■2021年8月 聖火

 AFP通信社が過去に興味深い記事を書いています。その名も、「復活祭の「聖火の奇跡」、エルサレムの聖墳墓教会(2010年4月4日)」。要約すると、これは聖墳墓教会の歴史と共に4世紀頃から続く、聖大スボタに関連した奉神礼とのこと。総主教聖下が恭しく携えた特別な炎を分かち、信徒たちは各自の蝋燭に火を灯します。今日の復活祭祈祷において常時私たちが手にする蝋燭の起源は、恐らくこの伝統に根差すものなのでしょう。ただし、キリスト教は「火炎」自体を神聖視するわけではありません。あくまでも「煙は必ず吹き払われ、蝋は火の前に溶け…神に逆らう者は必ず御前に滅び去る(聖詠67:3)」勝利の印を象り、主の復活に自らの来世を投影して信仰を固めるための手助けです。

 「さまざまな風を伝令とし、燃える火を御もとに仕えさせられる(聖詠103:4)」神様は、いかなる場面においても私たちの傍らに在られることを忘れてはなりません。旧約の時代、「主は火と共に来られ…怒りと共に憤りを…叱咤と共に火と炎を送られ(イサイヤ66:15)」ました。このように、少々強引な手段をあえて選ばれた分、当時の人々には「火の中を歩いても、焼かれず…炎は…燃えつかない(同上43:2)」奇跡が示されています。ダニイル書3章によれば、真実の神を知りつつ人々に偶像崇拝を命じた王がいました。敬虔な三人の若者:セドラフ、ミサフ、アウデナゴ(アザリヤ)は脅しに屈せず、正しき信仰を表明したゆえに燃え盛る炎の中へと投げ込まれてしまいます。けれども、「炎は、かよわい生き物がその中を歩いても、その肉を焦がすことすら(知恵書19:21)」ありません。よって、祈りを捧げる三人の間にはたちまち主の御使いが現れ、全員無傷のまま救い出されました。

 しかしながら、「炎の中から取り出された燃えさしのように(アモス4:11)」辛うじて助かった者の多くは、残念なことにその限りではありません。往々にして「炎に囲まれても、悟る者はなく…火が自分に燃え移っても、気づく者は(イサイヤ42:25)」いないのです。神様がこの様子をご覧になったなら、「お前たちはわたしに帰らなかった(アモス4:11)」と嘆かれることでしょう。

 新約の時代に入り、先の「炎」は聖神を象徴する出来事にて再び登場します。主イイススが天に昇られた後、弟子たちが一堂に会していると「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまり(使徒行実2:3)」ました。このように、神様は私たちの住む世界を離れ去った後でさえ、最愛の人々を見放すことはありません。ただし、旧約の預言者は予め警告しています。「(一方的に)主を捨てる者は舌によってひどい目に遭う(シラフ28:23)」ことを。なぜなら、「舌は彼らの内で燃え、決して消えることなく、獅子のように襲いかかり、豹のように彼らを引き裂く(同上)」からです。

 AFP通信社の取材に応じた若いギリシャ人男性の巡礼者は興奮気味に語ります。「僕は火にさわってみましたが、火傷しませんでした(冒頭記事)」と。一個人の意見として、非科学的な現象を積極的に肯定するつもりはありません。けれども、彼の感動体験はまるで、復活なさった主イイススと知らぬ間に再会を果たした弟子たちのそれと重なるかのようです。姿が見えなくなるや、二人は胸の高鳴りを次のように振り返りました。「わたしたちの心は燃えていたではないか(ルカ24:32)」。

 キリスト教徒は、言うならば一人ひとりが信仰継承という重責を担って歩み続ける「聖火ランナー」です。とはいえ、「神に逆らう者の灯はやがて消え、その火の炎はもはや輝き(イオフ18:5)」ません。だからこそ、次の一節を日常生活において実践する働きが求められます。「炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る(民数記21:8)」。すなわち、狡猾な悪魔の囁きに屈せず自らの舌を制す者に対しては、神様が私たちの進むべき道を「昼も夜も歩めるよう…夜は火の柱によって(出エギペト13:21)」照らしてくださいます。そして、暗闇を照らすその聖なる炎は、周囲の人々に勇気や希望を与えているかも知れないことをも心に留めたいものです。

(伝教者 ソロモン 川島 大)