■2019年9月 人間の体シリーズ 目(眼)Ⅳ 目覚める 儆醒せよ

なんじら儆醒(けいせい)せよ、

信に立て、勇め、堅固なれ。

およそのこと愛をもって行え。

(Ⅰコリント16・13)

この儆(けい)には、相手の人に出会った時、はっと緊張して向かい合う、という意味があるそうです。この文字から派生して警察官の警、警戒するの警が生まれ、一方では尊敬・敬愛の敬が生まれます。醒は覚める、冷静さを取り戻すという意味です。覚醒という言葉はよく使われています。

儆は警察官の「警」の字で書く、警醒と書くこともあります。

「山は登り切らねばならない」という言葉があります。

ある人が特別な使命を帯びて隣りの国へ向かうとき、急坂な山道、峠道をあるき登り行きます。ところが人を押し戻そうとする、前に向かって歩けなくなるような強風が吹いたり、時には雨や雹(ひょう)が混じり、目も開けていられない。初めての道なので不安が増していきます。

いっそ戻ろうか、引き返そうかと思い、決意が鈍り、逡巡します。

たとえ頂上まで行っても、逆風はなくならない。ますます風雨が烈しくなり、崖が崩れたりして遭難するかも知れない、他日を期したい、そう思ってしまうことがあります。

でも信仰生活とはそういうものかも知れません。
「山は登り切らねばならない」、けだし至言なり。

どんなに時間がかかろうが、悪路であろうが、登りきった人にしか見えない地平、水平線があります。

想像や空想では語ることのできない世界が広がっていて、そこは登りきった者にしか見えない、真実の世界です。

こわいことに、間違って登った人には間違った山の頂上、世界があります。

これも事実です。

登りきった場所、広い道や門を選択したら、待っているのが悪魔だったということもあるかもしれません。

そうです。つねに正しい神の道があります。

もしかしたら同伴してくれる友がいるかもしれません。
「鉄は鉄をもって研磨する。人はその友によって研磨される」(箴言27・17)

その友は信の伴侶、ほんとうの親友、あるいは神そのものです。
途中の難所で、分かれ道、岐路で、そして山や峠の頂上で、神が待っています。

神の道を、神の山を登り切らねばならず、正しい信仰の山道を登り切った者のみが俯瞰(ふかん)できる、美しい雲海や暁光、陽の出もあることでしょう。

神の国の扉の開く、陶然とする、まばゆい光が満ちています。

そうです。あなた、わたしは、希望の光、復活の門をくぐります。

箴言はこう述べています(15・24)。
「目覚めている人には上への道があり、下の陰府(よみ)への道を避けさせる」

(長司祭 パウェル 及川 信)