■2024年6月 開眼

当選確実をものにした選挙陣営は軒並み、支援者や報道陣を前にある儀式を行います。選挙事務所には「目なしダルマ」が事前に用意され、立候補者が当確を知るとこれ見よがしに目を書き入れるのはもはや日本の選挙における恒例行事です。しかしながら、この習慣は「土用の丑の日に鰻を食べる」とか、「バレンタインデーにチョコレートを贈る」とかのように、今日ではその意味を正確に答えられる人はおろか、はっきりとした由来すら分かっていないものも多数存在します。

ことダルマに関しては、縁起をかつぐ道具として仏像に魂を入れる開眼とも結びつき「願いがかなったときに目を描き入れる習慣が広く伝わっている」とされているそうです(https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000150438&page=ref_view参照)。意外なことに、キリスト教においても似たような施術を行った人物がいます。それは私たちの主イイススです。本日の福音には、主に癒された生まれつきの盲人が登場しました。彼が神様の目に留まったのは単なる偶然や幸運ではなく、その日まで誠実に生きてきたことへの必然的な報いなのです。「我を顧みて我を憐み給え(晩課の讃頌)」と祈りを唱えた彼の言葉からは、確かな信仰が感じ取れるでしょう。

主は盲人に対し「地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りに(イオアン9:6)」なります。そして、彼は告げられた通りに池へ行き、自分の顏を洗いました。このように、従来の謙遜さに加えて従順な信仰をも表明したからこそ、盲人の視界は開けるべくして開けた(目が創造された)のです。「神の業がこの人に現れるため(イオアン9:3)」盲目であった、と主は説明されますが、同時にこれは「神の業が私たちにも現れるため」であることは疑いの余地がありません。

聖書には、盲人をはじめ様々な病・患いに苦しむ者が記されています。そして、主はいかなる場面においても、永らく耐え忍んできた人々を無下になさいません。生まれつきの盲人に癒しを施されたように、神様は私たちをも各自の善行を嘉したうえで癒してくださいます。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ(同上8:12)」との御言葉通り、盲人は「世の光(同上9:5)」を肉体の目で直に見ることが叶いました。ですから、たとえ私たちが苦難の中にあっても、他人と比べて何かに引け目を感じたり思い煩ったりする必要はありません。なぜなら、「主を仰ぎ見る人は光と輝き 辱めに顔を伏せることは(同上33:6)」ないのですから。

もちろん、盲人にとっての「開眼」は、目なしダルマのような大願成就の末のゴールではなく、むしろ信徒としてのスタート「洗礼」を象徴しています。大方の議員のように当選したから一件落着、教会的に言い換えれば洗礼を受けたからミッション完了、であってはなりません。本当のゴールは「永遠の生命」を獲得すること。つまり、洗礼での開眼は通過儀礼にすぎず、ミッション開始(自身の生き様によって訓蒙すること)が求められています。その意味では、まだ片目だけのダルマのような私たちにとって、真の開眼は永遠の生命の獲得という大願成就後になるのでしょう。

今週木曜日の昇天祭をもって復活祭期は一区切りを迎えますが、ハリストスは天に昇られてもなお「愛する者に呼ぶ、我爾等と偕にす」と仰っています。すなわち、「地の者を天に合せて…何處よりも離れず…別るるなく留まり」、引き続き全地を光栄で覆ってくださるのです。だからこそ、司祭は聖変化が成し遂げられる時、主の「十字架、墓、第三日の復活、天に升る事、右に坐する事、光榮なる再度の降臨」のいずれをも欠かすことなく、一連の流れとして記憶します。私たちもまた主の生涯に思いを馳せ、ご聖体を分かち合いつつ来るべき日の開眼を待ち望みましょう。

(司祭 ソロモン 川島 大)