聖詠経の中で最も長い118聖詠(119詩編)。その出だしは「いかに幸いなことでしょう、まったき道を踏み、主の律法に歩む人は(1節)」と始まります。主に埋葬関連の祈祷で用いられるこの超大作では、全176節のうち実に20回も登場するキーワード「道(路)」が特徴的です。教会暦において1月14日は神学者聖大ワシリイの祭日にあたりますが、ワシリイは「地上における人間の生命はどのようなものか、どのような使命が人々には課せられているのか」を解説しています(『教訓』より)。
生命は「路」と名づけられます。なぜなら、この世に生を受けた者はみな、終わりの日に向かって急ぐからです。船の中に座る者は、何かしらの力を用いずして、風に吹かれつつ港へと辿り着きます。本人がそれを実感せずとも、動く船は彼らを目的地に近づけるのです。このように、分かりづらいながら私たちも生活する間、常に途絶えることなく進むかのように、私たちの生命は流れ行く時とともに終わりへと引き寄せられます。たとえあなたが寝ていようとも、時はあなたから去り行くでしょう。あなたが目を覚ました時、あなたの記憶には空白があるはずです。けれども、就寝中であれ時間とともに生命もまた費やされています。たとえ私たちの感覚から離れていようが、生命は費やされるのです。私たち人間はみな、ある競技場において走るかのように、各自の目的に向かって急ごうとします。つまり、私たちはみな「路」の上に生きるのです。ですから、あなたはこの路の事を自ら理解し得るでしょう。あなたはこの生涯において「旅人」です。全てを終えた時、全てはあなたの後に残ります。道すがら、心躍るような出会いが待ち受けているかも知れません。とはいえ、しばらく喜び勇んでもやがて幸福は去り行きます。一方で、不愉快な出来事に遭遇することもあるでしょう。ただし、しばらく落ち込んだとしても次第に気分は紛れるものです。生命もこの類いのもので、変わらぬ楽しみも、長く続く悲しみも保持しません。この路はそもそもあなたの持ち物ではなく、そして現在もなおあなたには帰属しないのです。旅人には次のような習性があります。前の者が歩み出せば次の者も立ち上がり、さらには他の者も彼らに続くでしょう。生活もこれとよく似ています。今日あなたは田畑を耕作しますが、明日には別の人物が耕すでしょう。さらに、その後で耕すのはまた別の人物なのです。身の回りの土地や建物で考えてみてください。これらは最初の時以来、何度となく名前を変えたことでしょう。ある人物の所有とされた代物は、後に名称を変えて次の持ち主へと所有権が移りました。そして、今日ではまた新たな持ち主の所有となっています。従って、私たちの生命はまさに「路」ではありませんか。この路に身を置く者はみな、一方通行に進みます。では、実際のところ私たちに属すものは一体何なのでしょうか。これは精微で霊妙な本体、すなわち「生きた霊魂」。いま一つが、創造者が霊魂に生活中の車輪としてお与えくださった「身体」です。人間は知恵とこれに適合する肉体とが密接に合わさった結晶ではありませんか。この被造物は全て神様の意匠に凝らされ、母体にて形成されます。人々は母親の産みの苦しみを経て、暗がりから明るみに出るのです。神様は人々に対し、地上に存在するあらゆる動植物を司るように命じられました。だからこそ、人々の目の前には道徳的規範として森羅万象が示されているのです。人々には、力の及ぶ限り創造者に倣い、天上に見える善き秩序の影を地上にも写し出す方法が与えられています。人々は生命の終わりに呼び出され、住まいを路の上から別の場所へと移さねばなりません。その際、人々は神様の裁判所に導かれ、審問にかけられます。そして、人々は過ごした日々の評価を報いとして受けるのです。
118聖詠は次のように締め括られます。「わたしが小羊のように失われ、迷うとき、どうかあなたの僕を探してください。あなたの戒めをわたしは決して忘れません(176節)」。私たちは、神様に与えられた心と体を駆使して限りある人生を歩みます。その旅路において、私たちの忘れてはならぬ「戒め(22回登場)」の一つが、創造者である神様を愛し、被造物である隣人や諸動物をも愛すること。すなわち、天上の完全な「愛」をこの地上でも表現することこそ、私たちに課せられた使命なのです。
(伝教者 ソロモン 川島 大)