■2020年9月 人間の体シリーズ 首(くび、こうべ、かしら)

■2020年9月 人間の体シリーズ 首(くび、こうべ、かしら)

慈しみと真理(まこと)があなたを離れないようにせよ。
それらを首に結び、心の中の板に書き記すがよい。
(旧約聖書「箴言」3:3)

 首は、正教会では、使われる表現の場所に応じて、「くび」「かしら」「こうべ」と言います。「こうべを屈(かが)めよ」のこうべには、頭あるいは首という言葉をあてることがあります。
 首、オーソドックス・チャーチ、正教会は、昔から「首」という言葉を大事にしています。今日は、二つの「首」に注目しましょう。

 第一、首は、正教会の聖職者の品級(ヒエラルキー)においては、ベテランの指導的・模範的な立場にある聖職者に与えられる尊称です。
 輔祭(ディアコン)は、長輔祭(プロトディアコン)の次が首輔祭(しゅほさい、アルヒディアコン)、司祭(イエレイ)は長司祭(プロトイエレイ)の次が首司祭(しゅしさい、プロトプレスヴィテル)と言います。
 首司祭になると、主教のように宝冠をかぶることがあります。

 二つめ、首には「絆」の意味があります。文字通り、頭と体、心と肉体、神と人をつなぐ連結、絆の具体的な象徴として「首」があります。
慈しみとは憐れみ、慈愛、思いやりですが、もっと深い意味も伝えられています。慈しみとはヘブライ語のレヘムに由来し、自分がおなかをいためて産んだ子供へと注ぐ母親の愛情の深さを指すそうです。
 それほどの愛情の深さと真理を愛する正義を首に結びつけ、心の中の板に書き記す。心の中の板「心の碑」とは、信仰生活の柱となるモイセイ(モーセ)の二枚の石板をさし、生きる目的、生きる糧を意味します。
 この慈しみを表す「首」が、ルカ福音書15章「放蕩息子を迎える父親」にはっきりと書かれています。

まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、
憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。

「首を抱いた」
 父親は、放蕩の限りを尽くした、お風呂にも入っていない、汚れ、豚小屋の番人をした異臭漂う息子に、ほほずりし、首を抱き締め、愛情こもった接吻をします。その慈しみの深さを
「首を抱いた」
 というひと言で表現します。

 神様は、そして信仰者は、喜びにあふれる人を迎え入れるように、ときには疲れてくたびれた人をもゆったり温かく迎え入れてくれます。
 首を抱く、優しく抱き寄せる。
 親しい友人、菅鮑(かんぼう)の交わりのある仲間を抱くように、あるいは、まだ首のすわっていない生まれたての赤ちゃんをそっと抱くように、神様は温かなその手で、わたしたちの首を抱き、慈しみます。

(長司祭 パウェル 及川 信)