■2024年6月 開眼

当選確実をものにした選挙陣営は軒並み、支援者や報道陣を前にある儀式を行います。選挙事務所には「目なしダルマ」が事前に用意され、立候補者が当確を知るとこれ見よがしに目を書き入れるのはもはや日本の選挙における恒例行事です。しかしながら、この習慣は「土用の丑の日に鰻を食べる」とか、「バレンタインデーにチョコレートを贈る」とかのように、今日ではその意味を正確に答えられる人はおろか、はっきりとした由来すら分かっていないものも多数存在します。

ことダルマに関しては、縁起をかつぐ道具として仏像に魂を入れる開眼とも結びつき「願いがかなったときに目を描き入れる習慣が広く伝わっている」とされているそうです(https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000150438&page=ref_view参照)。意外なことに、キリスト教においても似たような施術を行った人物がいます。それは私たちの主イイススです。本日の福音には、主に癒された生まれつきの盲人が登場しました。彼が神様の目に留まったのは単なる偶然や幸運ではなく、その日まで誠実に生きてきたことへの必然的な報いなのです。「我を顧みて我を憐み給え(晩課の讃頌)」と祈りを唱えた彼の言葉からは、確かな信仰が感じ取れるでしょう。

主は盲人に対し「地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りに(イオアン9:6)」なります。そして、彼は告げられた通りに池へ行き、自分の顏を洗いました。このように、従来の謙遜さに加えて従順な信仰をも表明したからこそ、盲人の視界は開けるべくして開けた(目が創造された)のです。「神の業がこの人に現れるため(イオアン9:3)」盲目であった、と主は説明されますが、同時にこれは「神の業が私たちにも現れるため」であることは疑いの余地がありません。

聖書には、盲人をはじめ様々な病・患いに苦しむ者が記されています。そして、主はいかなる場面においても、永らく耐え忍んできた人々を無下になさいません。生まれつきの盲人に癒しを施されたように、神様は私たちをも各自の善行を嘉したうえで癒してくださいます。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ(同上8:12)」との御言葉通り、盲人は「世の光(同上9:5)」を肉体の目で直に見ることが叶いました。ですから、たとえ私たちが苦難の中にあっても、他人と比べて何かに引け目を感じたり思い煩ったりする必要はありません。なぜなら、「主を仰ぎ見る人は光と輝き 辱めに顔を伏せることは(同上33:6)」ないのですから。

もちろん、盲人にとっての「開眼」は、目なしダルマのような大願成就の末のゴールではなく、むしろ信徒としてのスタート「洗礼」を象徴しています。大方の議員のように当選したから一件落着、教会的に言い換えれば洗礼を受けたからミッション完了、であってはなりません。本当のゴールは「永遠の生命」を獲得すること。つまり、洗礼での開眼は通過儀礼にすぎず、ミッション開始(自身の生き様によって訓蒙すること)が求められています。その意味では、まだ片目だけのダルマのような私たちにとって、真の開眼は永遠の生命の獲得という大願成就後になるのでしょう。

今週木曜日の昇天祭をもって復活祭期は一区切りを迎えますが、ハリストスは天に昇られてもなお「愛する者に呼ぶ、我爾等と偕にす」と仰っています。すなわち、「地の者を天に合せて…何處よりも離れず…別るるなく留まり」、引き続き全地を光栄で覆ってくださるのです。だからこそ、司祭は聖変化が成し遂げられる時、主の「十字架、墓、第三日の復活、天に升る事、右に坐する事、光榮なる再度の降臨」のいずれをも欠かすことなく、一連の流れとして記憶します。私たちもまた主の生涯に思いを馳せ、ご聖体を分かち合いつつ来るべき日の開眼を待ち望みましょう。

(司祭 ソロモン 川島 大)

■2024年5月 終焉

 有名人や著名人がその生涯を終えると、「一つの時代の終焉」なんて言われたりします。しかしながら、それは本当に「終わり」なのでしょうか。昨年京都・宇治市の植物公園だけでなく、ある植物の開花が全国的に話題となりました。その植物とは「竹」です。竹に花なんて咲くのか、と驚かれる方も多いことでしょう。それも無理はありません。なんとその開花周期は120年とのこと。つまり、人によっては一生に一度も開花を目にする機会に恵まれない植物かも知れないわけです。

また、「長い寿命のタケが一斉に開花して一斉に枯れる様子」は、「滅多に起きないことが起きる不気味な凶兆」と見做されてきました。そればかりか、研究者たちの調査では「開花したものもしなかったものも全て…枯死し、種子もまったくできなかった」と報告されています。こうしたイレギュラーな事態の発生や薄気味悪さから、人々の間で「タケが花を咲かせると天変地異などの不吉なことが起きるという伝承」が広がることとなったのでしょう。

