■2023年4月 結実

 問答者聖グリゴリイは言います。「生命には二種類あります。一つは死すべき生命、いま一つは不死の生命です。前者は腐敗する生命、後者は腐敗することのない生命。前者は死への生命、後者は復活による生命。神と人との仲介者としてこの世に降誕されたハリストスは、死の時に前者を耐え忍び、復活の時に後者を明示されました。けれども、不死の生命が目に見える形で明示されなかったならば、それまで死すべき生命しか知らなかった私たちに「復活」を約束したところで、その言葉を疑わずに信じられる人は誰もいなかったことでしょう。だからこそ、神子ハリストスは人の肉体をまとってこの世に生まれ、後に自ら甘んじて死を受け入れ、私たちに約束なさった不死の生命を復活によって明示されたのです。しかも、ただ一人で復活なさったのではありません。「眠りについていた多くの聖なる者たち(マトフェイ27:52)」と共に生き返られました。そればかりか、ハリストスと共に復活した人々は、神ではなく私たちと同じ人間であったことに注目すべきです」。

 「聖書にはこうも書かれています。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと(イオアン15:16)」。よって、私たちは心からその実を欲して歩む資格をすでに得ているのです。ところが、人々のこの世における仕事の業績や遺産は、せいぜいその人が死ぬ時まで存続するに過ぎません。死はあらゆる成果を無情にも滅ぼしてしまうからです。その一方で、永遠の生命を得るための努力への報い、すなわち「残る実」は死後にも引き継がれ、むしろ死を境に生き始めます。ですから、永遠の存在を認めようとするならば、一時的な成果に価値を置いてはなりません。私たちは神に選ばれた聖人たちのように、死から始まる消え去ることのない実を結ぼうではありませんか」。

 ハリストスの弟子でありながら、復活なさった主の姿を不運にも見そびれたフォマは、悔しさのあまり次のように言い放ちました。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れなければ、私は決して信じない」。慈悲深きハリストスはそれをお許しになりましたが、そもそもフォマはなぜ他の使徒たちに後れを取ってしまったのでしょうか。復活祭期の祈祷書『五旬経』は記します。「其時フォマは、神の攝理に由りて、彼等と偕に在らざりき」。「(ハリストスの)復活を徒に疑いしにあらずして、墜されざりき、乃萬民の爲に之を疑なき者として顯さんと欲せり、故に不信に因りて信ぜしめて、衆に言わんことを教えたり」。つまり、フォマの不在は決して不運などではなく、神様のお導きによって私たちに主の復活を明示する、という栄えある働きを担うためであったのです。

 「爾の手を以て我が肢體の痍を探りたるフォマよ、我爾の爲に傷つけられし者を信ぜざる勿れ、門徒と偕に意を同じくして、活ける神を傳えよ」。主は何もフォマにだけこのように呼びかけられたわけではありません。私たちは皆で、ハリストスを頭に頂く一つの体を構成します。ハリストスの身に起こった復活は、優れた体のパーツである使徒やその他の聖人たちにも、そして彼らには劣る私たちにも同様に起こり得る出来事と確信すべきなのです。フォマは遅ればせながら主の復活に接した感動を「我が主よ、我が神よ、光栄は爾に帰す」と表現しました。「不信は堅固なる信を生じた」のです。「主を讃め揚げよ、蓋我等の神に歌うは善なり、蓋是れ樂しき事なり」。私たちの側から喜び勇んで神様の御許へと歩み寄ることで、復活は必ずや現実のものとなるでしょう。

(伝教者 ソロモン 川島 大)

■2023年3月 比較

 前回のコラムでは、聖金口イオアンの「嫉妬」に関する教えを紹介しました。「教会の一致を妨げる原因は妬みや恨みのほかに何もなく、悪の根源よりも嫉妬は許されがたいものです。人間同士の憎しみ合いは、悪魔ですら仲間うちではあえて行わない醜き姿と言えます。誰かの幸福を妬む気持ちは、その人に幸福を賜った神様を敵視するのと同じことです。天の神様の御前において、私たちはまず己の不完全さを認め、そして他者に先立つように善き行いを心掛けねばなりません」と。

 祈祷書には大斎直前に「大ワシリイの講説を読む」ものと記されており、せっかくですから今回は同じテーマで聖大ワシリイの教訓をも紹介します。「嫉妬とは、仲間の幸福を嘆き悲しむこと。妬む者は悲しみや心の悩みに不足することはなく、まるでトンビやハエのようにわざわざ腐敗した環境を好むかのようです。この病が人々を最も苦しめる所以は、自らの心境を他人に打ち明けることが憚られる点にあります。他人から「あなたは何に悩み苦しんでいるのですか」と尋ねられようとも、「私は妬み深い悪人です。ハリストスにおける兄弟たちの完全さは私を悩まし、彼らの善良な心を悲しまずにはいられません。完璧な人を見るのが悔しく、隣人の幸せを私にとっての不幸せと感じてしまうのです」などと正直に答えられるはずもありません。よって、人知れぬ思いを抱え、自らを苦しめ続けるのです。けれども、様々な手立てを講じてまで、現世での富や栄誉を得ることに捉われてはなりません。なぜなら、あなたの望む通りにはならないからです。そのエネルギーを善き行いに邁進すべく用いましょう。清く、正しく、知恵深く、敬虔に忍耐する者となるのです」。

