前回のコラムでは、聖金口イオアンの「嫉妬」に関する教えを紹介しました。「教会の一致を妨げる原因は妬みや恨みのほかに何もなく、悪の根源よりも嫉妬は許されがたいものです。人間同士の憎しみ合いは、悪魔ですら仲間うちではあえて行わない醜き姿と言えます。誰かの幸福を妬む気持ちは、その人に幸福を賜った神様を敵視するのと同じことです。天の神様の御前において、私たちはまず己の不完全さを認め、そして他者に先立つように善き行いを心掛けねばなりません」と。
祈祷書には大斎直前に「大ワシリイの講説を読む」ものと記されており、せっかくですから今回は同じテーマで聖大ワシリイの教訓をも紹介します。「嫉妬とは、仲間の幸福を嘆き悲しむこと。妬む者は悲しみや心の悩みに不足することはなく、まるでトンビやハエのようにわざわざ腐敗した環境を好むかのようです。この病が人々を最も苦しめる所以は、自らの心境を他人に打ち明けることが憚られる点にあります。他人から「あなたは何に悩み苦しんでいるのですか」と尋ねられようとも、「私は妬み深い悪人です。ハリストスにおける兄弟たちの完全さは私を悩まし、彼らの善良な心を悲しまずにはいられません。完璧な人を見るのが悔しく、隣人の幸せを私にとっての不幸せと感じてしまうのです」などと正直に答えられるはずもありません。よって、人知れぬ思いを抱え、自らを苦しめ続けるのです。けれども、様々な手立てを講じてまで、現世での富や栄誉を得ることに捉われてはなりません。なぜなら、あなたの望む通りにはならないからです。そのエネルギーを善き行いに邁進すべく用いましょう。清く、正しく、知恵深く、敬虔に忍耐する者となるのです」。
本日(乾酪の主日)は聖体礼儀に引き続き「赦罪の晩課」を行いますが、教会暦では一足早く乾酪週間火曜日の晩課から「エフレムの祝文」を唱え始めています。「主吾が生命の主宰よ、怠惰と、愁悶と、矜誇と、空談の情を我に與うる勿れ。貞操と、謙遜と、忍耐と、愛の情を我爾の僕に與え給え。嗚呼主王よ、我に我が罪を見、我が兄弟を議せざるを賜え、蓋爾は世世に崇め讚めらる」。ここで登場する「矜誇/陵駕(希φιλαρχίας, 英lust of power)」とは、他者よりも優位な立場を望む感情を指します。こうした情念に捉われて思い煩うならば、仲間の幸せを自分のこととして喜ぶのは難しく、不幸せのように感じてしまうものでしょう。だからこそ、エフレムの祝文「矜誇」の対極に位置する「忍耐(υπομονής, patience)」が大切である、と聖大ワシリイは説いているのです。
振り返ってみますと、大斎準備週間には四つの主日が存在しますが、その全てが対照的に物語られています。「税吏とファリセイの主日」では、ファリセイの傲慢さと徴税人の謙遜さとが。「放蕩息子の主日」では、かつての父親に従順な長男と放蕩に明け暮れる次男、そして後の弟に嫉妬する長男と兄に欠けた痛悔の心を獲得した次男とが。「断肉の主日」では、善良な人々は常に目を覚ました善き行いが評価され、一方の呪われた人々は相手によって対応を変えていた示唆が。「断酪の主日」では、アダムとエワの楽園追放において各々が妻に、蛇に、自分の過ちを誰かに責任転嫁した出来事、さらには他人を許さない者は神様にも許されない旨が告げ知らされます。
「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」。これが大切な心構えであるといくら頭では分かっていても、自分が満たされていないと感じる時、その人は他者の幸せを手放しでは喜べないもの。聖使徒パウェルはロマ書の12章を次のように締め括っています。「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」と。なぜなら、私たちはみな「与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っている」からです。この喜びを「すべての人と平和に暮らす」ための出発点としましょう。
(伝教者 ソロモン 川島 大)