では、「開花後の竹は跡形も残さずに全て消え去ったのか」と問われれば、決してその限りではありません。「地下茎で子孫を残している可能性がある」ため、自力再生あるいは人為的なテコ入れによって、1000年以上前から今日に至るまで生き延びてきたものと考えられています。以上、石田雅彦「「竹(ハチク)の花」が全国で開花:120年ごとに起きる不思議とは(2023年10月8日、Yahoo!ネット記事)」より引用。

さて、この120という数字でピンときた方もおられるのではないでしょうか。まもなく訪れる5月10日、京都聖堂は成聖121周年を迎えます。すなわち、現時点で満120歳なのです。聖書の記述においても実際上においても、ヒトの寿命はせいぜい120年。ですから、聖堂が完成した年に生を受けた信徒はおろか、日本中どこを探し回っても同い年の方ですら見つけられません。

いぜれにせよ、メンバーが全員入れ替わった今日の京都教会は、開教当時とは全く異なる教えを信じ、いつの間にやら別のポリシーを掲げているでしょうか。もちろん、そのようなことはありません。ハリストスがこの世での生涯を終えようともその死は決して無駄ではなかったように、今もなお私たち正教徒は先人たちとひいてはハリストスと「地下茎」で確かに繋がっているのです。

本日教会では聖枝祭をお祝いしています。ご自身の死と復活とを通じて私たちを「死」から救おうと、主は自ら苦しみを受けるために進んでエルサレムへと向かわれました。「ハリストス我が神よ、我等は洗を以て爾と偕に葬られて、爾の復活に由りて不死の生命を得て、歌頌して呼ぶ、至高きに「オサンナ(どうか、救ってください)」、主の名に由りて來る者は崇め讃めらる」。そして、この記念すべき年の記念すべき祭日に、京都教会には二名の光照者が誕生しました。とはいえ、昔も今も正教会の洗礼は一つであり、先人たちと変わらぬ信仰を保てるのが私たちの強み・誇りです。

「此れ(ハリストスは)我等の神なり、彼と侔しき者なし、彼は凡の義なる途を啓きて、愛せし所のイズライリに與え、其後現れて人人と偕に居り給えり。主我が救世主の名に因りて來る者は崇め讃めらる」。「アルファであり、オメガである。最初であり、最後である」神様は絶えず私たちの心に寄り添っておられ、いつの時代にもあらゆる正しい道を示されるお方です。この120年間に培われたノウハウを基に京都教会の新たなサイクル・新時代を切り拓くのは、ここに集う私たちに他なりません。そして来週の今日、その幕開けである聖大パスハを皆さんとお祝いいたします。そのためにも、まずは「斎の春」最後の受難週を謙遜かつ着実に歩んでまいりましょう。

(輔祭 ソロモン 川島 大)

■2024年4月 吉祥

2024年の生神女福音祭は、大斎第三・十字架叩拝の主日と重なった。この祝賀を日本古来の表現で例えるならば、「大安吉日」や「一粒万倍日」といったところ。そもそも、教会の祭日は「点」として教会暦に散りばめられているわけではなく、復活大祭/聖大パスハを主軸に一筆書きの「線」として十二大祭全てが有機的に繋がっている。主の復活へと至る端緒が生神女マリヤさまのご誕生であることは論を俟たないものの、トロパリに「今日は我が救の初、永久の奧義の顯現なり」と歌われる通り、誕生祭以上に重視されるのが福音祭(受胎告知)である。

晩課の旧約誦読(パリミヤ)において、旅路の休憩所へと到着したこと、そしてここからさらに目指すべき行き先が告げられる。「爾の足より屨を解け、蓋爾が立てる處は聖地なり…主はモイセイに謂えり、我はエギペトに在る我が民…を其地より引き出して、善き廣き地、蜜と乳とを流す地に導き入れん爲に降れり(出エジプト3章)」と。なお、この休憩所については、後述する楽園の守護者「燄の劍(ほのおのつるぎ)」こと天軍首ミハイルの祭日にも登場する(ヨシュア5章)。

日常生活において靴を脱ぐシーンは、家屋に入るもしくは床に就く、といったいずれも憩いの空間を彷彿とさせるのではなかろうか。それもそのはず、十字架叩拝の主日はパスハへの折返し地点に当たる。この日のコンダク「燄の劍は旣にエデムの門を守らず…」を参照すると、かつて不信仰から楽園を追放されたアダムとエワの過ちは、ハリストスの十字架によって赦されつつある。人々は心理面だけでなく、物理的にも再び楽園を目指すことが可能になったと言えよう。

