主は彼らに先だって進み、昼は雲の柱をもって導き、 夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは 昼も夜も行進することができた。昼は雲の柱が、 夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった。 (出エジプト13:21-22)
正教会における「雲の柱」「火の柱」は、なんに象徴されているのでしょうか。祈りの家、聖堂に、顕れていると思います。
雲の柱は、乳香、香炉から漂う香の雲。
火の柱は、ロウソクやランプの灯火。
聖書はこう語ります。
モイセイ(モーセ)が民を神に会わせるために宿営から連れ出したので、彼らは山のふもとに立った。 シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである。 煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。 角笛の音がますます鋭く鳴り響いたとき、モイセイが語りかけると、神は雷鳴をもって答えられた。 (出エジプト19:17-19)
まさに正教会の聖堂の光景ではないでしょうか。
神の呼びかけ、召命に応じた信徒や啓蒙者、人々が、聖堂に参集します。
聖鐘が鳴り響き、みんなが献げるロウソクの灯火が堂内に満ち、司祭(神父)や輔祭の祈りの声に信徒が呼応します。
激しい雷鳴のごとき祈りの声、聖歌が聖堂を地震のようにふるわせます。
それらは恐怖ではなく、心の奥底、信仰の根幹を感動させる雷鳴と地震です。そしてそこに満ちているのは、雲の柱である、乳香の雲です。
お祈りの終わりころには、堂内が香に満ち、煙たいばかりの印象かも知れません。でも、ちがいます。
祈りの始まりのとき、聖堂に漂う香の煙は、天気のよい日には、窓からの陽ざしにまとわりつくように、七色の雲となって上昇していきます。
その美しさ、香の香りの神々しさは、たとえようのないものです。
シナイ山で神が祝福されたように、神の恵み、恩寵が、正教会の聖堂に充満します。
香炉の祝福は、衆人、万人に平安を恵む、雲の柱です。
京都正教会では、エデンの園をイメージし、できるかぎり花の香り、たとえばバラの香りの乳香をかおらせるようにしています。
雲の柱は、聖堂の香の雲に生きているのです。
(長司祭 パウェル 及川 信)