 本日(乾酪の主日)は聖体礼儀に引き続き「赦罪の晩課」を行いますが、教会暦では一足早く乾酪週間火曜日の晩課から「エフレムの祝文」を唱え始めています。「主吾が生命の主宰よ、怠惰と、愁悶と、矜誇と、空談の情を我に與うる勿れ。貞操と、謙遜と、忍耐と、愛の情を我爾の僕に與え給え。嗚呼主王よ、我に我が罪を見、我が兄弟を議せざるを賜え、蓋爾は世世に崇め讚めらる」。ここで登場する「矜誇/陵駕(希φιλαρχίας, 英lust of power)」とは、他者よりも優位な立場を望む感情を指します。こうした情念に捉われて思い煩うならば、仲間の幸せを自分のこととして喜ぶのは難しく、不幸せのように感じてしまうものでしょう。だからこそ、エフレムの祝文「矜誇」の対極に位置する「忍耐(υπομονής, patience)」が大切である、と聖大ワシリイは説いているのです。

 振り返ってみますと、大斎準備週間には四つの主日が存在しますが、その全てが対照的に物語られています。「税吏とファリセイの主日」では、ファリセイの傲慢さと徴税人の謙遜さとが。「放蕩息子の主日」では、かつての父親に従順な長男と放蕩に明け暮れる次男、そして後の弟に嫉妬する長男と兄に欠けた痛悔の心を獲得した次男とが。「断肉の主日」では、善良な人々は常に目を覚ました善き行いが評価され、一方の呪われた人々は相手によって対応を変えていた示唆が。「断酪の主日」では、アダムとエワの楽園追放において各々が妻に、蛇に、自分の過ちを誰かに責任転嫁した出来事、さらには他人を許さない者は神様にも許されない旨が告げ知らされます。

 「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」。これが大切な心構えであるといくら頭では分かっていても、自分が満たされていないと感じる時、その人は他者の幸せを手放しでは喜べないもの。聖使徒パウェルはロマ書の12章を次のように締め括っています。「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」と。なぜなら、私たちはみな「与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っている」からです。この喜びを「すべての人と平和に暮らす」ための出発点としましょう。

(伝教者 ソロモン 川島 大)

■2023年2月 嫉妬

 聖金口イオアンは次のように教えます。悪の根源よりも嫉妬は許されがたいものです。なぜなら、貪欲な人は自らが恵みを手にした時に喜びますが、嫉妬心に苛まれた人は自分が得た時には喜ばず、かえって他人には与えられなかったタイミングで喜びます。彼らは自分の受け取った恵みを幸せと見做さず、他人の不幸せを幸せと認識するからです。同じ人間同士が憎しみ合うことは、悪魔ですら仲間うちではあえて行わない醜き行い。天の神様の御前において、私たちは善行こそを競う必要があります。そして、他人の完全さを悔しがるのではなく、己の不完全さを悲しまねばなりません。妬みはこの流れに反することで生じます。あなた方が悪しき感情から離れて善行に邁進する時、必ずや大きな幸福を受けるはずです。けれども、ある人が困っている時に決して自分自身では立ち上がらず、そればかりか誰かが手助けしようとする様子を見て悲しみ、あらゆる手段を講じてまで排除しようとする人は悪魔に忠実な人物と言えましょう。他人への労いを邪魔する者のように、誰かの幸福を妬む気持ちもまた、その人に幸福を賜った神様を敵視するのと同じだからです。

 大斎準備週間第二主日は「蕩子の主日」と呼ばれ、放蕩息子の譬えが福音で読まれます。ある日、年頃を迎えた次男が催促したため、父は自らの財産を兄弟に分け与えました。長男はその場に留まって父に仕えることを選びましたが、一方の次男は全てをお金に換えて遠い国へと旅立ちます。けれども、次男はたちまち「放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣い」してしまいました。その様子をご覧になった神様は、彼に試練を課されます。すなわち、飢饉を起こし、無一文になった次男の生活を苦しめられました。食べ物を得られずに心の底から反省した彼は、「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と願い出るつもりで、父のもとへ帰ることを決意します。

