■2024年1月 辞退

 「ほな行けたら行くわ」。さして親しくもない(と思っている)友人からパーティーに誘われた時、あなたはこのように答えるのではないでしょうか。では、「実際に行きますか?」という話です。

 主人が盛大な晩餐会を催して、大勢の客を招きました。正教会にとっての晩餐、すなわち「聖体礼儀」をご想像ください。ところが、開始時刻が迫っているのに、(親しくなりたい/もう仲が良い、と思って)招待したはずの人たちは誰一人やってきません。心配になった主人は、招待客の様子を見てくるよう、弟子たちを遣わしました。急いで客人のもとに到着した彼らは、夢中で呼びかけます。「さあ、おいでください。もう準備ができましたから」。けれども、あろうことか全員が口々に、参加を辞退したい旨を申し出てきたのです。土地を買ったから今はその手続きで忙しい、これから新しい家畜を迎え入れる予定がある、結婚直後で奥さんの機嫌を取らなければならない…。

 こうした理由が事実なのか、はたまた苦し紛れの言い訳なのか、私たちには知る由もありません。とはいえ、晩餐会へ行かない人には、行かないなりの理由がきっとあるのでしょう。例えば、かつて参加した時の印象が芳しくなかったから。聖体礼儀に出てみたら面倒な人に絡まれた、自分の意思に反する仕事を押しつけられた…。当時の記憶が蘇る人は「もう二度と御免だ」となっても不思議ではありません。あるいは、主催者のことや晩餐会のことなんて、よく知らないし、よく知ろうとも思わない…。このように無関心な人が「わざわざ貴重な時間を割いて、一体何のために参加しなければならないのか」と思い至るのも無理のないこと。そうした気持ちが表向き「どうぞ、おゆるしください」という言葉に凝縮され、しかし本音では「どうかお引き取りください」なのです。

 人々の意識が内向きになってしまっている以上、いくら主催者側から参加を呼びかけようと説得を重ねても、私に言わせればそれはほとんど意味のない努力です。本人が納得して出向かなければ、楽しいことも喜ばしいことも、ほとんどの場合その人にとっては苦痛でしかありません。少し前までの日本社会は、学校でも職場でも「皆勤は尊いもの」と見做されてきました。近年でこそ皆勤賞は廃止の一途を辿っているそうですが、私はその最後の世代かと思われます。担任の先生から厳しい指導があろうと、体調が優れず熱を出そうと、母親の強い願いによって日々学校へと送り出されました。そのおかげもあって、最終的にはもはや「習慣」として自然に通い続けられたのも、今では懐かしい思い出です。とはいえ、令和の時代に平成までの精神論・根性論はもはや通用しません。

 翻って、正教会の奉神礼を「休みなさい」という概念は存在するのでしょうか。答えは「イエス」。ただし、それは出産後の女性への配慮であったり、伝染病患者と参祷者双方の健康を守るためであったりするまでです。主人が慌てて招き寄せた「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の悪い人」は誰にも迷惑をかけませんから、直接的に教会を休む理由にはなり得ません。「この家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい」と命じる主の願いは、聖堂という大きな船を毎便可能な限り満席で出港させること。今ここに集う私たちは、この発言を真摯に受け止めなければなりません。様々な誘惑・娯楽に溢れた世において、あえて「永遠の食事の楽しみ」を選択した信徒はすでにハリストスの弟子。主のメッセージは未来へと歩む私たちに示唆を与えます。「招かれた人で、わたしの晩餐にあずかる者はひとりもないであろう」。すなわち、自らの振舞いを通じて周囲の人々に対し、神様を「どこか遠い世界の偉大な存在」から「身近で親しみの持てる存在」へと認識を改めてもらえるように努め、最終便までに自発的な乗船を促すことなのです。

(補祭 ソロモン 川島 大)

■2023年12月 再起

 「あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」。ハリストスが厳しく語られたルカ伝13章の前半には、これを示唆するエピソードが二つ記されています。

まず一つ目が「実を結ばないイチジクの木」です。ある人が自分のぶどう園にいちじくの木を植えて置いたので、実を捜しにきたが見つからなかった。そこで園丁に言った、『わたしは三年間も実を求めて、このいちじくの木のところにきたのだが、いまだに見あたらない。その木を切り倒してしまえ。なんのために、土地をむだにふさがせて置くのか』。すると園丁は答えて言った、『ご主人様、ことしも、そのままにして置いてください。そのまわりを掘って肥料をやって見ますから。それで来年実がなりましたら結構です。もしそれでもだめでしたら、切り倒してください』」。次に二つ目が「十八年も腰の曲がった女性」です。安息日に、(主が)ある会堂で教えておられると、そこに十八年間も病気の霊につかれ、かがんだままで、からだを伸ばすことの全くできない女がいた。イイススはこの女を見て、呼びよせ、「女よ、あなたの病気はなおった」と言って、手をその上に置かれた。すると立ちどころに、そのからだがまっすぐになり、そして神をたたえはじめた。

