ハリストス復活! 実に復活!
ХРИСТОС ВОСКРЕСЕ! ВОИСТИНУ ВОСКРЕСЕ!
絵:ワルワラ・ボンディナ(1974-2013)
Рисунок: Рисунок: Варвара Бондина (1974-2013)
ここで記載されている内容は12歳以上どなたのためにもなると考えております。<親子で読む>記載があれば、小さな子供達のために、親子のためにも役に立つ内容であるという意味です。
目次
• 子供の祈り(聖(せい)枝(し)祭(さい)の出来事と聖パンテレイモンへの祈りについて)アレクサンドル・ディヤチェンコ神父より
Детская молитва (история, случившаяся на Вербное воскресение, и молитва св. Пантелеймону). Иерей Александр Дьяченко.
• 十字架上の苦しみとイイスス ハリストスの死(詩:修道士ワルナワ・サニン)
Крестные страдания и смерть Иисуса Христа (стихотворение, монах Варнава Санин)
• ハリストスが釘打たれた十字架(親子で読む詩:修道士ワルナワ・サニン)
Распятие (стихотворение, монах Варнава Санин)
• イオアン1:1. 「太初(はじめ)に言(ことば)あり、言(ことば)は神(かみ)とともにあり」金口イオアン
Ин.1:1. В начале было Слово, и Слово было у Бога... (Иоанн Златоуст)
• 小麦の粒(親子で読むたとえ話:修道士ワルナワ・サニン)
Пшеничное зерно (притча, монах Варнава Санин)
• 読み終えた本(親子で読むたとえ話:修道士ワルナワ・サニン)
Прочитанная книга (притча, монах Варнава Санин)
• 復活されし者に讃美(さんび) (詩:大公コンスタンティン・ロマノフ)
Хвала Воскресшему (стихотворение, Великий князь Константин Романов)
• パスハの響(ひび)き(親子で読む詩:修道士ワルナワ・サニン)
Пасхальное (стихотворение, монах Варнава Санин)
• ハリストス復活! では、私はどうでしょうか? (掌院アンドレイ・コナノス) «ХРИСТОС ВОСКРЕС! А Я?» Архимандрит Андрей (Конанос)
***
子供の祈り<聖(せい)枝(し)祭(さい)の出来事と聖パンテレイモンへの祈りについて>
「もしなんじらの中に智慧(ちえ)のたらざる者あらば、夫(か)の咎(とが)むるなくして、ただちに衆に與(あた)うる神に求むべし、しからば彼に與(あた)えられん。ただ信をもって、すこしも疑わずして求むべし」(イアコフ1:5-6)
輔(ほ)祭(さい)あるいは司(し)祭(さい)になったばかりの者たちは必ず40日間の毎日の研修を受ける必要があります。その研修はそのままソロコウスト(すなわち40日間行われる祈(き)祷(とう))と呼ばれています。わたしの輔(ほ)祭(さい)の40日間の研修がもうすぐ終わるときに、ちょうど主のエルサレム入城(にゅうじょう)(聖(せい)枝(し)祭(さい))のさいにその徹(てつ)夜(や)祈(き)祷(とう)をおこなっていました。主(しゅ)教(きょう)座(ざ)の大聖堂で祈祷が行われていたため、主(しゅ)教(きょう)座(ざ)下によって指導されました。聖(せい)枝(し)祭(さい)の徹(てつ)夜(や)祈(き)祷(とう)が主教によって行われる場合、前もって小さな花束が準備されます。司祭のためにシュロの木の枝1本と5本のカーネーションの花、輔(ほ)祭(さい)のためにシュロの木の枝1本と3本のカーネーションです。教会では厳しい階級制(かいきゅうせい)があるので、こんな小さなことでもその階級制(かいきゅうせい)が強調されています。主教は一緒に祈祷をほどこす司(し)祭(さい)や輔(ほ)祭(さい)の額に聖油を塗る時、彼らに成聖された花束、すなわち聖(せい)枝(し)(2000年前にイイスス ハリストスが迎えられたシュロの木の枝)をくばります。わたしは自分の聖(せい)枝(し)をいただき、どうしようか、と思いました。その時、わたしは主(しゅ)教(きょう)区(く)の寮に住んでいたので、喜んでくれるひとのいない、空っぽの部屋に花束を持っていくのは、あまりおもしろくなかったのです。家に帰るのも数日後のことですから、その時までは花たちがもう枯れてしまうか、寒い天気で凍ってしまう恐れがあって、自分と共に持っていく意味もなかったのです。その年はパスハがとても早かったからです。聖(せい)枝(し)を誰かに贈ったほうがいいと思いましたたが、誰がよいのか迷いました。だれも知らない大きい町の中で、それは問題です。その日、大聖堂の礼拝に800人以上の人が来ましたが、それで問題が解決したというわけではありません。知らないひと、ばかりだったからです。男性に花束をあげたら、おかしいでしょう。女性、とくに若い女性なら、いろいろ想像(そうぞう)されてしまうかもしれません。わたしは今白髪ですが、その時はけっこうかっこよかったのです。