 飢饉の噂は父の耳にも届いていたのでしょう。次男の帰りを日夜待ちわびていた父は、「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻」しました。続けて父親は僕たちに『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう』と言い、祝宴を始めました。こうして次男は、兄が嫉妬するほど温かく父に迎え入れられたのです。ここで注目すべきは、神様がただ漠然と次男に救いの手を差し伸べたわけではなく、長男に欠けていた痛悔の心を獲得し、やり直しの機会を願う彼の自由意志を尊重なさった点です。「罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう」という主の御言葉は、まさに現実のものとなりました。

 聖金口イオアンは、冒頭に引用した説教の中で断言しています。「教会の一致を分離させる原因は、恨みや妬みのほかには何もありません」。神様は「萬世の前」から、人々を信仰に立ち返らせる最良の時を見極めておられます。放蕩息子のように回り道をしたとしても、真の痛悔を経て再チャレンジするならば、その瞬間から「神の国は近づいた」も同然。ですから、私たちは道を踏み外した仲間のためにも祈りを捧げることを忘れず、間もなく迎える大斎を通じて自分自身と向き合いながら「復活並に来世の生命」の獲得を目指してまいりましょう。

(伝教者 ソロモン 川島 大)

■2023年1月 塩味

 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう(マトフェイ5:13)」。長らく、この言葉の意味を理解できずにいた私。ところが、先日インターネット上で身近な食品が話題になったことで、ようやく腑に落ちました。ネットニュースによると、日本の伝統食品である梅干しの消費量が年々伸び悩んでおり、このままでは程なくして梅干し産業は立ち行かなくなるとのこと。すると、それに危機感を覚えた食品会社が、Twitterで消費者に「どのような梅干しを食べたいか」と希望を募ったのです。その結果、消費者は生産者の意に反して、梅と塩と赤紫蘇だけで作られた「普通の」梅干し、を求めていることが判明。今や普通の梅干しは、直売所か高価な嗜好品として売られているのみで、巷ではなかなか手に入らないとの窮状を訴えます。皮肉にも、市場拡大を狙う各社がこぞって売り出した、健康志向の「減塩梅干し」、食べ易さ重視の「はちみつ味」や「かつお味」などのラインナップは、本物を求める消費者には見向きもされません。まるで、「畑にも肥料にも、役立たず(ルカ14:35)」、「もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけ(マトフェイ5:13)」の塩気を失った塩のように思われます。

 ここで本題に移りますが、「塩」には二つの役割があります。一つが、食材の長期保存を可能にすること。もう一つが、食材に風味を付けることです。「爾(ハリストス)が己の顯現にて萬有を照しし時、不信の鹹き海は走り、下に流るるイオルダンは回りて、我等を天に登す」。この表現は、永遠の生命へと至るために洗礼を受けなければならない、との示唆を私たちに与えます。ただし、ロトの妻のような不従順は、せっかくの塩気をダマにしてしまいがち。「靈よ、爾復歸りて、鹽柱と爲る毋れ」、「神聖なる諸徳の鹽を以て諸罪の腐敗を潔めて、神に就けよ」と自らを奮い起こしましょう。

 また、「人は皆、火で塩味を付けられる、またあらゆる祭品は、塩で塩味を付けられる(マルコ9:49)」と主は仰いました。ですから、洗礼をお受けになったハリストスにも、ハリストスに倣って洗礼を受ける私たちにも「火の舌」である神聖神の恩寵が降り注ぎます。そして、「穀物の献げ物にはすべて塩をかける。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな。献げ物にはすべて塩をかけてささげよ(レワィト2:13)」との言葉通り、私たちはパンとぶどう酒を祈祷で捧げるだけでなく、自分自身をも神様への捧げ物とするのです。人を愛する主は、「聖にせられし爾の門徒の敎の鹽を以て、人類の中に廣まりたる惡の敗壞を止めて」くださいます。ゆえに、私たちは主の後継者であり、先輩信徒でもある聖人たちに対して、神様へのとりなしを願うのです。「全地の鹽と爲りし主の使徒、神の言を宣べたる者よ、我が心の朽つるを止めて、鹽の味を失いし者を鹹に返し給え」、「救を施す敎の鹽として、我が朽ちたる智慧を醫して、我より無智の幽暗を拂い給え」と。

 かつて、旧約の預言者「エリセイは鹽を以て生産なからしむる水を治して、奥妙に、先祖の神よ、爾は崇め讃めらると歌う者にあらんとする尊き洗盤の多産を前兆」しました。主が水を清められたことで、本来は「もはやここから死も不毛も起こらない(列王記第四巻2:21)」はずなのです。けれども、残念ながら「死」も「不毛な争い」も現実には途絶えません。それはなぜでしょうか。「塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい(マルコ9:50)」。つまり、新約において語られた主の御言葉を忘れてしまうからなのです。「上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです(イアコフ3:17-18)」。全地の塩である聖使徒たちもまた、私たちの塩味に期待を寄せていることでしょう。