 問答者聖グリゴリイは、三季も実を結ばなかったイチジクの木と、十八年間も腰の曲がったままの女性について、両者はいずれも「人間の本性の象徴」であると説明します。園丁は教会の指導者、イチジクの木はこの世の権力者です。善行の実を結ばない(自分の務めを果たそうとしない)イチジクの木は、その存在自体が他人の成長を阻害する要因になりかねません。権力者の配下にある人々は、目上を模範として悪しき習わしに染まり、真理の光が奪われることで神に対して冷淡となります。高く聳える木の影が上から覆いかぶさって日光を遮るため、根元の土地はすでに痩せこけた状態。園丁がいくら叱咤激励しようとも、改心させるのはもはや至難の業です。また、神に似せて創造されたはずの女性は、自ら進んで品位を保ち続けずに直立の姿勢を失いました。つまり、地上のものに目や心を奪われて天上のものを渇望しない態度が低劣な欲望を増幅させ、とうとう精神の正しさまでをも歪めてしまったのです。これらはまさに、「人若し全世界を獲とも、己の靈を損わば、何の益かあらん(マトフェイ16:26)」という御言葉を表しているかのように思われます。

 さて、神の命により植物が誕生したのは天地創造の三日目。一方で、人類は植物よりも遅くに神の創造を受けており、これは六日目の出来事です。聖書に名指しされた最初の植物「イチジク」が登場する日でもあります。それらは「善」あるいは「甚善」なるものとして誕生しました。六日目すなわち金曜日は、人類の始まりであるとともに、「アダムが地堂にて犯しし罪を第六日の第六時に十字架に釘つけしハリストス神(第六時課、讃詞)」によって、旧来の人間性の終焉と新たなる永遠の生命の開始を告げる日としても、後に知られるところとなっています。主がイチジクの実を捜しに来られた三回は、①律法以前には自然の法を通じて、②律法の時代には掟を通じて、③恩恵の時代には数々の奇跡を通じて、忍耐や勧告をしながら人間の本性を尋ね求めておられたことを意味するそうです。また、六を三倍した数が十八ですから、腰の曲がった女性もこの三つの時代全てにおいて完全な務めを果たそうとせず、病気を患い続けてきたことが窺えます。

 けれども、人は痛悔の涙を流して善行に努めようと悔い改めた時、滅びへのカウントダウンは止まり、まるで根元に肥やしをもらった木のように再び実を結び始めます。聖使徒パウェルは「神の全備の武具を衣よ(エフェス6:11)」と教えますが、掟に固執して理論武装をしなさいという意味ではありません。「安息日であっても、その束縛から解いてやるべき」と言い放った主を支持し、自らの行動においても隣人愛を示せる者となるべく、私たちは謙遜な心を育んでまいりましょう。

(補祭 ソロモン 川島 大)

■2023年11月 高潔

旅人が盗賊に襲われた。身ぐるみ剥がされたうえに重傷まで負い、まさに瀕死の状態。すると、神殿にかかわる祭司やレビ人がたまたま通りかかる。しかし、彼らは見て見ぬふりをしてか、何食わぬ顔で立ち去ってしまった。そこへ、当時ユダヤ人と交際してはならなかったはずのサマリヤ人が。そして、彼女は精一杯の憐れみを注いだ。金銭的に裕福ではないにもかかわらず、彼の傷に応急処置を施して安全な旅館へ連れてゆき、そこの主人に費用まで支払って後を託したのである。

「善きサマリヤ人の譬え」を語り終えたハリストスは、「三人のうち誰が盗賊に遭った人の隣人と思うか」と問いかけました。律法師によれば、憐れみを施す全ての人が隣人、とのこと。とはいえ、キリスト教の理解では、神に創造された我々は敵でさえもが兄弟であり隣人。よって、①我々が友人や恩人に対して互いに表す愛や慈善は不完全であり、②敵に対する愛こそ完全である、と説明されます。ゆえに、主は我々に敵をも愛すべきことを命じました(ルカ6:35)。ただし、犠牲や燔祭のような心を伴わない「形だけの行い」を神は喜びません(聖詠50:18)。また、敵に示す愛は自己中心的なものではなく、「神の愛(アガペ)」でなければならず、「爾等を虐げ、爾等を窘逐する者の爲に禱れ(マトフェイ5:44)」という気持ちこそが肝要。つまり、「隣人を愛する」という誡めを都合よく解釈する律法師に対し、ハリストスは律法師の口から彼ら自身を裁くように仕向けて反論したのです。神が人を憐れむことで藉身したように、我々も神の憐れみを知り、神に倣った隣人を憐れむ行いが喜ばれることを心に留める必要があります。そして、憐れみを必要とする者に出遭ったならば、本来は人種や宗教の違いを超え、誰であろうと憐れみを施すべきなのです。