、若い女性なら、なんと思うでしょう? では、おばあさんにあげたら、おばあさんは、たぶん財布を取り出して、お金をあげようとするかもしれません。さあ、ここで突然、すばらしいアイデアが浮かびました! 子供にあげた方がいい! どのような子供? もちろん女の子に、8歳、9歳ぐらいの女の子。だって自分にも娘がいて、今家で待っています。娘のことはとても懐かしくなりました。よし! そうしよう! さて誰にプレゼントをあげるか決めましたが、もう一つだけ、決めなければならないことがありました。ふさわしい子供を選び、彼女に花束をあげること。今描写する瞬間には、わたしと数人の輔(ほ)祭(さい)は、人々が主教様に聖油を塗ってもらえるように彼らをいくつかの行列に分けて立ったのです。人々は最初にわたしの後ろに通って、その後に曲がって、主教様に向かっていきましたが、そこから彼らの顔も見えました。少し振り返ったら、ちょうど思い描いていたようなお子さんに気づきました。女の子は、わたしに近づきました。わたしは彼女に「聖(せい)枝(し)祭(さい)おめでとう」と言いながら、シュロの木の枝とカーネーションの花束を手わたしました。とてもびっくりした女の子は、何も言わずに通りすぎました。しかし後ろにいてわたしの姿が見えなかったはずの女の子のおばあさんは、わたしに近より、こう言いました。
「神父さま、いま何が起こったのか、おそらく神父さまには、想像できないと思います。わたしたちは大家族、仲良しで、子供の人数が多いのです。毎年、この聖枝祭の日、わたしたちは、子供たちのために猫柳(ねこやなぎ)の枝を買い、それらを成聖(せいせい)してもらうために教会にいきます。今晩、女の子は、両親と約束した時間に遅れてしまいました。もう来ないだろうと思った親は、すべての枝を兄弟姉妹、いとこたちに分けてしまいました。女の子がやっと着いた時に、だれも彼女に枝をくれませんでした。女の子はとても悲しくなり、泣いていました。しかし、わたしは彼女を慰めるため、いいました。神さまに祈りなさい。お祈りしたら、神さまは、かならず、あなたの祈りを聞きいれます。このような日に神さまが、祈る人の願いをかなえないことなどありえません。もしかしたら、あなたは兄弟姉妹よりも、きれいな聖(せい)枝(し)をもらえるかもしれないから、と」
感動したおばあさんが、わたしに語り終えるころ、女の子は、聖油を塗ってもらい、主教様の手によって花束を成聖してもらうため、主教様へむかって進んでいました。女の子は、手を伸ばし、花束を持って歩きました。その花束は、たしかに兄弟姉妹の枝より、くらべられないほど美しかったのです。彼女はその花束を旗(はた)のように、祈りによって証された信仰の旗(はた)のように持っていました。その光景を見たとき、花束をだれにプレゼントしたらよいのかという、わたしの思いは、すぎさりました。子どもの純真な、篤(あつ)い祈りによって、わたしは、神の摂理(せつり)の一部となりました。神は、特別な理由によって、幼い女の子の信仰を堅固(けんご)になさいました。もしかしたらそれは後日、表信(ひょうしん)され、多くの実をむすぶためかもしれません。そして、たぶん、司祭(神父)の道に一歩を踏みだしたばかりわたしに、見習うべき祈りを見せるためだったのでしょう。わたしの道も彼女の道も今始まったばかりです。この出来事によって、わたしたち二人は特別な絆にむすばれました。
年月が経ち、わたしたちの教会に一人の5歳ぐらいの男の子が連れてこられました。わたしはそのとき至(し)聖(せい)所(しょ)にいました。子供がわたしに伝えたいことがあり、わたしは呼ばれました。わたしが近づいたとき、お子さんはお母さんに言われて、彼のために祈るようにわたしに頼みました。彼に心臓の病気があって、もうすぐ手術を受ける必要がありました。その手術のさいに、お医者さんは男の子の静脈(じょうみゃく)にカテーテルを入れ、それによって小さな病気の心臓がこれ以上苦しまないようにそれに入るはずでした。わたしは彼に提案しました。「あなたが、いやされるように一緒にお祈りしましょう」。 子供は賛成しました。わたしたちは聖(せい)大(だい)致(ち)命(めい)者(しゃ)・治(ち)癒(ゆ)者(しゃ)パンテレイモンの聖像に近づきました。「この聖人に祈ってみよう。聖人は、神さまの前に立ち、あなたのためにお祈りするのですから」。ちいさな子は、治(ち)癒(ゆ)者(しゃ)パンテレイモンの聖像を見つめ、祈り始めました。彼の祈りは、何の高揚(こうよう)、芝居(しばい)、疑いもなく、ただ小さな人間が理解している、限りなく愛しているお父さんとの会話でした。恃み、希望を持つこと、疑いのないことを子供の祈りから学びます。わたしは子供を見て、彼の神さまへの単純な言葉を聞き、一つのことをわかりました。わたしの人生の終わりごろ、子供の祈りの単純さの程度を達成できたら、わたしの主の喜びに入る(マトフェイ25:21)ことができるだろうということです。
アレクサンドル・ディヤチェンコ神父
ロシア語版:
Детская молитва. Иерей Александр Дьяченко
https://azbyka.ru/fiction/vozljubi-blizhnego-svoego-svjashhennik-aleksandr-djachenko/15/
***
十字架上の苦しみと
イイスス ハリストスの死
群衆(ぐんしゅう)の激烈(げきれつ)な怒った声。
十字架、その上の銘板(めいばん)、
釘(くぎ)、冠(かんむり)、とげも…
おお、イエルサリムよ!
