冬の終わりを告げる甘く可憐な香り。枝にポツポツと半透明で黄色い花を下向きに付ける、その植物の正体は「蝋梅」です。名前に「梅」という漢字が含まれ、確かに香りや咲き方などは梅と似通るものの、厳密には梅の仲間ではありません。けれども、梅に勝るとも劣らぬ称号を獲得するほど、古くより人々に愛されてきました。それぞれの季節を代表する香り高い花々:春の沈丁花、夏の梔子、秋の金木犀は、「三大香木」として知られます。これに冬の花を加え、「四大香木」と呼んだ先人たちに選ばれたのは、花見の元祖・梅ではなく、他でもないこの蝋梅でした。
蝋梅の花言葉は「慈愛」。「エルサレムから命の水が湧き出で…夏も冬も流れ続ける(ザハリヤ14:8)」ように、人間には厳しく思われる冬でさえ、神様の愛情は全ての被造物に注がれ続けます。この恩寵によって、蝋梅は賢くて逞しい特徴を兼ね備えるに至りました。梅や桜といったバラ科の植物と同様、他の植物がまだ目を覚まさぬ冬のうちに活動を開始。葉よりも先に花を咲かせることで、お腹を空かせた鳥たちや、活発になり始めた虫たちが自然と集まってきます。また、土壌や日照時間といった条件に左右されにくい強さも魅力。ただし、そのような蝋梅にも弱みはあります。唯一の弱点として知られる「乾燥」は、私たちの信仰生活にとっても大敵です。
「芽は出たが、水気がないので枯れてしまった(ルカ8:6)」種とならぬよう、ハリストスは私たち全員を招いておられます。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい(イオアン7:37)」。なぜなら、「命のパンである…わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない(同上6:35)」からであり、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る(同上4:14)」と。大斎に臨む私たちに欠かせないのは、まさにこの「永遠の命に至る水」です。つまり、まだ神様を受け容れていない者には「洗礼」への準備、すでに受洗を果たした信徒には「第二の洗(『聖事経』)」である「痛悔」、加えて「領聖」が期待されます。
ところが、私たちは神様の慈愛に甘えてしまいがち。ゆえに、最初の人アダムは自らの不義で追い出された楽園に対し、「我を造りし主に我が爾の花に満てられんことを祈れ(乾酪主日のスボタ晩課より)」と嘆いたのでした。けれども、「最後のアダム(コリンフ前15:45)」はこの声を聞き逃しなさいません。その証拠に、毎年大斎を迎える頃、街角ではスパイシーで爽やかな香りが立ち込めます。蝋梅がバトンを渡す次のランナー:沈丁花に秘められた意味は、「栄光」そして「勝利」です。日常に先取りされた「春は我等に輝き、主宰の光明にして神聖なる復活は輝きて、我等を地より天の「パスハ」に赴かしむ(ゲオルギイ祭の光耀歌)」ための重要な道標と言えましょう。
神様の願いは「我が造物の滅ぶるを欲せず、即其救を得、及び真実を知るに至らんこと(乾酪主日のスボタ晩課より)」であり、「我に来る者は、我之を外に逐わざらん(同上)」と約束しておられます。よって、私たちはこの大斎を「怠惰(エフレムの祝文)」のうちに過ごしてはなりません。人々がひたむきに神様を追い求めるならば、「真実の春は麗しく至りて、ハリストス生を施す主を識る敬虔なる知識を以て造物を新にす(ゲオルギイ祭の小晩課より)」ることでしょう。「雲に蔽われて後に天日の光は欣ばし、冬の閉塞の後に春は嬉し(ウラディミル祭のカノン)」。だからこそ、公奉事でエフレムの祝文を唱え始める日の祈祷文は、この喜びを分かち合うべく私たちに呼び掛けます。すなわち、「斎の春、痛悔の花は輝けり、故に兄弟よ、我等は凡の汚より己を潔めて、光を賜う者に歌いて言わん、独人を愛しむ主よ、光栄は爾に帰す(乾酪週間水曜日の晩課より)」と。
(伝教者 ソロモン 川島 大)