■2018年6月 聖神降臨祭(せいしんこうりんさい 聖なる五旬祭)

聖神降臨祭を祝讃申し上げます。

聖神(せいしん 聖霊)の降臨とは何なのでしょうか?

いったいどういう状態なのでしょうか?

聖像(イコン)には火の玉のような炎が、信仰者の頭上に画かれています。 たとえば、赤ちゃんが生まれて息をし始めるとき、赤ちゃんは水を吐き出して「おぎゃあ」と泣き出します。息をし始めて、初めて地上で生活する人となります。水をたっぷり飲んで溺れた人が、気道や肺の水を吐き出しながら空気呼吸を始めるようなものです。

生き始めるためのたいへんな苦しさがあり、喜びもあります。

でも苦痛と歓喜があり、息を吸って吐いての往復運動がはじまり、これがあって人間になるのです。人として生き始める生命のスイッチが、かちっと入るのでしょう。(京都生神女福音大聖堂、聖障の聖神降臨祭イコンを掲載)

聖神は生命(いのち)の息、神の息です。

脳死とか心臓死とかいう言葉が頻繁に使われるようになるもっと昔、永眠、死を「息を引きとる」と表現してきました。

古風な言い回しですが、正教会の永眠を思う時、「息を引きとる」という表現は非常に暗示に富んでいると思いませんか。

動物も植物も大地も海も、みな息をし呼吸をしています。

正教会(オーソドックス・チャーチ)の聖堂は、ドーム(円い天蓋)が象徴的です。この聖堂の丸、円は、地球、空気の層、大気を表します。聖なる宇宙空間を想起させます。

わたしたちは祈祷、祈りに香を薫らせます。

以前わたしの管轄した九州、熊本県の人吉正教会の聖堂には明かりがありませんでした。いまどき珍しいことに電気を引いていなかったのです。
(いまは充実したすばらしい聖堂があり、電気の照明もあります)

日の短い冬など、晩祷の終わりごろ、暮れ染まった濃い夕闇のなか、ろうそくの燈火だけで、手探りに、転ばぬように足もとを確かめながら、ゆっくりお祈りをした記憶が甦ってきます。

夜の闇は怖い雰囲気を湛えながらも、神の国への近道があるようにも感じてしまいます。それはおそらく想像しがたい、不思議な感覚です。それもたった一人で行う晩祷が多かったので、余計に印象的です。

昼間はそれほど感じませんが、夜の祈りの時、薄暗い聖堂の空間にロウソクの灯火、ちいさな光が煌めき、乳香の煙が漂う光景は、大きな写真で見た銀河系というか、まるでマゼラン星雲のなかにいるようでした。

香の雲は、神の国へとつながっています。わたしたちに神の国を見せます。神の国へと導いているかのようです。

聖堂は天然自然を、神の天地創造を喚起・想起させる小宇宙でもあります。聖堂には生命の息、聖神が充満しています。

祈りの原点は、じつは呼吸、息です。

ハリスティアニン、正教徒は、祈りが聖神の充満、神の息の呼吸であることを自覚し、憶えておかねばなりません。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2018年5月 塩の話 ⅠⅠ 火による錬磨で旨味(うまみ)をます塩

先月、イイススは神の前に立つ者、信仰者は「地の塩」であり、神に恵みを賜わられるサラリーマンであるというお話をしました。引き続き塩についてお話ししましょう。

レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」をよく観察すると、塩壷が描かれています。これはイイススの時代のテーブル上の光景と言うよりも、ダ・ヴィンチの時代、中世ヨーロッパ、イタリアの食卓風景かも知れません。

いつの時代にあっても塩は大事です。

聖書は、じつに面白い表現が満ちています。聖使徒 福音者マルコは、イイススの言葉を記録しています。
「人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか」(9章)