町は、獅子(しし)の喉(のど)のよう、
貪欲(どんよく)な悪意に燃えている。
神の怒りが近づいている、
おお、イエルサリムよ!
王室の部屋の豪奢(ごうしゃ)、
おまえの殿(でん)には猛暑(もうしょ)。
ピラトは手を洗った。
おお、イエルサリムよ!
これはおまえの哀れな子供たちへの
お前の遺産(いさん)
十字架、銘板(めいばん)、ほこ…
おお、イエルサリムよ!
(修道士ワルナワ・サニン)
Крестные страдания
и смерть Иисуса Христа
Яростный рев толпы.
Крест, табличка над ним,
Гвозди, венец, шипы…
О, Иерусалим!
Город, как львиный зев,
Жадной злобой палим.
Близится Божий гнев,
О, Иерусалим!
Роскошь царских палат,
Зной над храмом твоим.
Руки умыл Пилат.
О, Иерусалим!
Это наследство твое
Бедным детям твоим:
Крест, табличка, копье…
О, Иерусалим!
(монах Варнава Санин)
***
ハリストスが釘打たれた十字架
主、わたしの神よ、
十字架からでさえ
あなたはわたしを抱き締めるため
自分の腕(うで)を開いている!
聖なる十字架で
静かに立って、
ハリストスの苦しみを
音もなく眺(なが)めて、
十字架の裾(すそ)に接吻(せっぷん)しながら、
泣いている
そして…ハリストスに
抱かれている!
(修道士ワルナワ・サニン)
РАСПЯТЬЕ
Господи, Боже мой,
Даже с Распятья
Ты мне Свои
Раскрываешь объятья!
Тихо стою
У святого Креста,
Молча смотрю
На мученья Христа,
Плачу, целуя
Подножье Распятья
И… попадаю
В Христовы объятья!
(монах Варнава Санин)
***
イオアン1:1. 「太初(はじめ)に言(ことば)あり、言(ことば)は神(かみ)とともにあり」
この言葉の一節一節(いっせついっせつ)に秘められた、福音者の率直さと力がおわかりでしょうか。……彼がすぐさま舞い上がり、いかに聞き手たちの霊(たましい)と知性とを高揚(こうよう)させたのか、ご覧なさい。つまり、霊(たましい)を、知覚物全てよりも、大地より、海より、空よりも上に置き、なみいる天使よりも、天のヘルヴィムやセラフィムよりも、宝座よりも、首領よりも、能力よりも上に上がらせ、そして、あらゆる被造物(ひぞうぶつ)より高く舞い上がるように強調しています。……真の知恵と神聖なる教義がおわかりですか。…誰も天上に、地上のものを何も持ちこまないでください。ここに立っている誰も、家事を慮(おもんぱか)らないでください。教会では誰も家事を慮(おもんぱか)らないでください。逆に、家でも教会の教えのテーマについて思考してください。それらが霊(たましい)に属するのですから、わたしたちにとってより好ましくありますように。家事は、肉体に属します。ここでの教えは霊(たましい)にも肉体にも役に立つ、と言った方がいいでしょう。この家は神(しん)に属する癒(いや)しの場であり、わたしたちが(この世で)外から受ける傷を癒(いや)すために作られたのです……もしわたしたちが、聖神がわたしたちに言う事に耳を傾けないなら、以前の傷を清めるどころか、他の傷も受けるでしょう。今あなたたちの前に啓かれているこの福音の書にせいいっぱい、耳を傾けましょう。(金口イオアン)
Итак, чем же начинает евангелист свое сказание? «В начале было Слово, и Слово было у Бога» (Ин.1:1). Видишь ли ты в этом изречении всё его дерзновение и силу?... Смотри, куда он тотчас, в самом начале, воспарив, возвел душу и ум своих слушателей. Поставив ее выше всего чувственного, выше земли, выше моря, выше неба, он возводит ее превыше самих ангелов, горних херувимов и серафимов, выше престолов, начал, властей и вообще убеждает ее вознестись выше всего сотворенного… Видишь ли истинное любомудрие и догматы божественные…Итак, никто не приноси на небо ничего земного. Никто, стоя здесь, не озабочивайся делами домашними. …Пусть же никто в церкви не печется о делах домашних; напротив, пусть и в доме размышляет о предметах церковного учения. Пусть