■2024年1月 辞退

 「ほな行けたら行くわ」。さして親しくもない(と思っている)友人からパーティーに誘われた時、あなたはこのように答えるのではないでしょうか。では、「実際に行きますか?」という話です。

 主人が盛大な晩餐会を催して、大勢の客を招きました。正教会にとっての晩餐、すなわち「聖体礼儀」をご想像ください。ところが、開始時刻が迫っているのに、(親しくなりたい/もう仲が良い、と思って)招待したはずの人たちは誰一人やってきません。心配になった主人は、招待客の様子を見てくるよう、弟子たちを遣わしました。急いで客人のもとに到着した彼らは、夢中で呼びかけます。「さあ、おいでください。もう準備ができましたから」。けれども、あろうことか全員が口々に、参加を辞退したい旨を申し出てきたのです。土地を買ったから今はその手続きで忙しい、これから新しい家畜を迎え入れる予定がある、結婚直後で奥さんの機嫌を取らなければならない…。

 こうした理由が事実なのか、はたまた苦し紛れの言い訳なのか、私たちには知る由もありません。とはいえ、晩餐会へ行かない人には、行かないなりの理由がきっとあるのでしょう。例えば、かつて参加した時の印象が芳しくなかったから。聖体礼儀に出てみたら面倒な人に絡まれた、自分の意思に反する仕事を押しつけられた…。当時の記憶が蘇る人は「もう二度と御免だ」となっても不思議ではありません。あるいは、主催者のことや晩餐会のことなんて、よく知らないし、よく知ろうとも思わない…。このように無関心な人が「わざわざ貴重な時間を割いて、一体何のために参加しなければならないのか」と思い至るのも無理のないこと。そうした気持ちが表向き「どうぞ、おゆるしください」という言葉に凝縮され、しかし本音では「どうかお引き取りください」なのです。

 人々の意識が内向きになってしまっている以上、いくら主催者側から参加を呼びかけようと説得を重ねても、私に言わせればそれはほとんど意味のない努力です。本人が納得して出向かなければ、楽しいことも喜ばしいことも、ほとんどの場合その人にとっては苦痛でしかありません。少し前までの日本社会は、学校でも職場でも「皆勤は尊いもの」と見做されてきました。近年でこそ皆勤賞は廃止の一途を辿っているそうですが、私はその最後の世代かと思われます。担任の先生から厳しい指導があろうと、体調が優れず熱を出そうと、母親の強い願いによって日々学校へと送り出されました。そのおかげもあって、最終的にはもはや「習慣」として自然に通い続けられたのも、今では懐かしい思い出です。とはいえ、令和の時代に平成までの精神論・根性論はもはや通用しません。

 翻って、正教会の奉神礼を「休みなさい」という概念は存在するのでしょうか。答えは「イエス」。ただし、それは出産後の女性への配慮であったり、伝染病患者と参祷者双方の健康を守るためであったりするまでです。主人が慌てて招き寄せた「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の悪い人」は誰にも迷惑をかけませんから、直接的に教会を休む理由にはなり得ません。「この家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい」と命じる主の願いは、聖堂という大きな船を毎便可能な限り満席で出港させること。今ここに集う私たちは、この発言を真摯に受け止めなければなりません。様々な誘惑・娯楽に溢れた世において、あえて「永遠の食事の楽しみ」を選択した信徒はすでにハリストスの弟子。主のメッセージは未来へと歩む私たちに示唆を与えます。「招かれた人で、わたしの晩餐にあずかる者はひとりもないであろう」。すなわち、自らの振舞いを通じて周囲の人々に対し、神様を「どこか遠い世界の偉大な存在」から「身近で親しみの持てる存在」へと認識を改めてもらえるように努め、最終便までに自発的な乗船を促すことなのです。

(補祭 ソロモン 川島 大)