なぜエチオピアの教会では、ほかのキリスト教会では
例を見ない奉納歌舞を続けてきたのか。そもそも、
この歌舞はいつから始まったのか。
もしエチオピアに語り伝えられてきたアーク伝説を信
じれば、推測は不可能ではない。「神の箱」(アーク)
を前にして楽を奏で、踊ったという紀元前一千年前の
ユダヤ人の慣習がアークとともにエチオピアにもたら
され、そのまま生き続けてきたと考えてもおかしくは
ない。
(川又一英「夜を徹した祈り―古都ラリベラの降誕祭」
『エチオピアのキリスト教 思索の旅』)
川又先生と知り合ったのは、わたしの神学生時代、ずいぶん古い話です。
このころ『われら生涯の決意 大主教ニコライと山下りん』(新潮社、1981年)の取材をされており、プロクル牛丸康夫師(正教神学院講師、大阪正教会)がご紹介くださいました。
『聖山アトス ビザンチンの誘惑』(新潮選書 1989年)を出版されてしばらくして聖名(洗礼名)シメオンで洗礼を受けられたというお話が伝わってきました。
たびたび神田、お茶の水界隈で、静かな居酒屋の腰を落ちつけ、川又先生の取材旅行の話などをうかがいました。
言葉をえらび、とつとつと語られ、ときおりほほ笑まれる横顔を思いだします。
2004年10月の訃報に、痛惜の念の消えることがありません。
『エチオピアのキリスト教 思索の旅』は遺作といってよいでしょう。
聖地、東欧諸国、ギリシャ、ロシア、聖山アトスなどを巡り、歴史と文化、そこに暮らす人びとを精緻な筆で描写した、広角・複眼の視座を持った作家の、さいごの仕事場の一つが、シバの女王の故郷ともいわれるエチオピアでした。
行方不明とされる失われた「聖櫃(アーク)」は、エチオピアに現存しているのでしょうか。聖櫃を伴うティムカットの祝祭、神現(洗礼)祭で、成聖された濁水に殺到し、無心に汲み、飲む人を眼にし、こう語ります。
「物事を不信と冷笑で眺めることに慣れてしまった現代人にとって、このエチオピア人のひたむきさは衝撃ともいってよかった。あとになって考えてみれば、私自身もそうしたエチオピア人が羨ましかったのかもしれない。そんなことは不可能であることを知りつつも、できれば私も、羊水のなかの眠りから醒めた赤子に立ち返って、疑いを知らずに信じるという無垢な心を取り戻したかった」
川又先生は、未来へ進もうとする神を引きとめた、エマオの旅人の原体験を共有したのでしょうか。
キリスト、救世主とともに作家は、まだ永遠の巡礼の旅をつづけている、わたしはそう信じています。
(長司祭 パウェル 及川 信)
※川又一英『エチオピアのキリスト教 思索の旅』山川出版社、2005年
このコーナーで取り上げる書籍、絶版や入手困難な本もあると思います。ご寛宥ください。