「火で塩味を付ける」

天然岩塩の中には、燃焼に使用する触媒としての塩板、塩の板があるそうで、イイススの博識には驚かされます。火によって旨味のます塩。

それでは「塩気が無くなる」とはどういうことでしょうか。

これも天然岩塩をあらわすたとえ話。

どんなに良質な岩塩でも、風雨にさらされ野ざらしにされたら、塩気も塩の風味も抜けてしまい、だめになってしまうそうです。 
「天才児も十代過ぎたら、ただの人」

という厳しい言葉がありますが、これをわたしたち自身にあてはめてみますと、どんなに才能があっても、その原石を磨く努力をつづけなければ、すばらしい宝石にはなりません。才能の垂れ流し、野ざらし・ほったらかしはいけないのです。火の錬磨で成長する信仰者もいるということではないでしょうか。

むしろ不器用にこつこつ生きている人の方が息の長い「成長」ができるということにつながるのではないでしょうか。

みなさんも知っている「タレント」は、日本では芸人をさすタレントさんという意味につかわれていますが、聖書でのタラントは、一人一人の個性、独自性、才能、能力、人格、尊厳をさします。

みんなが、すべての人がタレントなのです。ではたぐいまれな才能のない者はどうしましょうか。天才といわれる人は数万人に一人でしょうから。

イイススは探しだそう、発見しようと言います。

塩で味付けをする。塩を振りかけるのです。
「自分自身の内に塩を持ちなさい。そして互いに平和に過ごしなさい」

このイイススの言葉は、自分の中にないものは、外からもってこよう、良い塩を探し出して、有効活用しようと語っているように解釈されます。

それは努力精進ということかもしれませんし、もう一つ、たとえば良い友人を持つこと、自分にはない性格・性質、職業上の特技を持つ人に嫉妬するのではなく、その人と友達になって、共にそれを活かす、創意工夫が必要だと言っているのです。創意工夫というと、全部自分ひとりでやることだと錯覚している人が多いのですが、じつは全部自分でできる人というのは存在していません。 お互いの才能・人間を認め、励まし合い、希望をもって生きる。
「互いに平和に過ごす」というイイススの言葉は何と意味が深いのでしょう。 平和には愛と信頼が必要です。

自分たちの人生を味付けする「塩」は、わたし、あなた、みんなが持っていて、振りかけ合うもの、分かち合う恵みでもあるのです。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2018年4月 塩の話 Ⅰ

あなたがたは地の塩である(マトフェイ/マタイ福音5:13)

ハリストス 復活!

イイススは神の前に立つ者、信仰者を「地の塩」と呼びます。

今日は塩について注目しましょう。

ちょっと脱線しますが、漫画の「美味しんぼ」で、塩のみで、おすましを作る挿話(エピソード)がありました。お湯とほんのひとつまみの塩だけで、おすましのできることに驚きました。もちろんこの場合の塩は当然のことながら、天然成分・ミネラル等が豊富な、昔ながらの手作りの海の塩なのですが。
(写真は採取された岩塩)

実は聖パンに少しだけ塩を加えて作る人がいます。

この少ししょっぱい聖パンの起源は、イイススの言葉をさらに遡ること数千年、民数記やレビ記というモーセ五書の時代にまで至ります。

レビ記は主なる神の言葉を記録しています。
「おまえたちの供え物・贈り物は、みな塩で味付けされる。おまえたちは主の契約の塩を、おまえたちの犠牲から欠かしてはならない」(2章)

主の契約の塩、この言葉を初めて聴いた人もいるでしょう。

民数記では神様の前での「永遠の塩の契約」(18章)という言葉もあります。塩を契約の徴(しるし)とする慣習は、昔からあったのです。

塩を英語では「Salt」と言います。これはラテン語の塩「Sal」に由来する言葉だそうです。ここまで言うと、クイズ番組の好きな人は、ハッと思い当たるでしょう。会社員が会社からもらうお給料、サラリー「Salary」は、塩に関連しているのです。すなわち「塩の契約」です。

昔、世界各地では、塩が通貨の単位として使用されたり、塩が契約の証しとして活用されたりしました。サラリーマンは、「契約をする人」つまり「塩の契約をする人」であり、その起源は、聖書の「神と人との契約」を表しています。塩は世界中で普遍的な価値を持つものです。

