■2023年10月 改良

私たちを取り巻く環境には、どこか模範的に過ごすことばかりが求められ、小さな失敗も許されない雰囲気すら漂っています。「置かれた場所で咲きなさい(渡辺和子氏)」。こうした生きづらい社会の中で上手に花を咲かせ、果実を実らせるには一体どうすべきでしょうか。私たちの人生は植物によく似ています。同じ環境に長年留め置かれると、確かに継続的な課題の解決に邁進できる点は安心材料です。しかし、よほど意識的に向上心を伴って取り組まなければ、現状維持が目標になってしまったり、職種によっては得意先や優良顧客との癒着が始まったりするのが世の常。また、自分がずっと同じ場所にいると、必然的に歩み寄ってくるのは他者に限られます。自ら動かない以上は相手にされるがまま。てんとう虫やカマキリのように頼もしい働き手も中にはいますが、おおよそ虫たちは悪気もなくせっかくの新芽や花芽を食べてしまいます。食料の水や養分が足りなくなればすっかり痩せ細り、雨の日が続いて風通しも悪くなれば、いよいよ言いたいことも言えず病気になってしまいます。ひどい時にはすでに取り返しのつかない状況に陥っていることも。それがいわゆる「根腐れ」です。

ルカ伝8章には「種まきの譬え」が記されています。ここで播かれる種とは、「神の言葉」です。神の言葉を伝えることの意味について、人々が知っている行いを引き合いに出し、私たちの心のあり方次第でいかなる結果をもたらすかを教えます。この種は、心の状態を表す四つの場所:①路の旁・②石の上・③棘の中・④沃壤にまかれました。ハリストス自らこの譬えを解き明かしておられます。それによれば、①は悪魔がやってきて心から言葉を奪い・②はしばらく信じても誘惑の時に背き・③は様々な欲望によって実を結ばず・④は善き心で言葉を守り忍耐して百倍の実を結ぶそうです。ある聖師父は言います。「人は神に近づけば近づくほど、それだけこの世が耐え難いものになってくる。それは、私たちの心の愛がこの世から遠ざかれば遠ざかるほど、この世での逆境がそれだけ増し加わるからである…ぶどうの房は、足で踏み砕かれてはじめて美味しいぶどう酒となる。同じくオリーブも、押し潰され、滓を取り除かれてはじめて豊かな油となる。同じように、穀粒も麦打ち場で脱穀され、籾殻から分離されてはじめて、精製されたものとなり、倉に収められる」。

水気のない石の上に落ちた種は、芽が出ることはあっても堪忍をもたらす根が充実していないため、善行の果実は熟すことなく干からびてしまうでしょう。とはいえ、花を咲かせられない理由が自分自身の心の状態であるならば、まずはそこを入れ替えてみることはできるはず。なぜなら、神の言葉は耳で聞いて頭で理解しても不十分であり、全身全霊で受け止めて敬虔に向き合う心にこそ作用するからです。過酷な環境を耐え抜き収穫量も多い果実への品種改良、路の旁・石の上・棘の中を沃壤へと土壌改良に努めるならば、落ちた種は忍耐して実を結ぶこととなります。

それでも駄目な時は、潔く身を置く環境を変えるべきです。「置かれた場所で咲けないなら環境を変えなさい。根っこが腐る前に(籔本正啓氏)」。その判断は当たり前のようですごく難しいことですが、決して逃げでも隠れでもありません。ある植物は枝が折れても、水に浸しておくと半分以上は新しい根を出します。でも、それは切り花自体がまだ健康だから。またある植物はショック療法が効くなど、もちろん品種によっても個体によっても様々な特徴があるように、人の性格も十人十色です。だからこそ、根腐れをする前に取り得る手段は全て試し、自分自身にとっての最良を見極めたいもの。自分の知らなかった世界、敵の少ない土地、風雨にさらされにくい場所へと自らの力で動けないのなら、神様に依り頼みましょう。組織・団体に属す地植えであれ、自営業・フリーランスの鉢植えであれ、寝たきりの人を立ち上がらせる方(マトフェイ9:6)、荒波を鎮める方(同8:26)、山をも動かす方(同17:20)は、必ずやその人の意志を叶えてくださることでしょう。

(伝教者 ソロモン 川島 大)