■2022年8月 研鑽

 「わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っている…奉仕であれば奉仕をし、また教える者であれば教え、勧めをする者であれば勧め、寄附する者は惜しみなく寄附し、指導する者は熱心に指導し、慈善をする者は快く慈善をすべきである(ロマ12:6-8)」。

 全知全能の神様は一人ひとりの振る舞いを把握なさっています。従って、教会に通わなくとも、信徒にならなくとも、善人が天国に迎え入れられる妨げとはなりません。それでは、なぜ私たちは日頃から祈祷に集うのでしょうか。誤解を恐れずに言えば、教会は神様の御国を知るための学校。通うも通わぬも本人の意志に委ねられています。とはいえ、この学び舎に通わずして判断基準を自分自身に置く者は、「誘惑の猛風にて浪の立ち揚がる世の海(カノン第六調、第六歌頌イルモス)」を上手に立ち回れはしないでしょう。ゆえに、天国への進路を希望する者の多くは、体験入学に当たる啓蒙期間を経て受洗へと至ります。ただし、この節目は決してゴールではありません。洗礼式は言わば入学試験であり、これをパスすることで晴れて在校生と認められるに過ぎないのです。

 次に、洗礼を受けた私たちは、何を目標として、どのように歩むべきなのか。当然ながら、目標とすべきものは「来世の生命」の獲得ですが、平穏無事に歩んでいれば「生命の終が「ハリスティアニン」に適う」ことは間違いありません。けれども、それは極めて難しいミッションです。なぜなら、人々の集まりであるこのキャンパスにも、様々な誘惑や葛藤が生じるから。「宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみ(ロマ13:13)」をはじめ、こうした類は枚挙にいとまがありません。修道院という寮での生活を営む修道者や、講習を受けて信徒を教え導く立場にある聖職者もまた、私たちと変わらぬ喜怒哀楽を伴った不完全な人間です。だからこそ、聖使徒パウェルは皆に提唱しています。

 「兄弟の愛をもって互にいつくしみ、進んで互に尊敬し合いなさい…望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい…喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい…だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい(同上12:10-17)」。

 本日の福音では、これを象徴するかのようなエピソードが読まれました。すなわち、ハリストスのところへ担ぎ込まれた中風患者が神様の力によって癒される、という出来事です。この中風患者がどのような経緯で寝たきり状態になったのか、聖書は触れていないものの、ある注解書は性に関する何らかの罪による結果、と推測します。自らを大罪人であると恥じる彼は、周囲の人々に担がれて主の御前へと連れ出されました。とはいえ、彼らは中風患者を断罪しようとしたのではありません。仲間を救おうとする人々の謙遜な信仰を見抜かれたからこそ、主は中風患者に対し「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される(マトフェイ9:1)」と呼び掛けられたのです。そればかりか、「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい(同上9:6)」と命じられたことで、奇跡を目の当たりにした人々をも信仰へとお導きになりました。

 「あなたがたは、主イイスス・ハリストスを着なさい(ロマ13:14)」。この言葉などを基に、受洗を果たした信徒には目に見えぬ恩寵だけでなく、目に見える洗礼着が与えられます。けれども、最初に「これがゴールではない」とお伝えした理由は、可能であれば埋葬の際にも棺へと納められる特別な衣装だから。すなわち、入学の印であると同時に卒業の証し(言い換えれば天国への合格通知)でもあるのです。「イイススは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰って来られた(マトフェイ9:1)」ように、私たちは引き続きノアの箱舟であるこの教室に通い、クラスメートと共に切磋琢磨しながら「穩なる港」を目指し、自分にしか出来ぬ善行としての研鑽を積んでまいりましょう。

(伝教者 ソロモン 川島 大)