階梯者イオアンは教えます―開始時刻が迫っていることを知りながら祈祷へと急がず、何かしら自らの用事を行い続ける者は悪魔の誘惑に駆られている。時間を過ぎてしまえば、きっと疲労を言い訳にしてこれを行わない。あるいは、祈祷の場に立ったところで集中力を欠き、手短に終えようとするであろう。なぜなら、神様と向き合う貴重な時間を私たちから奪おうとするのが、彼らの目的だからである―教役者として実に耳の痛い教訓ですが、フォマのような事例も知られます。
ハリストスの弟子でありながら、復活なさった主の姿を不運にも見そびれたフォマは、悔しさのあまり次のように言い放ちました。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れなければ、私は決して信じない」。慈悲深きハリストスはそれをお許しになりましたが、そもそもフォマはなぜ他の使徒たちに後れを取ってしまったのでしょうか。
復活祭期の祈祷書『五旬経』は記します。「其時フォマは、神の攝理に由りて、彼等と偕に在らざりき」。すなわち、「フォマは爾(ハリストス)の復活を徒に疑いしにあらずして、墜されざりき、乃萬民の爲に之を疑なき者として顯さんと欲せり、故に不信に因りて信ぜしめて、衆に言わんことを教えたり」。つまり、フォマの不在は決して不運などではなく、神様のお導きによって私たちに主の復活を明示する、という栄えある働きを担うためであったのです。
金口イオアンは復活祭の説教において、マトフェイ伝を基に神様の寛大さを述べ伝えます。「誰か唯第十一時にのみ至りしならば、其遲わりたるを畏るべからず、蓋主宰は寬大にして、末の者を第一の者の如くに接け、第十一時に來りし者を第一時より工作せし者の如くに息わしむ。後の者をも恤み、先の者をも慮る、彼にも予え、此にも賜う。行をも受け、志をも嘉す」と。
また、復活祭に用いる「黄泉降り」のイコンに目を向けると、そこには名だたる聖人ばかりでなく、アダムやエワをはじめとする罪深いエピソードを残した人物も同時に描かれていることが分かります。つまり、神様は誰一人として見棄てられることはなく、一時的に背いたとしても立ち返ろうと努める者はみな天国へと導いてくださるのです。ゆえに、今この「祭の祭、祝の祝」に集う私たちは、自らが、そして仲間がどのような大斎を過ごしたのか、思い煩う必要はありません。「皆互に恕し(パスハの讃頌)」かつ「互に相抱く(同上)」気持ちを忘れることなく、主の復活(ひいては私たちの復活の先取り)を喜ぶべきであり、これこそが神様の御旨に適う行いです。
とはいえ、日頃はぜひとも階梯者イオアンの教訓にも耳を傾けましょう。私たちは集会が行われない時、あるいは外せない予定があって出席できない時には、せめて主の復活なさった日曜日を心に留め、讃美の祈りを捧げようではありませんか。聖イオアンは次のようにも語っています。「あなたが何かしら祈祷の言葉に感動した時、守護天使はあなたと共に神様への祈祷を捧げているであろう」。短い言葉であっても構いません。フォマは主の復活に接した感動を「我が主よ、我が神よ、光栄は爾に帰す」と表現しました。「主を讃め揚げよ、蓋我等の神に歌うは善なり、蓋是れ樂しき事なり」。私たちの側から神様の御許へと歩み寄ることで、復活は現実のものとなるでしょう。
(伝教者 ソロモン 川島 大)