■2022年4月 杖柱

大斎第四主日(2022年4月3日)

 「転ばぬ先の杖」。これは、「失敗しないように、万が一に備えてあらかじめ十分な準備をしておくこと」のたとえですが、大斎第四主日に記憶される階梯者聖イオアンは次のように教えます。

祈祷の杖を常に携える者は躓きづらく、仮に躓くことがあっても完全に倒れはしない。
なぜなら、祈祷は神様を信じて敬う者への励ましだからである。

 ここで、聖師父の注解を読んでみます。「常に祈祷の杖を携え、これに自分自身を委ねる者の霊魂は躓きづらい。もし、躓いて何らかの罪に陥ろうとも完全には倒れず、また力尽きた末の死にも至らないであろう。なぜなら、祈祷は直ちに彼を支えて直立させるからである。祈祷は神様の御前において悔改める者に対し、憐れみを垂れるように促すための方法であって、偉大にして甘美なる愛すべきもの。神様は慈悲深き父として、迷える子に手を広げながら走り寄って喜んで迎え、表現し難いほどの慰めや楽しみへと彼を導き入れ、自らの懐に安息させてくださることであろう」。

 私たちは「今節制の半を過ぎ、爾(ハリストス)の生命を施す十字架に伏拜」します。それではなぜ、このような機会が大斎の折り返し地点に設けられているのでしょうか。祈祷書を参照すると、「復活の前期」十字架叩拝の主日にはパスハのカノンを歌うように指示されています。また、「斯の聖にして光明なる週間は最尊き十字架を世界の前に置く」とも書かれており、主の十字架が受難と死の象徴であるのみならず、その先の復活と表裏一体であることの預象と言えましょう。

 この日、聖堂では「主宰よ、我等爾の十字架に伏拜し、爾の聖なる復活を讃榮す」と何度も歌われます。これを詳細に捉えると、「舊き人」が「其行…を脱ぎ」ハリストスと「共に十字架に釘せられ」るのは、私たちが「罪の身(を)滅され」「新なる人」として「復活にも與る者とならん爲」。だからこそ、地の者は「畏と信とを以て來りて」、「天の者…と偕に」ハリストスの十字架および「三日目の復活の光」に伏拝し、「靈と體とを聖に」すなわち「生命の華を發いて」いただくのです。

 かつてモイセイが手にした「海を截り分つ杖」は「神聖なる十字架の兆」でした。階梯者聖イオアン本人は謙遜にも「祈祷」そのものが杖であると述べますが、後の人々は聖人の働きこそ「定理の杖」によって異端を斥け、「神聖なる杖を以て…牧群を堅めた」と評しています。私たちもまた、より具体的な「転ばぬ先の杖」として十字架を携えるならば、同様に「大なる事」を成し遂げられるはずです。「此を以て信に由りて溺るるなく生命の穏ならざる水を渉り、罪の凡の流を免れて、神聖なる平穏に滿てられる」に違いありません。「見よ、救の舟は十字架の帆に進められて、齋の半を過ぎたり。メッシヤ イイスス神よ、此を以て我等を爾の苦の港に送り給え」。私たちは「今日斎の中節に於て」跪いている際も、「目を天に挙げて」主の復活を待ち望むだけでなく、実際にハリストスと共に立ち上がり、残された大斎期間ひいては自らの生涯を歩んでまいりましょう。

(伝教者 ソロモン 川島 大)

■2022年3月 痛悔

 大斎準備週間第二主日は「蕩子の主日」と呼ばれ、放蕩息子の譬えが福音で読まれます。皆さんは、学校の授業を通して、次のような句を教わったのではないでしょうか。「鳴かぬなら鳴くまで待とう時鳥」。これは、戦国三大武将の一人・徳川家康の忍耐強い性格から生まれた諺です。私たちの知る憐み深い神様もまた、表現するならば「鳴くまで待つ」タイプと言えましょう。

 放蕩息子の譬えをおさらいすると、父親、長男、次男の計3人が主要人物として登場します。ある日、年頃を迎えた次男が催促したため、父は自らの財産を兄弟に分け与えました。長男はその場に留まって父に仕えることを選びましたが、一方の次男は全てをお金に換えて遠い国へと旅立ちます。けれども、次男はたちまち「放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣い1」してしまいました。

 その様子をご覧になった神様は、彼に試練を課されます。飢饉を起こし、無一文になった次男の生活を苦しめられました。幸か不幸か、過酷な労働と引き換えに、身を寄せることには成功します。とはいえ、家畜の世話を命じられながら、そのエサですら分けてはもらえませんでした。「わたしはここで飢え死にしそうだ2」。彼は「自分の命ももはやこれまでか」と覚悟したはずです。もちろん、全能の神様にとっては、旧約に描写される荒々しい姿らしく、あるいは豊臣秀吉のように「鳴かせてみる」ことも、あるいは織田信長のように「殺してしまう」しまうことも可能でした。

 けれども、新約において「父と一体にして」人となられた神子イイススを通し、息子を持つ父親の気持ちに深く共感なさったのでしょう。父は愛する息子の保護者として、次男の帰りをひたすら待ち望んでいました。すると、聖神のお導きが放蕩息子に示されます。夢中で飛び出した実家には「大勢の雇い人に、有り余るほどパンがある3」記憶が蘇ったのです。反省した彼は、「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください4」と願い出るつもりで、父のもとへ帰ることを決意します。

