■2020年2月 人間の体シリーズ 耳 III 雷の声と静かな声

「いま、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。

『父よ、わたしをこの時から救ってください』

と言おうか。しかし、わたしはまさに

この時のために来たのだ。

父よ、御名の栄光を現してください」

すると、天から声が聞こえた。

「わたしはすでに栄光を現した。

再び栄光を現そう」

そばにいた群衆は、これを聞いて、

「雷が鳴った」

と言い、ほかの者たちは

「天使がこの人に話しかけたのだ」

と言った。イイススは答えて言われた。

「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、

あなたがたのためだ」

(イオアン(ヨハネ)福音書12:27?30)

イイススは、受難、十字架上での死を意識します。イイススの言葉の端はしには、救いとはなにかを伝える言葉がつづきます。

雷が鳴ったような天からの声の前には、有名な言葉が語られます。

ひと粒の麦は、地に落ちて死ななければ、

ひと粒のままである。だが、死ねば、

多くの実を結ぶ。

贖(あがな)いと救いの本質を究極的に現す聖なる言葉です。

雷が鳴る時、わたしたちは不思議な光景を目にします。

まず稲光が一瞬きらめいて光り、一拍おいてドーンとかゴロゴロという雷の音を聴きます。

イイススが熱をこめて語っている時、同じ出来事が起きたのではないでしょうか。

天空に閃光が走り、それから雷鳴のごとき音が聞こえたのです。

もしかしたら人々の耳には、ドーンという雷の音しか聞こえなかったのかも知れません。神の声が聞こえなかった人たちもいました。

イイススが、両手をさし上げて祈り、耳を澄ましているお姿を見て、

「天使がこの人に話しかけたのだ」

と感じたのではないでしょうか。

この声が聞こえるのは、選ばれている信仰者であって、心と体の準備のできていない人には、聞こえなかったとも言えるでしょう。

わたしたちはしばしば、一般社会の中で「声の大きい人が勝つ」現実を見ます。

正義かどうかを別にして、多数決というか、大声の暴威によって、ある論理や主義主張が通ってしまう不合理を体験することがあります。

でも信仰者は知っています。

しばしば大きな声、雷鳴のごとき怒鳴り声は、神の恵み、正義と平和を圧殺することを。

信仰者は、雷のあとの静かな天の声に耳を傾けましょう。

雷鳴、大嵐のあとの静けさの中に真実と真理があるものなのです。

ほんとうの救いは、雷のあとに恵まれる、天よりの静かな声、その栄光のうちに秘められています。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2020年1月 人間の体シリーズ 耳 II ─三人の博士が聴いた黙示(つげ)とは何か

ヘロデは占星術の博士(学者)たちを秘かに呼び寄せ、

星の現れた時期を確かめた。そして

「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら

知らせてくれ。わたしも行って拝もう」

と言ってベツレヘムへ送り出した。

かれらが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が

先だって進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。

博士たちはその星を見て喜びにあふれた。

家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。

かれらはひれ伏して拝み、宝の箱を開けて、

黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが

「ヘロデのところへ帰るな」

と夢でお告げ(黙示、つげ)があったので、別の道を通って

自分の国へ帰って行った。

(マトフェイ(マタイ)福音書10:25-37)

ヘロデは悪意、隠している魂胆をもって、三人の博士に頼みました。

それは王としての権威、圧力があっての、強圧的な依頼だといってもよいでしょう。なぜなら福音書2章の後半には、三人の博士にだまされたことを知り激怒したヘロデが、軍隊を動員して、ベツレヘム周辺の二歳以下の男の子をすべて殺害したことを記録しています。

博士がヘロデをだましたというのは、おそらくヘロデが博士を追わせた尾行者を振りきったということでしょう。

博士はヘロデの依頼、言葉を、身の危険を承知のうえで拒否、断固として聞き入れませんでした。

夢のお告げ、正教会は「黙示(つげ)」と表現します。

この黙示とはなんでしょうか。

夢の中で博士は、なにを見、なにを聴いたのでしょうか。

博士が聴いたヘロデの言葉はまさに、エバ(イブ)の聴いたヘビ、悪魔の言葉でした。悪魔の言葉とは、恐怖をともなう甘い誘惑です。

それでは博士が聴き入れた言葉はなんでしょうか。

それは神の呼びかけだと思います。

食べてはいけないといわれた果実を食べてしまったアダムとエバに、神は
「どこにいるのか」

と呼びかけ、たずねました。

博士はこう答えました。
「あなたおのところ、神のもとにいます」と。

ヘロデの悪、闇の言葉に、博士は耳を傾けません。

博士は、神の善、光の言葉に耳を傾けます。

神の愛に、博士は愛をもって応えました。

ここに祈りの基本、本質が秘められています。

三人の博士の帰りの旅路は、わたしたち信仰者の人生、生の道行きでもあるのです。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2019年12月 人間の体シリーズ 耳─善きサマリア人は何を聞き実行したのか

