■2018年7月 預言者は荒野をめざす

7月7日は、聖なる前駆授洗者イオアン(ヨハネ)の誕生祭です。

前駆とは先駆者のこと、救世主イイススの先駆け、先触れとして誕生した預言者イオアン。

物心ついてからイオアンは家を離れ、荒野(荒れ地)をめざします。

福音書は語ります。荒野にあってイオアンは、野蜜といなごを食べ、ラクダの毛皮を着ていた、と。

預言者は、荒野を目ざす。

北海道の北の方には、海岸沿いに荒野があります。夏はいいのですが、晩秋、秋が深まり冬を迎えると、地吹雪が起こる土地があります。

しばしばブリザードと言われます。体験する者にしかわからないすさまじい、地面の底を這うような烈しい風。それは標高の高い山の、吹きさらしの背と同じです。生えている木は低木ばかり。海風、北風の吹く方角からの強風に煽られて、低い木がみんな、同じ方向、斜めに生えています。

人の居住にはあまり適さない荒涼とした土地です。

ほとんど家がなく、石がゴロゴロしているようなところもあります。

預言者、聖人はそういう土地に行くことがあります。荒れ野に行って、観光客になるのか。荒涼とした風景・光景をみて感慨にふけるのか。いわゆる自分探しなのか。そうではありません。

「神はわれらと共にす」を確信し、神と共に荒野で暮らします。何年間か、何十年か、荒野で生活します。

それは曠野や砂漠、山や崖、森林の奥地などです。

荒れ地でスキートと呼ばれる小屋・庵に暮らすのは修道者ばかりではありません。

主教や司祭、市井の信仰者で聖人と呼ばれる人の多くは、何年間か、何十年か、荒野で生活した体験があるのです。荒野はたんなる居住地、住宅地ではありません。優れた信仰者は、荒野を生きた体験があります。

荒野は不信と戦い、神を信じ続けるための、信仰の場所です。

勇気の燃えあがる「シナイ(ホレブ)の山」、燃え尽きることのない信仰の柴(しば)を生む希望の大地です。

では信仰生活の理想の場所が、荒野や荒れ地かというと違うと思います。 そこは終点ではなく、信じる力、信仰の基礎を固めるための場所であって、終着駅のような「終の棲家(ついのすみか)」ではありません。

信仰者、聖人が目ざす場所は、かつて楽園、エデンの園、乳と蜜の流れる地と言われました。

預言者は荒野を目ざす。そこから聖なる師父は天国を目ざす。

預言者、聖人は荒涼たる、一見人間の暮らせないような場所を生き、そこを楽園に転化、成聖し、自らを神の天使として聖変化させます。

かれらは神の国への旅人でありながら、すでに復活を生きる、楽園の住人でもあります。荒野を基盤にしつつ、人間が幸福に生活できる神の国を目ざして歩き続け、なおかつ不毛の大地を天国とします。

預言者、聖人はわたしたち信仰者が体験するあらゆる喜怒哀楽をくぐりぬけ、荒野という不毛を体験し、なおかつ信じて生きることをあきらめませんでした。

荒野を目ざす預言者は、でも一人ぼっち、孤独ではありません。

預言者が手にした灯火、灯台の光は、暗闇に歩く後続の信仰者の道行きを、足もとを照らします。かれらは、わたしたちを帯同し、同伴しつづける、神の国への前駆者なのです。

(長司祭 パウェル 及川 信)