 ここで注目すべきは、神様がただ漠然と次男に救いの手を差し伸べたわけではなく、やり直しの機会を願う彼の自由意志を尊重なさった点です。神様はこの展開を予知しておられたからこそ、放蕩息子を「厳しく懲らしめられたが、死に渡すこと5」はなさいませんでした。そればかりか、長男に欠けていた痛悔の心6を獲得した次男は、兄が嫉妬するほど温かく父に迎え入れられたのです。「罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう7」という主の御言葉は、まさに現実のものとなりました。

 神様は「萬世の前」から、人々を信仰に立ち返らせる最良の時を見極めておられます。放蕩息子のように回り道をしたとしても、真の痛悔を経て再チャレンジするならば、その瞬間から「神の国は近づいた8」も同然です。従って、私たちは間もなく迎える大斎を通じ、安心して自分自身と向き合いつつ「復活並に来世の生命」の獲得を目指してまいりましょう。

(伝教者 ソロモン 川島 大)


1 ルカ15:13
2 同上15:17
3 同上
4 ルカ15:18-19
5 聖詠117:18
6 『普氏説教集』p.418
7 同上15:7
8 マルコ1:15

■2022年2月 寡黙

 主イイススは自らの洗礼に際し、「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです(マトフェイ3:15)」とだけ前駆授洗イオアンに述べ伝えられました。私たちは往々にして、語り過ぎ、はたまた言葉不足により、相手を困惑させることがあるものです。そこで、金口イオアンの教訓を読んでみます。

 舌を弄ぶならば多くの不幸を招くでしょう。しかしながら、反対に舌を制するならば多くの幸福が舞い込むはずです。家、柵、壁、扉や門に、閉じるべき時と開くべき時とを司る番人なくしては、これらの物を通していかなる利益も得られないでしょう。このように舌と口とは、知恵を伴って大いに用心し容易く開閉しないこと、また発言すべきか心の中に秘めて発言すべきではないか、を知らなければ利益を享受できません。なぜなら、知恵深きシラフは言っています。「多くの人が剣のやいばに倒れたが、その数は、舌のやいばに倒れた人には及ばない(シラフ28:18)」と。ハリストスも仰っています。「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである(マトフェイ15:11)」。シラフはまた言います。「お前の口には戸を立てて、かんぬきを掛けよ(28:25b)」。けれども、聖詠者ダワィドはこれがいかに難しいかを知っているからこそ、祈祷を添え、神様の助けを求めたのです。これについては、シラフもまた同じく言い表しています。「だれがわたしの口に見張りを置き、わたしの唇に堅く封印してくださるのか。わたしが唇で過ちに陥らず、舌がわたしを滅ぼさないために(シラフ22:27)」。とはいえ、私たちは自分に対しても当然にこれを行わなければなりません。ゆえに、彼はまたこの事を戒めの如く「戸を立てて、かんぬきを掛けよ(28:25b)」と言いました。しかし、私たちの熱心さによってこれが実際に行われるよう、神様の助けを願いましょう。知恵を閂のように伴って常に自身の口を守るのは、常に閉ざしておくためではありません。むしろ本当に必要な時にこれを開くためなのです。なぜなら、ある時は黙っているほうが発言するよりも有益であるとはいえ、またある時には黙っているよりも発言するほうが勝る場合もあり得るからです。ゆえに、知者ソロモンは言います。「黙るに時があり、語るに時がある(伝道書3:7)」と。もし、口が常に開かれているものならば扉を設ける必要はなく、一方で常に閉ざされているものならばあえて守る必要もありません。私たちが相応しい時に開閉するためにこそ、扉と守りの存在が求められるのです。しかし、シラフは次のようにも言っています。「お前の言葉は秤に掛けて、慎重に用いよ(シラフ28:25a)」。ここから、私たちは単に言葉を発するだけでなく、相応しい気持ちを込めて発言するために細心の注意を払う必要があるのです。私たちは金銭や腐敗する物体にさえそうするのだから、ましてや言語にはこのように、過不足なきようにしなければなりません。よって、シラフは付け加えます。「必要なときに発言するのをためらうな(シラフ4:23)」と。あなたはすでに発言すべき時を知っているかも知れません。ともあれ、沈黙すべき時も示されています。「はっきりした見解があれば、隣人に答えよ。さもなければ、口に手を当てて何も言うな(シラフ5:12)」。また、「口数の多い者は、嫌われ(シラフ20:8)」、「自分の知恵を隠す人よりは、自分の愚かさを隠す人の方がましだ(シラフ20:31)」、「うわさを聞いたら、腹の中に納めておけ。安心せよ、それがお前を引き裂くことはない(シラフ19:10)」。また、「愚か者は、秘密を抱えるとひどく苦しむ。子を産む女が苦しむように(シラフ19:11)」。またシラフは言語の使用法についても言及しています。「若者よ、必要なときだけ話せ。語るとしても二度、それも求められた場合のみ。簡潔に話せ。わずかな言葉で多くを語れ。博識ではあっても寡黙であれ(シラフ32:9-10)」。舌を制して安全に使用するには、慎重さが必要です。従って、シラフはまた言います。「黙っていて、知恵ある人と見られる者もあり、しゃべりすぎて、憎まれる者もいる(シラフ20:5)」。言うのも黙っているのも、ただ相応しい機会に限らず、大きな恩寵を用いて実行する必要があります。ゆえに、聖使徒パワェルは言います。「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう(コロサイ4:6)」。思い出してください。舌は神様と談話し、讃美するために与えられた身体の一部であることを。畏敬の念を払うべきご聖体を授かる身体の一部であることを。信徒ならば私の言いたい事がお分かりいただけるでしょう。つまり、舌は全ての非難、叱責、猥談、讒言を離れて潔くあるべきなのです。もし私たちのうちに何かしら汚れたる気持ちが起こるならば、心の中で押し潰し、舌先にまで移るのを許してはなりません。根の部分を絶ち、戸を堅く閉ざして、厳重に守りましょう。邪な望みが生じたならば、心の中で押し潰し、その根を枯らすのです。イオフはこのようにして舌を守りました。つまり、彼は不適当な言葉は何一つ発せず、しかも日頃から沈黙を守ったのです。けれども、妻に答えなければならない時には、知恵に満ちた言葉を発しました。黙っているよりも言うべき時にこそ発言しましょう。ハリストスは仰います。「人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる(マトフェイ12:36)」。またパワェルも「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい(エフェス4:29)」と告げています。