ある律法の専門家が立ち上がり、イイススを試そうとして言った。

「先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるのでしょうか」

イイススが

「律法には何と書いてあるか、あなたはそれをどう読んでいるか」

と言われると、彼は答えた。

「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、

あなたの神である主を愛しなさい、また隣人を自分のように

愛しなさい、とあります」

イイススは言われた。

「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」

(ルカ福音書10:25-37)

 
追いはぎ(強盗、盗賊、山賊)に身ぐるみはがれ、荷物を盗まれ、大ケガを負うて道ばたに倒れていた旅人。おそらくユダヤ人でしょう。

その姿を横目に見たユダヤ教の祭司、祭司をいちばん輩出しているレビ族の人も、ケガ人を避けて逃げてしまいました。

もしかしたら「死者」に見えたのかも知れません。かれらは宗教上のしきたりを楯に、死体にふれて汚れることを恐れたのでしょうか。

いずれにせよ、倒れていた人を救助しなかった悲しい事実があります。

ところが旅をしていたサマリア人は、近寄り、保護、ケガを消毒、薬をぬり、荷物を積んでいたろばの背に、ケガ人をのせます。

サマリア人はおそらく、懇意にしている宿屋に入り、さらにいたれり尽くせりの治療をしました。

翌朝、デナリオン銀貨2枚を宿の主人に手渡し、「ケガ人の面倒を十分に見てあげてほしい。療養費用が足りなくなれば、自分がもどってきたら追加するから」

そう頼んで旅立っていきました。

わたしは想像します。

サマリア人は、見知らぬケガ人から、声を聞いた、言葉を聞いたのだと。
「家に帰りたい」
「最愛の妻のもとへ帰りたい」
「愛する家族、子どものところへもどりたい」

あるいは
「このまま死にたくない」
「生きたい」

ケガ人が声に出しはっきり話したのかどうか、それはわかりません。

でもそのケガ人の心の叫び、「心の声」「心の言葉」を聞いたのです。

救い主イイススは、黄金律とは、

「そのひとの望むとおりのことを実現することだ」

と語ります。

行き倒れの人の願いを、サマリア人はたしかに聞きました。

その声、その言葉は、心の耳の扉を開け、サマリア人は実行しました。

信仰の耳。

わたしたちは神からさずかった「聞く耳」を大切にしましょう。

神に、そして人に聞き届けられた、心を知ってもらったという充足感、満足は真に人を生かすものです。

信仰の耳は、ときに、挫折した信仰者に希望をもたらすことでしょう。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2019年11月 人間の体シリーズ 鼻─乳香と雲の柱

主は彼らに先だって進み、昼は雲の柱をもって導き、

夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは

昼も夜も行進することができた。昼は雲の柱が、

夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった。

(出エジプト13:21-22)

正教会における「雲の柱」「火の柱」は、なんに象徴されているのでしょうか。祈りの家、聖堂に、顕れていると思います。

雲の柱は、乳香、香炉から漂う香の雲。

火の柱は、ロウソクやランプの灯火。

聖書はこう語ります。

モイセイ(モーセ)が民を神に会わせるために宿営から連れ出したので、彼らは山のふもとに立った。

シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである。

煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。

角笛の音がますます鋭く鳴り響いたとき、モイセイが語りかけると、神は雷鳴をもって答えられた。

(出エジプト19:17-19)