(伝教者 ソロモン 川島 大)

■2022年12月 復路

以下は、先備聖体礼儀の編纂者とされる問答者聖グリゴリイによる降誕祭の説教要約です。

 「至高きには光榮神に歸し、地には平安降り、人には惠臨めり(ルカ2:14)」。私たちの救い主が肉体をとってお生まれになるまで、人々と天使たちとの間には不和がありました。なぜなら、人類の先祖の罪のゆえに、また毎日犯している罪のゆえに、天使の明るさや清さから遠く離れ去ってしまっていたのです。けれども、私たちが自らの王を認めたので、天使たちは自分たちと同じ国の民として人々を迎え入れました。天上の王が、地上的なものである人間の肉体をとられたのを見て、高みの天使たちは、もはや私たちの卑しい身分を見下すのを止めたのです。こうして、天使たちは人々と再び和睦し、以前の不和の気持ちを捨て去りました。そして、以前は弱く卑しいものとして見下していた人間たちを、今や仲間として尊敬しています。

 私たちは、神様の永遠の予知によって、天国の民でもあり、神様の天使たちに等しい存在でもあります。従って、何か不潔な行いによって自分を汚したりしないように注意しましょう。徳行によって私たちの品位を保持しましょう。いかなる不節制にも汚されないように、いかなる汚らわしい考えも私たちを告訴しないように、悪を働いて良心の呵責を招かないように、嫉妬心というサビに腐食されないように、高慢によって膨れ上がらないように、野心によって地上的な快楽を求めて引き裂かれないように、怒りによって燃やされないようにしましょう。というのは、人間が「神々」と呼ばれたからです(聖詠81:6)。よって、悪徳に逆らうことで、あなたに帰せられた神様の名誉を守らなければなりません。なぜなら、神様が私たちのために人となられたからです。

 主の降誕や受難に際して現れた全ての「しるし」を考察する時、預言が与えられても、奇跡が行われても、主を認めようとしなかった一部のイウデヤ人たちがどれほど頑固な心の持ち主であったか、考えなければなりません。確かに、大自然のあらゆる要素は、自分たちの創造主の到来を証ししました。擬人法的な表現を用いれば、大空は主を神様として認め、直ちに星を送りました。海もそれを認め、主が自分の上を足で歩けるようにしました。大地もそれを認め、主の死に際して震動しました。太陽もそれを認め、その光を隠しました。岩と壁もそれを認め、主の死にあたって砕けました。陰府もそれを認め、自分が拘禁していた死者を釈放しました。しかしながら、感覚を持たない大自然の全ての要素が主であると感じとったハリストスを、不信仰なイウデヤ人たちは相変わらず神様と認めようとせず、岩よりも固い心を砕いて痛悔しようとはせず、前述のように、大自然の諸要素が「しるし」と亀裂とによって神様であると叫んでいたハリストスを認めようとはしません。

 私たちの国は楽園です。ところが、人々がイイススを知った後、私たちには楽園から出て来た時と同じ道を通って楽園へ帰ることは禁じられています。なぜなら、傲慢と不従順とによって、また可視的な事物を追求し、禁じられた食べ物を食べることによって、私たちの側からこの国を離れ去ってしまったからです。それでも、私たちは涙、従順、可視的な事物の軽視、肉欲の制御によって、その国へと帰らなければなりません。そのために、私たちは別の道を通って神様の国へと帰って行くのです。つまり、私たちは快楽によって楽園の喜びから離れ去ってしまいましたが、涙を流すことでその喜びへと帰るように呼びかけられているのです…罪のゆえに涙を流しましょう。そして、聖詠者ダワィドの言葉を借りて、「み前に進み、〔罪を〕告白しましょう」(聖詠94:2)…誠実に主の降誕を祝うのならば、神様の掟を畏れましょう。ダワィドが「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊(聖詠50:19)」と証言している通り、神様の御心に適ういけにえとは「罪の痛悔」なのです。私たちの過去の罪は、洗礼を受けた際に洗われました。しかしながら、私たちは洗礼の後にも多くの罪を犯します。けれども、もう一度洗礼の水で洗い清められることは出来ません。とはいえ、洗礼の後に生活を汚したとしても、涙によって心を洗うことは可能です。そうして、別の道を通って本来私たちがあるべき神様の国、以前快楽によって私たち自ら離れ去ってしまった国へと、苦難に悩みつつ帰りましょう。

(伝教者 ソロモン 川島 大)