 考えてみれば、私たちが洗礼を受ける時に発する文言もごく僅かです。信経を除くと、啓蒙式の「袪つ」、「袪てり」、「配合す」、「配合せり」、「彼を王及び神と信ず」、「父と子と聖神、一體にして分れざる聖三者に伏拜す」ぐらいしかありません。とはいえ、ここには従来の悪しき生活との決別、神様と一体になるための心構えが網羅されています。神様の少ない言葉を信じ切れず不安になりがちな私たち。けれども、神様は多くを語らずとも私たちの悩みを理解しておられます。主の洗礼祭にあたり、私たちはいま一度神様と自分との関係を見つめ直し、同時に神様の似姿として創造された人々との適切な距離感を意識してまいりましょう。

(伝教者 ソロモン 川島 大)

■2022年1月 使命

 聖詠経の中で最も長い118聖詠(119詩編)。その出だしは「いかに幸いなことでしょう、まったき道を踏み、主の律法に歩む人は(1節)」と始まります。主に埋葬関連の祈祷で用いられるこの超大作では、全176節のうち実に20回も登場するキーワード「道(路)」が特徴的です。教会暦において1月14日は神学者聖大ワシリイの祭日にあたりますが、ワシリイは「地上における人間の生命はどのようなものか、どのような使命が人々には課せられているのか」を解説しています(『教訓』より)。

 生命は「路」と名づけられます。なぜなら、この世に生を受けた者はみな、終わりの日に向かって急ぐからです。船の中に座る者は、何かしらの力を用いずして、風に吹かれつつ港へと辿り着きます。本人がそれを実感せずとも、動く船は彼らを目的地に近づけるのです。このように、分かりづらいながら私たちも生活する間、常に途絶えることなく進むかのように、私たちの生命は流れ行く時とともに終わりへと引き寄せられます。たとえあなたが寝ていようとも、時はあなたから去り行くでしょう。あなたが目を覚ました時、あなたの記憶には空白があるはずです。けれども、就寝中であれ時間とともに生命もまた費やされています。たとえ私たちの感覚から離れていようが、生命は費やされるのです。私たち人間はみな、ある競技場において走るかのように、各自の目的に向かって急ごうとします。つまり、私たちはみな「路」の上に生きるのです。ですから、あなたはこの路の事を自ら理解し得るでしょう。あなたはこの生涯において「旅人」です。全てを終えた時、全てはあなたの後に残ります。道すがら、心躍るような出会いが待ち受けているかも知れません。とはいえ、しばらく喜び勇んでもやがて幸福は去り行きます。一方で、不愉快な出来事に遭遇することもあるでしょう。ただし、しばらく落ち込んだとしても次第に気分は紛れるものです。生命もこの類いのもので、変わらぬ楽しみも、長く続く悲しみも保持しません。この路はそもそもあなたの持ち物ではなく、そして現在もなおあなたには帰属しないのです。旅人には次のような習性があります。前の者が歩み出せば次の者も立ち上がり、さらには他の者も彼らに続くでしょう。生活もこれとよく似ています。今日あなたは田畑を耕作しますが、明日には別の人物が耕すでしょう。さらに、その後で耕すのはまた別の人物なのです。身の回りの土地や建物で考えてみてください。これらは最初の時以来、何度となく名前を変えたことでしょう。ある人物の所有とされた代物は、後に名称を変えて次の持ち主へと所有権が移りました。そして、今日ではまた新たな持ち主の所有となっています。従って、私たちの生命はまさに「路」ではありませんか。この路に身を置く者はみな、一方通行に進みます。では、実際のところ私たちに属すものは一体何なのでしょうか。これは精微で霊妙な本体、すなわち「生きた霊魂」。いま一つが、創造者が霊魂に生活中の車輪としてお与えくださった「身体」です。人間は知恵とこれに適合する肉体とが密接に合わさった結晶ではありませんか。この被造物は全て神様の意匠に凝らされ、母体にて形成されます。人々は母親の産みの苦しみを経て、暗がりから明るみに出るのです。神様は人々に対し、地上に存在するあらゆる動植物を司るように命じられました。だからこそ、人々の目の前には道徳的規範として森羅万象が示されているのです。人々には、力の及ぶ限り創造者に倣い、天上に見える善き秩序の影を地上にも写し出す方法が与えられています。人々は生命の終わりに呼び出され、住まいを路の上から別の場所へと移さねばなりません。その際、人々は神様の裁判所に導かれ、審問にかけられます。そして、人々は過ごした日々の評価を報いとして受けるのです。