они будут для нас предпочтительнее всего, так как они относятся к душе, а те (домашние дела) к телу; лучше же сказать – и душе и телу полезны здешние поучения. … Этот дом есть духовная лечебница, устроенная для того, чтобы в ней враче¬вали мы те раны, которые получаем отвне (в мире)…. Если же мы не станем внимать тому, что глаголет нам Дух Святой, то не только не очистим прежних ран, но еще и другие получим. Будем же со всем тщанием внимать этой книги, те¬перь пред нами раскрываемой. (Св. Иоанн Златоуст)
小麦
小麦を土にまいた。
「何? どうするの? どうして暗闇に わたしをほうりこむの? しかも、土で覆(おお)って?!」
小麦は 叫びはじめた。
「そうしなければ!」
小麦に 人は 答えた。
「でも わたしは生きたい! 永遠に」
「あなたは死なない。逆に、より大きな光栄のなかで生き返るのさ!
しかも自分の幸せをさらにかみしめるだろう!」
「そんなことってあるの?」
「もちろん! だって、これは あなたたち〈小麦〉をまく 初めてのことではないのだから!」
人は自分の仕事を終えた。畑のへりにすわり、少し休んだ。土に目をやってから、天を見あげた。
そして、突然、初めて自分自身について考え始めた。(修道士ワルナワ・サニン)
Бросили пшеничное зерно в землю.
— Что вы со мной делаете? Зачем опускаете во тьму, да еще и засыпаете землею?! – закричало оно.
— Так надо! – ответил ему человек.
— Но я хочу жить! Вечно!
— А ты и не умрешь. Наоборот – оживешь в еще большей славе! И будешь еще радоваться своему счастью!
— Разве такое бывает?
— Еще как! Я ведь не первый год вас сею!
Закончил свою работу человек. Сел на краю поля отдохнуть. Посмотрел на землю, потом на Небо.
И вдруг впервые задумался о самом себе… (монах Варнава Санин)
読み終えた本
本を最後まで読んだ。
彼女<本>はもうそれが彼女の生命の終わりだと思った。しかし、それは逆に今始まりだしたのだ!
本は人の霊(たましい)の役に立ち、教訓的(きょうくんてき)だった。そして、読み手も、その本にぴったりで、ただ賢いだけではなく、思慮深(しりょぶか)い。
彼は自分の人生を考えて、自分の行動をこの本と比較し始めた。ときどきこの本を手にとって、また読んだ。
その後、自分の友達にも読ませようと、この本をあげた。
彼らは順番にこの本を借りた。
そして、毎回すべてがまた最初から始まった。(修道士ワルナワ・サニン)
Прочитали книгу до конца.
Она думала, что на том жизнь ее и закончилась. А она, наоборот – только начиналась!
Книга-то была душеполезной и назидательной. И читатель, под стать ей, не просто человек разумный – но благоразумный.
Задумался он над своей жизнью и стал сверять свои поступки с этой книгой. А время от времени брал ее в руки и перечитывал вновь.
Потом он дал почитать ее и своим друзьям.
Они брали книгу по очереди.
И каждый раз все начиналось сначала! (монах Варнава Санин)
復活されし者に讃美(さんび)
天より主を讃(ほ)めあげよ
たえまなく歌えよ
彼の奇蹟(きせき)と言いがたい光栄に
世界は満ちている
無形の力の会も天軍も
主を讃(ほ)めあげよ、
墓地の悲しい暗闇(くらやみ)から
偉大な光が輝いてきた。
丘、崖(がけ)、山よ、
天より主を讃(ほ)めあげよ!
オサンナ! 死の恐れが消えてきた
わたしたちの目が明るくなった。
大海原(おおうなばら)や果てのない海洋(かいよう)よ、
神を讃(ほ)めあげよ!
すべての憂(うれ)いや失望の不平(ふへい)が
沈黙(ちんもく)しますよう!
人々よ、天より主を讃(ほ)めあげよ、
主を讃栄(さんえい)しよ!
ハリストス復活!ハリストス復活した!
