旅人が盗賊に襲われた。身ぐるみ剥がされたうえに重傷まで負い、まさに瀕死の状態。すると、神殿にかかわる祭司やレビ人がたまたま通りかかる。しかし、彼らは見て見ぬふりをしてか、何食わぬ顔で立ち去ってしまった。そこへ、当時ユダヤ人と交際してはならなかったはずのサマリヤ人が。そして、彼女は精一杯の憐れみを注いだ。金銭的に裕福ではないにもかかわらず、彼の傷に応急処置を施して安全な旅館へ連れてゆき、そこの主人に費用まで支払って後を託したのである。
「善きサマリヤ人の譬え」を語り終えたハリストスは、「三人のうち誰が盗賊に遭った人の隣人と思うか」と問いかけました。律法師によれば、憐れみを施す全ての人が隣人、とのこと。とはいえ、キリスト教の理解では、神に創造された我々は敵でさえもが兄弟であり隣人。よって、①我々が友人や恩人に対して互いに表す愛や慈善は不完全であり、②敵に対する愛こそ完全である、と説明されます。ゆえに、主は我々に敵をも愛すべきことを命じました(ルカ6:35)。ただし、犠牲や燔祭のような心を伴わない「形だけの行い」を神は喜びません(聖詠50:18)。また、敵に示す愛は自己中心的なものではなく、「神の愛(アガペ)」でなければならず、「爾等を虐げ、爾等を窘逐する者の爲に禱れ(マトフェイ5:44)」という気持ちこそが肝要。つまり、「隣人を愛する」という誡めを都合よく解釈する律法師に対し、ハリストスは律法師の口から彼ら自身を裁くように仕向けて反論したのです。神が人を憐れむことで藉身したように、我々も神の憐れみを知り、神に倣った隣人を憐れむ行いが喜ばれることを心に留める必要があります。そして、憐れみを必要とする者に出遭ったならば、本来は人種や宗教の違いを超え、誰であろうと憐れみを施すべきなのです。
もっとも、日本人の肌感覚における人助けは、あたかも道端で困っているお年寄りやハンディキャップを持つ人を助けたり、あるいは迷子や急病人に寄り添ったりするようなイメージ。けれども、日本みたいに平和な国なんてそうそうなく、人助けのハードルは、社会情勢、政治的背景、宗教間対立などの要因に大きく左右されます。例えば、サッカーW杯で顕在化した南アフリカの治安。複数の地域ではただその街に暮らすだけでも、各家庭でガードマンを雇ったり、玄関や窓に鉄格子を設けたりする必要があり、現地の日本大使館に至っては「運転中に赤信号で停止することも命取りになる」、「頼みの綱であるべき警察官でさえ汚職にまみれている」と警鐘を鳴らすほどです。
3Kと呼ばれる仕事を皆さんはご存知でしょう。概要は次の通り。「主として若年労働者が敬遠する「きつい」「汚い」「危険」な労働を、頭文字をとって3Kと呼びます…建設・土木、ゴミ処理などの肉体労働や、警察官や看護師、介護士など勤務・労働条件の厳しい職業を指します。新3Kは、主に事務職や販売職などのホワイトカラーに対して使用される言葉です。「帰れない、厳しい、給料が安い」…6Kは、従来の3K…に新3K…をプラス…体力的にもつらく、精神的にも負担の大きい仕事であるうえに、給料や休日(休暇)といった処遇の面でも厳しいことが多い」とされます。
このように、責任の大きさに見合わずとも対価は発生する労働ですら、いざ自分で行うとなると多くの人に敬遠されがちな職業があります。けれども、善きサマリヤ人はそれに準ずる慈善行為を無償の愛による見返りを期待しない奉仕の心で、なおかつ複合的な要因が絡み合って困難が容易に想像され得る状況にもかかわらず行ったわけです。ここに、私たちにも出来る働きのヒントが隠されています。すなわち、人のしない/出来ないことに進んで取り組む。一人ひとりにタラント(才能)が与えられています。これを日々どのように用いるかハリスティアニンは試されているのです。
(伝教者 ソロモン 川島 大)