 118聖詠は次のように締め括られます。「わたしが小羊のように失われ、迷うとき、どうかあなたの僕を探してください。あなたの戒めをわたしは決して忘れません(176節)」。私たちは、神様に与えられた心と体を駆使して限りある人生を歩みます。その旅路において、私たちの忘れてはならぬ「戒め(22回登場)」の一つが、創造者である神様を愛し、被造物である隣人や諸動物をも愛すること。すなわち、天上の完全な「愛」をこの地上でも表現することこそ、私たちに課せられた使命なのです。

(伝教者 ソロモン 川島 大)

■2021年12月 善行

 この度、京都ハリストス正教会の聖堂が、姉妹教会の函館教会や豊橋教会に遅ればせながら「重要文化財」に登録される運びとなりました。ニコライ堂を含め、日本正教会の聖堂では4例目です。及川神父様曰く、奇しくも豊橋を兼務していたことで築けた人脈、得られたノウハウがあったからこそ、話はトントン拍子に進んだとのこと。神様の計り知れない恩寵に感謝しております。

 さて、文化財には国宝や重文以外にも6種類あるのですが、私たち信徒にとっての財産は何も有形の建造物だけではありません。主の存命中から受け継がれ、4世紀を代表する金口イオアンや聖大ワシリイが編纂したとされる聖体礼儀。文化庁による登録の対象外であれ、紛れもなく天国の民の「無形民俗文化財」です。ゆえに、この執行機会ならびに理念を絶やしてはなりません。

 とりわけ、ハリストス自らその必要性を説かれた「領聖」は、信徒にとって大切な務めです(マトフェイ26:26-28など)。人々は「罪の赦と永生(『奉事経』p.177)」を得るために聖体血を拝領するばかりか、同じ釜の飯を食らうことで信仰の一致へと繋がります。従って、可能な限り日々の祈祷や斎を通して心身の準備を整え、聖体礼儀当日を迎えたいもの。しかしながら、時として人間関係がその気持ちを妨げることがあるでしょう。

 「善きサマリヤ人の譬え(ルカ10:25-37)」において、自分こそが正しいことを証明したい律法師は、「隣人を愛する」という誡めを狭い意味で解釈し、それを誇示していました。それを見抜かれたハリストスは、律法に対して同じく律法を引用し、律法師の口から彼ら自身を裁くように仕向けて反論します。すなわち、永遠の生命を得るための方法を尋ねた律法師に対し、ハリストスは神様と隣人を同様に愛するよう命じ、「善きサマリヤ人」を引き合いに出して「隣人とは誰であるか」を教えられました。これは、ルカ伝にのみ記された事柄であり、概要は次の通りです。

 イエルサリムからイエリホンに向かっていたある人が、盗賊に遭遇して身ぐるみ剥がされ、重傷を負って今にも死にそうな状態にありました。そこに、たまたま神殿にかかわる司祭やレワィトが通り掛かります。しかし、彼らは見て見ぬ振りをし、立ち去ってしまいました。その後、当時イウデヤ人と交際してはならなかったサマリヤ人が通り掛かります。そして、その人は豊かではないにもかかわらず、彼の傷に酒と油を注ぐだけでなく旅館まで連れて行き、そこの主人に金銭まで払って後を託す、という彼女にとって精一杯の憐れみを施しました。ここまで話したハリストスは、律法師に「三人のうち誰が盗賊に遭った人の隣人と思うか」と質問なさいます。この譬えを耳にした律法師は、憐れみを施す全ての人が隣人であると答えました。

 しかしながら、キリスト教の解釈では、神様に創造された私たちは敵でさえもが兄弟であり隣人なのです。よって、人々をこよなく愛する主は、私たちに敵をも愛するように命じられました(ルカ6:35)。この理由は、①我々が友人や恩人に対して互いに表す愛や慈善は不完全であり、②敵に対する愛こそ完全であるから、と説明されます。ただし、犠牲や燔祭のような心を伴わない形だけの行いを神様はお喜びになりません(聖詠50:18)。従って、敵に示す愛は自己中心的なものではなく、神の愛「アガペ」でなければならないのです。

 ところが、「善きサマリヤ人」の如く、憎しみ合う関係である人に対し、見返りを期待しないばかりか、むしろ率先して憐れみを施すことはそう簡単ではありません。とはいえ、神様は人を憐れむゆえに藉身なさったのですから、私たちもまた神様の憐れみを知り、神様に倣って隣人を憐れむ「善行」こそが喜ばれることを心に留める必要があります。そして、憐れみを必要とする者に出遭ったならば、人種や宗教の違いを超えて誰であろうと憐れみを施すべきなのです。

 聖体礼儀の度にもこのような善行がなされています。それは、他者の「記憶」です。連祷の言葉に目を向けますと、教会を司る主教のため、国を司る者のため、その場に集う者のため、あらゆる事情で集えなかった者のため、すなわち「衆の爲、一切の爲」に祈りが捧げられています。

