■2022年2月 寡黙

■2022年2月 寡黙

 主イイススは自らの洗礼に際し、「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです(マトフェイ3:15)」とだけ前駆授洗イオアンに述べ伝えられました。私たちは往々にして、語り過ぎ、はたまた言葉不足により、相手を困惑させることがあるものです。そこで、金口イオアンの教訓を読んでみます。

 舌を弄ぶならば多くの不幸を招くでしょう。しかしながら、反対に舌を制するならば多くの幸福が舞い込むはずです。家、柵、壁、扉や門に、閉じるべき時と開くべき時とを司る番人なくしては、これらの物を通していかなる利益も得られないでしょう。このように舌と口とは、知恵を伴って大いに用心し容易く開閉しないこと、また発言すべきか心の中に秘めて発言すべきではないか、を知らなければ利益を享受できません。なぜなら、知恵深きシラフは言っています。「多くの人が剣のやいばに倒れたが、その数は、舌のやいばに倒れた人には及ばない(シラフ28:18)」と。ハリストスも仰っています。「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである(マトフェイ15:11)」。シラフはまた言います。「お前の口には戸を立てて、かんぬきを掛けよ(28:25b)」。けれども、聖詠者ダワィドはこれがいかに難しいかを知っているからこそ、祈祷を添え、神様の助けを求めたのです。これについては、シラフもまた同じく言い表しています。「だれがわたしの口に見張りを置き、わたしの唇に堅く封印してくださるのか。わたしが唇で過ちに陥らず、舌がわたしを滅ぼさないために(シラフ22:27)」。とはいえ、私たちは自分に対しても当然にこれを行わなければなりません。ゆえに、彼はまたこの事を戒めの如く「戸を立てて、かんぬきを掛けよ(28:25b)」と言いました。しかし、私たちの熱心さによってこれが実際に行われるよう、神様の助けを願いましょう。知恵を閂のように伴って常に自身の口を守るのは、常に閉ざしておくためではありません。むしろ本当に必要な時にこれを開くためなのです。なぜなら、ある時は黙っているほうが発言するよりも有益であるとはいえ、またある時には黙っているよりも発言するほうが勝る場合もあり得るからです。ゆえに、知者ソロモンは言います。「黙るに時があり、語るに時がある(伝道書3:7)」と。もし、口が常に開かれているものならば扉を設ける必要はなく、一方で常に閉ざされているものならばあえて守る必要もありません。私たちが相応しい時に開閉するためにこそ、扉と守りの存在が求められるのです。しかし、シラフは次のようにも言っています。「お前の言葉は秤に掛けて、慎重に用いよ(シラフ28:25a)」。ここから、私たちは単に言葉を発するだけでなく、相応しい気持ちを込めて発言するために細心の注意を払う必要があるのです。私たちは金銭や腐敗する物体にさえそうするのだから、ましてや言語にはこのように、過不足なきようにしなければなりません。よって、シラフは付け加えます。「必要なときに発言するのをためらうな(シラフ4:23)」と。あなたはすでに発言すべき時を知っているかも知れません。ともあれ、沈黙すべき時も示されています。「はっきりした見解があれば、隣人に答えよ。さもなければ、口に手を当てて何も言うな(シラフ5:12)」。また、「口数の多い者は、嫌われ(シラフ20:8)」、「自分の知恵を隠す人よりは、自分の愚かさを隠す人の方がましだ(シラフ20:31)」、「うわさを聞いたら、腹の中に納めておけ。安心せよ、それがお前を引き裂くことはない(シラフ19:10)」。また、「愚か者は、秘密を抱えるとひどく苦しむ。子を産む女が苦しむように(シラフ19:11)」。またシラフは言語の使用法についても言及しています。「若者よ、必要なときだけ話せ。語るとしても二度、それも求められた場合のみ。簡潔に話せ。わずかな言葉で多くを語れ。博識ではあっても寡黙であれ(シラフ32:9-10)」。舌を制して安全に使用するには、慎重さが必要です。従って、シラフはまた言います。「黙っていて、知恵ある人と見られる者もあり、しゃべりすぎて、憎まれる者もいる(シラフ20:5)」。言うのも黙っているのも、ただ相応しい機会に限らず、大きな恩寵を用いて実行する必要があります。ゆえに、聖使徒パワェルは言います。「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう(コロサイ4:6)」。思い出してください。舌は神様と談話し、讃美するために与えられた身体の一部であることを。畏敬の念を払うべきご聖体を授かる身体の一部であることを。信徒ならば私の言いたい事がお分かりいただけるでしょう。つまり、舌は全ての非難、叱責、猥談、讒言を離れて潔くあるべきなのです。もし私たちのうちに何かしら汚れたる気持ちが起こるならば、心の中で押し潰し、舌先にまで移るのを許してはなりません。根の部分を絶ち、戸を堅く閉ざして、厳重に守りましょう。邪な望みが生じたならば、心の中で押し潰し、その根を枯らすのです。イオフはこのようにして舌を守りました。つまり、彼は不適当な言葉は何一つ発せず、しかも日頃から沈黙を守ったのです。けれども、妻に答えなければならない時には、知恵に満ちた言葉を発しました。黙っているよりも言うべき時にこそ発言しましょう。ハリストスは仰います。「人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる(マトフェイ12:36)」。またパワェルも「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい(エフェス4:29)」と告げています。

 考えてみれば、私たちが洗礼を受ける時に発する文言もごく僅かです。信経を除くと、啓蒙式の「袪つ」、「袪てり」、「配合す」、「配合せり」、「彼を王及び神と信ず」、「父と子と聖神、一體にして分れざる聖三者に伏拜す」ぐらいしかありません。とはいえ、ここには従来の悪しき生活との決別、神様と一体になるための心構えが網羅されています。神様の少ない言葉を信じ切れず不安になりがちな私たち。けれども、神様は多くを語らずとも私たちの悩みを理解しておられます。主の洗礼祭にあたり、私たちはいま一度神様と自分との関係を見つめ直し、同時に神様の似姿として創造された人々との適切な距離感を意識してまいりましょう。

(伝教者 ソロモン 川島 大)