とりわけ人類最高の模範である生神女の生き様は、私たちの復活へと至る道すじと深く関連することを教える。神の母を讃美する福音祭大晩課のスティヒラは~私たちに神の居場所を伝え、そこへ招き入れ(大斎準備週間から第三週まで/※祈祷文の例示箇所および主日のテーマ)、高みに登らせ(二週スボタ晩課、四週「階梯者イオアン」)、天の糧をも味わわせる(四週火曜早課、五週「エギペトのマリヤ」)~といった事象が、まさに大斎各週の祈祷文でも段階的に明かされてゆく。つまり、信徒が渇望する「永生の不朽を流す地(アンドレイのカノン)」はもはや高嶺の花ではない。だからこそ、「神聖なる無玷の靈には居住の爲に天上のイエルサリム=新なるイエルサリム(ディミトリイ祭の大晩課)」が与えられることを示し続けてきた聖人たちに倣い、私たちもまた大斎を通じて神の与えし地に到達したいものである。

(輔祭 ソロモン 川島 大)

■2024年3月 分類

大斎準備週間の第三主日は、この日を境に信徒が肉食を制限する慣わしから「断肉の主日」として知られます。あるいは、当日読まれる福音書の箇所に基づき「審判の主日」とも呼ばれます。この内容を要約すれば、善良な人々は常に目を覚ました善き行いが評価され、反対に呪われた人々は相手によって対応を変える小細工が神に忌み嫌われる、という示唆がなされています。

① 人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、羊を右に、やぎを左におくであろう。

かつて神戸の六甲山牧場を訪れた時のことです。ヒツジもヤギも思い思いに牧草地を駆け回っていました。私たちの思い描くヒツジと言えば、毛がモコモコとした姿。これに対しヤギと言えば、立派なヒゲを持つ姿をイメージするものでしょう。とはいえ、ヤギだけで7種、ヒツジに至っては10種も同じ空間に放牧されていたら、素人目には見た目や鳴き声だけでは判別の難しい個体も存在します。そして、これは人間の世界でも様々なシーンで起こり得る話なのです。

② 王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。

③ それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、かわいていたときに飲ませず、旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかったからである』。

お分かりいただけますでしょうか。これらはいずれも両極端な事例が示されています。しかしながら、ヒツジとヤギの例を振り返ると、間違いなくヒツジ、どう見てもヤギ、のように特定できる個体もいれば、特徴が似通っていてどちらか分からない個体もいるのです。ただし、明確なこともあります。それは主がどのような個体を好まれるのか。その基準に照らし合わせた結果、「一見善良そうに見えて、実は腹黒い個体」はアウトの側へ。一方で、「一見邪悪そうに見えて、実は根が優しい」なんてケースも往々にしてあるでしょう。こちらは当然、セーフの側に選別されるはず。

④ そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。

⑤ そのとき、彼らもまた答えて言うであろう、『主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか』。そのとき、彼は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』。そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう」。

残念ながら、世の中には相手の立場や情勢をうかがってから行動に移すずる賢い人がいます。でも、それは決して他人事ではありません。もしあなたが家事や仕事で疲れている時、あるいは精神的・金銭的に余裕がない時、普段と同じように他人の相手ができるでしょうか。やはり家族同士であってもこれには困難が伴います。おまけに、良い記憶はあやふやである一方、悪い記憶は事細かに憶えられているもの。けれども、抜き打ち検査、覆面調査が一体いつ行われるのか、具体的には明かされていません。だからこそ、自分では「いつ良いことをしたのか」分からなくなるぐらい、困っている人に対してごく自然に救いの手を差し伸べられる人間性の獲得を目指すべきなのです。

(輔祭 ソロモン 川島 大)

■2024年2月 偽証

ミステリー小説家:宮部みゆきさんの代表作『ソロモンの偽証』。二部作の映画にもなった長編ながら、ストーリーの中に「ソロモン」と名のつく人物はおろかキーワードさえも一度として登場しません。しかしながら、「知恵の王」と評される聖王預言者の語源にこそ、ヒントが隠されているものと思われます。ヘブライ語でシャローム、すなわち「平和」を意味する単語です。

「正しく立ち、畏れて立ち、敬みて安和にして聖なる献物を奉らん」。私たちの教会が毎週欠かさず行う聖体礼儀。輔祭が宣言した聖変化冒頭の言葉に対し、聖歌隊は「安和の憐、讃揚の祭を」と返答します。興味深いことに、映画「ソロモンの偽証」のポスターは、レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」を模したデザイン。よって、聖体礼儀にも何かメッセージが秘められているはずです。実際のところ、所詮キリスト教になじみの薄い日本人が手がけた作品のため、人物の配置や背景を真似ただけで、主要人物の役柄と使徒たちの特徴との間に直接的な関連性は見られません。

