■2020年10月 人間の体シリーズ 肩(かた)

生神女や、なんじによりて神の先祖となりし預言者
ダヴィドは、なんじに大いなることをなせし者に、
なんじの事を歌い呼べり、女王はなんじの右に立て
りと。けだし父なくなんじより甘んじて人の性をと
りし神ハリストス、大いにしてゆたかなる憐れみを
たもつの主は、なんじが母にして生命の仲保者たるを
現して、欲に朽ちたる己の像(かたち)を改め、山
の中に迷いし羊を獲て、肩に置き、父の前に携え、
己の旨によりて、これを天軍に合せて、世界を救い
たまえり。(「晩課」生神女讃詞、4調)

 肩には、ふつう3つの意味があります。

 一つめ、肩はその人の社会での立場を表します。
 肩身が狭い、肩身が広いなど、不思議な言い回しですが、肩の姿勢によってその人の社会における立場、現況、周囲の評価をも表現します。

 二つめ、その人の心理状態、内面を表します。
 落胆し、がっかりしているときには、肩をせばめ、肩をすぼめ、肩を落とします。逆に高揚し、いばっていられるときには、肩をそびやかし、肩をいからします。肩はその人の精神状態、こころを適切に表します。

三つめ、人とのつき合い、人間関係を表現します。
 仕事づき合いでは、肩を入れる「肩入れする」、肩を貸す、肩を持つ、片棒を担ぐといいます。一方、さびしくてたまらないとき、友達の欲しいときには、肩を寄せ合う相手を求めます。

 ところで、神父が首から掛けているエピタラヒリ「領帯」の原点にはいくつかの説があります。
 そのひとつが、生神女マリアの肩布「オモフォル」です。
 生神女の肩布は、生神女庇護祭のイコンでも表現されているばかりか、いろいろな形に変遷・成長したと言われています。
 主教品は、肩にその布をかつぎ、司祭(神父)は首から回してかけ、輔祭は肩から垂らし右手で捧げ持って祈り、副輔祭は胸の前に十字にかけます。 
 肩布は、威張るため、権力と権威の道具ではなく、神様が人の重荷を担うための象徴です。
 あなた、わたしの、人の重荷を担ぐために神様が「肩を貸して」くださっているのです。

 聖書ではたびたび、重荷をかつぐときに、肩に荷を担ぐ姿で表します。
 救い主イイススが若い羊飼いの姿で聖像(イコン)などに描かれるとき、羊飼いのイイススは、肩に小羊をかついでいます。この小羊は、迷子の小羊、世の荒波に揉まれて迷っているわたしたちを表現しています。 
 イオアン(ヨハネ)福音書10章が述べているとおりです。
 生神女の肩布は、まさに神の腕の延長のようです。
 あらゆる悪、とりまくサタンの誘惑から防御する恵みの帯です。
 道に迷う人を導き、庇護(かば)い、覆い、すべてを包みこむ、神の恵みの暖かで大きな包み布です。
 神の、救い主イイススの肩にかつがれているわたしたちは、まさに神の仔羊、神様に抱かれているのです。
 救いとは理屈っぽい言葉の羅列ではなく、神様の抱擁だと信じましょう。

(長司祭 パウェル 及川 信)