■2023年6月 不労

「試に野の百合の如何にか長ずるを觀よ」。野山に自生する日本固有種のユリとして「ササユリ」が知られます。かつては田植えの時期になると一斉に花が咲き、可憐で上品な見た目や甘い香りは人々の心を和ませたそうです。ある保存会はササユリの原生地が激減した理由について、「山間地域の高齢・過疎化やそれに伴う里山環境の荒廃」を挙げています。ササユリは外来種に比べて生育が非常に遅く、種子が発芽してから開花に至るまで7年はかかると言われるほど。よって、人間の視点では、個体を増やす様々な努力が実を結びようやく再生に繋がった、と考えても不思議ではありません。ところが、在来種はともかくとしても、本来的にユリは繁殖方法が5つもあるほど生命力の強い植物です。ゆえに、一度根付くと今度は香りに導かれた虫たちによって受粉、種子を散布することで次第に数を増やし、弱いはずのササユリでさえ「勞かず、紡がず」の状態となります。

教会においても、ユリはいくつかの象徴として用いられています。まず、「純潔」、「無垢」が花言葉であるユリは、マリヤさまのイメージそのもの。白百合を携える生神女のイコンのほか、「潔浄の寶藏、我等が堕落より起きたる所以の者よ、慶べ。香氣を放つ百合の花、信者を馨らしむる女宰、芳ばしき香爐、價貴き香料よ、慶べ」と祈祷文にも記されています。それだけではありません。主教職を担った聖人を中心に、「智なる者よ、爾等は蜂の如く聖書の花園を飛び繞り、其花より最善き者を採りて、爾等の教の蜜を共に衆信者に其筵として進め給えり」の意味合いで「百合/百合花」の単語が登場します。衆聖人の主日にも、ずばり「野の百合を妝う者は己の衣の爲に慮るを要せずと命じ給う」とマトフェイ伝の箇所が要約されています。「主よ、荒地の如く實を結ばざる異邦の教會は、爾(ハリストス)の來るに因りて、百合の如く華さけり、我が心は此に緣りて固められたり」。このように、ユリは適切な環境に身を置きさえすれば、きちんと実を結ぶ希望を示唆しているのです。

この福音箇所において、ハリストスが私たちに一番伝えたかったメッセージとは何でしょうか。それは、「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」の箇所と言えるでしょう。天国とこの世の「正しさ」は必ずしも一致しません。逆境や困難は私たちを揺るがす動機ですが、努力して乗り越えるならばその人の信仰はやがて花が咲き、実を結び、確かなものとなるでしょう。昨今の社会環境を取り巻く「正しさ」は、そのほとんどに様々な利権が絡んでいたり、あるいは狭いものの見方の押し付け合いに過ぎなかったりします。ハリストスがこの世で人々と直に接しておられた時代から、私たちの先祖たちも大なり小なりそうした葛藤で悩み苦しんできたはずです。だからこそ、主は「まず神の国と神の義とを求めなさい」と仰いました。この価値観はいかなる時代においても不変の概念であり、物事の本質を端的に言い表しています。

「何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようか」。最も小さい悩みの類いは次第にエスカレートし、やがて大きな不満へと繋がります。けれども、「患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出し…そして、希望は失望に終ること」はありません。これが、ハリストスの伝えたかった「目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう」という御言葉の真相と理解することが出来るでしょう。私たちが物事の本質を見極めようとする時、ユリの凛として透き通る花のような立ち振る舞いと、見た目にはか細くも実際は逞しい芯の強さとが必要になります。信徒たる者はみなハリストスの弟子でなければなりません。「(ハリストス)の至淨にして極めて饒なる手より得た…種子の獻物」は、実は私たち自身でもあるのです。「爾の僞なき約の如く…衆民に、爾の豐なる恩惠を遣し給え」と人々が祈れば、「靈なき地の懷に(あえて種を)藏める」者に成果を与えてくださいます。ゆくゆくは、「野の百合を妝う者」のように、「勞かず、紡がず」とも「明日の事を思い煩わぬ」堂々とした佇まいを手にしたいものです。

(伝教者 ソロモン 川島 大)