まさに正教会の聖堂の光景ではないでしょうか。

神の呼びかけ、召命に応じた信徒や啓蒙者、人々が、聖堂に参集します。

聖鐘が鳴り響き、みんなが献げるロウソクの灯火が堂内に満ち、司祭(神父)や輔祭の祈りの声に信徒が呼応します。

激しい雷鳴のごとき祈りの声、聖歌が聖堂を地震のようにふるわせます。

それらは恐怖ではなく、心の奥底、信仰の根幹を感動させる雷鳴と地震です。そしてそこに満ちているのは、雲の柱である、乳香の雲です。

お祈りの終わりころには、堂内が香に満ち、煙たいばかりの印象かも知れません。でも、ちがいます。

祈りの始まりのとき、聖堂に漂う香の煙は、天気のよい日には、窓からの陽ざしにまとわりつくように、七色の雲となって上昇していきます。

その美しさ、香の香りの神々しさは、たとえようのないものです。

シナイ山で神が祝福されたように、神の恵み、恩寵が、正教会の聖堂に充満します。

香炉の祝福は、衆人、万人に平安を恵む、雲の柱です。

京都正教会では、エデンの園をイメージし、できるかぎり花の香り、たとえばバラの香りの乳香をかおらせるようにしています。

雲の柱は、聖堂の香の雲に生きているのです。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2019年10月 人間の体シリーズ 鼻─匂いと香り

イサクは、イアコフ(ヤコブ)の着物の匂いをかいで、

祝福して言った。

「ああ、わたしの子の香りは、主が祝福された野の香りのようだ。

どうか、神が、天の露と地の産み出す豊かなもの、穀物とぶどう酒を、

お前に与えてくださるように」(創世記27:27-28)

劇作家でキリスト教徒でもある矢代静一氏の戯曲『道化と愛は平行線』で、登場人物が次のような内容を語ります。

貧乏って何?

それは匂いだと。

体臭と言っても良いのかもしれません。

わたしたちの周りは、匂い、香りに満ちています。良い匂いもあれば、鼻の曲がるようなひどい匂いもあります。

それは教会、聖書の世界も同じです。

アダムとエバ(イブ)の誘惑された果実は、見た目に美しく、色鮮やかで、さらに美味しそうな甘い香りを漂わせていました。

父イサクは、息子イアコフ・イスラエルにだまされます。弟イアコフは兄エサウに与えられるべき父の祝福を奪います。目の見えなくなっていた父イアコフは、毛皮を身につけた弟イアコフを抱いて匂いで確認し言います。
「ああ、わたしの子の香りは主が祝福された野の香りのようだ」

旧約聖書の『雅歌』は、神と人、神と教会・信仰者との交わりを詩で詠います。その詩は色とりどりの花や美味しい果物の香りに満ちています。

19世紀ロシアの文豪ドストエフスキーの小説『カラマーゾフの兄弟』では、ゾシマ長老が永眠します。すると人々は何か奇蹟が起こるはずだと神秘現象を期待して待ちます。生存しながらにして、聖人になるだろうと期待されている人に対して、信徒は奇蹟を期待します。

ところが、ゾシマ長老の遺体は、奇蹟どころか、「くさい匂い」腐臭を放ち始めたのです。人々はおどろきあわてます。死体が腐ることはあたりまえのことです。だからたいてい、いま遺体の納まった柩にはドライアイスを入れます。ゾシマ長老は聖人になるはずの人、みんなそう信じていました。その人の遺体が匂う、くさい。

理想を求める信仰者はときどき誤った幻想を持ちます。幻想的な期待と、教会の言う信仰者の「希望」とは本質が違います。ある意味その差は紙一重です。

匂い、香りもそうです。自然の野山の花の香りと、芳香剤・入浴剤・洗剤などに入っている人工的な匂いは全く異なります。

化学合成された人工的な香りではなく、野の草花の咲き乱れ、小鳥や蝶の飛び交う野原の香りが、神の国を象徴しています。

教会の、いえ信仰者の求める匂い、香りの原点は、エデンの園、神の国です。 それはイサクがイアコフ・イスラエルに語った「野の香り」であり、イイススの埋葬の場面にも象徴されています。 
十字架にかけられて永眠したイイススが葬られた新しい墓の周囲は草木、花々の甘い香り、女弟子がイイススにぬった香油の香りに満ちていました。

十字架から下ろされて、新たな墓へ葬る道すじでは、ご遺体が通るにつれて白い百合の花が真紅のきれいな赤い百合の花に変わり、甘い芳香に満ちたと言います。聖堂もそうです。聖堂は、かのエデンの園、わたしたちがいつか行くであろう天国、神の国を表しています。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2019年9月 人間の体シリーズ 目(眼)Ⅳ 目覚める 儆醒せよ

なんじら儆醒(けいせい)せよ、

信に立て、勇め、堅固なれ。

およそのこと愛をもって行え。

(Ⅰコリント16・13)