場合によっては、金銀宝石よりも高価で尊い品、生命を維持し、生命をつなぐものでもありました。

だから戦国武将 武田信玄は、宿敵 上杉謙信が「敵に塩を送った」善意を尊重しました。

長野県中部には塩尻という町があります。塩尻とは塩を積み上げた盛塩の小山を意味し、越後から信州まで塩の道があったことを教えてくれます。

話を戻します。

それゆえ永遠の契約の証明として、塩は重要なのです。

信仰者は、みな神様と永遠の契約「塩の契約」を結んでいます。

それを忘れてはなりません。

わが日用の糧には、塩の恵みも含まれています。

わたしたち一人一人は、そういう意味では、みなサラリーマン、神様から最高の、至高・至善のすばらしい恵み・恩寵・賜物を贈られているサラリーマン「神との約束・契約を守って信仰生活を送る信仰者」なのです。
実に 復活!

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2018年3月 春のピクニックとお弁当

梅の花が咲き、もうじき桜の季節が訪れると、花見そして行楽の季節、春のピクニックにお弁当持参で行く人も多いのではないでしょうか。

大昔、紀元前のことです。メソポタミアやエジプトでは、学校へ通う子供へ、親がお昼時にお弁当を届けたと言います。たいてい栄養分豊富な雑穀パン・黒パンを2こ、そして飲み水。よい飲み水が手に入らない地域では、アルコール度数のないノンアルコールビールを子供に持って行きました。現代のノンアルコールビールブームの先駆けといってもいいですね。

じつは聖書には、意外や意外、お弁当を待つ話がたくさん登場します。

旧約聖書サムエル記上17章、イエッセイ(エッサイ)の子ダヴィド(ダビデ)が宿敵ペリシテ人の豪傑、巨人ゴリアテを倒した話。このときダヴィドは戦場にいた兄たちにお弁当を届けるよう父親に命じられています。

ダヴィドがお兄さんたちに運んだお弁当は、炒り麦約23kg、大きなパン10個、そして兄たちが所属している部隊の隊長さんへのプレゼント、大きなチーズ10個です。隊長さん、つまり上司にお弁当のプレゼント、付け届けをするところなど、日本風の親心を感じさせます。 

新約聖書の福音書が掲載している「5つのパンと2匹の魚」あるいは「7つのパン」(マルコ8章)は、救い主イイススのもとに集ったまま帰ろうとしない人々にイイススと弟子がパンと少しの魚を配る話です。

この奇蹟、イイススや弟子が自分の空腹をさしおいて、まずは自分たちのお弁当を人々へ食べさせようとした奇蹟で、このように解釈することができるのではないでしょうか?

イイススと弟子がパンや魚を焼いたりして配りだしたところ、集まっていた人が我も我もと自分のふところのお弁当を出し始めたのではないでしょうか。一つ一つは小さな力でも結集すると大きな力になります。

関西のご婦人方がいつも「飴ちゃんを携帯している」ような風景です。

福音的「飴ちゃん交換現象」といってもいいでしょう。しばしば奇蹟はこうして起こっていくような気がします。自分よりも他人、隣人を心配すること、心配りから始まる奇蹟もあるのではないでしょうか。

多くの人の心と思いの結実として起こる、神様の奇蹟を実証します。

もうひとつ、神様は苦難・困難にある人に対しても、お弁当を贈ります。

旧約聖書列王記上17章では、神様の正しい言葉を伝えたため、時の国王から迫害された預言者イリヤ(エリヤ)が、ヨルダン川沿いの山深い渓谷に身を隠す場面が出て来ます。人気のない川沿いの洞穴に潜んだイリヤは、孤独感に身を切られます。このときイリヤは小川の水を飲み、朝夕の2回、数羽のカラスの運んでくるお弁当、パンと肉(おそらく干し肉)を食べて命をつなぎます。 どんな困難、苦境、逆境にあっても、かならず希望の光、神様の恵みはあります。聖書は、そして教会は、不思議で神秘の力に満ちたお弁当の話をたくさん記録しています。

聖堂の聖パンと葡萄酒、聖体・聖血も、神様からのお弁当です。

神様は待っているわたしたちに、お弁当を贈ってくださっています。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2018年2月 お客様(旅人)のおもてなし

