■2019年2月 待つ Ⅰ 「神様が遣わされる だれかを待つ」

■2019年2月 待つ Ⅰ 「神様が遣わされる だれかを待つ」

「わたしよりも優れた方が、後から来られる。

わたしは、かがんでその方の履き物のヒモを解く値打ちもない。

わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、

その方は聖神(せいしん、聖霊)で洗礼をお授けになる」

(マルコ福音書1章参照)

預言者、前駆 授洗イオアン(ヨハネ)はこう語ります。


聖像:エウゲニア白石孝子先生のイコン

わたしたち人間は、だれかを待ちます。

東京:渋谷駅の忠犬ハチ公は最愛のご主人の帰りを待ちましたが、わたしたちは、何を、だれを、待つのでしょう。

ほとんどの日本人は、「何を」ではなく、「だれ」に固執して判断する。その結果、たいへんな被害を受けたとしても……と言ったひとがいます。

どんなに社会に、あるいは自分に良い結果をもたらす提案でも、その内容よりも、「だれ」がそれを提案し実行するのかに力点を置くというのです。

それは、その人がどんなに過去の過ちを後悔して、深く悔い改め、みんなのためになることをやろうとしても、「ああ、あいつがやるのか。信用できない」という先入観・結論が、最初にあるということでしょう。

おそらくこれは、日本ばかりでなく、世界中の人々の傾向だと感じます。

逆に言うと、大がかりなネズミ講のような詐欺商法や、電話一本のオレオレ詐欺などに、人がコロリとだまされてしまうのは、生きる目的である「何を」よりも「だれ」に固執し過ぎているからだとは言えないでしょうか。

木を見て森を見ない、山すその丘やこんもり茂る林を観て、頂上を含む山全体を観ない人が多すぎるからなのでしょう。

ほんものの詐欺師は、格好良く、甘い言葉で人を誘う、なんだか立派な人物に見える「だれ」かなのです。

こう考えることもできます。

やはり人は「だれ」かを、「待ちたい」のです。

わたしたちが「だれ」に固執して生きているのは、あたりまえの正直な人生真理だとはいえないでしょうか。

たとえばイイスス・ハリストス(イエス・キリスト)は、生きる目的「何を」と、「だれ」がなすべきかを、密接不可分に結びつけ成し遂げた、究極の人物「救い主」であるということが言えます。

イイススが約2千年の昔に人の子として降誕されたのは、人が、人の形をした、人格を持った救い主、神が人となられた真実の人を待っていたからです。 「だれ」かを待っている、人の願いを、神は、かなえられたのです。

人は、標識の看板やノボリ旗に明示されているような人生標語ではなく、語りかける温もりに満ちた「生きている言葉」「より添う体」「さし伸べられる腕」「やわらかな手のひら」、わたしたちを抱き締める優しい指の感触に安心します。

苦難に渦中にあって義人ヨブはこう語っています。
「わたしはなお待たなければならないのか。……
絶望している者にこそ、友は忠実であるべきだ」(ヨブ記6:11-14)

まさに神は絶望している者の友。

もはやあなたを待たせることはありません。

イイススは、神とは、そういう安心できるお方なのです。

わたしたちが待っている救いの神は、もうここにいます。

もう救ってくださるであろう「だれ」かを待たなくてもいいのです。

イイススはここにおられます。

(長司祭 パウェル 及川 信)