エチオピアのキリスト教 思索の旅

なぜエチオピアの教会では、ほかのキリスト教会では
例を見ない奉納歌舞を続けてきたのか。そもそも、
この歌舞はいつから始まったのか。

もしエチオピアに語り伝えられてきたアーク伝説を信
じれば、推測は不可能ではない。「神の箱」(アーク)
を前にして楽を奏で、踊ったという紀元前一千年前の
ユダヤ人の慣習がアークとともにエチオピアにもたら
され、そのまま生き続けてきたと考えてもおかしくは
ない。
(川又一英「夜を徹した祈り―古都ラリベラの降誕祭」
『エチオピアのキリスト教 思索の旅』)

 川又先生と知り合ったのは、わたしの神学生時代、ずいぶん古い話です。
 このころ『われら生涯の決意 大主教ニコライと山下りん』(新潮社、1981年)の取材をされており、プロクル牛丸康夫師(正教神学院講師、大阪正教会)がご紹介くださいました。
 『聖山アトス ビザンチンの誘惑』(新潮選書 1989年)を出版されてしばらくして聖名(洗礼名)シメオンで洗礼を受けられたというお話が伝わってきました。
 たびたび神田、お茶の水界隈で、静かな居酒屋の腰を落ちつけ、川又先生の取材旅行の話などをうかがいました。
 言葉をえらび、とつとつと語られ、ときおりほほ笑まれる横顔を思いだします。
 2004年10月の訃報に、痛惜の念の消えることがありません。
 『エチオピアのキリスト教 思索の旅』は遺作といってよいでしょう。
 聖地、東欧諸国、ギリシャ、ロシア、聖山アトスなどを巡り、歴史と文化、そこに暮らす人びとを精緻な筆で描写した、広角・複眼の視座を持った作家の、さいごの仕事場の一つが、シバの女王の故郷ともいわれるエチオピアでした。
 行方不明とされる失われた「聖櫃(アーク)」は、エチオピアに現存しているのでしょうか。聖櫃を伴うティムカットの祝祭、神現(洗礼)祭で、成聖された濁水に殺到し、無心に汲み、飲む人を眼にし、こう語ります。

「物事を不信と冷笑で眺めることに慣れてしまった現代人にとって、このエチオピア人のひたむきさは衝撃ともいってよかった。あとになって考えてみれば、私自身もそうしたエチオピア人が羨ましかったのかもしれない。そんなことは不可能であることを知りつつも、できれば私も、羊水のなかの眠りから醒めた赤子に立ち返って、疑いを知らずに信じるという無垢な心を取り戻したかった」

 川又先生は、未来へ進もうとする神を引きとめた、エマオの旅人の原体験を共有したのでしょうか。
 キリスト、救世主とともに作家は、まだ永遠の巡礼の旅をつづけている、わたしはそう信じています。

(長司祭 パウェル 及川 信)

※川又一英『エチオピアのキリスト教 思索の旅』山川出版社、2005年

このコーナーで取り上げる書籍、絶版や入手困難な本もあると思います。ご寛宥ください。

■2023年6月 読書と信仰 3 アーメンとラーメン

ああめん そうめん
ひやそうめん
夕日にそめた
ひやそうめん
(詩 阪田寛夫「ああめん そうめん」より)

子どものころ、替えうたをつくって うたっていました。

ああめん そうめん 
シオラーメン
夕日にそまった
ミソラーメン

 シオラーメンもミソラーメンも北海道発祥のラーメンだという、自慢話? をきいた覚えがありました。
 北海道釧路市に住んでいたわたしの、小学校低学年のころではなかったか、そう思うのですが、原詩をうまく替えうたにしたのは、わたしだったのか、友だちであったのか……。
 月のうち、2~3回の主日、日曜日午前中は、聖堂で堂役(どうえき)の手伝いをしていました。父が司祭(神父)で、上武佐や斜里正教会へ巡回祈祷へ行くので、釧路正教会での主日祈祷はそういう回数でした。
 めんどうくさくて、いやな時もありましたが、たいてい楽しんで堂役奉仕していたという思い出があります。
 いろいろなことを楽しむというのは、大事なことだと思います。
 もちろん思い悩み、苦しんで信仰の道にはいるひともいることでしょう。
 でもごく自然に、ふつうに呼吸するように、神さまへ祈り、神と人を信じ、できるかぎり疑わず、ひとを怨まずに生活するというのが、原点ではないでしょうか。
 「サッちゃん」「ねこふんじゃった」「ともだち讃歌」など、子どものうたで親しんだ阪田寛夫さんがクリスチャン詩人であることを知ったのも、少年時代でした。
 もしかしたら、わたしのそういう信仰とのかかわり、接近の仕方は、信仰者の王道に反する、基本姿勢がなってないという批判があるかもしれません。
 でも固くるしくて、息のつまるような信仰心が、わたしにはもてません。
 リラックスして笑いがあり、のんびり、聖堂でこころゆくまで、大好きな祈祷をささげていきたいのです。
 阪田さんの「はこぶね」という詩があります。

