主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを
心に思い計っているのをご覧になって、地上に人を
造ったことを後悔し、心を痛められた。
主は言われた。
「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい
去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。
わたしはこれらを造ったことを後悔する」
(旧約聖書「創世記」6:5-7 日本聖書協会新共同訳)
イェレク・イェレミアスは、後悔する、悔いるという言葉、ヘブライ語のニ
フアルとヒトパエルについて、考察しています。
なんと復讐と憐れみ、慰めと後悔、いずれをも意味
し得る一語が存在するのである。
すなわち、ヤハウェの悔いは決して感情の域に留ま
らず、必ず行動にまで進むということである。
(『なぜ神は悔いるのか』「Ⅰ ヘブライ語語源とその意味」)
神さまが後悔し、悔いる。
これをどう読みとり、解釈し、理解すればよいのか。
失敗作だったと神さまが、人の創造を後悔し、絶望したのか……
わたしにとって神学生時代からのおおきなテーマの一つです。
大洪水を乗りきり救われたノアとその家族は、箱船のすべての生きものを解
放し、天の神へ祈りをささげました。この祈りをうけた神が語ります。
主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。
「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。
人が心に思うことは幼いときから悪いのだ。
わたしはこの度したように生きものを打つことは
二度とすまい。地のつづくかぎり」
(創8:21-22)
変わらない人間の本質に直面するとき、人間を
耐え忍ぶヤハウェの側の忍耐こそ、人間の存続
を可能にするものとし唯一考え得る。
ヤハウィストの洪水物語の主題は神の悔いでは
なく、この悔いの克服なのである。
(『なぜ神は悔いるのか』「Ⅱ ヤハウェの悔い」)
この意志のおかげで、イスラエルはまさにその発足
から(出32章)今この瞬間に至るまで(アモ7章、
ホセ11章)、露命を繋いできた。このヤハウェの意
志こそ、審判の際の個々人の希望となり(エレ26章、
42章)、迫り来る終末の時のイスラエルの希望となり
(ヨエル書)、そしてついには、全世界の希望となった
のである(ヨナ書)。
(『なぜ神は悔いるのか』「Ⅲ ヤハウェの自制」)
わたしは思います。
あえて誤解を恐れずにいえば、たとえば処罰的訓育救済から、神みずからの
率先による親愛的撫育救済へ、平たくいうと、イソップ寓話のいう「北風から
太陽へ」と、ひとにわかるように(見せるように)方向転換したのだと思いま
す。
それはなぜ、どういうことでしょうか。
ひとの可能性に、神は希望を託したのだ、と。
絶望しあきらめたから、人が好きなように生きればよいと、見離したのでは
ありません。
こよなく慈しみ、愛する存在だから、人の成長力、人の変容力に、未来をか
けたのだと思います。
信ずる姿のあり方がここにあります。
希望する生き方の見本、模範がここにあります。
愛とはなにか、愛するとはどういうことなのか、その無限の可能性がここに
あります。
だからイイスス、救い主が降誕され、わたしたちは救いの道に誘われていま
す。
生き直す、復活の生命、その生き方を、神はわざと、悔いる姿勢を鮮明にな
さることで、わたしたちに証しています。
わたしはそう信じています。
だから神は裏切らない。
さしのべられた救いの手を離しさえしなければ、わたしたちは助かる。
神さまに喜んで、しがみつく信仰が大事だと痛感します。
(長司祭パウェル及川信)
+イェレク・イェレミアス関根清三/ 丸山まつ訳
『なぜ神は悔いるのか』旧約聖書神観の深層
日本キリスト教団出版局2014年初版
このコーナーで取り上げる書籍、絶版や入手困難な本もあると思います。
ご寛宥ください。