そして、死を永遠に滅(ほろ)ぼした!
(大公コンスタンティン・ロマノフ、1858-1915)
Хвала Воскресшему
Хвалите Господа с небес
И пойте непрестанно:
Исполнен мир Его чудес
И славой несказанной.
Хвалите сонм бесплотных сил
И ангельские лики:
Из мрака скорбного могил
Свет воссиял великий.
Хвалите Господа с небес,
Холмы, утесы, горы!
Осанна! Смерти страх исчез,
Светлеют наши взоры.
Хвалите Бога, моря даль
И океан безбрежный!
Да смолкнут вякая печаль
И ропот безнадежный!
Хвалите Господа с небес
И славьте, человеки!
Воскрес Христос! Христос воскрес!
И смерть попрал навеки!
(Великий князь Константин Романов, 1858-1915)
***
パスハの響き
どれほどパスハの日、清らかな心が
そして、すべての歩く者、泳ぐ者、息をする者が
疲れ知らずに創造主を讃美しているのか。
聞いたことがない人は聞いてください。
「ハリストス復活!」
と山は叫ぶ。
「ハリストス復活!」
と野原は山にこだまする。
「ハリストス復活!」
と争いを忘れて、
天を抱きしめて
地球は回っている。
鬱蒼(うっそう)たる森で葉々が歌っている、
川、村、町は歓喜(かんき)している…
わたしがそれを聞いたのは実は一回だけ
でも神に光栄、とこしえに!
(修道士ワルナワ・サニン)
Пасхальное
Кто это не слыхал, да пусть услышит,
Как в день Пасхальный чистые сердца,
И всё, что ходит, плавает и дышит,—
Без устали приветствует Творца.
«Христос воскресе!» —
восклицают горы.
«Христос воскресе!» —
вторят им поля.
«Христос воскресе!» —
позабыв раздоры,
Обнявшись с Небом,
кружится земля.
В густом лесу поет листочек каждый,
Ликуют реки, села, города...
Я это слышал, правда, лишь однажды,
Но, слава Богу,— раз и навсегда!
(Монах Варнава Санин)
***
「ハリストス復活! では、わたしはどうでしょうか?」
パスハ(復活祭)の後にわたしは子供たちがいる学校の教室に行きました。子供たちは、わたしが神品(しんぴん)(聖職者(せいしょくしゃ))だし、神学者(しんがくしゃ)ですので、必ず「ハリストス復活」と言うであろう、ということをよく分かっています。 しかし、わたしは教室に入った時、わざと何も言わないことにしました。 ただ挨拶のみをして、尋(たず)ねました。
―「お元気ですか? 何をやっていますか?」 生徒たちの一人はわたしに向かって言いました。
―「神父さま、ハリストス復活! を言わなければなりません」
―「あ、実に復活! 幾歳(いくとせ)も!」
―「でも、神父さまが先に言わなかったでしょう!」
―「はい、言わなかったですね」
ほかの子供たちはその一人の子供が神父に何を言うべきかを指摘(してき)して、神父の発言を直したことに驚きました。 その瞬間、誰かがドアを叩(たた)き、違うクラスの男の子が入ってきました。 彼らたちからバスケットのボールを借りたかったのです。
―「すまないけど、ちょっとバスケットのボールを貸してくれない? 僕たちは持っていないから」
クラスの子たちは叫びました。
―「ダメ、もうボールは貸してあげないよ! 前は貸してあげたけれど、あんたたちは無くしてしまったでしょ! もうあげないよ! あっち行って!」
かわいそうな子供は恥ずかしくなって、ドアを閉めて、帰りました。 わたしはクラスの生徒たちに向かって言いました。
―「子供たち、このさわぎの中で、あなたたちは彼に一つのことを言うのを忘れてしまっています。それはわたしにさっき言ったばかりのことです」
―「それは何ですか?」
―「ハリストス復活! です。言うべきだったのは、『あっち行って! ハリストス復活!』でした」 彼らたちは驚き、とても注意深くわたしを見ていました。
―「え? それはどういう意味ですか?」
―「あなたたちが言ったばかりの意味と、全く同じ意味ですよ。わたしが教室に入った時に、あなたたちはわたしに言葉の注意をしたでしょう(それは正しい注意でしたよ!)。わたしはまず「ハリストス復活!」という言葉で挨拶すべきでした。しかし「ハリストス復活」という言葉は、とても力強い表現ですよ。とても現実味(げんじつみ)の帯びた表現です。それを言うだけだと物足りないのです。この言葉を自分の毎日の生活の中で、自分の悩み、自分の回復せられた思い、自分の変容された心、生活の全ての事情の中でそれを実現すべきです。 あなたたちは、簡単に『ハリストス復活』と言っているのに、『ボールをあんたたちにあげない』と答えているでしょう。『ハリストス復活』と言っているのに、『ドアを閉めといて、ほっといて』と答えているでしょう!
