■2023年5月 梔子

 くちなしの実よ くちなしの 実のように 待ちこがれつつ
 ひたすらに こがれ生きよと 父はいう
 今もどこかで 父はいう

 そろそろ街中で梔子の花を見かける季節になりました。新しい日本歌曲には、「くちなし」という素晴らしい曲が存在します。作詞・高野喜久雄氏、作曲・髙田三郎氏、いずれも敬虔なカトリック教徒によって織りなされた作品です。曲の途中、亡き父が息子に語りかけた出来事が回想されます。「ごらん くちなしの実を ごらん 熟しても 口を開かぬ くちなしの実だ」。しかしながら、身の回りの梔子は香り高い花ばかりで、どうも果実を見た記憶はありません。最近この訳を知りまして、笑い話ですがそれらは実を結ばない八重咲きの園芸種であったからです。

ともあれ、歌曲「くちなし」は聖神降臨のあらましと重なるように思われます。「至上者は降りて舌を淆しし時、諸民を分てり、火の舌を頒ちし時、衆を一に集め給えり、故に我等同一に至聖神を讃榮す」。かつて、一つの民であった人々は当然のごとく一つの言語を話していました。ところが、彼らの結束力の証しは、残念ながら信仰による結び付きではありませんでした。そのような彼らは、主の御名においてではなく、ただ自分たちの名誉のためだけにある偉業を企てます。すなわち、天にまで届く「ワワィロンの塔」を築き、物理的に神様のそばへ近づこうとしたのです。すると、その不純な動機を察した神様の逆鱗に触れ、彼らの言葉は乱されてしまいました。そればかりか、彼らが再び一箇所に集まることがないよう、各地へと離散させたのです。

けれども、神様は「自ら欲せし如く生れ、自ら望みし如く現れ、肉體にて苦を受け、死を滅して死より復活せり、一切を滿つる者にして、光榮の中に天に升り、我等に聖神を遣し給えり、爾の神性を讃美讃榮せん爲なり」。神父は神子ハリストスを人々に賜い、神子ハリストスもこの世での生活を終える前、使徒たちに対して「神父が神聖神を遣わす」ことを約束されました。そして実際、昇天後の五旬節に使徒たちが一同に会していると「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖神に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」とありますが、これは創世記の事件を塗り替える出来事でした。

「昔は塔を建つる者の狂暴の爲に言は淆されたり、今は神學の光榮の爲に言は曉り易くなりたり、彼には神罰を以て不虔者を定罪せり、此にはハリストス聖神を以て漁者を照せり、其時合一は失われて苦を致し、今合同は新にせられて我が靈の救を致す」。

「熟しても 口を開かぬ/くちなしの 実のように 待ちこがれつつ」。一重咲きのミナリクチナシは八重咲き品種よりも芳香が強いと言われます。それは虫を呼び寄せ、多くの実をつけて子孫を残すためなのでしょう。けれども、乾燥させた実は着色料に利用されるなど、味や香りにクセはなく素材本来の味わいを引き立たせることが可能です。聖体礼儀において、聖神降臨を象徴する箇所があります。それは私たちがご聖体を領けた後、「已に眞の光を觀、天の聖神を受け、正しき信を得て、分れざる聖三者を拜む、彼我等を救い給えばなり」。梔子を見かけた時には思い出したいものです。神様を待望する私たちはみな、神様にも嘱望される弟子であることを。

(伝教者 ソロモン 川島 大)