 もっとも、日本人の肌感覚における人助けは、あたかも道端で困っているお年寄りやハンディキャップを持つ人を助けたり、あるいは迷子や急病人に寄り添ったりするようなイメージ。けれども、日本みたいに平和な国なんてそうそうなく、人助けのハードルは、社会情勢、政治的背景、宗教間対立などの要因に大きく左右されます。例えば、サッカーW杯で顕在化した南アフリカの治安。複数の地域ではただその街に暮らすだけでも、各家庭でガードマンを雇ったり、玄関や窓に鉄格子を設けたりする必要があり、現地の日本大使館に至っては「運転中に赤信号で停止することも命取りになる」、「頼みの綱であるべき警察官でさえ汚職にまみれている」と警鐘を鳴らすほどです。

3Kと呼ばれる仕事を皆さんはご存知でしょう。概要は次の通り。「主として若年労働者が敬遠する「きつい」「汚い」「危険」な労働を、頭文字をとって3Kと呼びます…建設・土木、ゴミ処理などの肉体労働や、警察官や看護師、介護士など勤務・労働条件の厳しい職業を指します。新3Kは、主に事務職や販売職などのホワイトカラーに対して使用される言葉です。「帰れない、厳しい、給料が安い」…6Kは、従来の3K…に新3K…をプラス…体力的にもつらく、精神的にも負担の大きい仕事であるうえに、給料や休日(休暇)といった処遇の面でも厳しいことが多い」とされます。

 このように、責任の大きさに見合わずとも対価は発生する労働ですら、いざ自分で行うとなると多くの人に敬遠されがちな職業があります。けれども、善きサマリヤ人はそれに準ずる慈善行為を無償の愛による見返りを期待しない奉仕の心で、なおかつ複合的な要因が絡み合って困難が容易に想像され得る状況にもかかわらず行ったわけです。ここに、私たちにも出来る働きのヒントが隠されています。すなわち、人のしない/出来ないことに進んで取り組む。一人ひとりにタラント(才能)が与えられています。これを日々どのように用いるかハリスティアニンは試されているのです。

(伝教者 ソロモン 川島 大)

■2023年10月 改良

私たちを取り巻く環境には、どこか模範的に過ごすことばかりが求められ、小さな失敗も許されない雰囲気すら漂っています。「置かれた場所で咲きなさい(渡辺和子氏)」。こうした生きづらい社会の中で上手に花を咲かせ、果実を実らせるには一体どうすべきでしょうか。私たちの人生は植物によく似ています。同じ環境に長年留め置かれると、確かに継続的な課題の解決に邁進できる点は安心材料です。しかし、よほど意識的に向上心を伴って取り組まなければ、現状維持が目標になってしまったり、職種によっては得意先や優良顧客との癒着が始まったりするのが世の常。また、自分がずっと同じ場所にいると、必然的に歩み寄ってくるのは他者に限られます。自ら動かない以上は相手にされるがまま。てんとう虫やカマキリのように頼もしい働き手も中にはいますが、おおよそ虫たちは悪気もなくせっかくの新芽や花芽を食べてしまいます。食料の水や養分が足りなくなればすっかり痩せ細り、雨の日が続いて風通しも悪くなれば、いよいよ言いたいことも言えず病気になってしまいます。ひどい時にはすでに取り返しのつかない状況に陥っていることも。それがいわゆる「根腐れ」です。

ルカ伝8章には「種まきの譬え」が記されています。ここで播かれる種とは、「神の言葉」です。神の言葉を伝えることの意味について、人々が知っている行いを引き合いに出し、私たちの心のあり方次第でいかなる結果をもたらすかを教えます。この種は、心の状態を表す四つの場所:①路の旁・②石の上・③棘の中・④沃壤にまかれました。ハリストス自らこの譬えを解き明かしておられます。それによれば、①は悪魔がやってきて心から言葉を奪い・②はしばらく信じても誘惑の時に背き・③は様々な欲望によって実を結ばず・④は善き心で言葉を守り忍耐して百倍の実を結ぶそうです。ある聖師父は言います。「人は神に近づけば近づくほど、それだけこの世が耐え難いものになってくる。それは、私たちの心の愛がこの世から遠ざかれば遠ざかるほど、この世での逆境がそれだけ増し加わるからである…ぶどうの房は、足で踏み砕かれてはじめて美味しいぶどう酒となる。同じくオリーブも、押し潰され、滓を取り除かれてはじめて豊かな油となる。同じように、穀粒も麦打ち場で脱穀され、籾殻から分離されてはじめて、精製されたものとなり、倉に収められる」。