アウラアム(アブラハム)はすぐに天幕の入り口から
 走り出て迎え、地にひれ伏して言った。
 「お客様、よろしければ、どうか、
 僕のもとを通り過ぎないでください。
 水を少々持ってこさせますから、足を洗って、
 木陰でひと休みなさってください。
 何か召し上がるものをととのえさせますので、
 疲れをいやしてから、お出かけになってください。
 せっかく僕の所の近くをお通りになったのですから」
 その人たちは言った。
 「では、お言葉どおりにしましょう」
 (旧約聖書「創世記」18章参照)

日曜日、夕方6時半、テレビの漫画「サザエさん」。

お客さんが帰るとカツオくんやわかめちゃんが歓声を上げます。

お客さんが食べ残した、出前のお寿司やお土産のお菓子が子どもの所に回ってくるかもしれないからです。

じつはわたしが育った北海道、釧路の及川家でも「お客様」は非常に特別な存在でした。わたしにはカツオくんの喜びようは、別の意味で身に染みてわかります。わたしは子どもの頃、日本茶を飲んだ記憶がありません。

でもお客様は日本茶・煎茶を飲んでいました。毎食後、昔の我が家では、ご飯を食べた後、お茶碗にお湯を注いで飲んでいました。お湯は何杯飲んでも良いのです。ですから子どもの頃は、ご飯を食べたらお茶碗で「お湯を飲む」と信じていました。

ある日友人の家にお泊まりで行きましたら、夕食後にお茶が出てびっくり!
わたしはおずおずと「すみません」と、ご飯を食べ終わったお茶碗を差し出して言いました。
「お湯ください」

友だちのご両親がびっくりしていました。

さて聖書にはお客様、旅人の話がたくさん出て来ます。

あの有名な名画、三人の天使を描いた聖アンドレイ・ルブリョフの「至聖三者」聖像は、聖なるアウラアム(アブラハム)が旅人であるお客様をもてなす話です(上掲のイコン「至聖三者」三人の天使、三人の旅人です)。

新約聖書「福音書」での救い主イイススも、たびたび客になってもてなされています。客の饗応(もてなし)は、裕福な者にとっても、一般庶民にとってもその人や家庭の心映えが見てとれる、重要な時間でした。

当時の庶民は、たいてい自分の家に小さな竈(かまど)を持っていて、パンを焼き、煮炊きして料理を出しました。いろいろな雑穀の入ったパンや焼き菓子のほか、そら豆・レンズ豆などの豆類、高価な肉としては牛や羊、庶民は鶏肉や卵、魚、チーズなどの乳製品、オリーブなどを使用した料理・加工品、蜂蜜、干した果実や干し肉等々、意外にバラエティに富んだ料理が客に出されました。お酒は葡萄酒以外に、ざくろ・いちじく・なつめのお酒もあれば、エジプトのピラミッドを造る労働者も飲んだというビールも人気がありました。

さて問題は、じつはもてなされる客の態度にありました。

客をもてなす家では、客が夕食(ディナー)を食べ終わるまで、別室(別室がない場合には子どもは外で遊んだりして)、食事をせずにいます。あくまでもお客優先で、お客が食べる前に、あるいはお客と一緒の食事は、原則ありえないマナーだったと言われています。

お客さんが食べ終わるまで静かに待ちます。

一般庶民は、めったに肉料理を出しません。お客様は特別扱いです。するとお客は、おなかをすかせて待っている子どもや家族のために、わざと特に肉料理をはじめとするお客専用の特別料理を残します。これがマナーです。

何気なく、恩着せがましくない、「きれいさっぱり食べ残す」、これが客のマナーです。お客が帰るか、客室に下がってから家族が安心して、客の残した特別料理を食べ始めます。これは砂漠や荒野を生活の場とする遊牧民の知恵であったと言われています。

十字架接吻の後に、聖パンが振る舞われるのは、その名残かもしれません。神様を訪ねてきた人を「空腹で帰らせてはならない」。

正教会、オーソドックス・チャーチの聖体機密が聖パンと赤葡萄酒が基本であり、十字架接吻の後、聖パンを分け隔て無くふるまうのは、神様の温かな心を顕わしているのだと思います。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2018年1月 洗礼 神の顕われる時(神現祭)