 時間や距離による隔たりは存在しない、という固い信仰を私たちが持つならば、記憶を通して時差や居場所ですら超越した祈りを紡ぐことが可能です。世界中のあらゆる場所において祈祷が行われることは、まさに「絶えず祈りなさい(フェサロニカ前5:17)」の実践と言えるでしょう。その際私たちは、家族や親しい信徒に限らず、聖職者や同じ教会共同体の永眠者、さらには祈りを必要とする仲間の姿を思い浮かべたいもの。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい(マトフェイ5:44)」とある通り、関係が良好ではない信徒のために進んで祈る姿勢も求められます。なぜなら、神様に向き合う姿勢は「プライベート」でありつつも、私たちは「敎會の充滿(『奉事経』p.188)」を守り信仰を分かち合う「パブリック」な一つの共同体として天の国を目指すからです。

 また、聖人、生ける者、死せし者として記憶された人々が全てこのディスコスに置かれ、ポティールへと投入されてハリストスと一体になるのは聖体礼儀の時のみです。ですから、信徒の皆さんが聖体礼儀に与れる際は余裕を持ってお越しいただき、ぜひとも「聖パン記憶」をなさってください。「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい(ルカ10:20)」という御言葉からも、一枚の皿の上で天上の教会と地上の教会が同時に象られる様子は神様の国を表します。復活を信じる者全てが天国に招かれて一つになる儀式、これこそが私たちにとっての「無形民俗文化財」なのです。

(伝教者 ソロモン 川島 大)

■2021年11月 長旅

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう(マトフェイ11:28)」。

 京都市内あらゆる場所から目にすることのできる施設に「京都タワー」があります。盆地を取り囲む山上の展望台はもちろん、何気ない街中でさえ、その「灯台」は私たちの道標として、昼夜問わず人々の安全を見守っているかのようです。

「生神女福音」という聖堂名を持つ京都教会ですが、信徒にとってはこの生神女マリヤさまも「輝ける光の燈臺(『三歌斎経』p.753)」。それこそ、20世紀初頭の創建当時は周囲に高い建物も少なかったことでしょうから、名実ともに御所南の「灯台」として、街行く人々のためにも重要な役割を担っていたように思われます。しかしながら、近年ではそうした意味合いも薄れてしまい、今や悲しいかな観光のプロですら知る人ぞ知る教会の一つに過ぎぬ印象は拭えません。

 さて、私がこちらへ赴任してお陰様で満一年となりましたが、本日は趣味の街歩きがてら目に留まった魅力的な活動を皆さんと共有できれば幸いです。10月頃お祈りへ参祷する際、この界隈で背の高い草花をやたらと目撃した方も多いのではないでしょうか。寺町通の寺社を中心に、近くの道沿いや銀行・郵便局の入口にも展示された「フジバカマ」。20年ほど前に大原野で固有種の自生が確認されてから紆余曲折を経て、市内各地では現在この準絶滅危惧種の「秋の七草」を絶やさぬよう、保全・育成に関する取り組みが活発に行われてきました。

 御池通から今出川通にかけては「源氏藤袴会」が旗振り役を務め、地域一丸となって藤袴祭やスタンプラリーなど、京町家に相応しい街興しに励んでおられます。どこか懐かしく「平安の香り」とも称される芳香に誘われる代表的な存在が「アサギマダラ」です。青緑と黒のまだら模様が美しいこの蝶は、フジバカマの花の「蜜」を求めて日本列島を縦横無尽に移動するほどの長距離を旅します。

 京都タワーは元々「海のない京都の街を静かに照らし続ける灯台(公式HPより)」をモチーフに建設されました。その一方で、私たちの「灯台」には昔も今も変わらずに尽きることのない「生命の水」が満ち溢れています。信仰の諸先輩は、「聖書の花園を飛び繞り、其花より最善き者を採りて…教の蜜を共に衆信者に其筵として進め(『祭日経』p.349)」られました。また、「秘密に…口を睿智の器に近づけて、彼處より蜜に愈り房より滴る蜜に愈る不死の水を斟み(『祭日経』p.1203)つつ、人々に神様への讃美を促してこられた結果、私たちも「器よりするが如く饒に之を斟む(『祭日経』p.941)」ことができます。

 なぜなら、私たちの主イイススは「隅のかしら石(マトフェイ21:42)」より湧き出ずる「蜜をもってあなたを飽かせる(聖詠80:16)」神様だからです。そして、「蜜にまさってわが口に甘く(同上118:103)」心地良い主の御言葉は、人々にとって「魂に甘く、からだを健やかにする(箴言16:24)」、言わば「わが足のともしび、わが道の光(聖詠118:105)」となります。

 アサギマダラが飛来するのに伴い、季節の自然を愛でる人々もまた来訪するそうです。「旅人をもてなすことを忘れてはならない。このようにして、ある人々は、気づかないで御使たちをもてなした(エウレイ13:2)」善行を私たちは聖伝に学びます。けれども、ある地方の「人々は皆、自分たちのところから出て行ってもらいたいと、(奇跡を行われた)イイススに願い(ルカ8:37)」出ました。

 私たちの聖堂は信徒一同の財産であると共に、文化財として地域に根差し、信仰の拠り所として人々に開かれた空間でなければなりません。時には壮大な宣教計画を掲げ実行に移す努力も大切ですが、まずは近隣の方、あるいは付近を訪れた方に、「広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地(出エギペト3:8)」の実在を知っていただくのが先決です。そのきっかけとして藤袴会への協力は大変意義深いものと考えます。ぜひとも、来年からは「香り草…を摘み、蜜…を吸い…ぶどう酒…を飲もう。友よ食べよ、友よ飲め。愛する者よ、愛に酔え(雅歌5:1)」と呼び掛け、「心安らぐ教会、再び訪れたい場所」を提供しましょう。

