■2024年3月 読書と信仰 13 主よ、いずこに

そうした恐ろしい瞬間の記憶は、今もなおこの老人
の眼に涙をさそうた。その二条の涙が白い髯にした
たり落ちるのが、松明の明りによく見えた。老人の
年老いて髪の毛もなくなった頭がふるえ、声も途切
れがちであった。ウィニキウスは心の中で言った。
〝あの男は真実を語っている、そして真実のために
涙を流しているのだ〟と。素朴な聴衆も、悲しみが
こみあげていた。

その瞬間、この人たちにとってはローマもなければ、
狂気じみた皇帝もなく、神殿も神々も異教徒もなか
った。あるのはキリストだけであった。そのキリス
トが大地を、海を、空を、世界を満たしていた。
(ヘンリク・シェンキェヴィッチ
『クオ・ヴァディス』第二十章)

 おそらく小学4年生くらいのとき、図書館で少年少女向きの『クオ・ヴァディス』を読みました。
 おぼろげな記憶なのですが、深く感動したのはたしかでした。
ペトロニウスとエウニケ、ウィニキウス、リギアとウルスス、キロン・キロニデス、ペテロとパウロそして皇帝ネロ。
 おそらく9歳頃にいたり初めて向かい合った群像劇でした。
 壮大なスケールと奥深い人間像と描写に心うたれ、少年少女向きのダイジェスト版ではない本物の小説を読みたいと願ったのでしょう。
 こんどは岩波文庫版を読み、「うむむ?」と思いました。本の読後感、印象がずいぶんとちがったからです。こんなはずではないと思い、つぎに読んだのが、旺文社文庫(上下二巻)です。
 ひとが生まれ変わったり、生き直したりするドラマを脳裏に思い浮かべ、のち中学・高校時代、演劇部にのめりこむきっかけとなった本のひとつでした。
 そこには恋というものへの、ほのかな憧れもあったのでしょう。
 シェンキェヴィッチはポーランドの作家です。この小説は1895年春~翌96年2月までに執筆・発表され、各国語に翻訳、広く流布し、1905年、ノーベル文学賞を受賞します。
ところでこの小説にイチャモンをつけ、攻撃した一人がロシアの作家レフ・トルストイでした。かりに自分がノーベル文学賞を受賞し賞金を手にしたら、〇〇へ寄付して欲しいと、あらかじめスウェーデンの選考委あての手紙を送ってしまうほど、トルストイは、自分こそがノーベル文学賞受賞にふさわしいと強烈に自負していました。
 けっきょくトルストイがノーベル文学賞を受賞することはありませんでした。
 人間性、人間観、作品にこめられた人への愛情の深さなどの質量が、シェンキェヴィッチとトルストイでは、おおきく異なっているように、わたしには思えます。

 キリスト教迫害の嵐の吹きあれるローマを去ろうとしたペテロに、救い主イイススがあらわれ、ペテロが問いかけます。
「クオ・ヴァディス・ドミネ?……」
「主よ、いずこへ行きたもう」
 この質問。
 アダムとエバ(イブ)が神との約束を破ってしまい、エデンの園に隠れひそんでいたとき、神はふたりに呼びかけました。
「あなたはどこにいるのか」
 この語りかけの映し、反問がペテロの救い主への問いかけです。
「主よ、いずこへ」
「ローマへ」
 すなわち、
「救いを求める、すべての民のところに」
 神は、いつ いかなるときも、救いを希求する神の民を忘れず、ともにおられる。愛の神が厳然として、あなた そして わたしと共にいる。
「いずこへ」
 ペテロの呼びかけは、わたしたちへの問でもあります。
 神がエデンの園で放った愛情あふれる呼びかけなのです。
「あなたはどこへ行こうとしているのか」
 アダムとエバは返答をしませんでした。
 わたしたちは、はっきりとこの呼びかけに答えているでしょうか。

 シェンキェヴィッチの書いた「愛による幸福」の一文は、ありふれた通俗的文章と揶揄されることがあるがゆえに、普遍的な永遠の生命をもつのだと思います。
 わかりやすく素直なことばには、すたれない生命力があります。

彼らは、自分たちが愛することのできる神を
見出すことによって、当時の世界がこれまで
誰にも与えることのできなかったもの――
愛による幸福を見出した。(第七十章)

(長司祭パウェル及川信)

+ヘンリク・シェンキェヴィッチ  吉上 昭三 訳
 『クオ・ヴァディス』(上・下)、旺文社文庫、1980年初版

このコーナーで取り上げる書籍、絶版や入手困難な本もあると思います。
ご寛宥ください。