■2017年10月 橄欖 オリーブ の降福(聖洗礼儀)

主宰、主、わが神、ノイ(ノア)の舟におる者に、
和睦の徴(しるし)、洪水より救わるる號(しるし)たる、
橄欖(かんらん)の小枝(さえだ)をふくむ鳩を遣わし、
これをもって恩寵の奥秘(おうひ)を前兆し、
なんじの聖機密を行うがために橄欖の果をあたえ、
これによりて法律の下にある者にも聖神を充て
恩寵の下にある者をも全備する主や・・・・

(「聖事経」参照)

 聖洗礼儀(洗礼式)において、聖なる膏(油)が全身に塗布されます。

日本正教会では進行上、身体の一部にしか塗布しませんが、本来は全身に塗り込みます。

祈祷文は、これを傅(つ)けると宣言します。香油には聖なる力が満ちています。

 聖神(せいしん)の挙動(はたらき)と庇蔭(おおい)

 不朽の傅(つけ)

 義の武器

 霊體の更新(あらたまり)

 およその悪魔の挙動の遠隔(とおざかり)

 およその悪の解離(はなれ)

香油すなわち喜びの油は、光照者を神の領域へ導きます。

 霊と體とをいやすがため

 教えを聴くがため

 なんじの手 われを造り われを設けり

 なんじが誡めの路(みち)を履むがためなり

香油は外から塗られ、そして食されることで内側から人を満たします。

新鮮なオリーブ油がお店で安価に手に入れることができるようになり、
正教徒としてうれしいかぎりです。(写真:大阪正教会 境内のオリーブ)

イイススがヨルダン川で前駆授洗者イオアン(ヨハネ)から洗礼を受けたとき
鳩のような形の、光の恵みが降福されたといいます。

それは鳩が両翼をすぼめて急降下するような姿なのでしょうか。

香油による恩寵、恵みは、急転直下、いま わたしたちに注がれています。

(パウェル及川信神父)

■2017年9月 葡萄の降福(8月18日の祝文)

主や、この新しき葡萄の実、なんじが気候の順和(やわらぎ)、
雨露の点滴(したたり)、天時の清静(おだやか)なるをもって、
この成熟に至らしめしを喜びし者に祝福して、
われらにこの葡萄の産する所を飲むをもって楽しみを得せしめて、
またこれをなんじに奉るをもって諸罪の潔めを得せしめたまえ。
なんじのハリストスの至聖なる體血によりてなり、
なんじは彼と至聖至善にして生命を施す
なんじの神(しん)とともに崇め讃めらる、
今も何時も世々に、アミン。

(「聖事経」参照)

 聖事経には葡萄を生産することのない土地にあっては、林檎(りんご)あるいはほかの果実を祝福するようにとの指示があります。

晩夏、初秋のこの季節、葡萄をはじめ梨、いちじく、りんご、メロン、すいかなどの果実、夏から秋の野菜でもある、きゅうり、なす、ごうやなど色とりどりの果菜が八百屋さんの店頭をにぎやかに彩ります。(写真:大阪正教会 境内の葡萄)

ちょうど救主の顕栄(変容)祭に合わせて、これらの果実・果菜を聖水で祝福します。

猛暑に打ちしおれているわたしたちの、のどを潤し、いやす収穫を神に感謝しましょう。

とくに葡萄の実は、聖体機密(リトゥルギヤ)の尊血(聖血)となる赤葡萄酒の原料です。

この尊血(聖血)を拝領(領聖)する喜びにまさるものはありません。

その昔、ノアの箱船はアルメニアのアララット山に漂着。

そこは豊穣なる葡萄の産地。

義人ノアは葡萄の生産者として神への献げものを祭壇に安置します。

もしかしたら、パンと葡萄酒を、いちばん最初に、神に献げ、そして領食した聖なる者は、ノアであったのかも知れません。

ノアの事蹟が、数千年の時をへて、救主イイススの最後(機密)の晩餐に結びついているとしたらこの壮大なロマンが、神の救いの道であることがわかります。

ひと粒の葡萄から始まる救いの歩み。

ろうそくの灯火に揺れる、ルビー色の神秘的な光沢と胸を満たす香り。

葡萄酒を前にすると、ノアの感謝と讃美の祈り、かれの風貌が立ちのぼるようです。

(パウェル及川信神父)

■2017年8月 山の住人(奇蹟 山を動かす信仰)

なんじらにもし芥種(からしだね)のごとき信あらば
この山に、ここよりかしこへ移れと言うも、移らん。
またなんじらに一もあたわざることなからん。
このたぐいに至りては、
祈祷と斎(ものいみ)によらざれば出でざるなり。

(新約聖書 マトフェイ(マタイ)福音書17:20-21)

  イイススは断言します。信仰があればこの山に移れと言うと奇蹟が起こり、山が移る、移動する。

では山に住人はいないのでしょうか。この山に住んでいる人はいないのでしょうか?

人ばかりでなく動物、熊のような大きな動物から、キツネ、タヌキ、ネズミ、もぐら、小さな虫、微生物も。

川が流れていれば、川に棲む魚や昆虫、鳥は? 山の植物は? 季節に応じて渡ってくる、動物や鳥は?