『ハリストス復活』という表現は、わたしもハリストスと一緒に復活していくという意味を持っています。
その反対の意味で、わたしがまだ学生だった時に、ある一人の若者が言った事を思い出します。 その時、わたしはまだ子供だったので、彼はわたしに皮肉ながらにこう言いました。
―「ハリストス復活! それで何? わたしにとって何の意味がある? ハリストスは復活したけれど、わたしは、あなたは、わたしたちはどう? わたしたちの今の生活、ここにある生活にとって何か意味ある? わたしが住んでいる現実に何か影響ある?」
また例えばこの様な話も出来るでしょう。ある人が親戚のいとこの家を訪れると、とても手厚くもてなしてくれました。
―「こんにちは。ハリストス復活! どうぞ! お茶でもどう? 少し話したいことがあるの!」
そして一緒にお茶をしながら、今度の裁判で何を言うか、財産に関する問題でもう一人の親戚をどのように有罪にさせるか話し合うのです。 時間が経ったら、やっと合意ができて、「じゃね、裁判で会おう!その一点は絶対に忘れないで! それはとても大事だから! じゃ、バイバイ! ハリストス復活!」
ハリストスは復活しましたが、あなた方はこの言葉を自分の生活の中で軽んじています。 あなた方はまるでキーボードでBack Space、Deleteというボタンを押しているようです。
言葉だけで「ハリストス復活」と言ってはいますが、あなた方自身の生活の中ではまだまだ何も復活していません。このような人の中には、未だに驕(おご)り、欲望、罪、弱みというような死せる臭いを放つ墓があります。 最も望ましい目的は次の言葉にあります。
「わがハリストスよ、わたしの生活をどのように復活させたらいいでしょうか」 といつも神さまに願うことです。 そして、今はあなたの教師として言うのではなく、ただあなたがいつも自分が話している言葉に注意するように言っています。旧約聖書の言葉を思い出しましょう。「あなたの主神(しゅかみ)の名をみだりに唱えてはならない」(申命記5:11) あなたはこの聖なる言葉を口にしているのですが、実際はそれらを軽んじています。
ある日、わたしは一人のハリスティアニンに電話してみました。 わたしは彼にお金の余裕がある事をあらかじめ知っていました。
―「ハリストス復活!」
―「実に復活」と彼が答えました。
―「素晴らしい! あなたはこれをご存じですし、これを言っていますし、とても良いことです!実は一つのとても貧しい家族がいます。今とてもお金を必要にしているのです」
―「神父さま、仕方ないですよ。今は不景気ですし、どこを見ても問題ばかり。彼らが何か良い方法を見つける事をお祈りいたします。どうしようもない。わたしはあまり役に立つことが出来ないのです。また今度話をしましょう。神父さま、ハリストス復活!」
―「実に復活! さようなら!」
ハリストスは復活しましたが、あなたはまだお金が大好きで、まだケチで、まだ難しい人ですよ。 あなたの心はまだ閉ざされていますよ。あなたはまだ復活していません。金銭欲(きんせんよく)と傲慢(ごうまん)は未だ生きています。それらは滅びていません。
同じことについてもう一人と話してみました。 彼は教会に行かず、神をあまり強く信じていないし、他の人と比べて教会との特別なつながりもありません。しかし、彼の心の中で何が起こっているかわたしには見えませんが、きっとハリストスが仰(おっしゃって)いるように、税吏(ぜいり)と罪人が他人に先立って天国に入るという意味のことが起こったのでしょう。
彼は「ハリストス復活」をわたしに言いませんでしたが、貧しい家族の話を聞いたら、すぐにわたしに500ユーロを手渡し、こう言いました。
―「神父さま、どうぞお受け取りください。そして必要にしている人にあげてください」。
わたしは彼に「ハリストス復活!」と言いましたが、彼は「神は真実です。すみませんがどのように言い返したらいいのかわかりません」と答えたのです。 ある人はもしかしたら、これは正しくないと言うかもしれません。より正しいのは「ハリストス復活」と言いながら、主神(しゅかみ)を愛し、主神(しゅかみ)において生き、自分の生活を通じて、行いによって福音の言葉を実現することである、と言うかもしれません。もちろん無神論者(むしんろんしゃ)でありながら、ハリスティアニンとして生きる人のほうが好きだという意味ではありません。無神論者(むしんろんしゃ)であるといいながら、実際にそうではない人々がいるからです。 彼らは属する霊(たましい)を持ち、活(い)ける愛を心に抱き、人を愛し、他者の痛みを感じ、泣き、心も繊細で、感動するような人々です。
ある人が自分の姉妹のことを聖パイシイに伝えた話を覚えていますか? 彼女は夜に居酒屋をうろつき回り、日中は病院で働いていたのです。その人は長老パイシイに言いました。
「姉妹をもうすぐ失うでしょう。彼女は地獄に行くに違いありません。だって変なところをうろつき回り、自分を売り、罪を犯してしまっているからです」。
長老はこう答えました。
「彼女は病院で働いていますか?」
「はい、そうです」
「病人と一緒にいるときは、謙遜をもって、優しく彼らを手伝っていますか?」
「神父さま、はい、とても優しいです。彼女はとても病人を愛しています。老人のためにベッドを片付けたり、どんなことに対しても全く反感などなく、まるで自分の両親であるかのように何でもしてあげたりしています」
「わたしの子よ、そうなら心配しないでください。神さまは彼女を絶対に助けます。この行いこそが彼女にとって救いをつかむ糸になります」
「けど、彼女はあまり教会に行かないし、彼女はわたしたちがやっていることとあまり関連がありません」
わたしたちがやっていること?