とはいえ、センターに座る物語の主人公・藤野さんについては紛れもなく、主イイススを演じているかのようです。12月25日「主の降誕」を祝うその日の朝、前日から降り積もった雪上に横たわるクラスメート・柏木君の第一発見者となります。学級委員の彼女は、暴力を振るわれている三宅さんを見捨てようとして、彼から「偽善者」と罵られたことがありました。その言葉が頭から離れず精神的に追い詰められて自殺を決意するも、思いとどまった彼女は、大人たちの事件解決方法に疑問を抱いていたことから校内裁判を計画します。また、柏木君はイウダ「イスカリオト」(イスカリオテのユダ)なのでしょう。悪霊に取り憑かれたかのような言動によって、マトフェイ伝4章で繰り広げられる問答みたく主を試み、関わった全ての人々に動揺をもたらす姿が印象的。おまけに自殺を遂げたのも伝承通りです(同上27:5)。さらに、「柏木君は自殺ではなく他殺である」という事件に関する噓の告発文を書いた三宅さんは、校内裁判に証人として出廷。けれども、藤野さんに打ち明けた真実を話すことはなく、尋問に対して偽証を重ねました。そのシーンはまるで「鷄の鳴かざる先に、爾三次我を諱まん(同上26:34ほか)」と主を悲しませたペトルのようです。

いずれにせよ、この物語は①事件、②裁判に分けられています。このうち「事件」とは、生徒の自殺よりはむしろ主要人物の受難(エウレイ11:35-38)。その内容は主に、自分を守るための偽証で他人が犠牲になったことであり、改心としての「洗礼」を象徴する場面が描かれます。それまでの卑怯な自分と決別した主人公、大人の都合で我が子を追い詰めた主人公の父親、柏木君を守れなかった担任教師。彼らは教会が有効と認める素材:水、砂、血による洗礼を受けたのです。一方の「裁判」とは、半ば「兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない(マトフェイ5:22)」との動機で展開されたものの、生徒たちの導き出した結論は「あなたがたの中で罪のない者が…石を投げつけるがよい(イオアン8:7)」。自己の物差しで他人を裁くのではなく、皆が過去の自分を反省して未来へと歩み出すことでした。つまり、平和のための偽証(結果的に偽証が平和をもたらすこととなった)という意味で、原作者は『ソロモンの偽証』と命名したのではないでしょうか。

旧約以来、神は「偽証してはならない(出エギペト20:16)」と人々に諭し続けてきました。けれども、私たちは誰しも「自由と自由ならざると、言と行と、知ると知らざると」嘘をつくことがあります。それでもなお、主はそのような私たちに対し一貫して「痛悔して謙遜なる心(聖詠50:17)」を期待し、聖体礼儀を行おうとするならば和解(マトフェイ5:23-24)を要求することを忘れてはなりません。少なくとも「安和にして」祈り始める時から「平安にして」聖堂を出ずる時までは。

(輔祭 ソロモン 川島 大)

■2024年1月 辞退

「ほな行けたら行くわ」。さして親しくもない(と思っている)友人からパーティーに誘われた時、あなたはこのように答えるのではないでしょうか。では、「実際に行きますか?」という話です。

主人が盛大な晩餐会を催して、大勢の客を招きました。正教会にとっての晩餐、すなわち「聖体礼儀」をご想像ください。ところが、開始時刻が迫っているのに、(親しくなりたい/もう仲が良い、と思って)招待したはずの人たちは誰一人やってきません。心配になった主人は、招待客の様子を見てくるよう、弟子たちを遣わしました。急いで客人のもとに到着した彼らは、夢中で呼びかけます。「さあ、おいでください。もう準備ができましたから」。けれども、あろうことか全員が口々に、参加を辞退したい旨を申し出てきたのです。土地を買ったから今はその手続きで忙しい、これから新しい家畜を迎え入れる予定がある、結婚直後で奥さんの機嫌を取らなければならない…。

こうした理由が事実なのか、はたまた苦し紛れの言い訳なのか、私たちには知る由もありません。とはいえ、晩餐会へ行かない人には、行かないなりの理由がきっとあるのでしょう。例えば、かつて参加した時の印象が芳しくなかったから。聖体礼儀に出てみたら面倒な人に絡まれた、自分の意思に反する仕事を押しつけられた…。当時の記憶が蘇る人は「もう二度と御免だ」となっても不思議ではありません。あるいは、主催者のことや晩餐会のことなんて、よく知らないし、よく知ろうとも思わない…。このように無関心な人が「わざわざ貴重な時間を割いて、一体何のために参加しなければならないのか」と思い至るのも無理のないこと。そうした気持ちが表向き「どうぞ、おゆるしください」という言葉に凝縮され、しかし本音では「どうかお引き取りください」なのです。