山を移すと言えば、非常に簡単なことのように聞こえますが、ちがうと思います。

山を移す、それら動植物、生きとし生けるものを全て含めて移す、と言うことだと思うのです。

このような実現不可能に挑戦した人はいたのでしょうか。

できもしないようなことを平気で言う神を信じる人はいるのでしょうか。

そういう神の思いに応える、神の信頼に応える、神の希望に応える人はいるのでしょうか。

そして移されることに協力する人、動物、植物がいるのでしょうか。そういう信仰心があったのでしょうか。

人の歴史上、ひとりいました。彼に協力した家族、彼の心に共鳴した動物と植物がいました。

そうです、ノアです。箱船を造り、大洪水から人も、動物・植物も救い出した、いいえ動植物がこぞって理解し協力した人間、ノアがいます。

かれらは「世界」を移します。

生命をゆだね、生命を移します。

ノアの願いをかなえようと、夢の実現に動植物が協力するとき、エデンの園、神の国が現れ始めます。

ノアが、ノアを信じる家族が見る世界は愛情あふれる「未来」です。

希望を信じ、希望を愛する。

奇蹟は信じようと決心する時に始まるのです。

(パウェル及川信神父)

■2017年7月 ふたりの聖使徒(聖ペトルと聖パウェル)

彼(ペトル・ペテロ)は誰かの足に接吻するように
頭を大地につけた。
長い沈黙が続いた。
やがてむせび泣きにとぎれがちな老人の言葉が
静寂を破って響いた。
「クオ・ヴァディス・ドミネ・・・・」
ナザリウスにはその答えが聞こえなかったが
ペテロの耳には悲しみをおびた
甘美な声がこう言うのが聞こえた。
「お前が私の民を見捨てるなら、
私はローマへ行って、
もう一度十字架にかかろう」

(シェンキェヴィッチ\吉上昭三訳「クオ・ヴァディス」旺文社文庫参照)

 いまから四十数年前、小学校高学年か中学生だったとき、児童向けの「クオ・ヴァディス」を読み、感動しました。

学校の図書館か釧路の市立図書館で読んだのだと思います。

その後、記憶が確かなら岩波文庫?版も読んだと思うのですが、いまいち翻訳文になじめずにいたところ、冒頭に引いた文庫の本を入手、改めて読み返し、感動を新たにしました。

こどもの頃、自分の聖名の聖人がどういう人であったのか、正直まったく知りませんでした。

ふたりの偉大な聖使徒の歩みも描写した小説を読むことができて、幸運だったと思います。

上記に掲載した聖像の 左:聖使徒ペトル(ペテロ・ペトロ) 右:聖使徒パウェル(パウロ)。

ペトルは中肉中背、少しやせ形の体型で、髪の毛は白髪まじり、いわゆるロマンスグレイだったと言います。

一方のパウェルは、天幕(テント)作りの職人でもあったせいか、筋肉質で少し猫背ぎみ、おでこにはコブのような隆起があり、美男子とは言いがたい風貌でした。

ペトルは、弁舌さわやかな雄弁家ではなく、質朴寡言(しつぼくかげん)、でも一語ひと言には深みがあり、聴く人を落ち着かせ、引きこむ魅力のある信仰者であったと言います。

パウェルはふつう、雄弁家で話術の巧みな説教者として有名ですが、本人は人前に立つと緊張してうまくしゃべれないので、それで手紙を書いて伝えているのだとも語っています。

ペトルの左側に画かれた十字架は、逆になっています。

ペトルがイイススと同じ体勢・体の向きで十字架に架けられることを遠慮し、その敬虔さゆえ逆十字に処されたのだと言われています。

別の伝承では、イイススと同じ形の十字架さえも遠慮して、「X型十字架」に架けられたとも伝えられています。

一方の聖使徒パウェルの右側には「X」字型の十字架が画かれています。

パウェル自身は救主イイススと同様、十字架に架けられることを望んだのですが、パウェルがローマ市民権を持っていたため、斬首刑に処された、と言われています。

X十字は、斬首に処される前に、刑場でムチで打たれるときに、パウェルの体を縛りつけたものだともいいます。

Xはもちろん、「ハリストス(キリスト)」の頭文字。

ペトルもパウェルも「今も何時も世々に」ハリストスと共に生きているのです。

「クオ・ヴァディス」はパウェルの処刑の場面をこう語ります。

  彼の胸は喜びにみちあふれた。

  パウロは人びとに愛を教えたことを思い出した。

  いかに貧しい人びとに財産をほどこそうと、いかにあらゆる言葉、あらゆる神秘、あらゆる知識に通暁しようと、愛なくしてはその人は取るに足りぬ人間なのだ。

  愛は鷹揚で辛抱強く、愛は悪の原因とはならず、名誉を求めず、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える、と説いてきたことを思い出した。

  私は戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。

  今や、義の冠が私を待っているばかりである。

7月12日、いっしょに ふたりの聖人と共にお祈りしましょう。

(パウェル及川信神父)