■2022年11月 鞭撻

「死の權は已に人人を捕うる能わず、蓋ハリストスは降りて其力を敗りて滅し給えり。地獄は縛られ、預言者は同心に喜びて呼ぶ、救世主は信に居る者に現れたり、信者よ、復活して出でよ」。地獄の中で苦しむ金持ちがふと見上げると、遥か彼方にアウラアムの傍らで安らぐラザリの姿が目に留まりました。全身できもので覆われ、かつて彼が住んでいた家の門前で、犬と共に残飯を漁っていた生前のラザリ。これまで知らん顔で生きてきた金持ちには、どうして死後に立場が逆転しまったのか、自分の置かれた状況を全く理解できません。

それもそのはず、彼の生き様を振り返れば、普段から余所行きの服装を身に着けて豪遊する日々。身近にはやっとの思いでその日暮らしを営む貧者が居ることに気づきながらも、「隣人愛」の欠片すら示さなかったのです。とはいえ、「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」と言われるほど、金持ちにとってそれが難しいのもまた事実。なぜなら、貧乏人には貧乏人なりの苦労があるように、富豪には富豪なりの自負があるからです。とりわけ、人並みならぬ努力の末に現世での富や名誉を手にしたならば、他力本願で生きているかのように思えて仕方のない乞食になど、財産を簡単に分け与えて堪るものか、というのが本音でしょう。

しかしながら、この「肉において見えを飾ろうとする者たち」は、一体誰から現在の幸福を享受し得たのでしょうか。最初から豊かではなかった者にとって、貧しかった時代に手助けをしてくれる人物と巡り会えたからこそ、浮上のきっかけを掴めたはずなのです。また、金持ちが裕福な日常を楽しむ裏側には、不要な仕事など存在しない、と言っても過言ではないほど様々な職業人の働きがあります。当然ながら、彼らの生活が成り立たなければ金持ちはただの資産家に過ぎず、他人が羨むほど快適な暮らしなど送れません。それなのに、この富豪は感謝の気持ちを隣人への愛で示さなかったのです。そこで、神様は「愛の鞭」を加えられました。

肝心な点に盲目である金持ちは、自らの窮状のみを顧みてアウラアムに次のような提案をします。灼熱の地獄に苦しむ自分の許へラザリを遣わし、舌を冷ましてほしいと。それがあえなく断られると今度は、遺された兄弟の許へラザリを遣わして彼らの改心を促してほしい、と懇願しました。しかしながら、本当に悔改が必要なのは五人の兄弟ではなく、この金持ち自身です。

そもそも、ラザリは死後に及んでまで金持ちの召使いではなく、元来彼と同じ神様の被造物。また、生前の行いをいくら反省しても、過去は変えられません。けれども、彼にはまだ神様やラザリに対する謝罪の言葉を述べること、他人の力を当てにするのではなく「自ら救ってほしい」という姿勢を示すことは出来ます。従って、アウラアムの子を自称する者に対し、「悔改めにふさわしい実を結ぶ」ように気づかせるのが神様の望みであり、彼が行動に移して「新しく造られる」までの苦しみこそが「愛の鞭」。一方のラザリも、決して無条件に救われたわけではありません。来世の喜びを信じて疑わず、不満を口にすることなく精一杯に生き抜きました。だからこそ、主は彼に「勝利の栄冠」を授けられたのです。

ともあれ、誰が信仰深く天国において神様の左右に座れるのか、来るべき審判の日が訪れるまで私たちには分かりません。だからこそ、「あなたの神、主を愛して、その声を聞き、主につき従わなければならない。そうすればあなたは命を得、かつ長く命を保つことができ、主が先祖アウラアム、イサアク、イアコフに与えると誓われた地に住むことができる」でしょう。

(伝教者 ソロモン 川島 大)

■2022年10月 交差

 「十字架の縦横は天に齊し」というフレーズが十字架挙栄祭には登場します。「モイセイは杖を以て十字架の縱を象りて、徒歩にて行けるイズライリの爲に紅の海を撃ち分ち、ファラオンの兵車に向いては、勝たれぬ武器の横を記して、海を撃ち合せたり」。モイセイの例では、縦が支えとなる杖、横が守りとなる武器を指しており、この関係性は次の福音と密接に結びついているように思われます。

 ある時、律法師の一人がイイススを試そうと皆の前で尋ねました。「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」。すると返ってきた答えは意外なものでした。一つが「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」、いま一つが「隣人を自分のように愛しなさい」。どちらも、これまで彼ら自身が学び、かつ人々に説いてきた教えそのものだからです。

 ところが、「どうしてダヴィドは、聖神を受けて、メッシヤを主と呼んでいるのだろうか」、「どうしてメッシヤがダヴィドの子なのか」、誰一人この疑問には答えられませんでした。なぜなら、それは神様が「信じようとはしない…人々の心の目をくらまし、神様の似姿であるハリストスの栄光に関する福音の光が見えないよう」になさったためです。コリンフ後書において、聖使徒パウェルは述べています。「「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の神を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます」と。従って、「ダヴィドがメッシヤを主と呼んでいる」のも、預言者自身の敬虔な信仰に基づくもの、と考えて差し支えありません。