(伝教者 ソロモン 川島 大)

■2021年10月 経験

 「本当のお金持ちがせっせと貯めている、お金よりも大事なあるもの(プレジデントオンライン2021/10/6)」。実業家の堀江貴文氏曰く、それはずばり「経験」であると語ります。「僕が身につけた数えきれないほどの体験は、もう同じ額のお金を投じても取り戻せない。不要不急を重ねて(若いときだけに得られる出会いや運、興奮や体験をお金で取りに行き…)、どっさり積んだ経験こそが、僕の本物の財産だといえる」。実はキリスト教でも、これとよく似た教えを唱えます。皆さんは「タラントの譬え」をご存知でしょうか。なお、「タラント」とは「タレント」のことであり、大まかに三つの意味:職業、才能、富を表わす言葉です。

ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五千タラント、一人には二千タラント、
もう一人には一千タラントを預けて旅に出かけた。早速、五千タラント
預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五千タラントをもう
けた。同じように、二千タラント預かった者も、ほかに二千タラントを
もうけた。しかし、一千タラント預かった者は、出て行って穴を掘り、
主人の金を隠しておいた(マトフェイ25:14-18)

 長旅を終えた主人と清算をする段になり、創意工夫でタラントを増やした二人は「忠実な良い僕(同上25:23)」と評価される一方、都合良く解釈して何もしなかった者は「怠け者の悪い僕(同上25:26)」と戒められました。後者については、もし旅に出た主人が戻らなければ「せしめてしまおう」と考えていたのかも知れません。主人は彼から全財産を没収し、最も努力した者へと託しました。

 堀江氏は続けます。「使うことが存在意義のお金を、使わずに貯めておくのは骨董品収集と大差ない。置いておけば市場価値が上がるかもしれないぶん、骨董品の方がまだマシ…お金を得たら、新しい挑戦や、好奇心を満たす遊びにすべて使いつくしてほしい。そうすることで、生きた経験が身につく。経験こそが、人生を楽しく豊かなものにする。経験は、あなたのステージや、見ている景色をいまよりもはるかに高めてくれる」と。

 私たちハリスティアニンは、「お金」を「神様からの賜物」と置き換えてこの発言を捉えることができます。また、「遊び」はともかく、巡礼などを通じて見聞を広めるのも、ある意味では信徒の大切な務めかも知れません。いずれにせよ、自身に与えられた才能を余すところなく活かし、善行によって隣人を教え導くならば、神様の恩寵は自分と相手の総和として「倍増」するのです。

 問答者聖グリゴリイは次のように述べています。「わたしたちは善意以上に高価なものを神に献げることはできない。善意とは、他人の災いを自分の災いと見なし、隣人の成功を自分の成功でもあるかのように喜び、他人の損害を自分の損害と思い、他人の利得を自分の利得と考え、友人を現世的な利得のためではなく、神のために愛し、敵をも愛しつつ耐え忍び、自分にしてもらいたくないことをだれにもせず、自分にしてほしい正当なことを他のすべての人にもしてやり、自分の能力に応じて他人の窮乏を助けるだけでなく、力以上に援助したいと望むことである。したがって、善意以上に高価な焼き尽くす献げ物はない。善意の人の魂は、心の祭壇で、神にいけにえを献げることで、自分自身を犠牲にするのである(グレゴリウス一世『福音書講話』熊谷賢二訳, p.54)」。

 ゆえに、私たちはタラントの「収集家」や「傍観者」には決して成り下がらず、然るべき事柄に惜しげもなく用いる真の「富める者」を目指してまいりましょう。

(伝教者 ソロモン 川島 大)

※画像の説明:「命のビザ」を発給し続けた正教徒・杉原千畝氏の記念碑(リトアニアのビリニュス市にて)

■2021年9月 就寝

 「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか(マトフェイ17:19)」。癲癇の者を癒せずに悔しがる弟子たちは、師匠の主イイススにその理由を尋ねました。すると、返ってきた答えは冷徹ながら「信仰が薄いからである(同上17:20)」とのこと。時に私たちは、気に入らない仲間のことを「信仰が薄い」と非難したくもなるでしょう。しかしながら、主の場合は使徒たちの不手際を咎めるのが本意なわけではなく、ましてや彼らの人格を否定するのが目的なわけでもありません。そうではなく、「この種のものは、祈りと斎とによらなければ出て行かない…あなたがたにできないことは何もない(同上17:20-21)」と、最終的には師匠として弟子たちの務めを鼓舞なさっています。

 当時の使徒たちに足りなかったのは、「からし種一粒ほどの信仰(同上17:20)」です。とはいえ、主の御言葉に奮起させられた彼らの信仰は次第に成熟し、とうとう栄えある役割をも担うようになりました。その一例が次の祈祷文に集約されています。「神言を実際に見た者とその従者が、神の母の肉體における就寢、また終の祕密を見るのは相応しい。なぜなら啻救世主が地より升るのを見るだけでなく、彼を生んだ者が移されることをも証明する爲である(生神女就寝祭の晩課、リティヤの讃頌)」。

