有名人や著名人がその生涯を終えると、「一つの時代の終焉」なんて言われたりします。しかしながら、それは本当に「終わり」なのでしょうか。昨年京都・宇治市の植物公園だけでなく、ある植物の開花が全国的に話題となりました。その植物とは「竹」です。竹に花なんて咲くのか、と驚かれる方も多いことでしょう。それも無理はありません。なんとその開花周期は120年とのこと。つまり、人によっては一生に一度も開花を目にする機会に恵まれない植物かも知れないわけです。
また、「長い寿命のタケが一斉に開花して一斉に枯れる様子」は、「滅多に起きないことが起きる不気味な凶兆」と見做されてきました。そればかりか、研究者たちの調査では「開花したものもしなかったものも全て…枯死し、種子もまったくできなかった」と報告されています。こうしたイレギュラーな事態の発生や薄気味悪さから、人々の間で「タケが花を咲かせると天変地異などの不吉なことが起きるという伝承」が広がることとなったのでしょう。
では、「開花後の竹は跡形も残さずに全て消え去ったのか」と問われれば、決してその限りではありません。「地下茎で子孫を残している可能性がある」ため、自力再生あるいは人為的なテコ入れによって、1000年以上前から今日に至るまで生き延びてきたものと考えられています。以上、石田雅彦「「竹(ハチク)の花」が全国で開花:120年ごとに起きる不思議とは(2023年10月8日、Yahoo!ネット記事)」より引用。
さて、この120という数字でピンときた方もおられるのではないでしょうか。まもなく訪れる5月10日、京都聖堂は成聖121周年を迎えます。すなわち、現時点で満120歳なのです。聖書の記述においても実際上においても、ヒトの寿命はせいぜい120年。ですから、聖堂が完成した年に生を受けた信徒はおろか、日本中どこを探し回っても同い年の方ですら見つけられません。
いぜれにせよ、メンバーが全員入れ替わった今日の京都教会は、開教当時とは全く異なる教えを信じ、いつの間にやら別のポリシーを掲げているでしょうか。もちろん、そのようなことはありません。ハリストスがこの世での生涯を終えようともその死は決して無駄ではなかったように、今もなお私たち正教徒は先人たちとひいてはハリストスと「地下茎」で確かに繋がっているのです。
本日教会では聖枝祭をお祝いしています。ご自身の死と復活とを通じて私たちを「死」から救おうと、主は自ら苦しみを受けるために進んでエルサレムへと向かわれました。「ハリストス我が神よ、我等は洗を以て爾と偕に葬られて、爾の復活に由りて不死の生命を得て、歌頌して呼ぶ、至高きに「オサンナ(どうか、救ってください)」、主の名に由りて來る者は崇め讃めらる」。そして、この記念すべき年の記念すべき祭日に、京都教会には二名の光照者が誕生しました。とはいえ、昔も今も正教会の洗礼は一つであり、先人たちと変わらぬ信仰を保てるのが私たちの強み・誇りです。
「此れ(ハリストスは)我等の神なり、彼と侔しき者なし、彼は凡の義なる途を啓きて、愛せし所のイズライリに與え、其後現れて人人と偕に居り給えり。主我が救世主の名に因りて來る者は崇め讃めらる」。「アルファであり、オメガである。最初であり、最後である」神様は絶えず私たちの心に寄り添っておられ、いつの時代にもあらゆる正しい道を示されるお方です。この120年間に培われたノウハウを基に京都教会の新たなサイクル・新時代を切り拓くのは、ここに集う私たちに他なりません。そして来週の今日、その幕開けである聖大パスハを皆さんとお祝いいたします。そのためにも、まずは「斎の春」最後の受難週を謙遜かつ着実に歩んでまいりましょう。
(輔祭 ソロモン 川島 大)