 「わたしたちは、いつもイイススの死を体にまとっています、イイススの命がこの体に現れるために」。けれども、「「闇から光が輝き出よ」と命じられた神様は、わたしたちの心の内に輝いて、イイスス・ハリストスの御顔に輝く神様の栄光を悟る光を与えてくださいました」」。ゆえに、私たちは「生命を施す十字架」に対して、「爾の煇煌にて、我等を照せ」と祈ることが出来ます。「神を愛する者皆來りて、尊き十字架の擧げらるるを見て、惟一の救世者及び神を崇め、且光榮を歸して呼ばん、十字架の木に釘せられし主よ、我等祈る者を棄つる毋れ」。すると、今世においても来世のごとく「我等の堕落せし性は地より起されて、天に住むを得る」ことでしょう。

 「わたしの右の座に着きなさい、わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」。確かに、かつて「モイセイが尊き十字架の能力を預象し…手を舒べて十字架の形を爲した時、民は力を得…シナイの野に於て仇敵アマリクに勝ち」ました。けれども、ここで示される私の「敵」とは、もはや目に見える誰かあるいは何かではありません。なぜなら、「預象の事實は我等の中に成就した、今日悪魔の苦悩である十字架が擧げられたことによって、一切の賜は我等に輝き、悪鬼は逐われ、造物は皆朽壞より解かれた」のですから。

 新約の教えが決して新しい概念ではなく、旧約に由来する旨をファリセイたちにも伝えようと、主は律法書の内容を引用なさいました。今を生きる私たちもルールやマナーに囚われてしまいがちです。しかしながら、信仰の本質は「神様を愛すること」、「神様が造られた隣人を愛すること」、の二つに集約されます。身の回りに存在する人やあらゆる自然は、自分と同様に神様の働きによって造られ、寵愛を受けているため、「万物を造りし主」を愛することは信仰の初めなのです。

 「十字架の縦横は天に齊し」。先に述べた福音の箇所と照らし合わせて考えれば、縦は神様と私たち一人ひとりの繋がり、横は神様の被造物である私たち同士、ひいては自然との繋がりを象徴する、とも言えましょう。この二つが交差した時、私たちはいつでも神様の御国へと招かれているのです。

(伝教者 ソロモン 川島 大)

■2022年9月 予祝

 節目となる祈祷の最後に、私たち正教徒は「幾年も」を欠かさずに唱和してまいりました。

1889年の冬、亜使徒聖ニコライは次のように書き記しています。「2月11日に憲法が下賜されるという勅令がでた…(当日)には、日本の安寧を祈り聖体礼儀と感謝祈祷を執り行なおう。この日のためにさらに「ムノゴレティエ」を日本語に訳しておかねばならなかった…(日本人司祭が)翻訳をしてほしいといってきた。「千代八千代」という訳も提案するのだが、このような表現は世俗の賛歌にはいいかもしれないが、教会では場違いだ。ここでは真心からの言葉でなくてはならない。天皇ご自身お喜びになるようなもので、天皇が千年も長生きしますように、神に頼むということでなくてはならない。かくして、「ムノガヤレータ」は「幾歳も」と訳すことにした。これを提案したのはパウェル中井である…11日に教会で初めてお披露目をすることにしたが、神よ、広く使ってもらえますように」(ニコライ『宣教師ニコライの全日記2―1881年~1891年8月』中村健之介監修, 長縄光男・高橋健一郎訳, 教文館, 2007, pp.247-248)。

これが「幾歳も」と日本語に訳された経緯ですが、語感や誇張の度合いを無視すれば、本質的には別候補の「千代八千代」と大差ありません。平安時代、『古今和歌集』に入集した詠み人知らずの「君が代」。「君が代は千代に八千代に、さざれ石の巌となりて苔のむすまで(あなたの寿命は永く永く続いてほしいことよ。あのさざれ石が巌となって苔が生えるくらいまで)」。中世歌謡研究者の解説によると、この歌の主題は長寿で、本来は相手に歌いかけることによって、その人の長寿を祈り、寿ぐものでした。「君」は恋人であり、親であり、友人であり、主君であり、また周囲のすべての人に向けられた二人称です。言霊と呼ばれる言葉の力を信じる気持ちを持っていた古代の日本人は長寿を願い、予め祝う気持ちを声に出して歌うことで、実際の長寿を引き寄せることができると考えました。