この儆(けい)には、相手の人に出会った時、はっと緊張して向かい合う、という意味があるそうです。この文字から派生して警察官の警、警戒するの警が生まれ、一方では尊敬・敬愛の敬が生まれます。醒は覚める、冷静さを取り戻すという意味です。覚醒という言葉はよく使われています。

儆は警察官の「警」の字で書く、警醒と書くこともあります。

「山は登り切らねばならない」という言葉があります。

ある人が特別な使命を帯びて隣りの国へ向かうとき、急坂な山道、峠道をあるき登り行きます。ところが人を押し戻そうとする、前に向かって歩けなくなるような強風が吹いたり、時には雨や雹(ひょう)が混じり、目も開けていられない。初めての道なので不安が増していきます。

いっそ戻ろうか、引き返そうかと思い、決意が鈍り、逡巡します。

たとえ頂上まで行っても、逆風はなくならない。ますます風雨が烈しくなり、崖が崩れたりして遭難するかも知れない、他日を期したい、そう思ってしまうことがあります。

でも信仰生活とはそういうものかも知れません。
「山は登り切らねばならない」、けだし至言なり。

どんなに時間がかかろうが、悪路であろうが、登りきった人にしか見えない地平、水平線があります。

想像や空想では語ることのできない世界が広がっていて、そこは登りきった者にしか見えない、真実の世界です。

こわいことに、間違って登った人には間違った山の頂上、世界があります。

これも事実です。

登りきった場所、広い道や門を選択したら、待っているのが悪魔だったということもあるかもしれません。

そうです。つねに正しい神の道があります。

もしかしたら同伴してくれる友がいるかもしれません。
「鉄は鉄をもって研磨する。人はその友によって研磨される」(箴言27・17)

その友は信の伴侶、ほんとうの親友、あるいは神そのものです。
途中の難所で、分かれ道、岐路で、そして山や峠の頂上で、神が待っています。

神の道を、神の山を登り切らねばならず、正しい信仰の山道を登り切った者のみが俯瞰(ふかん)できる、美しい雲海や暁光、陽の出もあることでしょう。

神の国の扉の開く、陶然とする、まばゆい光が満ちています。

そうです。あなた、わたしは、希望の光、復活の門をくぐります。

箴言はこう述べています(15・24)。
「目覚めている人には上への道があり、下の陰府(よみ)への道を避けさせる」

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2019年8月 人間の体シリーズ 目(眼) ⅠⅠI 目覚める

もどってご覧になると、弟子たちは眠っていたので

ペトルに言われた。「シモン、眠っているのか。

わずか一時でも目を覚ましていられないのか。

誘惑に陥らぬよう、目を覚ましていなさい。

心は燃えても、肉体は弱い」

(マルコ14:32〜)

目覚めるというと、ふつうの日本人は、眠った後に起きること、睡眠後の目覚めを言います。

ところが聖書、信仰者の世界は違います。異なります。

時として、正教会における「目覚める」とは、夜ひと晩中眠らないこと、徹夜で起きていることを意味します。

これは徹夜の労働、昼夜兼行の仕事、あるいは外敵の不意打ちに遭わないための警戒・注意を意味しており、ここからさらに、信仰生活へのいろいろな意味合いが加わります。

すなわち、信仰者の目的を達成するための正しい努力、無気力や怠惰に打ち勝つこともそうです。

かつて愛知県、知多半島で活躍したペトル望月富之助伝教者は「覚醒」という会報を発行し、信仰者に呼びかけました。

警醒せよ、覚醒せよ、と。

聖書にはこう書かれています。
「わたしに聴き従う者、日々、わたしの扉をうかがい、戸口を見守る者は、いかに幸いなことか。わたしを見出す者は生命を見出し、主を喜び迎えて(その生命を)いただくことができる」(箴言8・34〜35)

信仰者が訪れる神の扉へのノックを待つ姿は、ぼうっと寝たままではいけません。眠らずに目覚めていることが必要です。

これが正教会における徹夜の祈り、徹夜祷、不眠の祈りにも通じる精神性です。

イイススはマトフェイ(マタイ)福音書25章「10人の処女(乙女)のたとえ」で語ります。救い主が訪れ、扉を叩いたとき、5人の乙女は準備完了しており、神様を待たせることなく、花婿と共に神の国・婚宴会場へ入り、のこり5人の乙女は何の準備もしておらず、慌てて準備を始めたが間に合わなかったというたとえです。イイススはこう語ります。
「だから目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」