では、一体(いったい)わたしたちは何をやっていますか?
わたしたちは「ハリストス復活!」と言ってから、他人の背(中に「ハリストス復活」という言葉が書かれている、とても美しいナイフを刺します。 ブスッ(グサッ)! どうぞ! ハリストス復活! それに伴うのは、批判、嫌悪、憎しみ、悪意です。 何の変化もなく、何の変容もありません。ハリストス復活! 実に復活!
しかし、ハリストスはわたしの生活の中で復活しましたか?
あるいは、ハリストスの復活が単なる歴史上の出来事にすぎず、その言葉でただその出来事を伝えているだけですか?
わたしの小さい頃に、その人がわたしに投げ掛けた言葉をまた思い出しました。「ハリストスが復活したことに何の意味があるか、彼が復活したことによって何が変わったのか、ハリストスが己の為にのみ復活したのか?」。
イコンではハリストスがアダムとエヴァ(イブ)に手を伸ばして、彼らを墓より引き出だす様子が描かれています。 では、あなたを墓からどのように引き出だしたら良いでしょうか? あなたはどのようにハリストスの復活を授(さず)かったら良いでしょうか? 主神(しゅかみ)は実に復活しました。
主神は人々を変容させ、彼らを変化させます。神の愛が人の霊(たましい)に染み込んだら、神はその人間の霊(たましい)も体も変容させます。全てが変わっていきます。人間自身が変容(へんよう)されていきます。彼の霊(たましい)、彼の心の性質が変わっていきます。思考が平安を抱きます。人は落ち着き、スヤスヤと眠り、目を覚ましたら、生きる活力に満ちています。働き、前へと進む希望があります。それらの全てはハリストスがあなたに与えます。
ある一人の若者は、ハリストスのために全てを捧げました。 ある日聖アトス山に行った時、彼はわたしに「ちょっとお話があるのですが」と言いました。
―「え? あなたはわたしを知っているのですか?」と彼に聞きました。
―「いいえ。ですが、長老様はある日わたしに挨拶して、わたしに神(しん)を鍛えるようにおっしゃいました。だから、ちょっとお伝えしたいことがあります」。
彼がわたしの庵室(あんしつ)に来て、わたしは訊いてみました。
―「あなたはもちろん、子供の頃から教会に通い、教会のことが好きになって、修道士になったのですね?」
―「いいえ、全く違います」
「え?あなたはどんな人でしたか?」
―「わたしは放浪者(ほうろうしゃ)でした。うろつき回ったり、夜の生活を過ごしたり、罪をいっぱい犯したり、バイクで突っ走ったり、女性たちと遊んだり、いっぱい飲んだり、全てを壊したり、楽しんだり、自分の生活をむだ遣(づか)いしていました。わたし自身もそうだったし、わたしの仲間もそうでした」
―「では、もちろん、あなたのご両親はハリスティアニンですね」
―「いいえ、全く違います。両親は教会がどこにあるかさえ知らなかったのです。教会の鐘(かね)の音によって、何か起こっていることと、教会がどこか近くにあるとは分かっていましたが、教会には行かなかったのです」
―「では、何が起こりましたか?」
―「父はいつもわたしを叱って、飲みすぎて、わたしを殴り、消えろと言いました。わたしは愛を感じていなかったのです。しかし一生ずっと愛を切望し、理解、温かい気持ち、慰め、鴻恩(こうおん)(神による恵み)を切望していたのです。わたしが通っていたところにはそれを見つけ出せなかったからです。わたしは飽(あ)きるぐらいの罪を犯してしまいましたが、実際は神を探していました。しかし今までの生活において神を見つけることができませんでした」
―「では、けっきょく何が起こりましたか?」
―「何が起こったのか、自分でも分かりません。わたしはある日ただ仲間を連れて聖アトス山に行きました。それはちょっとした散歩で、ただの観光に過ぎなかったのです。しかし、そこで神の愛をめぐまれたとき、あたかも頭が煉瓦(れんが)に打たれたかのように感じたのです。わたしは衝撃(しょうげき)を受け、何かが起こったと感じ、自分の人生を変えたくなりました。こうして変わっていきました。母はその時までいつも「なんでそんなことするの? なんで夜にうろつき回っているの? なんでいつも女性を変えるの? なんで罪ばかり犯しているの?」といつも怒っていました。そこで、急に彼女に「わたしは去ります。わたしは離れます。わたしは全てを神に捧げたいのです」と言いだしました。以前は母がわたしの罪だらけの生活を恐れ、非難していたのですが、今のわたしの言葉を聞いたら、逆のことを言いだしました。わたしにまた違う女性と知り合うことを勧めたり、結婚するように、そんなに頻繁に教会に行かなくていいと言ったりするようになりました。「神(しん)に属する人になるようにずっと言っていたけれど、そこまでの者にはならなくていいよ! この女性、あるいはその女性と結婚しなさい! この女性は神父の娘みたいで、そっちは神学者の姉妹で、あっちはとても美しい!」