 本日、京都教会ではその記憶を行う「生神女就寝祭」を主日と併せてお祝いしています。一般的には「聖母被昇天」と呼ばれることの多い祭日。正教会ではこの名称を退け、聖師父たちは次のように説明してきました。すなわち、「火の状の車が、正しきイリヤに於ける如く、生神女を地上より移したのではなく、即ハリストス親ら彼女の至聖なる靈を、至りて瑕なき者として其手に接け、己の内に安息させ、靈妙に生神女潔き者を尊み、智慧に超える歡喜に移し給わった(自印聖像祭の晩課、挿句の讃頌)」のです。また、「(イイススはマリヤ様が)自然な方法で死ぬのを容認したのは、不信者が彼女を幻像と思わないようにするため(同上)」とも述べています。ただし、「死ぬ可き腰より出て(私たちと同じ)自然な終に遇いはしたが、眞の生命を生んだ者として、神聖なる實在の生命へと移られた(生神女就寝祭の早課、カノン第三歌頌)」ことは留意しなければなりません。

 その際に重要な役割を果たしたのが、先に述べたところのかつては頼りなかった使徒たちです。「浅はかさを捨てて命を得、分別ある道を歩(箴言9:6)」んだ結果、「(生神女の)不死の就寢の時に雲は使徒たちを空中に擧げ…世界に散じ居た者はみな彼女の至聖なる體の前に集まり、恭しく葬る(同上、早課の讃頌)」ことができました。「諸使徒が送り、諸天使は接ける(自印聖像祭の晩課、挿句の讃頌)」様子はまさに、かつて主が「この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、その通りになる(マトフェイ17:20)」と教え諭した場面に通じるものがあるでしょう。

 このように、「無形の天軍はシオンに於て生神女の神聖なる體を環り、使徒の會も俄に地の極より集まって、彼女の前に立ち(生神女就寝祭の早課、カノン第一歌頌)」ました。そのうちの一人・聖使徒パワェルは促します。「わたしがハリストスに倣うように、あなたがたはわたしに倣う者となりなさい(コリンフ前4:16)」と。よって、私たちは「彼等と偕に…尊き記憶を讃榮(生神女就寝祭の早課、カノン第一歌頌)」すべく、二週に及ぶ斎期間を設けてこの祭日を毎年盛大に祝うのです。

 トロパリで歌われる「寢る時世界を遺さざりき(同祭日の発放讃詞)」とは、この世での命を終えようともマリヤ様は人々を決して見放さないことを意味します。ですから、私たちは生神女の庇護のうちに、思いを新たにした使徒たちに倣うことが可能です。まずは、自らが「心に隠れ潜むあらゆる凶悪な不浄の気(『聖事経』p.26)」を追い出すための努力を重ねたいもの。その次に、ハリストスの御許にてマリヤ様や使徒たちと共に永遠の生命を謳歌できるよう、神様に祈りを献じてまいりましょう。

(伝教者 ソロモン 川島 大)

■2021年8月 聖火

 AFP通信社が過去に興味深い記事を書いています。その名も、「復活祭の「聖火の奇跡」、エルサレムの聖墳墓教会(2010年4月4日)」。要約すると、これは聖墳墓教会の歴史と共に4世紀頃から続く、聖大スボタに関連した奉神礼とのこと。総主教聖下が恭しく携えた特別な炎を分かち、信徒たちは各自の蝋燭に火を灯します。今日の復活祭祈祷において常時私たちが手にする蝋燭の起源は、恐らくこの伝統に根差すものなのでしょう。ただし、キリスト教は「火炎」自体を神聖視するわけではありません。あくまでも「煙は必ず吹き払われ、蝋は火の前に溶け…神に逆らう者は必ず御前に滅び去る(聖詠67:3)」勝利の印を象り、主の復活に自らの来世を投影して信仰を固めるための手助けです。

 「さまざまな風を伝令とし、燃える火を御もとに仕えさせられる(聖詠103:4)」神様は、いかなる場面においても私たちの傍らに在られることを忘れてはなりません。旧約の時代、「主は火と共に来られ…怒りと共に憤りを…叱咤と共に火と炎を送られ(イサイヤ66:15)」ました。このように、少々強引な手段をあえて選ばれた分、当時の人々には「火の中を歩いても、焼かれず…炎は…燃えつかない(同上43:2)」奇跡が示されています。ダニイル書3章によれば、真実の神を知りつつ人々に偶像崇拝を命じた王がいました。敬虔な三人の若者:セドラフ、ミサフ、アウデナゴ(アザリヤ)は脅しに屈せず、正しき信仰を表明したゆえに燃え盛る炎の中へと投げ込まれてしまいます。けれども、「炎は、かよわい生き物がその中を歩いても、その肉を焦がすことすら(知恵書19:21)」ありません。よって、祈りを捧げる三人の間にはたちまち主の御使いが現れ、全員無傷のまま救い出されました。

 しかしながら、「炎の中から取り出された燃えさしのように(アモス4:11)」辛うじて助かった者の多くは、残念なことにその限りではありません。往々にして「炎に囲まれても、悟る者はなく…火が自分に燃え移っても、気づく者は(イサイヤ42:25)」いないのです。神様がこの様子をご覧になったなら、「お前たちはわたしに帰らなかった(アモス4:11)」と嘆かれることでしょう。

 新約の時代に入り、先の「炎」は聖神を象徴する出来事にて再び登場します。主イイススが天に昇られた後、弟子たちが一堂に会していると「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまり(使徒行実2:3)」ました。このように、神様は私たちの住む世界を離れ去った後でさえ、最愛の人々を見放すことはありません。ただし、旧約の預言者は予め警告しています。「(一方的に)主を捨てる者は舌によってひどい目に遭う(シラフ28:23)」ことを。なぜなら、「舌は彼らの内で燃え、決して消えることなく、獅子のように襲いかかり、豹のように彼らを引き裂く(同上)」からです。

