■2022年4月 杖柱

大斎第四主日(2022年4月3日)

 「転ばぬ先の杖」。これは、「失敗しないように、万が一に備えてあらかじめ十分な準備をしておくこと」のたとえですが、大斎第四主日に記憶される階梯者聖イオアンは次のように教えます。

祈祷の杖を常に携える者は躓きづらく、仮に躓くことがあっても完全に倒れはしない。
なぜなら、祈祷は神様を信じて敬う者への励ましだからである。

 ここで、聖師父の注解を読んでみます。「常に祈祷の杖を携え、これに自分自身を委ねる者の霊魂は躓きづらい。もし、躓いて何らかの罪に陥ろうとも完全には倒れず、また力尽きた末の死にも至らないであろう。なぜなら、祈祷は直ちに彼を支えて直立させるからである。祈祷は神様の御前において悔改める者に対し、憐れみを垂れるように促すための方法であって、偉大にして甘美なる愛すべきもの。神様は慈悲深き父として、迷える子に手を広げながら走り寄って喜んで迎え、表現し難いほどの慰めや楽しみへと彼を導き入れ、自らの懐に安息させてくださることであろう」。

 私たちは「今節制の半を過ぎ、爾(ハリストス)の生命を施す十字架に伏拜」します。それではなぜ、このような機会が大斎の折り返し地点に設けられているのでしょうか。祈祷書を参照すると、「復活の前期」十字架叩拝の主日にはパスハのカノンを歌うように指示されています。また、「斯の聖にして光明なる週間は最尊き十字架を世界の前に置く」とも書かれており、主の十字架が受難と死の象徴であるのみならず、その先の復活と表裏一体であることの預象と言えましょう。

 この日、聖堂では「主宰よ、我等爾の十字架に伏拜し、爾の聖なる復活を讃榮す」と何度も歌われます。これを詳細に捉えると、「舊き人」が「其行…を脱ぎ」ハリストスと「共に十字架に釘せられ」るのは、私たちが「罪の身(を)滅され」「新なる人」として「復活にも與る者とならん爲」。だからこそ、地の者は「畏と信とを以て來りて」、「天の者…と偕に」ハリストスの十字架および「三日目の復活の光」に伏拝し、「靈と體とを聖に」すなわち「生命の華を發いて」いただくのです。

 かつてモイセイが手にした「海を截り分つ杖」は「神聖なる十字架の兆」でした。階梯者聖イオアン本人は謙遜にも「祈祷」そのものが杖であると述べますが、後の人々は聖人の働きこそ「定理の杖」によって異端を斥け、「神聖なる杖を以て…牧群を堅めた」と評しています。私たちもまた、より具体的な「転ばぬ先の杖」として十字架を携えるならば、同様に「大なる事」を成し遂げられるはずです。「此を以て信に由りて溺るるなく生命の穏ならざる水を渉り、罪の凡の流を免れて、神聖なる平穏に滿てられる」に違いありません。「見よ、救の舟は十字架の帆に進められて、齋の半を過ぎたり。メッシヤ イイスス神よ、此を以て我等を爾の苦の港に送り給え」。私たちは「今日斎の中節に於て」跪いている際も、「目を天に挙げて」主の復活を待ち望むだけでなく、実際にハリストスと共に立ち上がり、残された大斎期間ひいては自らの生涯を歩んでまいりましょう。

(伝教者 ソロモン 川島 大)