あんまり亀がおそいので
ノアのじいさん
ハッチをしめた
 
キリン
ハゲタカ
マングース
 
ことんとめだまをとじていた
 
雨がざんざかふりだして
せかいはまっくら泥の海
ノアじいさんの舟のあと
こがめがいっぴき ついていく

 こがめは、わたしなのだと思います。

(長司祭 パウェル 及川 信)

※阪田寛夫
 「阪田寛夫詩集」ハルキ文庫、2004年
 「阪田寛夫全詩集」理論社、2011年

このコーナーで取り上げる書籍、絶版や入手困難な本もあると思います。ご寛宥ください。

■2023年5月 読書と信仰 2 あなたの隣人とは だれか

ビザンツ初期のこのような状況の中で、キリスト教は、
自らを「普遍に対抗する個の思想」「本質に対抗する存在
の思想」として形づくりえたのであった。もしキリスト
教が別の時代、別の状況のうちで自分を理論かしたとす
れば、これほど「カテゴリー的なもの」「本性的なもの」
「本質的なもの」に先鋭に対立し、それらではないもの
の領域を強調する思想というかたちはとらなかった可能
性がある。そのため私は「ビザンツ的インパクト」と言
ってみたのである。このような思想の基本図式が、現在
にいたるまでヨーロッパには生きつづけているのではな
いかというのが、私の一つの仮説である。
(第5章 個の概念・個の思想「ビザンツ的インパクト」)

 最近、紹介された本です。膨大な考察、論考と論証の織りなす熟成された論旨が、人生と理知の探求の旅へ、わたしたちを引っぱっていってくれます。
 序章のアンナという友人への言及から始まる物語を読んでいて、なぜかルカ福音書10章の「善きサマリアびと」のたとえを思いました。
 「永遠の生命を受け継ぐ」ためには、どうしたらよいのか、という問いかけにはじまり、善きサマリアびとの話が語られます。
 となりびと、隣人とは、だれなのか。
 この物語の主人公は、だれなのでしょうか。
 主人公がケガ人であるとすれば、通りかかったサマリアびとは、たまたま出会った隣人、となりびとです。
 では、宿屋の主人(経営者)や奉公人は?
 サマリアびとの常宿(じょうやど、定宿)であったとするならば、そこはすべてサマリアびとの働く場であり、ただひとりのユダヤ人(イスラエルの民)がケガ人として、ここにいる、とも想像できます。
 サマリアびとからみても、ユダヤ人からみても、ふつう隣人とはならない関係の人が、無償の愛の行為によって、隣人関係を生みます。
 個と個の出会いが、隣人関係を生じさせるとすれば 、それは未知との遭遇にほかなりません。
 個と個のぶつかり合いは、究極的には、神と人との出会い、遭遇にゆきあたります。
 稀代の思想家、哲理の探求者イエスが、ぞんぶんに語られていますが、わたしたち正教(オーソドックス・チャーチ)の信仰者の、神秘的体験によって出会う「イエス像」「キリスト像」が語られていません。
 神の子がもとめられず、人の子が探求されています。
 個と個のぶつかり合い、神との接近遭遇、一体となる機密は、救いと復活、永遠の生命をもたらします。
 理知的探索ではなく、信じ愛し希望をもつことによる恵みの獲得。
 機密性、祈りの奥義は、信仰者の体験できる神秘、境地であり、信仰とは哲学、歴史学ではないことも、わからせてくれる、すごい本です。

(長司祭 パウェル 及川 信)

※坂口ふみ「〈個〉の誕生 キリスト教教理をつくった人びと」岩波文庫、2023年

このコーナーで取り上げる書籍、絶版や入手困難な本もあると思います。ご寛宥ください。