水気のない石の上に落ちた種は、芽が出ることはあっても堪忍をもたらす根が充実していないため、善行の果実は熟すことなく干からびてしまうでしょう。とはいえ、花を咲かせられない理由が自分自身の心の状態であるならば、まずはそこを入れ替えてみることはできるはず。なぜなら、神の言葉は耳で聞いて頭で理解しても不十分であり、全身全霊で受け止めて敬虔に向き合う心にこそ作用するからです。過酷な環境を耐え抜き収穫量も多い果実への品種改良、路の旁・石の上・棘の中を沃壤へと土壌改良に努めるならば、落ちた種は忍耐して実を結ぶこととなります。

それでも駄目な時は、潔く身を置く環境を変えるべきです。「置かれた場所で咲けないなら環境を変えなさい。根っこが腐る前に(籔本正啓氏)」。その判断は当たり前のようですごく難しいことですが、決して逃げでも隠れでもありません。ある植物は枝が折れても、水に浸しておくと半分以上は新しい根を出します。でも、それは切り花自体がまだ健康だから。またある植物はショック療法が効くなど、もちろん品種によっても個体によっても様々な特徴があるように、人の性格も十人十色です。だからこそ、根腐れをする前に取り得る手段は全て試し、自分自身にとっての最良を見極めたいもの。自分の知らなかった世界、敵の少ない土地、風雨にさらされにくい場所へと自らの力で動けないのなら、神様に依り頼みましょう。組織・団体に属す地植えであれ、自営業・フリーランスの鉢植えであれ、寝たきりの人を立ち上がらせる方(マトフェイ9:6)、荒波を鎮める方(同8:26)、山をも動かす方(同17:20)は、必ずやその人の意志を叶えてくださることでしょう。

(伝教者 ソロモン 川島 大)

■2023年8月 孤独

 「私たちが「からし種一粒ほどの信仰」を持ち合わせるならば、「『ここから、あそこに移れ』と命じる」ことで山をも動かせる(マトフェイ17:20)はずです。ところが、たった一人の癲癇患者でさえ師匠のごとく癒せずに悔しがる弟子たちが、福音書には登場します。彼らは恐る恐る主イイススにその理由を尋ねました。「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか(同上17:19)」。

 すると、返ってきた答えは冷徹ながらも「信仰が薄いからである(同上17:20)」とのこと。もちろん、弟子たちの不手際を咎めることや、ましてや彼らの人格を否定することが目的ではありません。すなわち、師匠として「この種のもの(悪魔)は、祈りと斎とによらなければ出て行かない…あなたがたにできないことは何もない(同上17:20-21)」と伝え、弟子たちの務めを鼓舞するためでした。

 歌手の平原綾香さんを代表する楽曲に「Jupiter」があります。英国の作曲家・ホルストの名曲に、吉元由美さんが日本語の歌詞を付けたものです。毎年これをテーマソングに据えた花火が、新潟県長岡市で盛大に打ち上げられます。私の父は長岡で生まれ育ち、例年8月を迎えると家族や父子で父の故郷へ里帰りをするのが我が家の恒例行事でした。けれども、その時期はお盆期間ではなく、初旬の2日、3日に合わせての帰省です。なぜなら、この2日間には国内でも屈指の花火大会が行われるから。この「長岡まつり大花火大会」において、ある年を境に「復興祈願花火フェニックス」が打ち上げられるようになりました。それは2004年に発生した内陸直下型の新潟県中越地震。被災者たちの心の支えになった音楽と言われるのが、当時流行していた平原綾香さんの「Jupiter」でした。

 教会で奉職する現在の私にとって、非常に印象的なフレーズが含まれます。「夢を失うよりも 悲しいことは 自分を信じてあげられないこと」。至聖三者の神様以外を特別な存在として崇拝する、あらゆる出来事を闇雲に信じることは、正教会の本質とはかけ離れています。「我信ず一の神父全能者…」で始まるニケヤ・コンスタンティノープル信経。洗礼を受ける時や、聖体礼儀の聖変化を前にして私たちはこれを唱えます。端的にまとめるならば、日本を代表する詩人・谷川俊太郎氏の言葉に一致します。「信じることに理由はいらない」。まさに、信経には正しく信じるべき内容こそ列挙されているものの、皆それぞれがそこへ至る経緯については一切問われていません。では、読み上げる事項を心に留めることでいかなる効用が得られるのでしょうか。それは、「信じることでよみがえるいのち」です。当然ながら、ハリストスの復活に限定されるものではありません。主は私たち全員を救われるために、私たちと同じ人となられました。ですから、「信じることは生きるみなもと」と言えるのです。

 ゆえに、ハリストスの復活した姿の先取りである「変容」を目撃した三人の弟子のうちの一人、福音記者イオアンは次のように書き記しています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである(イオアン3:16-17)」。すなわち、「Jupiter」に登場する「私たちは誰も ひとりじゃない ありのままでずっと 愛されてる」の箇所にリンクされるのではないでしょうか。