 AFP通信社の取材に応じた若いギリシャ人男性の巡礼者は興奮気味に語ります。「僕は火にさわってみましたが、火傷しませんでした(冒頭記事)」と。一個人の意見として、非科学的な現象を積極的に肯定するつもりはありません。けれども、彼の感動体験はまるで、復活なさった主イイススと知らぬ間に再会を果たした弟子たちのそれと重なるかのようです。姿が見えなくなるや、二人は胸の高鳴りを次のように振り返りました。「わたしたちの心は燃えていたではないか(ルカ24:32)」。

 キリスト教徒は、言うならば一人ひとりが信仰継承という重責を担って歩み続ける「聖火ランナー」です。とはいえ、「神に逆らう者の灯はやがて消え、その火の炎はもはや輝き(イオフ18:5)」ません。だからこそ、次の一節を日常生活において実践する働きが求められます。「炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る(民数記21:8)」。すなわち、狡猾な悪魔の囁きに屈せず自らの舌を制す者に対しては、神様が私たちの進むべき道を「昼も夜も歩めるよう…夜は火の柱によって(出エギペト13:21)」照らしてくださいます。そして、暗闇を照らすその聖なる炎は、周囲の人々に勇気や希望を与えているかも知れないことをも心に留めたいものです。

(伝教者 ソロモン 川島 大)

■2021年7月 放光

 「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい(創世記15:5)」。かつて神学生同士で外食に出掛けた帰り路、仲間が冬の夜空を眺めて言いました。「今日はオリオン座が綺麗に見えている」と。「北斗やオリオン…すばるや、南の星座を造られた(イオフ9:9)」のは神様であることを知りながら、成長するにつれていつしか星空に思いを馳せなくなっていた私。友人の何気ない一言に心を動かされ、久しぶりに天上へと目を向けます。幼い頃の記憶では、点と点がハッキリと線で結ばれ、確かにあの「鼓型」が浮かび上がっていました。ところが、まるで「天のもろもろの星とその星座は光を放たない(イサイヤ13:10)」かの如く、大人になった私の瞳には輝かなかったのです。

 このショッキングな出来事は、実際のところ近視や乱視の進行に起因するものでしょう。とはいえ、信仰生活を送る中でも、このように盲目的な局面が存在することを連想せずにはいられません。例えば、せっかく教会に救いを求めて足を運んだものの、「幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風が激しく吹きすさぶので、ついに助かる望みは全く消えうせようとしていた(使徒行実27:20)」ように感じた方々もおられるはず。しかし、当然ながら「太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星との間の輝きにも違い(コリンフ前15:41)」があります。それに、「太陽も月も星も光り輝いて自分の務めに忠実(イエレミヤ書礼59節)」、かつ「星はおのおの持ち場で喜びにあふれて輝く(ワルフ3:34)」ことを心に留め、パッと見ただけの印象で悲観的になってはいけません。

 自然豊かな京都市内では、祇園や銀閣寺といった市街地においてもゲンジボタルが飛び交います。観賞がてら私も撮影を試みましたが、不規則に点滅する黄色い光は何匹分かまとめて写すのがやっとのこと。けれども、カメラマンたちは「長時間露光」と呼ばれる方法などを駆使し、絶え間のない光線として同じ風景を表現力豊かに収めます。これらの要素から我々が学ぶべき大切な事柄は二点です。

 第一に、より多くの光を相応しく受容できるレンズを自身のうちに備えること。正教の祈祷書によれば、あらゆる聖人たちは暗闇を照らす「光」、さらには信徒を導く「星」であって、「光り輝く星は、夜空の美しい装い…主の高き所できらめく飾り(シラフ43:9)」としての尊敬を集めます。しかしながら、「度生と行とを以て輝き、言と教とを以て輝き、日が星より更に光れる如く、一切に於て衆より更に光れる(三成聖者祭の早課カノン第三歌頌より)」者、すなわち「節制を守った人たちの顔が星よりも輝くとしても、わたしたちの顔は闇よりも暗いではありませんか(エズドラ第三7:125)」。また、乱視のように光を正しく屈折させられないレンズの場合、映し出せるのは歪んだ像のみです。

 第二に、各信徒がより長く光を放ち続けること。蛍がお尻を光らせる理由には諸説あるようですが、一般的には「求愛行動」と考えられてきました。人々が神様の御許に参集して祈祷を捧げる姿やその目的は、まさにこれと似通っています。ただし、神様に対して必死に祈っているつもりでも、「身の恥を泡に吹き出す海の荒波(イウダ13節)」みたく一時の感情に過ぎないものであったならば、その人は「永遠に暗闇が待ちもうける迷い星(同上)」。ゆえに、「夕べの星も光を失い…待ち望んでも光は射さず…曙のまばたきを見ることも(イオフ3:9)」ありません。

 だからこそ、私たちは「夜が明け、明けの明星が…心の中に昇るとき(ペトル後1:19)」に至るまで、「とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝く(フィリッピ2:15)」存在を目指すべきなのです。そうすれば、「目覚めた人々は大空の光のように…多くの者の救いとなった人々は…とこしえに星と輝き(ダニイル12:3)」、「一人の人から空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの(エウレイ11:12)」次世代を担う信徒ひいては聖人たちが生まれ出ることでしょう。

(伝教者 ソロモン 川島 大)