わたしよりも優れた方が、後から来られる。
わたしは、かがんでその方の履き物のヒモを解く値打ちもない。
わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、
その方は聖神(聖霊)で洗礼をお授けになる。
(マルコ福音書1章参照)

預言者、前駆 授洗イオアン(ヨハネ)はこう語りました。

わたしたち人間は、何かを待ちます。東京・JR渋谷駅前の忠犬ハチ公は、最愛のご主人様の帰りを待ちましたが、わたしたちは、何を、誰を、待つのでしょう。

ある評論家は、ほとんどの日本人は、「何を」ではなく、「誰が」に固執して判断する。その結果、たいへんな被害を受けたとしても……と言いました。

どんなに社会に、あるいは自分に良い結果をもたらす提案でも、その内容よりも、「誰が」それを提案、実行するのかに力点を置くというのです。

それは、その人がどんなに過去の過ちを後悔して、深く悔い改め、みんなのためになることをやろうとしても、「ああ、あいつがやるのか。信用できない」という先入観・結論が、最初にあると言うことでしょう。

おそらくこれは、日本ばかりでなく、世界中の人々の傾向だと感じます。

逆に言うと、大がかりなネズミ講のような詐欺商法やオレオレ詐欺に、人が簡単にコロリとだまされてしまうのは、生きる目的である「何を」よりも「誰が」に固執し過ぎているからだとは言えないでしょうか。

木を見て森を見ない、山裾の丘を観て、頂上を含む山全体を観ない人が多すぎるからなのでしょう。

ほんものの詐欺師は、格好良く、甘い言葉で人を誘う、なんだか立派な人物に「見える」ものなのです。

やはり「人は人を待ちたい」のです。わたしたち日本人が「誰が」に固執して生きているのは、あたりまえの正直な人生真理です。

ということは、たとえばイイススは、生きる目的「何を」と、「誰が」なすべきかを、密接不可分に成し遂げた、究極の人物であるということが言えます。
神が人となられた、イイススが約2千年の昔に人の子として降誕されたのは、人が、人の形をした、人格を持った救い主、真実の人を待っていたからです。
神様は、「人を待っている」人の願いをかなえられたのです。

人は、道路標識の看板や標語のような人生目的ではなく、神の人の語りかける温もりに満ちた「生きている言葉」「寄り添う体」「差し伸べられる腕」「やわらかな手」、わたしたちを抱き締める優しい指の感触に安心します。

イイススとは、神様とはそういう安心できる方です。

わたしたちが待っている救いの神は、もうここにいます。

洗礼の日、神の顕われる「神現」それは「真の人の到来」をわたしたちに体験させます。

もう待たなくてもいいのです。イイススはここにおられます。

+上掲の聖像(イコン)「救主の神現(洗礼)祭」

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2017年12月 藉身(せきしん)されし救世主

福アウグスティンの説教

言は肉體と成りて、われらの中に居りたり。
恩寵(おんちょう)と真実とに満てられたり。
われら彼の光栄を見たり。
父の独生子(どくせいし)のごとき光栄なり。

(新約聖書 イオアン(ヨハネ)福音書1・14)

ハリストス生まる!

主イイススは母から生まれる前、父と共にいました。

神は救主を生む童貞女(どうていじょ、処女)を選び、主の生まれる日を選びました。

迷信を信じる人は特定の日を重んじます。作物を植える日を選ぶ人がいます。

新しい建物を起工する日を、結婚する日を特別の日とする人もいます。

こうして何か良いこと、繁栄するよう心秘かに考えます。

しかしだれも自分の誕生日を選ぶことはできません。

ところが主は、そのどちら(神の母と誕生日)をも選ぶことができました。

愚かな人たちは人間の運命を星占いによって決めますが、ハリストス(キリスト)は
そうすることで自らの誕生日を選んだのではありません。

ハリストスは生まれる日によって自分は幸福になりませんでしたが、
救主が生まれようと願った日は、祝福されるものとなりました。

事実、ハリストスの誕生日は、ハリストスの神秘の光を啓示します。

聖使徒はこの現実を表信しています(ロマ13・12〜13) 。
「夜はふけ、日は近づいた。だから闇の行いを脱ぎ捨て、光の武具を身につけよう。
日の中を歩むように、品位をもって歩もうではないか」