 とはいえ、悪魔を遠ざける「祈りと斎」は、終始孤独な闘いのように思われます。しかし、だからこそ「愛を学ぶために 孤独があるなら 意味のないことなど 起こりはしない」のです。旧約の預言者たちはこれを自ら証明し(出エギペト34:28、列王記第三巻19:8など)、新約のハリストスはさらに、人類の本性が悪魔の試みに打ち勝つことのできる証を完全なものになさいました(マトフェイ4:2, 26:26-28、マルコ22:19-20)。ですから、私たちも主の御許にて預言者たち使徒たちと共に永遠の生命を謳歌できるよう、「光の子(イオアン12:56)」であり続けなければなりません。

(伝教者 ソロモン 川島 大)

■2023年7月 反省

「兄弟の愛をもって互にいつくしみ、進んで互に尊敬し合いなさい…望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい…喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい…だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい」。

 五旬祭後第六主日の福音では、これを象徴するかのようなエピソードが読まれました。すなわち、ハリストスのところへ担ぎ込まれた中風患者が神様の力によって癒される、という出来事です。この中風患者がどのような経緯で寝たきり状態になったのか、聖書は詳しく触れていないものの、ある注解書はふしだらな行いによる結果、と推測します。自らを大罪人であると恥じ入る彼は、周囲の人々に担がれてあれよあれよという間に主の御前へと連れ出されました。とはいえ、彼らは中風患者を断罪しようと企てたのではありません。仲間を救おうとする人々の謙遜な信仰を見抜かれたからこそ、主は中風患者に対し「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と呼び掛けられたのです。そればかりか、「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と命じられたことで、奇跡を目の当たりにした人々をも信仰へとお導きになりました。

「わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っている…奉仕であれば奉仕をし、また教える者であれば教え、勧めをする者であれば勧め、寄附する者は惜しみなく寄附し、指導する者は熱心に指導し、慈善をする者は快く慈善をすべきである」。「好きこそ物の上手なれ」という諺がありますが、教会全体にとっても同様に大切な指標です。各人が神様から与えられた能力をフルに活用してこそ、良いサイクルが生み出されます。けれども、それは極めて難しいミッションです。なぜなら、あらゆる人々の集まる教会こそ社会の縮図であり、様々な誘惑や葛藤が生じるから。「宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみ」をはじめ、こうした類は枚挙にいとまがありません。そして、誰か一人でも「これは他の誰でもない、この私にしか果たせない務めである」などと思い上がった途端、望ましいサイクルは崩れ始めることでしょう。

そうではなく、老若男女分け隔てずして他者へのリスペクトを常に忘れず、自分に持っていない才能を相手のうちに見出し、それを皆が互いに最大限活かすならば、地上の教会はさながら天上の教会を映し出します。とはいえ、清貧を貫きながら世界の平和を祈り続ける修道者や、信徒を永遠の生命へと導くために奔走する聖職者たちでさえ、喜怒哀楽を伴った不完全な人間です。よって、ハリストスにおける兄弟姉妹同士、時には欠点が目立つことも当然のごとく考えられるでしょう。しかしながら、表に見えている印象だけでその人の価値は決まりません。人知れず並々ならぬ努力を重ねているかも知れないことを思い起こして、その人のために祈りを捧げたいものです。

ある聖師父は教えます。「主は人々に罪を犯すことを禁じたものの、私たちはあえなく罪を犯してしまった。すなわち、御言葉を軽んじたり、掟を踏みにじったりする。けれども、ご自分に背を向ける横柄な者に制裁を加えることも出来るのに、あえて忍耐強く耐え忍びつつ罪の赦しを与えようと慈しみ深く招いておられる。私たちが立ち返るように、褒美を用意しながらいつまでも待ち望んでおられる」。冒頭で紹介した「だれに対しても悪をもって悪に報いず」は神様の願いであり、だからこそ自ら率先して道を外れた者たちには回心を促されるのです。私たちに必要なのは、自らを省みてひたすら前へ進む心構え。そして、誰であれ困っている人がいるならば、皆で知恵を出し合い最善を尽くす。この善行が、今動けずにいる人へと勇気を与える第一歩となることでしょう。

(伝教者 ソロモン 川島 大)

■2023年6月 不労

「試に野の百合の如何にか長ずるを觀よ」。野山に自生する日本固有種のユリとして「ササユリ」が知られます。かつては田植えの時期になると一斉に花が咲き、可憐で上品な見た目や甘い香りは人々の心を和ませたそうです。ある保存会はササユリの原生地が激減した理由について、「山間地域の高齢・過疎化やそれに伴う里山環境の荒廃」を挙げています。ササユリは外来種に比べて生育が非常に遅く、種子が発芽してから開花に至るまで7年はかかると言われるほど。よって、人間の視点では、個体を増やす様々な努力が実を結びようやく再生に繋がった、と考えても不思議ではありません。ところが、在来種はともかくとしても、本来的にユリは繁殖方法が5つもあるほど生命力の強い植物です。ゆえに、一度根付くと今度は香りに導かれた虫たちによって受粉、種子を散布することで次第に数を増やし、弱いはずのササユリでさえ「勞かず、紡がず」の状態となります。

