もどってご覧になると、弟子たちは眠っていたので ペトルに言われた。「シモン、眠っているのか。 わずか一時でも目を覚ましていられないのか。 誘惑に陥らぬよう、目を覚ましていなさい。 心は燃えても、肉体は弱い」 (マルコ14:32〜)
目覚めるというと、ふつうの日本人は、眠った後に起きること、睡眠後の目覚めを言います。
ところが聖書、信仰者の世界は違います。異なります。
時として、正教会における「目覚める」とは、夜ひと晩中眠らないこと、徹夜で起きていることを意味します。
これは徹夜の労働、昼夜兼行の仕事、あるいは外敵の不意打ちに遭わないための警戒・注意を意味しており、ここからさらに、信仰生活へのいろいろな意味合いが加わります。
すなわち、信仰者の目的を達成するための正しい努力、無気力や怠惰に打ち勝つこともそうです。
かつて愛知県、知多半島で活躍したペトル望月富之助伝教者は「覚醒」という会報を発行し、信仰者に呼びかけました。
警醒せよ、覚醒せよ、と。
聖書にはこう書かれています。
「わたしに聴き従う者、日々、わたしの扉をうかがい、戸口を見守る者は、いかに幸いなことか。わたしを見出す者は生命を見出し、主を喜び迎えて(その生命を)いただくことができる」(箴言8・34〜35)
信仰者が訪れる神の扉へのノックを待つ姿は、ぼうっと寝たままではいけません。眠らずに目覚めていることが必要です。
これが正教会における徹夜の祈り、徹夜祷、不眠の祈りにも通じる精神性です。
イイススはマトフェイ(マタイ)福音書25章「10人の処女(乙女)のたとえ」で語ります。救い主が訪れ、扉を叩いたとき、5人の乙女は準備完了しており、神様を待たせることなく、花婿と共に神の国・婚宴会場へ入り、のこり5人の乙女は何の準備もしておらず、慌てて準備を始めたが間に合わなかったというたとえです。イイススはこう語ります。
「だから目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」
この信仰は太古の昔から一貫していて、福音の掉尾を飾る「イオアン(ヨハネ)黙示録」にも貫かれています。
「わたしは愛する者をみな、叱ったり、鍛えたりする。だから熱心に努めよ、悔い改めよ。見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聴いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と食事を共にするであろう。彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(3・19〜20)
さらに強調します。
「来てください、これを聴く者も言うがよい。来てください。渇いている者は来るがよい、命の水が欲しい者は、価なしに飲む通い」
「すべてを証しする方が言われる、然り、わたしはすぐに来る、アミン、主よ来てください」(22章参照)
目覚めて待つ人に、救いが訪れます。
(長司祭 パウェル 及川 信)