ハリストスの誕生日は「日」です。わたしたちも日となるよう願いましょう。

信仰無しに生きる時、わたしたちは夜の中に生きています。

不信仰は夜のように全世界を覆っていましたが、
信仰が育つにつれて不信仰がすこしずつ減っていきました。

すなわち、救主イイスス・ハリストスの誕生日によって
日は長くなり夜が短くなります。

皆さん、この日を厳かに守りましょう。

信仰のない人はその日を太陽にこじつけて守りますが、
そうではなく太陽を創造した主のゆえに守りましょう。

言葉である方が藉身(せきしん、受肉)されました。

わたしたちは太陽の下に生まれました。

たしかに太陽の下に生まれた肉體です。

けれども主の権威は全宇宙に及び、太陽はその一部に過ぎません。

今日、藉身された神は、太陽の上に立ちすべてを支配しています。

ところがある人たちは、知的に盲目のため真の義の日である太陽が見えず、
太陽を神として礼拝してしまうことがあるのです。
崇め 讃めよ!

(パウェル及川信神父)

■2017年11月 聖金口 イオアン ヨハネ(11月26日記憶)

疲れた者、重荷を負う者は、
だれでもわたしのもとに来なさい。
休ませてあげよう。
わたしは柔和で謙遜な者だから、
わたしの軛(くびき)を負い、
わたしに学びなさい。
そうすれば、あなたがたは安らぎが得られる。
わたしの軛は負いやすく、
わたしの荷は軽いからである。

(新約聖書「マトフェイ(マタイ)福音書」11章参照)

 黄金の口をもつ説教者、4世紀、シリアのアンティオアの教会から、請われてローマ帝国の首都
コンスタンティノープル(コンスタンティノポリス)大主教となった、われらの親愛なる聖人。

聖金口イオアン・クリュソストモス。

かれは、いまも わたしたちと歩みつづける「同労者」、同心の信仰者です。

冒頭に引いた聖書の言葉は、救い主イイススの福音です。

聖イオアンはこの言葉を、自ら実践した聖人でした。

聖人の説教には、数千人ときには1万人を超える聴衆が参じたといいます。

でも信仰者を魅了しひつけた最大の徳は、かれの実直、誠実な人柄でした。

かれは庶民、ふつうの熱心な信仰者の同伴者、友であり続けました。

これを如実にあらわすのが「聖金口イオアンの聖体礼儀」です。聖人の名を冠された聖体礼儀には
聖人の息吹、声、温かみが満ちています。

いまここにいるような、切々とした聖なる像(イメージ、イコン)が、目の前に立ち上がってくるかのような
聖体礼儀(リトゥルギア、ユーカリスト)。

祝文を読むたびに、聖なる感動と感激がわたしたちのうちに満ちてきます。

 人を愛する主宰や、わが霊(たましい)の恩主や、

 われらに、この日においても、

 なんじが天上の不死の機密を領けさせたまいしを、なんじに感謝す、

 われらの途(みち)を直くし、

 われら衆人を なんじを畏るるの畏れに堅固にし、

 われらの生命を護り、われらの歩みを固めたまえ。

 光栄なる生神女、永貞童女マリヤおよび

 なんじが諸聖人の祈りと願いとによりてなり。

あまりにも神の前に正直に生きた聖イオアン。

その信仰、心は、いまもわたしたちに託されています。

わたしたちは神が精錬される金の心、いやしと救い、
安らぎ、温和、復活の生命、神との一体を希求しつつ信仰生活をつづけましょう。

(パウェル及川信神父)

■2017年10月 橄欖 オリーブ の降福(聖洗礼儀)