―「いいえ! しません!」
―「なんで?」
心を完全に奪(うば)うほどの神の愛について述べるのであれば、「なぜ?」と言うことがあり得ないからです」。神の愛に心が奪(うば)われている時、ほかの人はあなたを理解できません。人が神の美の一つの光線に過ぎないのに、人間に属する物に夢中(むちゅう)になることができ、あなたの心を奪(うば)うことができ、この一つの光線の愛のみによって気を狂わせることさえもできるのであれば、想像してみてください。この一つの光線にしたがって光の源、光そのものにたどり着いたら、その輝きすべて、美しさのすべて、愛のすべてを見たら、いったいどうなるでしょうか? その時、あなたは必ず、全てを忘れます。あなたは感じているこの偉大さに呆然(ぼうぜん)とします。
誰もあなたを理解できないでしょう。あなたがおかしくなったと思うでしょう。周りはあなたのことについて話し、「あの人はどうしてしまったのだろう?」と自身の胸中(きょうちゅう)に問いかけるでしょう。「あなたたちがわたしのことをどう思うか、わたしは全く興味がない」とあなたは思うでしょう。
愛は愛で癒(いや)されます。愛を愛で差し替えられます。あなたは以前よりもっと強い気持ちを感じたら、あなたは全てを手放し、全ての問題が消えます。あなたは神さまの愛を切望するようになります。そして神さまはあなたに余りある愛を注ぎます。あなたは憎しみなく生き、全人を避けるようになりますが、その全人を愛するようになるでしょう。自分の心において今までに感じたことのない心情を感じます。
わたしはアテネから持ってきたお土産(ドライフルーツ、チョコ)を一人の修道士にあげたいと思った時、彼はわたしにこう言いました。
―「神父さま、わたしはそれを持っていませんが、それを必要としてはいません。わたしたちはここでこれを食べてはいません。わたしが切望しているのは神の愛と人間の真の愛です」。
聖アトス山の聖シルアンは「わたしはあなたたちにハリストスの顔をどうしても見せたい!」と言っています。これはまた違う性質の知識であり、ハリストスの顔のまた違った側面についての、議論(ぎろん)の余地(よち)のない見方であり、異なる触れ方です。わかりますか? 誰かが人を愛しているのであれば、その人に「あなたが欲しがっていることを何でもしてあげます! あなたの望みすべて、願望すべてを実現させます」と言うでしょう。あなたはその人の気持ちを理解しています。その直感をあなたに与えるのは愛です。
あなたが愛している時に、愛している人が何が好きか、何に喜ぶか理解し、彼を喜ばせます。あなたの心にはいつも日が輝き、光が輝き、希望が輝くように祈っています。そしてまた繰り返します。あなたの人生は必ずより良くなります、まだ何も終わっていませんよ! 今日、あなたは泣いているかもしれませんが、しかし明日の日はまだ来ていません。善いことが近づいていきます。前もって全てを決めつけるのはやめてください。ずっと悩みの中、愚痴(ぐち)の中で日々を過ごさないでください。ずっと受難(じゅなん)の日、聖大金曜日を常に苦しみの中で過ごすこと、その状態の中で常に残ることを望まないでください。このような偉大な痛みに耐えることが出来ないからです。この受難(じゅなん)の目的は、あなたにおいて復活への切望を起こすことです。
(掌院アンドレイ・コナノス)
ロシア語版:«ХРИСТОС ВОСКРЕС! А Я?» Архимандрит Андрей (Конанос)
https://pravoslavie.ru/93191.html
修道士ワルナワ・サニン
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Монах Варнава Санин
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