人々の意識が内向きになってしまっている以上、いくら主催者側から参加を呼びかけようと説得を重ねても、私に言わせればそれはほとんど意味のない努力です。本人が納得して出向かなければ、楽しいことも喜ばしいことも、ほとんどの場合その人にとっては苦痛でしかありません。少し前までの日本社会は、学校でも職場でも「皆勤は尊いもの」と見做されてきました。近年でこそ皆勤賞は廃止の一途を辿っているそうですが、私はその最後の世代かと思われます。担任の先生から厳しい指導があろうと、体調が優れず熱を出そうと、母親の強い願いによって日々学校へと送り出されました。そのおかげもあって、最終的にはもはや「習慣」として自然に通い続けられたのも、今では懐かしい思い出です。とはいえ、令和の時代に平成までの精神論・根性論はもはや通用しません。

翻って、正教会の奉神礼を「休みなさい」という概念は存在するのでしょうか。答えは「イエス」。ただし、それは出産後の女性への配慮であったり、伝染病患者と参祷者双方の健康を守るためであったりするまでです。主人が慌てて招き寄せた「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の悪い人」は誰にも迷惑をかけませんから、直接的に教会を休む理由にはなり得ません。「この家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい」と命じる主の願いは、聖堂という大きな船を毎便可能な限り満席で出港させること。今ここに集う私たちは、この発言を真摯に受け止めなければなりません。様々な誘惑・娯楽に溢れた世において、あえて「永遠の食事の楽しみ」を選択した信徒はすでにハリストスの弟子。主のメッセージは未来へと歩む私たちに示唆を与えます。「招かれた人で、わたしの晩餐にあずかる者はひとりもないであろう」。すなわち、自らの振舞いを通じて周囲の人々に対し、神様を「どこか遠い世界の偉大な存在」から「身近で親しみの持てる存在」へと認識を改めてもらえるように努め、最終便までに自発的な乗船を促すことなのです。

(輔祭 ソロモン 川島 大)

■2023年12月 再起

「あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」。ハリストスが厳しく語られたルカ伝13章の前半には、これを示唆するエピソードが二つ記されています。

まず一つ目が「実を結ばないイチジクの木」です。ある人が自分のぶどう園にいちじくの木を植えて置いたので、実を捜しにきたが見つからなかった。そこで園丁に言った、『わたしは三年間も実を求めて、このいちじくの木のところにきたのだが、いまだに見あたらない。その木を切り倒してしまえ。なんのために、土地をむだにふさがせて置くのか』。すると園丁は答えて言った、『ご主人様、ことしも、そのままにして置いてください。そのまわりを掘って肥料をやって見ますから。それで来年実がなりましたら結構です。もしそれでもだめでしたら、切り倒してください』」。次に二つ目が「十八年も腰の曲がった女性」です。安息日に、(主が)ある会堂で教えておられると、そこに十八年間も病気の霊につかれ、かがんだままで、からだを伸ばすことの全くできない女がいた。イイススはこの女を見て、呼びよせ、「女よ、あなたの病気はなおった」と言って、手をその上に置かれた。すると立ちどころに、そのからだがまっすぐになり、そして神をたたえはじめた。

問答者聖グリゴリイは、三季も実を結ばなかったイチジクの木と、十八年間も腰の曲がったままの女性について、両者はいずれも「人間の本性の象徴」であると説明します。園丁は教会の指導者、イチジクの木はこの世の権力者です。善行の実を結ばない(自分の務めを果たそうとしない)イチジクの木は、その存在自体が他人の成長を阻害する要因になりかねません。権力者の配下にある人々は、目上を模範として悪しき習わしに染まり、真理の光が奪われることで神に対して冷淡となります。高く聳える木の影が上から覆いかぶさって日光を遮るため、根元の土地はすでに痩せこけた状態。園丁がいくら叱咤激励しようとも、改心させるのはもはや至難の業です。また、神に似せて創造されたはずの女性は、自ら進んで品位を保ち続けずに直立の姿勢を失いました。つまり、地上のものに目や心を奪われて天上のものを渇望しない態度が低劣な欲望を増幅させ、とうとう精神の正しさまでをも歪めてしまったのです。これらはまさに、「人若し全世界を獲とも、己の靈を損わば、何の益かあらん(マトフェイ16:26)」という御言葉を表しているかのように思われます。

