■2023年4月 結実

 問答者聖グリゴリイは言います。「生命には二種類あります。一つは死すべき生命、いま一つは不死の生命です。前者は腐敗する生命、後者は腐敗することのない生命。前者は死への生命、後者は復活による生命。神と人との仲介者としてこの世に降誕されたハリストスは、死の時に前者を耐え忍び、復活の時に後者を明示されました。けれども、不死の生命が目に見える形で明示されなかったならば、それまで死すべき生命しか知らなかった私たちに「復活」を約束したところで、その言葉を疑わずに信じられる人は誰もいなかったことでしょう。だからこそ、神子ハリストスは人の肉体をまとってこの世に生まれ、後に自ら甘んじて死を受け入れ、私たちに約束なさった不死の生命を復活によって明示されたのです。しかも、ただ一人で復活なさったのではありません。「眠りについていた多くの聖なる者たち(マトフェイ27:52)」と共に生き返られました。そればかりか、ハリストスと共に復活した人々は、神ではなく私たちと同じ人間であったことに注目すべきです」。

 「聖書にはこうも書かれています。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと(イオアン15:16)」。よって、私たちは心からその実を欲して歩む資格をすでに得ているのです。ところが、人々のこの世における仕事の業績や遺産は、せいぜいその人が死ぬ時まで存続するに過ぎません。死はあらゆる成果を無情にも滅ぼしてしまうからです。その一方で、永遠の生命を得るための努力への報い、すなわち「残る実」は死後にも引き継がれ、むしろ死を境に生き始めます。ですから、永遠の存在を認めようとするならば、一時的な成果に価値を置いてはなりません。私たちは神に選ばれた聖人たちのように、死から始まる消え去ることのない実を結ぼうではありませんか」。

 ハリストスの弟子でありながら、復活なさった主の姿を不運にも見そびれたフォマは、悔しさのあまり次のように言い放ちました。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れなければ、私は決して信じない」。慈悲深きハリストスはそれをお許しになりましたが、そもそもフォマはなぜ他の使徒たちに後れを取ってしまったのでしょうか。復活祭期の祈祷書『五旬経』は記します。「其時フォマは、神の攝理に由りて、彼等と偕に在らざりき」。「(ハリストスの)復活を徒に疑いしにあらずして、墜されざりき、乃萬民の爲に之を疑なき者として顯さんと欲せり、故に不信に因りて信ぜしめて、衆に言わんことを教えたり」。つまり、フォマの不在は決して不運などではなく、神様のお導きによって私たちに主の復活を明示する、という栄えある働きを担うためであったのです。

 「爾の手を以て我が肢體の痍を探りたるフォマよ、我爾の爲に傷つけられし者を信ぜざる勿れ、門徒と偕に意を同じくして、活ける神を傳えよ」。主は何もフォマにだけこのように呼びかけられたわけではありません。私たちは皆で、ハリストスを頭に頂く一つの体を構成します。ハリストスの身に起こった復活は、優れた体のパーツである使徒やその他の聖人たちにも、そして彼らには劣る私たちにも同様に起こり得る出来事と確信すべきなのです。フォマは遅ればせながら主の復活に接した感動を「我が主よ、我が神よ、光栄は爾に帰す」と表現しました。「不信は堅固なる信を生じた」のです。「主を讃め揚げよ、蓋我等の神に歌うは善なり、蓋是れ樂しき事なり」。私たちの側から喜び勇んで神様の御許へと歩み寄ることで、復活は必ずや現実のものとなるでしょう。

(伝教者 ソロモン 川島 大)