教会においても、ユリはいくつかの象徴として用いられています。まず、「純潔」、「無垢」が花言葉であるユリは、マリヤさまのイメージそのもの。白百合を携える生神女のイコンのほか、「潔浄の寶藏、我等が堕落より起きたる所以の者よ、慶べ。香氣を放つ百合の花、信者を馨らしむる女宰、芳ばしき香爐、價貴き香料よ、慶べ」と祈祷文にも記されています。それだけではありません。主教職を担った聖人を中心に、「智なる者よ、爾等は蜂の如く聖書の花園を飛び繞り、其花より最善き者を採りて、爾等の教の蜜を共に衆信者に其筵として進め給えり」の意味合いで「百合/百合花」の単語が登場します。衆聖人の主日にも、ずばり「野の百合を妝う者は己の衣の爲に慮るを要せずと命じ給う」とマトフェイ伝の箇所が要約されています。「主よ、荒地の如く實を結ばざる異邦の教會は、爾(ハリストス)の來るに因りて、百合の如く華さけり、我が心は此に緣りて固められたり」。このように、ユリは適切な環境に身を置きさえすれば、きちんと実を結ぶ希望を示唆しているのです。

この福音箇所において、ハリストスが私たちに一番伝えたかったメッセージとは何でしょうか。それは、「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」の箇所と言えるでしょう。天国とこの世の「正しさ」は必ずしも一致しません。逆境や困難は私たちを揺るがす動機ですが、努力して乗り越えるならばその人の信仰はやがて花が咲き、実を結び、確かなものとなるでしょう。昨今の社会環境を取り巻く「正しさ」は、そのほとんどに様々な利権が絡んでいたり、あるいは狭いものの見方の押し付け合いに過ぎなかったりします。ハリストスがこの世で人々と直に接しておられた時代から、私たちの先祖たちも大なり小なりそうした葛藤で悩み苦しんできたはずです。だからこそ、主は「まず神の国と神の義とを求めなさい」と仰いました。この価値観はいかなる時代においても不変の概念であり、物事の本質を端的に言い表しています。

「何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようか」。最も小さい悩みの類いは次第にエスカレートし、やがて大きな不満へと繋がります。けれども、「患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出し…そして、希望は失望に終ること」はありません。これが、ハリストスの伝えたかった「目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう」という御言葉の真相と理解することが出来るでしょう。私たちが物事の本質を見極めようとする時、ユリの凛として透き通る花のような立ち振る舞いと、見た目にはか細くも実際は逞しい芯の強さとが必要になります。信徒たる者はみなハリストスの弟子でなければなりません。「(ハリストス)の至淨にして極めて饒なる手より得た…種子の獻物」は、実は私たち自身でもあるのです。「爾の僞なき約の如く…衆民に、爾の豐なる恩惠を遣し給え」と人々が祈れば、「靈なき地の懷に(あえて種を)藏める」者に成果を与えてくださいます。ゆくゆくは、「野の百合を妝う者」のように、「勞かず、紡がず」とも「明日の事を思い煩わぬ」堂々とした佇まいを手にしたいものです。

(伝教者 ソロモン 川島 大)

■2023年5月 梔子

 くちなしの実よ くちなしの 実のように 待ちこがれつつ
 ひたすらに こがれ生きよと 父はいう
 今もどこかで 父はいう

 そろそろ街中で梔子の花を見かける季節になりました。新しい日本歌曲には、「くちなし」という素晴らしい曲が存在します。作詞・高野喜久雄氏、作曲・髙田三郎氏、いずれも敬虔なカトリック教徒によって織りなされた作品です。曲の途中、亡き父が息子に語りかけた出来事が回想されます。「ごらん くちなしの実を ごらん 熟しても 口を開かぬ くちなしの実だ」。しかしながら、身の回りの梔子は香り高い花ばかりで、どうも果実を見た記憶はありません。最近この訳を知りまして、笑い話ですがそれらは実を結ばない八重咲きの園芸種であったからです。

ともあれ、歌曲「くちなし」は聖神降臨のあらましと重なるように思われます。「至上者は降りて舌を淆しし時、諸民を分てり、火の舌を頒ちし時、衆を一に集め給えり、故に我等同一に至聖神を讃榮す」。かつて、一つの民であった人々は当然のごとく一つの言語を話していました。ところが、彼らの結束力の証しは、残念ながら信仰による結び付きではありませんでした。そのような彼らは、主の御名においてではなく、ただ自分たちの名誉のためだけにある偉業を企てます。すなわち、天にまで届く「ワワィロンの塔」を築き、物理的に神様のそばへ近づこうとしたのです。すると、その不純な動機を察した神様の逆鱗に触れ、彼らの言葉は乱されてしまいました。そればかりか、彼らが再び一箇所に集まることがないよう、各地へと離散させたのです。