さて、神の命により植物が誕生したのは天地創造の三日目。一方で、人類は植物よりも遅くに神の創造を受けており、これは六日目の出来事です。聖書に名指しされた最初の植物「イチジク」が登場する日でもあります。それらは「善」あるいは「甚善」なるものとして誕生しました。六日目すなわち金曜日は、人類の始まりであるとともに、「アダムが地堂にて犯しし罪を第六日の第六時に十字架に釘つけしハリストス神(第六時課、讃詞)」によって、旧来の人間性の終焉と新たなる永遠の生命の開始を告げる日としても、後に知られるところとなっています。主がイチジクの実を捜しに来られた三回は、①律法以前には自然の法を通じて、②律法の時代には掟を通じて、③恩恵の時代には数々の奇跡を通じて、忍耐や勧告をしながら人間の本性を尋ね求めておられたことを意味するそうです。また、六を三倍した数が十八ですから、腰の曲がった女性もこの三つの時代全てにおいて完全な務めを果たそうとせず、病気を患い続けてきたことが窺えます。

けれども、人は痛悔の涙を流して善行に努めようと悔い改めた時、滅びへのカウントダウンは止まり、まるで根元に肥やしをもらった木のように再び実を結び始めます。聖使徒パウェルは「神の全備の武具を衣よ(エフェス6:11)」と教えますが、掟に固執して理論武装をしなさいという意味ではありません。「安息日であっても、その束縛から解いてやるべき」と言い放った主を支持し、自らの行動においても隣人愛を示せる者となるべく、私たちは謙遜な心を育んでまいりましょう。

(輔祭 ソロモン 川島 大)

■2023年11月 高潔

旅人が盗賊に襲われた。身ぐるみ剥がされたうえに重傷まで負い、まさに瀕死の状態。すると、神殿にかかわる祭司やレビ人がたまたま通りかかる。しかし、彼らは見て見ぬふりをしてか、何食わぬ顔で立ち去ってしまった。そこへ、当時ユダヤ人と交際してはならなかったはずのサマリヤ人が。そして、彼女は精一杯の憐れみを注いだ。金銭的に裕福ではないにもかかわらず、彼の傷に応急処置を施して安全な旅館へ連れてゆき、そこの主人に費用まで支払って後を託したのである。

「善きサマリヤ人の譬え」を語り終えたハリストスは、「三人のうち誰が盗賊に遭った人の隣人と思うか」と問いかけました。律法師によれば、憐れみを施す全ての人が隣人、とのこと。とはいえ、キリスト教の理解では、神に創造された我々は敵でさえもが兄弟であり隣人。よって、①我々が友人や恩人に対して互いに表す愛や慈善は不完全であり、②敵に対する愛こそ完全である、と説明されます。ゆえに、主は我々に敵をも愛すべきことを命じました(ルカ6:35)。ただし、犠牲や燔祭のような心を伴わない「形だけの行い」を神は喜びません(聖詠50:18)。また、敵に示す愛は自己中心的なものではなく、「神の愛(アガペ)」でなければならず、「爾等を虐げ、爾等を窘逐する者の爲に禱れ(マトフェイ5:44)」という気持ちこそが肝要。つまり、「隣人を愛する」という誡めを都合よく解釈する律法師に対し、ハリストスは律法師の口から彼ら自身を裁くように仕向けて反論したのです。神が人を憐れむことで藉身したように、我々も神の憐れみを知り、神に倣った隣人を憐れむ行いが喜ばれることを心に留める必要があります。そして、憐れみを必要とする者に出遭ったならば、本来は人種や宗教の違いを超え、誰であろうと憐れみを施すべきなのです。

 もっとも、日本人の肌感覚における人助けは、あたかも道端で困っているお年寄りやハンディキャップを持つ人を助けたり、あるいは迷子や急病人に寄り添ったりするようなイメージ。けれども、日本みたいに平和な国なんてそうそうなく、人助けのハードルは、社会情勢、政治的背景、宗教間対立などの要因に大きく左右されます。例えば、サッカーW杯で顕在化した南アフリカの治安。複数の地域ではただその街に暮らすだけでも、各家庭でガードマンを雇ったり、玄関や窓に鉄格子を設けたりする必要があり、現地の日本大使館に至っては「運転中に赤信号で停止することも命取りになる」、「頼みの綱であるべき警察官でさえ汚職にまみれている」と警鐘を鳴らすほどです。