「さざれ石」が成長しても「巌」となることありません…すなわち、絶対に廻って来ない時間を待つ歌を歌うことによって、永遠の時間を表現し…言霊の力によって、相手が本当に長寿を保てるように願うと同時に、自分自身も長寿にあやかろうとしたのです…今日の国歌「君が代」は明治13年(1880)に、この歌詞に新たな曲が付けられて歌われるようになりました…古代から日本人が大切にしてきた言葉の力を信じる気持ち、また相手に敬意を払い、深く思いやる気持ちは、この歌詞によって伝えられ続けています…この歌は一部の人たちが主張するような天皇制賛美の歌などではけっしてなく…祝言性の強い歌を冒頭に歌うのは我が国の芸能の伝統で…日本人の心のあり方を示すものなのです(小野恭靖『室町小歌―戦国人の青春のメロディー』笠間書院, 2019, pp.60-63参照)。

もうお分かりいただけましたでしょうか。「幾歳も」にも同様の願いが込められているのです。特定の誰かのための捧げられたお祈りに思われても、実はそこに集うすべての人々に向けられています。だからこそ、「今此處に立ちて祈る爾の諸僕婢に、萬福にして平安なる生命、康健と救贖、萬事に於ける善き進步を與え、及び彼等を幾年にも守り給え」と前置きがなされるのです。

第13主日の福音箇所は「葡萄園と農夫の譬え」でした。農夫たるユダヤ人が葡萄園から追い出した神の子ハリストスは、後に旧約の預言通り教会の礎となられます。けれども、元来は神様と共に歩んでいたはずの人々でさえ、とうとう神言葉の存在を信じるには至りませんでした。そこで、「ハリストス死より復活し、死を以て死を滅し、墓に在る者に生命を賜えり。我等にも永遠の生命を賜えり、主の三日目の復活を拜む」ことを教えられたのです。同日の使徒経、そして「幾歳も」と近い意味合いの「萬民をも」は、いずれも次のように締め括られています。「願わくは我等の主イイスス・ハリストスの恩寵は爾等と偕に在らんことを(コリンフ前16:23)」。ゆえに、私たちが「幾歳も」を歌う時もまた、「口を一にし心を一にして…今も何時も世世に」「喜ぶ人と共に喜び(ロマ12:15)」ましょう。

(伝教者 ソロモン 川島 大)

■2022年8月 研鑽

 「わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っている…奉仕であれば奉仕をし、また教える者であれば教え、勧めをする者であれば勧め、寄附する者は惜しみなく寄附し、指導する者は熱心に指導し、慈善をする者は快く慈善をすべきである(ロマ12:6-8)」。

 全知全能の神様は一人ひとりの振る舞いを把握なさっています。従って、教会に通わなくとも、信徒にならなくとも、善人が天国に迎え入れられる妨げとはなりません。それでは、なぜ私たちは日頃から祈祷に集うのでしょうか。誤解を恐れずに言えば、教会は神様の御国を知るための学校。通うも通わぬも本人の意志に委ねられています。とはいえ、この学び舎に通わずして判断基準を自分自身に置く者は、「誘惑の猛風にて浪の立ち揚がる世の海(カノン第六調、第六歌頌イルモス)」を上手に立ち回れはしないでしょう。ゆえに、天国への進路を希望する者の多くは、体験入学に当たる啓蒙期間を経て受洗へと至ります。ただし、この節目は決してゴールではありません。洗礼式は言わば入学試験であり、これをパスすることで晴れて在校生と認められるに過ぎないのです。

 次に、洗礼を受けた私たちは、何を目標として、どのように歩むべきなのか。当然ながら、目標とすべきものは「来世の生命」の獲得ですが、平穏無事に歩んでいれば「生命の終が「ハリスティアニン」に適う」ことは間違いありません。けれども、それは極めて難しいミッションです。なぜなら、人々の集まりであるこのキャンパスにも、様々な誘惑や葛藤が生じるから。「宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみ(ロマ13:13)」をはじめ、こうした類は枚挙にいとまがありません。修道院という寮での生活を営む修道者や、講習を受けて信徒を教え導く立場にある聖職者もまた、私たちと変わらぬ喜怒哀楽を伴った不完全な人間です。だからこそ、聖使徒パウェルは皆に提唱しています。

 「兄弟の愛をもって互にいつくしみ、進んで互に尊敬し合いなさい…望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい…喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい…だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい(同上12:10-17)」。

 本日の福音では、これを象徴するかのようなエピソードが読まれました。すなわち、ハリストスのところへ担ぎ込まれた中風患者が神様の力によって癒される、という出来事です。この中風患者がどのような経緯で寝たきり状態になったのか、聖書は触れていないものの、ある注解書は性に関する何らかの罪による結果、と推測します。自らを大罪人であると恥じる彼は、周囲の人々に担がれて主の御前へと連れ出されました。とはいえ、彼らは中風患者を断罪しようとしたのではありません。仲間を救おうとする人々の謙遜な信仰を見抜かれたからこそ、主は中風患者に対し「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される(マトフェイ9:1)」と呼び掛けられたのです。そればかりか、「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい(同上9:6)」と命じられたことで、奇跡を目の当たりにした人々をも信仰へとお導きになりました。