この信仰は太古の昔から一貫していて、福音の掉尾を飾る「イオアン(ヨハネ)黙示録」にも貫かれています。
「わたしは愛する者をみな、叱ったり、鍛えたりする。だから熱心に努めよ、悔い改めよ。見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聴いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と食事を共にするであろう。彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(3・19〜20)

さらに強調します。
「来てください、これを聴く者も言うがよい。来てください。渇いている者は来るがよい、命の水が欲しい者は、価なしに飲む通い」
「すべてを証しする方が言われる、然り、わたしはすぐに来る、アミン、主よ来てください」(22章参照)

目覚めて待つ人に、救いが訪れます。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2019年7月 人間の体シリーズ 額(ひたい)と聖なる刻印

純金の花模様の額当てを作り、その上に印章を彫るように

「主の聖なる者」と彫りなさい。次に、この額当ての両端

に青いねじりひもを付け、ターバンに当てて結び、ターバ

ンの正面にくるようにする。これがアロンの額にあれば、

アロンは、イスラエルの人々がささげる献げ物に関して生

じた罪を負うことになる。また、彼がそれを常に額に帯び

ていれば、かれらは主の御前に受け入れられる。

(出エジプト28:36−38)

約40年ほどの昔「おでこの神父様」で、話が通じてしまう方がおられました。すでに永眠されている大阪のプロクル牛丸康夫神父様。

名前を忘れてしまっても、おでこに手をやるだけで、「ああ牛丸神父さん」、わかってしまうのでした。

ところで、十字を画くというと、ふつうは、額・胸・右肩・左肩です。

ところが初代教会、1〜4世紀頃の一部のハリスティアニン(クリスチャン)は、いまとは異なる十字の画き方をしていたといわれています。

右手の親指で額に十字、あるいは二本指や三本指で額に十字、それがいまのような十字の画き方へと変遷し、伝統になっていったといわれています。

ではなぜ、額であったのか。これをまずは手に入りやすい新約聖書に源を求めてみましょう。

イオアン(ヨハネ)黙示録は、たびたび聖なる刻印について語っています(14・1)。
「見よ、小羊がシオンの山に立っており、小羊と共に、14万4千人の者たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とが記されていた」

その聖なる名とは何か?
「十字」 

十字架の徴(しるし)ではないでしょうか。

復活のしるしです。

ではなぜ、額なのか。

歴史を遡って旧約聖書をひもといてみましょう。

出エジプト記28章。

神は、祭司長アロンをはじめとする、祈りを司り執り行う祭司の衣装について述べています。
「純金の花模様の額当てを作り、その上に印章を彫るように〝主の聖なる者〟と彫りなさい」

金属の薄い板に
「主の聖なる者」

と刻印をし、額に当てたのです。

つまりその金属板の両側に青いねじったヒモを通し、それをターバンに結び付けました。

バンダナとか鉢巻きというよりも、頭に巻き付ける布の帽子、ターバンの正面、額に「主の聖なる者」という文字が記されていました。

これが昔のイオアン黙示録の額の刻印、あるいは初代のハリスティアニン(クリスチャン)の額の十字につながっていると考えられます。

額を起点にして十字を画く慣習は、そうすると、数千年も歴史をたどってゆき、出エジプトの祭司の姿にまで遡るわけです。
額は神の知恵の宿る、神の手が刻印をする場所です。

十字は、主の聖なる者である証明、復活の徴です。

すなわち額は、神の恵みの発出する場所、信仰者が聖神(せいしん)の親しみを受けとめる、大切な刻印の聖地なのです。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2019年6月 人間の体シリーズ 目(眼) ⅠⅠ

イイスス彼(フォマ、トマス)に言う、

「なんじは われを見しによりて信ぜり。

見ずして信ずる者は福(さいわい)なり」

(イオアン福音20:29)