3Kと呼ばれる仕事を皆さんはご存知でしょう。概要は次の通り。「主として若年労働者が敬遠する「きつい」「汚い」「危険」な労働を、頭文字をとって3Kと呼びます…建設・土木、ゴミ処理などの肉体労働や、警察官や看護師、介護士など勤務・労働条件の厳しい職業を指します。新3Kは、主に事務職や販売職などのホワイトカラーに対して使用される言葉です。「帰れない、厳しい、給料が安い」…6Kは、従来の3K…に新3K…をプラス…体力的にもつらく、精神的にも負担の大きい仕事であるうえに、給料や休日(休暇)といった処遇の面でも厳しいことが多い」とされます。

 このように、責任の大きさに見合わずとも対価は発生する労働ですら、いざ自分で行うとなると多くの人に敬遠されがちな職業があります。けれども、善きサマリヤ人はそれに準ずる慈善行為を無償の愛による見返りを期待しない奉仕の心で、なおかつ複合的な要因が絡み合って困難が容易に想像され得る状況にもかかわらず行ったわけです。ここに、私たちにも出来る働きのヒントが隠されています。すなわち、人のしない/出来ないことに進んで取り組む。一人ひとりにタラント(才能)が与えられています。これを日々どのように用いるかハリスティアニンは試されているのです。

(伝教者 ソロモン 川島 大)

■2023年10月 改良

私たちを取り巻く環境には、どこか模範的に過ごすことばかりが求められ、小さな失敗も許されない雰囲気すら漂っています。「置かれた場所で咲きなさい(渡辺和子氏)」。こうした生きづらい社会の中で上手に花を咲かせ、果実を実らせるには一体どうすべきでしょうか。私たちの人生は植物によく似ています。同じ環境に長年留め置かれると、確かに継続的な課題の解決に邁進できる点は安心材料です。しかし、よほど意識的に向上心を伴って取り組まなければ、現状維持が目標になってしまったり、職種によっては得意先や優良顧客との癒着が始まったりするのが世の常。また、自分がずっと同じ場所にいると、必然的に歩み寄ってくるのは他者に限られます。自ら動かない以上は相手にされるがまま。てんとう虫やカマキリのように頼もしい働き手も中にはいますが、おおよそ虫たちは悪気もなくせっかくの新芽や花芽を食べてしまいます。食料の水や養分が足りなくなればすっかり痩せ細り、雨の日が続いて風通しも悪くなれば、いよいよ言いたいことも言えず病気になってしまいます。ひどい時にはすでに取り返しのつかない状況に陥っていることも。それがいわゆる「根腐れ」です。

ルカ伝8章には「種まきの譬え」が記されています。ここで播かれる種とは、「神の言葉」です。神の言葉を伝えることの意味について、人々が知っている行いを引き合いに出し、私たちの心のあり方次第でいかなる結果をもたらすかを教えます。この種は、心の状態を表す四つの場所:①路の旁・②石の上・③棘の中・④沃壤にまかれました。ハリストス自らこの譬えを解き明かしておられます。それによれば、①は悪魔がやってきて心から言葉を奪い・②はしばらく信じても誘惑の時に背き・③は様々な欲望によって実を結ばず・④は善き心で言葉を守り忍耐して百倍の実を結ぶそうです。ある聖師父は言います。「人は神に近づけば近づくほど、それだけこの世が耐え難いものになってくる。それは、私たちの心の愛がこの世から遠ざかれば遠ざかるほど、この世での逆境がそれだけ増し加わるからである…ぶどうの房は、足で踏み砕かれてはじめて美味しいぶどう酒となる。同じくオリーブも、押し潰され、滓を取り除かれてはじめて豊かな油となる。同じように、穀粒も麦打ち場で脱穀され、籾殻から分離されてはじめて、精製されたものとなり、倉に収められる」。

水気のない石の上に落ちた種は、芽が出ることはあっても堪忍をもたらす根が充実していないため、善行の果実は熟すことなく干からびてしまうでしょう。とはいえ、花を咲かせられない理由が自分自身の心の状態であるならば、まずはそこを入れ替えてみることはできるはず。なぜなら、神の言葉は耳で聞いて頭で理解しても不十分であり、全身全霊で受け止めて敬虔に向き合う心にこそ作用するからです。過酷な環境を耐え抜き収穫量も多い果実への品種改良、路の旁・石の上・棘の中を沃壤へと土壌改良に努めるならば、落ちた種は忍耐して実を結ぶこととなります。

