■2023年2月 嫉妬

 聖金口イオアンは次のように教えます。悪の根源よりも嫉妬は許されがたいものです。なぜなら、貪欲な人は自らが恵みを手にした時に喜びますが、嫉妬心に苛まれた人は自分が得た時には喜ばず、かえって他人には与えられなかったタイミングで喜びます。彼らは自分の受け取った恵みを幸せと見做さず、他人の不幸せを幸せと認識するからです。同じ人間同士が憎しみ合うことは、悪魔ですら仲間うちではあえて行わない醜き行い。天の神様の御前において、私たちは善行こそを競う必要があります。そして、他人の完全さを悔しがるのではなく、己の不完全さを悲しまねばなりません。妬みはこの流れに反することで生じます。あなた方が悪しき感情から離れて善行に邁進する時、必ずや大きな幸福を受けるはずです。けれども、ある人が困っている時に決して自分自身では立ち上がらず、そればかりか誰かが手助けしようとする様子を見て悲しみ、あらゆる手段を講じてまで排除しようとする人は悪魔に忠実な人物と言えましょう。他人への労いを邪魔する者のように、誰かの幸福を妬む気持ちもまた、その人に幸福を賜った神様を敵視するのと同じだからです。

 大斎準備週間第二主日は「蕩子の主日」と呼ばれ、放蕩息子の譬えが福音で読まれます。ある日、年頃を迎えた次男が催促したため、父は自らの財産を兄弟に分け与えました。長男はその場に留まって父に仕えることを選びましたが、一方の次男は全てをお金に換えて遠い国へと旅立ちます。けれども、次男はたちまち「放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣い」してしまいました。その様子をご覧になった神様は、彼に試練を課されます。すなわち、飢饉を起こし、無一文になった次男の生活を苦しめられました。食べ物を得られずに心の底から反省した彼は、「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と願い出るつもりで、父のもとへ帰ることを決意します。

 飢饉の噂は父の耳にも届いていたのでしょう。次男の帰りを日夜待ちわびていた父は、「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻」しました。続けて父親は僕たちに『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう』と言い、祝宴を始めました。こうして次男は、兄が嫉妬するほど温かく父に迎え入れられたのです。ここで注目すべきは、神様がただ漠然と次男に救いの手を差し伸べたわけではなく、長男に欠けていた痛悔の心を獲得し、やり直しの機会を願う彼の自由意志を尊重なさった点です。「罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう」という主の御言葉は、まさに現実のものとなりました。

 聖金口イオアンは、冒頭に引用した説教の中で断言しています。「教会の一致を分離させる原因は、恨みや妬みのほかには何もありません」。神様は「萬世の前」から、人々を信仰に立ち返らせる最良の時を見極めておられます。放蕩息子のように回り道をしたとしても、真の痛悔を経て再チャレンジするならば、その瞬間から「神の国は近づいた」も同然。ですから、私たちは道を踏み外した仲間のためにも祈りを捧げることを忘れず、間もなく迎える大斎を通じて自分自身と向き合いながら「復活並に来世の生命」の獲得を目指してまいりましょう。

(伝教者 ソロモン 川島 大)