 「あなたがたは、主イイスス・ハリストスを着なさい(ロマ13:14)」。この言葉などを基に、受洗を果たした信徒には目に見えぬ恩寵だけでなく、目に見える洗礼着が与えられます。けれども、最初に「これがゴールではない」とお伝えした理由は、可能であれば埋葬の際にも棺へと納められる特別な衣装だから。すなわち、入学の印であると同時に卒業の証し(言い換えれば天国への合格通知)でもあるのです。「イイススは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰って来られた(マトフェイ9:1)」ように、私たちは引き続きノアの箱舟であるこの教室に通い、クラスメートと共に切磋琢磨しながら「穩なる港」を目指し、自分にしか出来ぬ善行としての研鑽を積んでまいりましょう。

(伝教者 ソロモン 川島 大)

■2022年7月 醸成

 「主よ、荒地の如く實を結ばざる異邦の教會は、爾の來るに因りて、百合の如く華さけり、我が心は此に緣りて固められたり(第二調 主日の早課、カノン第三歌頌のイルモス)」。

 府内最大級のツバキ園を擁する舞鶴自然文化園に出掛けた時のことです。「ツバキQ&Aコーナー」と題した展示の中に、気になる回答を発見しました。質問者曰く「庭植えにして5年以上経っているが、ぜんぜん花が咲かない」とのこと。これに対し施設側は次のように考察しています。「(品種により極端に花付きの悪いものもありますが)ツバキにとって居心地の良い環境なのだと思います。大半の植物は、死の危機を感じないと子孫を残す必要がないため、花芽を作ろうとしません」。それでは、どうすれば良いのでしょうか。驚くべきことに、①肥料や夏場の水やりを控える、②幹から少し離れた部分にスコップ等を突き立てる、③軽く根を切断する、荒療治を勧めているのです。

 同様の示唆に富むネット記事「世界最長寿の樹木発見?樹齢には謎がいっぱい(Yahoo!ニュース2022/6/9)」も紹介します。「一般に幹が太ければ長生きしたと思いがちだし、太くなれたのは気候や土質などが樹木の生長に向いているところ、と思ってしまう。だが現実は反対だ。生長に適した土地に生えた木は、早く太くなるので寿命はそんなに長くない。むしろ逆境に育つと生長が遅い分だけ年輪が詰み強度が増す。すると折れにくく風害にも強くなるから長生きしやすい」そうです。

 こうした特徴は、我々人間にも共通する事柄のように思われます。逆境や困難は私たちを揺るがす動機ですが、努力して乗り越えるならばその人の信 仰は花が咲き実を付け、確かなものとなるでしょう。昨今の社会環境を取り巻く「正しさ」は、そのほとんどに様々な利権が絡んでいたり、あるいは狭いものの見方の押し付け合いに過ぎなかったりします。ハリストスがこの世で人々と直に接しておられた時代から、私たちの先祖たちも大なり小なりそうした葛藤で悩み苦しんできたはずです。だからこそ、主は「まず神の国と神の義とを求めなさい(マトフェイ6:33)」と仰いました。この価値観はいかなる時代においても不変の概念であり、物事の本質を端的に言い表しています。

 ここまで話して、譬えの前半部分が皆さんにもお分かりいただけたのではないでしょうか。「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない(同上6:30)」。すなわち、天国とこの世の「正しさ」は必ずしも一致しないのです。よって、自らが知り得る限りの情報のみを頼りに、あらゆる事象に善悪の判断を下すことは極力避けねばなりません。

 「何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようか(同上6:31)」。最も小さい悩みの種は次第にエスカレートし、やがて大きな不満へと繋がります。けれども、「患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出し…そして、希望は失望に終ること(ロマ5:4-5)」はありません。これが、ハリストスの伝えたかった「目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう(マトフェイ6:21)」という御言葉の真相と理解できます。

 神様は私たちに必要なあらゆる物事をご存知であり(同上6:33)、「時に随いて(食前の祝文)」賜ってくださるお方であることを忘れてはなりません。「まくことも、刈ることも…倉に取りいれることもしない…空の鳥(同上6:26)」、「働きもせず、紡ぎもしない…野の百合(同上6:28)」、「明日にでも炉に投げ込まれるような野の草(同上6:30)」でさえ、「天に在す我等の父」は放っておかれないのです。ならば、それ以上に良くしていただけるはずの私たちは、なおさら神様の憐れみを願って苦難をも希望に変え、信仰を醸成させながらそれぞれの花を咲かせ、実を結びましょう。

(伝教者 ソロモン 川島 大)