それでも駄目な時は、潔く身を置く環境を変えるべきです。「置かれた場所で咲けないなら環境を変えなさい。根っこが腐る前に(籔本正啓氏)」。その判断は当たり前のようですごく難しいことですが、決して逃げでも隠れでもありません。ある植物は枝が折れても、水に浸しておくと半分以上は新しい根を出します。でも、それは切り花自体がまだ健康だから。またある植物はショック療法が効くなど、もちろん品種によっても個体によっても様々な特徴があるように、人の性格も十人十色です。だからこそ、根腐れをする前に取り得る手段は全て試し、自分自身にとっての最良を見極めたいもの。自分の知らなかった世界、敵の少ない土地、風雨にさらされにくい場所へと自らの力で動けないのなら、神様に依り頼みましょう。組織・団体に属す地植えであれ、自営業・フリーランスの鉢植えであれ、寝たきりの人を立ち上がらせる方(マトフェイ9:6)、荒波を鎮める方(同8:26)、山をも動かす方(同17:20)は、必ずやその人の意志を叶えてくださることでしょう。

(伝教者 ソロモン 川島 大)

■2023年8月 孤独

 「私たちが「からし種一粒ほどの信仰」を持ち合わせるならば、「『ここから、あそこに移れ』と命じる」ことで山をも動かせる(マトフェイ17:20)はずです。ところが、たった一人の癲癇患者でさえ師匠のごとく癒せずに悔しがる弟子たちが、福音書には登場します。彼らは恐る恐る主イイススにその理由を尋ねました。「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか(同上17:19)」。

 すると、返ってきた答えは冷徹ながらも「信仰が薄いからである(同上17:20)」とのこと。もちろん、弟子たちの不手際を咎めることや、ましてや彼らの人格を否定することが目的ではありません。すなわち、師匠として「この種のもの(悪魔)は、祈りと斎とによらなければ出て行かない…あなたがたにできないことは何もない(同上17:20-21)」と伝え、弟子たちの務めを鼓舞するためでした。

 歌手の平原綾香さんを代表する楽曲に「Jupiter」があります。英国の作曲家・ホルストの名曲に、吉元由美さんが日本語の歌詞を付けたものです。毎年これをテーマソングに据えた花火が、新潟県長岡市で盛大に打ち上げられます。私の父は長岡で生まれ育ち、例年8月を迎えると家族や父子で父の故郷へ里帰りをするのが我が家の恒例行事でした。けれども、その時期はお盆期間ではなく、初旬の2日、3日に合わせての帰省です。なぜなら、この2日間には国内でも屈指の花火大会が行われるから。この「長岡まつり大花火大会」において、ある年を境に「復興祈願花火フェニックス」が打ち上げられるようになりました。それは2004年に発生した内陸直下型の新潟県中越地震。被災者たちの心の支えになった音楽と言われるのが、当時流行していた平原綾香さんの「Jupiter」でした。

 教会で奉職する現在の私にとって、非常に印象的なフレーズが含まれます。「夢を失うよりも 悲しいことは 自分を信じてあげられないこと」。至聖三者の神様以外を特別な存在として崇拝する、あらゆる出来事を闇雲に信じることは、正教会の本質とはかけ離れています。「我信ず一の神父全能者…」で始まるニケヤ・コンスタンティノープル信経。洗礼を受ける時や、聖体礼儀の聖変化を前にして私たちはこれを唱えます。端的にまとめるならば、日本を代表する詩人・谷川俊太郎氏の言葉に一致します。「信じることに理由はいらない」。まさに、信経には正しく信じるべき内容こそ列挙されているものの、皆それぞれがそこへ至る経緯については一切問われていません。では、読み上げる事項を心に留めることでいかなる効用が得られるのでしょうか。それは、「信じることでよみがえるいのち」です。当然ながら、ハリストスの復活に限定されるものではありません。主は私たち全員を救われるために、私たちと同じ人となられました。ですから、「信じることは生きるみなもと」と言えるのです。

 ゆえに、ハリストスの復活した姿の先取りである「変容」を目撃した三人の弟子のうちの一人、福音記者イオアンは次のように書き記しています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである(イオアン3:16-17)」。すなわち、「Jupiter」に登場する「私たちは誰も ひとりじゃない ありのままでずっと 愛されてる」の箇所にリンクされるのではないでしょうか。

 とはいえ、悪魔を遠ざける「祈りと斎」は、終始孤独な闘いのように思われます。しかし、だからこそ「愛を学ぶために 孤独があるなら 意味のないことなど 起こりはしない」のです。旧約の預言者たちはこれを自ら証明し(出エギペト34:28、列王記第三巻19:8など)、新約のハリストスはさらに、人類の本性が悪魔の試みに打ち勝つことのできる証を完全なものになさいました(マトフェイ4:2, 26:26-28、マルコ22:19-20)。ですから、私たちも主の御許にて預言者たち使徒たちと共に永遠の生命を謳歌できるよう、「光の子(イオアン12:56)」であり続けなければなりません。

(伝教者 ソロモン 川島 大)