第四の目は「神の目」です。

神の目を持った聖人、特に皆さんに紹介しなければならない聖人がいます。 京都生神女福音大聖堂にヒントがあります。
ここは主教座のおかれた大聖堂。

主教様がいらっしゃるとき、この聖堂の主教座には、オルレツという鷲を刺繍した絨毯が敷かれます。

鷲は、この聖障(イコノスタス)の中央の一番上、万軍の救世主、全能の神の聖像の中にも画かれています。

ご存知のように鷲は、猛禽類の王者、何百メートルの天空から、地上の小さなネズミさえ発見します。

神の目とは、たとえば鷲の目のように、あらゆる森羅万象を精密に網羅し、俯瞰(ふかん)し、透徹する目です。

神の目は、場所・時間・空間などに拘束されません。

神の目はこの世の時空間にすでに訪れている神の時間、神の空間をはっきりと明らかに見せ体験させてくれます。

キリスト教会の歴史のなかの、最初の偉大なる神学者イオアン(ヨハネ)の象徴が、鷲です。

12人の聖使徒の中で、唯一、神の目をもつにいたったイオアンは、だから神秘的な啓示を受けて「黙示録」を書くことができました。

正教会は「知恵の浄き光を輝かし」と祈ります。

これは神の叡智です。神の叡智に満てられし人が神の目をさします。

イオアンは、あの最後の晩餐「機密の晩餐」のとき、神の胸に抱かれ、神の鼓動をきいた聖使徒でもあります。

神の胸、神の腹の奥底から「見つめている人」です。

それが神学者であり、祈りの人、なのです。

イオアンは神の胸の奥底、神の腹のただ中を体験します。

神のただ中、真ん中にあったものは何か。

たとえば愛があります。

イオアンは「愛の使徒」と呼ばれます。そして人間のだれもが「愛」に生きることができます。すなわちだれもが神の目を持つことができます。

神の目を持つ者は、恐怖を克服し、愛に絶望せず、愛することを畏れず、神と人とを愛しつづけます。

心の目、霊の目が祈りによって磨かれて、神の目に到達します。

神に、そして人に愛され、愛し合う者にだけ見えてくるものがあります。

神の目は、信じ、希望をもちつづけ、愛する信仰者が、獲得することのできる、信仰の目、ハリストスの目でもあるのです。

(長司祭 パウェル 及川 信)

■2019年5月 人間の体シリーズ 目(眼)Ⅰ

爾(なんじ)ら、目ありて視ざるか(マルコ福音8:18)

わが見るを得んことを(同10:51)

正教会 オーソドックス・チャーチの信仰において、「目(眼)」は特別な意味を持っています。

目を、4つに分類してみます。

第一に、人の目。わたしたちの肉眼です。

第二は、心の目です。心眼と言います。

これは、一流の技術者・職人・運動選手・芸術家あるいはわたしたちの中でも、心と体の修練を積んだ達人・名人が達する「境地」です。

信仰者の第一段階はこの心の目を持つことです。

正教会では「爾に平安」、「衆人に平安」と祈りますが、真に平安の者のみが心の目を獲得します。

さて第三の目は、霊(たましい)の目です。

この霊の目とはいかなるものでしょうか?

霊の目を得る糸口は聖堂にたくさんあります。それはいったい何でしょうか。 聖像(イコン)です。聖像の目です。すばらしいイコンは、平穏で清楚、人に安らぎを与え、心を育てる祈りの聖なる門です。イコンの目を見ましょう。 すばらしいイコンの目は、神の国を見つめています。

この世と神の国をつなぐ目です。人と社会を見ているようでありながら神と天使、生神女マリアと諸聖人を見つめます。そして、この聖像を見ながら祈る人を聖なる場所、天にいます神の宝座へと連れていきます。
イコンの恵む霊の目は、神の目へと人を成長させます。

そうです。もっとも大切で重要な目が「神の目」です。

霊の目を自らのものとした信仰者は、神の目を認識し、自覚し、神の目を体験します。創世記1章はこう語ります。
「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の聖神(せいしん、霊)が水の面を動いていた」

天地創造の光景を見た者はだれか。

創造された宇宙、光る星、暗黒の星、生命を宿している地球のような星を、俯瞰(ふかん)しておられるのはだれでしょうか。

神です。

神の目が天地創造の光景を、まるで人が見たかのように描写しているのです。

ハリストス(キリスト)神の子が人となったとき、藉身(せきしん)されたとき、人は霊の目から成長して神の目を獲得できるようになったのです。

教会では神の目を意識させるために、たとえば戈(ほこ)、星架に目を刻むことがあります。多目のヘルウィムは、全身これ目でありまして、神の目を体現します。

第四の目は「神の目」なのです。

(つづく)

[イコン「人の手にて画かれざる救主」自印聖像 15世紀 ロシア]

(長司祭 パウェル 及川 信)