けれども、神様は「自ら欲せし如く生れ、自ら望みし如く現れ、肉體にて苦を受け、死を滅して死より復活せり、一切を滿つる者にして、光榮の中に天に升り、我等に聖神を遣し給えり、爾の神性を讃美讃榮せん爲なり」。神父は神子ハリストスを人々に賜い、神子ハリストスもこの世での生活を終える前、使徒たちに対して「神父が神聖神を遣わす」ことを約束されました。そして実際、昇天後の五旬節に使徒たちが一同に会していると「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖神に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」とありますが、これは創世記の事件を塗り替える出来事でした。

「昔は塔を建つる者の狂暴の爲に言は淆されたり、今は神學の光榮の爲に言は曉り易くなりたり、彼には神罰を以て不虔者を定罪せり、此にはハリストス聖神を以て漁者を照せり、其時合一は失われて苦を致し、今合同は新にせられて我が靈の救を致す」。

「熟しても 口を開かぬ/くちなしの 実のように 待ちこがれつつ」。一重咲きのミナリクチナシは八重咲き品種よりも芳香が強いと言われます。それは虫を呼び寄せ、多くの実をつけて子孫を残すためなのでしょう。けれども、乾燥させた実は着色料に利用されるなど、味や香りにクセはなく素材本来の味わいを引き立たせることが可能です。聖体礼儀において、聖神降臨を象徴する箇所があります。それは私たちがご聖体を領けた後、「已に眞の光を觀、天の聖神を受け、正しき信を得て、分れざる聖三者を拜む、彼我等を救い給えばなり」。梔子を見かけた時には思い出したいものです。神様を待望する私たちはみな、神様にも嘱望される弟子であることを。

(伝教者 ソロモン 川島 大)

■2023年4月 結実

 問答者聖グリゴリイは言います。「生命には二種類あります。一つは死すべき生命、いま一つは不死の生命です。前者は腐敗する生命、後者は腐敗することのない生命。前者は死への生命、後者は復活による生命。神と人との仲介者としてこの世に降誕されたハリストスは、死の時に前者を耐え忍び、復活の時に後者を明示されました。けれども、不死の生命が目に見える形で明示されなかったならば、それまで死すべき生命しか知らなかった私たちに「復活」を約束したところで、その言葉を疑わずに信じられる人は誰もいなかったことでしょう。だからこそ、神子ハリストスは人の肉体をまとってこの世に生まれ、後に自ら甘んじて死を受け入れ、私たちに約束なさった不死の生命を復活によって明示されたのです。しかも、ただ一人で復活なさったのではありません。「眠りについていた多くの聖なる者たち(マトフェイ27:52)」と共に生き返られました。そればかりか、ハリストスと共に復活した人々は、神ではなく私たちと同じ人間であったことに注目すべきです」。

 「聖書にはこうも書かれています。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと(イオアン15:16)」。よって、私たちは心からその実を欲して歩む資格をすでに得ているのです。ところが、人々のこの世における仕事の業績や遺産は、せいぜいその人が死ぬ時まで存続するに過ぎません。死はあらゆる成果を無情にも滅ぼしてしまうからです。その一方で、永遠の生命を得るための努力への報い、すなわち「残る実」は死後にも引き継がれ、むしろ死を境に生き始めます。ですから、永遠の存在を認めようとするならば、一時的な成果に価値を置いてはなりません。私たちは神に選ばれた聖人たちのように、死から始まる消え去ることのない実を結ぼうではありませんか」。

 ハリストスの弟子でありながら、復活なさった主の姿を不運にも見そびれたフォマは、悔しさのあまり次のように言い放ちました。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れなければ、私は決して信じない」。慈悲深きハリストスはそれをお許しになりましたが、そもそもフォマはなぜ他の使徒たちに後れを取ってしまったのでしょうか。復活祭期の祈祷書『五旬経』は記します。「其時フォマは、神の攝理に由りて、彼等と偕に在らざりき」。「(ハリストスの)復活を徒に疑いしにあらずして、墜されざりき、乃萬民の爲に之を疑なき者として顯さんと欲せり、故に不信に因りて信ぜしめて、衆に言わんことを教えたり」。つまり、フォマの不在は決して不運などではなく、神様のお導きによって私たちに主の復活を明示する、という栄えある働きを担うためであったのです。

