■2024年2月 偽証

ミステリー小説家:宮部みゆきさんの代表作『ソロモンの偽証』。二部作の映画にもなった長編ながら、ストーリーの中に「ソロモン」と名のつく人物はおろかキーワードさえも一度として登場しません。しかしながら、「知恵の王」と評される聖王預言者の語源にこそ、ヒントが隠されているものと思われます。ヘブライ語でシャローム、すなわち「平和」を意味する単語です。

「正しく立ち、畏れて立ち、敬みて安和にして聖なる献物を奉らん」。私たちの教会が毎週欠かさず行う聖体礼儀。輔祭が宣言した聖変化冒頭の言葉に対し、聖歌隊は「安和の憐、讃揚の祭を」と返答します。興味深いことに、映画「ソロモンの偽証」のポスターは、レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」を模したデザイン。よって、聖体礼儀にも何かメッセージが秘められているはずです。実際のところ、所詮キリスト教になじみの薄い日本人が手がけた作品のため、人物の配置や背景を真似ただけで、主要人物の役柄と使徒たちの特徴との間に直接的な関連性は見られません。

とはいえ、センターに座る物語の主人公・藤野さんについては紛れもなく、主イイススを演じているかのようです。12月25日「主の降誕」を祝うその日の朝、前日から降り積もった雪上に横たわるクラスメート・柏木君の第一発見者となります。学級委員の彼女は、暴力を振るわれている三宅さんを見捨てようとして、彼から「偽善者」と罵られたことがありました。その言葉が頭から離れず精神的に追い詰められて自殺を決意するも、思いとどまった彼女は、大人たちの事件解決方法に疑問を抱いていたことから校内裁判を計画します。また、柏木君はイウダ「イスカリオト」(イスカリオテのユダ)なのでしょう。悪霊に取り憑かれたかのような言動によって、マトフェイ伝4章で繰り広げられる問答みたく主を試み、関わった全ての人々に動揺をもたらす姿が印象的。おまけに自殺を遂げたのも伝承通りです(同上27:5)。さらに、「柏木君は自殺ではなく他殺である」という事件に関する噓の告発文を書いた三宅さんは、校内裁判に証人として出廷。けれども、藤野さんに打ち明けた真実を話すことはなく、尋問に対して偽証を重ねました。そのシーンはまるで「鷄の鳴かざる先に、爾三次我を諱まん(同上26:34ほか)」と主を悲しませたペトルのようです。

いずれにせよ、この物語は①事件、②裁判に分けられています。このうち「事件」とは、生徒の自殺よりはむしろ主要人物の受難(エウレイ11:35-38)。その内容は主に、自分を守るための偽証で他人が犠牲になったことであり、改心としての「洗礼」を象徴する場面が描かれます。それまでの卑怯な自分と決別した主人公、大人の都合で我が子を追い詰めた主人公の父親、柏木君を守れなかった担任教師。彼らは教会が有効と認める素材:水、砂、血による洗礼を受けたのです。一方の「裁判」とは、半ば「兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない(マトフェイ5:22)」との動機で展開されたものの、生徒たちの導き出した結論は「あなたがたの中で罪のない者が…石を投げつけるがよい(イオアン8:7)」。自己の物差しで他人を裁くのではなく、皆が過去の自分を反省して未来へと歩み出すことでした。つまり、平和のための偽証(結果的に偽証が平和をもたらすこととなった)という意味で、原作者は『ソロモンの偽証』と命名したのではないでしょうか。

旧約以来、神は「偽証してはならない(出エギペト20:16)」と人々に諭し続けてきました。けれども、私たちは誰しも「自由と自由ならざると、言と行と、知ると知らざると」嘘をつくことがあります。それでもなお、主はそのような私たちに対し一貫して「痛悔して謙遜なる心(聖詠50:17)」を期待し、聖体礼儀を行おうとするならば和解(マトフェイ5:23-24)を要求することを忘れてはなりません。少なくとも「安和にして」祈り始める時から「平安にして」聖堂を出ずる時までは。

(輔祭 ソロモン 川島 大)