先月、イイススは神の前に立つ者、信仰者は「地の塩」であり、神に恵みを賜わられるサラリーマンであるというお話をしました。引き続き塩についてお話ししましょう。
レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」をよく観察すると、塩壷が描かれています。これはイイススの時代のテーブル上の光景と言うよりも、ダ・ヴィンチの時代、中世ヨーロッパ、イタリアの食卓風景かも知れません。
いつの時代にあっても塩は大事です。
聖書は、じつに面白い表現が満ちています。聖使徒 福音者マルコは、イイススの言葉を記録しています。
「人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか」(9章)
「火で塩味を付ける」
天然岩塩の中には、燃焼に使用する触媒としての塩板、塩の板があるそうで、イイススの博識には驚かされます。火によって旨味のます塩。
それでは「塩気が無くなる」とはどういうことでしょうか。
これも天然岩塩をあらわすたとえ話。
どんなに良質な岩塩でも、風雨にさらされ野ざらしにされたら、塩気も塩の風味も抜けてしまい、だめになってしまうそうです。
「天才児も十代過ぎたら、ただの人」
という厳しい言葉がありますが、これをわたしたち自身にあてはめてみますと、どんなに才能があっても、その原石を磨く努力をつづけなければ、すばらしい宝石にはなりません。才能の垂れ流し、野ざらし・ほったらかしはいけないのです。火の錬磨で成長する信仰者もいるということではないでしょうか。
むしろ不器用にこつこつ生きている人の方が息の長い「成長」ができるということにつながるのではないでしょうか。
みなさんも知っている「タレント」は、日本では芸人をさすタレントさんという意味につかわれていますが、聖書でのタラントは、一人一人の個性、独自性、才能、能力、人格、尊厳をさします。
みんなが、すべての人がタレントなのです。ではたぐいまれな才能のない者はどうしましょうか。天才といわれる人は数万人に一人でしょうから。
イイススは探しだそう、発見しようと言います。
塩で味付けをする。塩を振りかけるのです。
「自分自身の内に塩を持ちなさい。そして互いに平和に過ごしなさい」
このイイススの言葉は、自分の中にないものは、外からもってこよう、良い塩を探し出して、有効活用しようと語っているように解釈されます。
それは努力精進ということかもしれませんし、もう一つ、たとえば良い友人を持つこと、自分にはない性格・性質、職業上の特技を持つ人に嫉妬するのではなく、その人と友達になって、共にそれを活かす、創意工夫が必要だと言っているのです。創意工夫というと、全部自分ひとりでやることだと錯覚している人が多いのですが、じつは全部自分でできる人というのは存在していません。 お互いの才能・人間を認め、励まし合い、希望をもって生きる。
「互いに平和に過ごす」というイイススの言葉は何と意味が深いのでしょう。 平和には愛と信頼が必要です。
自分たちの人生を味付けする「塩」は、わたし、あなた、みんなが持っていて、振りかけ合うもの、分かち合う恵みでもあるのです。
(長司祭 パウェル 及川 信)