 「爾の手を以て我が肢體の痍を探りたるフォマよ、我爾の爲に傷つけられし者を信ぜざる勿れ、門徒と偕に意を同じくして、活ける神を傳えよ」。主は何もフォマにだけこのように呼びかけられたわけではありません。私たちは皆で、ハリストスを頭に頂く一つの体を構成します。ハリストスの身に起こった復活は、優れた体のパーツである使徒やその他の聖人たちにも、そして彼らには劣る私たちにも同様に起こり得る出来事と確信すべきなのです。フォマは遅ればせながら主の復活に接した感動を「我が主よ、我が神よ、光栄は爾に帰す」と表現しました。「不信は堅固なる信を生じた」のです。「主を讃め揚げよ、蓋我等の神に歌うは善なり、蓋是れ樂しき事なり」。私たちの側から喜び勇んで神様の御許へと歩み寄ることで、復活は必ずや現実のものとなるでしょう。

(伝教者 ソロモン 川島 大)

■2023年3月 比較

 前回のコラムでは、聖金口イオアンの「嫉妬」に関する教えを紹介しました。「教会の一致を妨げる原因は妬みや恨みのほかに何もなく、悪の根源よりも嫉妬は許されがたいものです。人間同士の憎しみ合いは、悪魔ですら仲間うちではあえて行わない醜き姿と言えます。誰かの幸福を妬む気持ちは、その人に幸福を賜った神様を敵視するのと同じことです。天の神様の御前において、私たちはまず己の不完全さを認め、そして他者に先立つように善き行いを心掛けねばなりません」と。

 祈祷書には大斎直前に「大ワシリイの講説を読む」ものと記されており、せっかくですから今回は同じテーマで聖大ワシリイの教訓をも紹介します。「嫉妬とは、仲間の幸福を嘆き悲しむこと。妬む者は悲しみや心の悩みに不足することはなく、まるでトンビやハエのようにわざわざ腐敗した環境を好むかのようです。この病が人々を最も苦しめる所以は、自らの心境を他人に打ち明けることが憚られる点にあります。他人から「あなたは何に悩み苦しんでいるのですか」と尋ねられようとも、「私は妬み深い悪人です。ハリストスにおける兄弟たちの完全さは私を悩まし、彼らの善良な心を悲しまずにはいられません。完璧な人を見るのが悔しく、隣人の幸せを私にとっての不幸せと感じてしまうのです」などと正直に答えられるはずもありません。よって、人知れぬ思いを抱え、自らを苦しめ続けるのです。けれども、様々な手立てを講じてまで、現世での富や栄誉を得ることに捉われてはなりません。なぜなら、あなたの望む通りにはならないからです。そのエネルギーを善き行いに邁進すべく用いましょう。清く、正しく、知恵深く、敬虔に忍耐する者となるのです」。

 本日(乾酪の主日)は聖体礼儀に引き続き「赦罪の晩課」を行いますが、教会暦では一足早く乾酪週間火曜日の晩課から「エフレムの祝文」を唱え始めています。「主吾が生命の主宰よ、怠惰と、愁悶と、矜誇と、空談の情を我に與うる勿れ。貞操と、謙遜と、忍耐と、愛の情を我爾の僕に與え給え。嗚呼主王よ、我に我が罪を見、我が兄弟を議せざるを賜え、蓋爾は世世に崇め讚めらる」。ここで登場する「矜誇/陵駕(希φιλαρχίας, 英lust of power)」とは、他者よりも優位な立場を望む感情を指します。こうした情念に捉われて思い煩うならば、仲間の幸せを自分のこととして喜ぶのは難しく、不幸せのように感じてしまうものでしょう。だからこそ、エフレムの祝文「矜誇」の対極に位置する「忍耐(υπομονής, patience)」が大切である、と聖大ワシリイは説いているのです。

 振り返ってみますと、大斎準備週間には四つの主日が存在しますが、その全てが対照的に物語られています。「税吏とファリセイの主日」では、ファリセイの傲慢さと徴税人の謙遜さとが。「放蕩息子の主日」では、かつての父親に従順な長男と放蕩に明け暮れる次男、そして後の弟に嫉妬する長男と兄に欠けた痛悔の心を獲得した次男とが。「断肉の主日」では、善良な人々は常に目を覚ました善き行いが評価され、一方の呪われた人々は相手によって対応を変えていた示唆が。「断酪の主日」では、アダムとエワの楽園追放において各々が妻に、蛇に、自分の過ちを誰かに責任転嫁した出来事、さらには他人を許さない者は神様にも許されない旨が告げ知らされます。

 「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」。これが大切な心構えであるといくら頭では分かっていても、自分が満たされていないと感じる時、その人は他者の幸せを手放しでは喜べないもの。聖使徒パウェルはロマ書の12章を次のように締め括っています。「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」と。なぜなら、私たちはみな「与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っている」からです。この喜びを「すべての人と平和に暮らす」ための出発点としましょう。

(伝教者 ソロモン 川島 大)