主宰、主、わが神、ノイ(ノア)の舟におる者に、
和睦の徴(しるし)、洪水より救わるる號(しるし)たる、
橄欖(かんらん)の小枝(さえだ)をふくむ鳩を遣わし、
これをもって恩寵の奥秘(おうひ)を前兆し、
なんじの聖機密を行うがために橄欖の果をあたえ、
これによりて法律の下にある者にも聖神を充て
恩寵の下にある者をも全備する主や・・・・

(「聖事経」参照)

 聖洗礼儀(洗礼式)において、聖なる膏(油)が全身に塗布されます。

日本正教会では進行上、身体の一部にしか塗布しませんが、本来は全身に塗り込みます。

祈祷文は、これを傅(つ)けると宣言します。香油には聖なる力が満ちています。

 聖神(せいしん)の挙動(はたらき)と庇蔭(おおい)

 不朽の傅(つけ)

 義の武器

 霊體の更新(あらたまり)

 およその悪魔の挙動の遠隔(とおざかり)

 およその悪の解離(はなれ)

香油すなわち喜びの油は、光照者を神の領域へ導きます。

 霊と體とをいやすがため

 教えを聴くがため

 なんじの手 われを造り われを設けり

 なんじが誡めの路(みち)を履むがためなり

香油は外から塗られ、そして食されることで内側から人を満たします。

新鮮なオリーブ油がお店で安価に手に入れることができるようになり、
正教徒としてうれしいかぎりです。(写真:大阪正教会 境内のオリーブ)

イイススがヨルダン川で前駆授洗者イオアン(ヨハネ)から洗礼を受けたとき
鳩のような形の、光の恵みが降福されたといいます。

それは鳩が両翼をすぼめて急降下するような姿なのでしょうか。

香油による恩寵、恵みは、急転直下、いま わたしたちに注がれています。

(パウェル及川信神父)

■2017年9月 葡萄の降福(8月18日の祝文)

主や、この新しき葡萄の実、なんじが気候の順和(やわらぎ)、
雨露の点滴(したたり)、天時の清静(おだやか)なるをもって、
この成熟に至らしめしを喜びし者に祝福して、
われらにこの葡萄の産する所を飲むをもって楽しみを得せしめて、
またこれをなんじに奉るをもって諸罪の潔めを得せしめたまえ。
なんじのハリストスの至聖なる體血によりてなり、
なんじは彼と至聖至善にして生命を施す
なんじの神(しん)とともに崇め讃めらる、
今も何時も世々に、アミン。

(「聖事経」参照)

 聖事経には葡萄を生産することのない土地にあっては、林檎(りんご)あるいはほかの果実を祝福するようにとの指示があります。

晩夏、初秋のこの季節、葡萄をはじめ梨、いちじく、りんご、メロン、すいかなどの果実、夏から秋の野菜でもある、きゅうり、なす、ごうやなど色とりどりの果菜が八百屋さんの店頭をにぎやかに彩ります。(写真:大阪正教会 境内の葡萄)

ちょうど救主の顕栄(変容)祭に合わせて、これらの果実・果菜を聖水で祝福します。

猛暑に打ちしおれているわたしたちの、のどを潤し、いやす収穫を神に感謝しましょう。

とくに葡萄の実は、聖体機密(リトゥルギヤ)の尊血(聖血)となる赤葡萄酒の原料です。

この尊血(聖血)を拝領(領聖)する喜びにまさるものはありません。

その昔、ノアの箱船はアルメニアのアララット山に漂着。

そこは豊穣なる葡萄の産地。

義人ノアは葡萄の生産者として神への献げものを祭壇に安置します。

もしかしたら、パンと葡萄酒を、いちばん最初に、神に献げ、そして領食した聖なる者は、ノアであったのかも知れません。

ノアの事蹟が、数千年の時をへて、救主イイススの最後(機密)の晩餐に結びついているとしたらこの壮大なロマンが、神の救いの道であることがわかります。

ひと粒の葡萄から始まる救いの歩み。

ろうそくの灯火に揺れる、ルビー色の神秘的な光沢と胸を満たす香り。

葡萄酒を前にすると、ノアの感謝と讃美の祈り、かれの風貌が立ちのぼるようです。

(パウェル及川信神父)