2024年の生神女福音祭は、大斎第三・十字架叩拝の主日と重なった。この祝賀を日本古来の表現で例えるならば、「大安吉日」や「一粒万倍日」といったところ。そもそも、教会の祭日は「点」として教会暦に散りばめられているわけではなく、復活大祭/聖大パスハを主軸に一筆書きの「線」として十二大祭全てが有機的に繋がっている。主の復活へと至る端緒が生神女マリヤさまのご誕生であることは論を俟たないものの、トロパリに「今日は我が救の初、永久の奧義の顯現なり」と歌われる通り、誕生祭以上に重視されるのが福音祭(受胎告知)である。
晩課の旧約誦読(パリミヤ)において、旅路の休憩所へと到着したこと、そしてここからさらに目指すべき行き先が告げられる。「爾の足より屨を解け、蓋爾が立てる處は聖地なり…主はモイセイに謂えり、我はエギペトに在る我が民…を其地より引き出して、善き廣き地、蜜と乳とを流す地に導き入れん爲に降れり(出エジプト3章)」と。なお、この休憩所については、後述する楽園の守護者「燄の劍(ほのおのつるぎ)」こと天軍首ミハイルの祭日にも登場する(ヨシュア5章)。
日常生活において靴を脱ぐシーンは、家屋に入るもしくは床に就く、といったいずれも憩いの空間を彷彿とさせるのではなかろうか。それもそのはず、十字架叩拝の主日はパスハへの折返し地点に当たる。この日のコンダク「燄の劍は旣にエデムの門を守らず…」を参照すると、かつて不信仰から楽園を追放されたアダムとエワの過ちは、ハリストスの十字架によって赦されつつある。人々は心理面だけでなく、物理的にも再び楽園を目指すことが可能になったと言えよう。
とりわけ人類最高の模範である生神女の生き様は、私たちの復活へと至る道すじと深く関連することを教える。神の母を讃美する福音祭大晩課のスティヒラは~私たちに神の居場所を伝え、そこへ招き入れ(大斎準備週間から第三週まで/※祈祷文の例示箇所および主日のテーマ)、高みに登らせ(二週スボタ晩課、四週「階梯者イオアン」)、天の糧をも味わわせる(四週火曜早課、五週「エギペトのマリヤ」)~といった事象が、まさに大斎各週の祈祷文でも段階的に明かされてゆく。つまり、信徒が渇望する「永生の不朽を流す地(アンドレイのカノン)」はもはや高嶺の花ではない。だからこそ、「神聖なる無玷の靈には居住の爲に天上のイエルサリム=新なるイエルサリム(ディミトリイ祭の大晩課)」が与えられることを示し続けてきた聖人たちに倣い、私たちもまた大斎を通じて神の与えし地に到達したいものである。
(輔祭 ソロモン 川島 大)